ユダヤ当局者たちとの対決
マルコ福音書11章22節~12章12節

1.序論

みなさま、おはようございます。来週はいよいよ復活主日で、今日は棕櫚の主日ですが、私たちが読み進めてきたマルコ福音書も、いよいよクライマックスに近づいて参りました。今日の箇所は、特にイエスの「預言者」としての働きに注目すべきところです。イエスが預言者であるということ、預言者としてのイエスの働きはとても重要ですが、ここで聖書のいう「預言者」の意味を改めて考えてみたいと思います。

これまでの説教でもお話してきましたが、神の言葉を預かると書く「預言」は、いわゆる「未来予知」ではありません。20××年に大地震が起こるとか、そういう未来に起こることを予知して知らせるというのは聖書の預言とはちょっと違います。確かに預言者も未来のことを語りますが、それは確定した変えられない未来ではなく、私たちの選択の結果起こり得る一つの未来の可能性なのです。お医者さんが人間ドックを受けている人に問診をする際に、「あなたは今のような生活を続けていれば2年後には死にます」と語ったとします。その人は本当に2年後に死んでしまうかもしれません、もし彼が今の生き方を変えないならば。旧約聖書の預言者たちが語る言葉も同じです。もしイスラエルが今の生き方を変えないならば、弱者を踏みにじる、不正を行う者が権勢をふるうような社会の在り方を変えようとしないならば、その時にはあなたがたは滅びる、と彼らは語りました。逆に言えば、イスラエルが悔い改めて生き方を変えるならば、裁きは撤回されます。それは預言が外れた、ということではなく、むしろ預言が本来の役割を果たしたということなのです。預言書ヨナは、ニネベが40日で滅びると預言し、ニネベの人々はその預言を聞いて悔い改めたので裁きは撤回されました。しかし、それはヨナが偽預言者であったということではなく、むしろ彼は真の預言者だったのです。

しかし、預言がその通りになるかどうかは分からない、人間の行動次第で未来が変わる可能性があるというと、「では旧約聖書にあるメシア登場の預言はどうなのか?人間の行動次第でイエス様がこの世に生まれない可能性があったのか?」と言われれば、もちろんそんなことはありません。聖書の預言は人間の意志や決断だけを問題にするのではなく、同時に神のご意思、御心について語るものでもあるからです。例えば「私は明日美術館に行く」と言って、実際私が明日美術館に行ったならば、それは預言が成就したということになるのでしょうか?もちろんそんなことはありません。私は単に私の計画を実行に移しただけです。旧約聖書の預言者たちも、神のご計画、その御心を語りました。神は預言者たちを通じて語り、そのことを実行されるのです。預言者アモスは、「まことに、神である主は、そのはかりごとを、ご自分のしもべ、預言者たちに示さないでは、何事もなさらない」(アモス3:7)と語りましたが、預言の中でも神のご計画、ご意思について語るものは必ず成就します。人間が悔い改めれば裁きが撤回される可能性のある預言とは、この意味で根本的に異なります。

さて、預言者としてのイエスの働きに戻りますと、今イエスは撤回可能な裁きの預言をその行動によって伝えようとしているのでしょうか?イエスの言葉を聞いたエルサレムの人々がその行動を改めれば、それで未来は変わる、エルサレムの破壊という悲劇を免れることはできたのでしょうか?私はできただろうと考えています。もしイスラエルの人々が、侵略者であるローマに対する徹底抗戦、武器を手に取るという道を選ばずに、それが非常に困難だったとしても「敵を愛する」という道を選んだのなら、エルサレムの破滅という未来は回避できたでしょう。しかし、エルサレムの人たちはイエスが指し示す、困難な平和への道を選ばなかったのです。

同時にイエスは、神ご自身のご意思をも人々に示そうとしていました。それは、神が現在ユダヤ人を指導している人たち、大祭司たちを頂点とする権力者たちを罷免し、神自らが牧者となるという預言を今こそ実現するということでした。そのことは、特に旧約聖書に登場するバビロン捕囚の時代の預言者エゼキエルが6百年ぐらい前に預言していたことです。エゼキエルは、イスラエルの牧者たちが民のために働こうとはせず、自らの私腹を肥やすことばかりに熱心な状況を批判しました。それはまさに、イエスの時代に実現していたことで、宗教と政治、そして経済というすべての実権を握っていた大祭司は人々から取れるだけ宗教税を搾り取って肥え太っていました。ではエゼキエル書34章1節から4節までをお読みします。

次のような主のことばが私にあった。「人の子よ。イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。預言して、彼ら、牧者たちに言え。神である主はこう仰せられる。ああ、自分を肥やしているイスラエルの牧者たち。牧者は羊を養わなければならないのではないか。あなたがたは脂肪を食べ、羊の毛を身にまとい、肥えた羊をほふるが、羊を養わない。弱った羊を強めず、病気のものをいやさず、傷ついたものを包まず、迷い出たものを連れ戻さず、失われたものを捜さず、かえって力ずくと暴力で彼らを支配した。

ここで言われている牧者はイエスとは正反対のこと、つまり自分たちの民を癒さずにむしろ力づくで彼らを搾取しました。イエスの時代の大祭司たちも、ローマ帝国の暴力を背景にして民から搾り取れるだけ税を取り、それでいて自分は神の代理人だという顔をしていました。神はこの状況を見て、自らが良い牧者となってイスラエルを導くことを決意するのです。エゼキエルはこう預言しています。34章15節と16節です。

わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。―神である主の御告げ― わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。

これはまさに人となられた神である主イエスのことを預言している箇所です。ここで今日特に注目したいのは、「わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす」という預言です。イエスの時代の肥えたものとはユダヤ当局者、すなわち大祭司たちでした。今日の聖書箇所では、イエスはたとえを通じてこのことをはっきりと語られたのです。

2.本論

では、さっそく今日のみことばを読んで参りましょう。今日の中心的な箇所に入る前に、まずイエスは祈りについて大事なことを教えられました。前回の終わりの場面で、弟子たちはイエスが呪ったいちじくの木が枯れているのを発見しました。前の説教でお話ししたように、いちじくの木はイスラエルを象徴していますので、イエスのこの行動はイスラエルに神の裁きが下ることを象徴的に示したものでした。そして23節ですが、祈りは山をも移すという有名なイエスの言葉が語られています。しかし、ここでの「山」とは一般的な意味での山ではなく、むしろ「シオンの山」、小高いところに位置する城壁都市であるエルサレムを指しています。イエスは前回の行動でエルサレムへの裁きを示しましたが、ここでは言葉によって、「あなたがたが祈れば、今のエルサレムの支配体制すら覆すことができる」ということを示唆しているのです。イエスがエルサレム当局を挑発するような行動をしているのを見て不安になった弟子たちを、イエスは勇気づけようとしているのです。とはいえ、祈ったからと言って必ずしもその通りにはならない、ということを私たちは日常的に経験しています。そこで24節でイエスは、祈りというものは、実に祈ったときにすでにそれが実現していることを信じなさい、とも語ります。ただ、実現するといっても、それは自分が願った通りになるということではありません。むしろ、神が良しとされることが起こるのです。神は私たちよりもずっと、私たちが本当に必要としているものをご存じです。ですから神は、私たちにとっては意外な形で祈りに応える、ということもあるのです。だから祈った通りにならないからといって、「神は私の祈りを聞いておられない」と短絡的に考えてはならない、ということです。イエスは25節で祈りについてもう一つの大切なことを教えられました。私たちの神に対する祈りが神に届くための条件として、私たちの中にあるわだかまりや敵意をまず解消すべきことが語られます。これは主の祈りや山上の垂訓でも語られていることですが、私たちが人を赦すことは、私たちが神に赦されるために必要なことなのです。

さて、それから27節ですが、ここからいよいよ今日の説教の本題に入ります。前回の箇所でイエスは宮清め、より具体的には神殿での礼拝行為を中断させるという衝撃的な行動を取りました。取りようによってはまさに暴挙と言えるほどインパクトのある行動でしたが、神殿の管理者である大祭司たちはもちろんそれについて怒りました。しかし、いきなりイエスを逮捕しようとすれば、イエスを支持する民衆が暴動を起こす可能性があります。過越祭のような人々の集まる大きな祭の際には、いつもローマの軍隊がエルサレムに駐屯していましたから、暴動が起きればすぐにローマの軍隊がそれに介入することになります。そうなると、暴動を招いたことの責任を取らされて、大祭司たちはローマから罷免されてしまう恐れがあります。当時のユダヤはローマの植民地でしたから、ローマは簡単にユダヤの指導者の首をすげ替えることができました。そんなことにならないように、大祭司たちもいきなりイエスを逮捕して問題を大きくせずに、まずは公の場で尋問をするということを選択しました。彼らはイエスに、あなたがこんなことをする権威を誰が与えたのか?一体誰のゆるしを得てこんなことをしたのか?と問います。当時ユダヤでもっとも大きな権威を持っていたのは大祭司です。しかし、大祭司はイエスにいかなる公式の立場も認めていません。そうなると、イエスに権威を与えられるのは大祭司を越えた権威、つまり神お一人だということになります。ですからイエスはここでは「私は神からその権威を与えられた」と答えるほかないのです。しかし、そうなれば大祭司たちの思うつぼです。彼らはイエスにすかさず、「あなたに神がそのような権威を与えたという証拠はあるのか?わたしたちにその証拠、しるしを示してみよ」と要求するでしょう。そしてイエスがもしそこで奇跡の一つでも見せようものなら、「この男は魔術を使った。魔術で民を惑わしている。彼を取り調べなければならない」と難癖をつけてイエスの身柄を確保しようとするでしょう。一種の異端審問を行うことができるのです。そのような入念なシナリオを描いたうえで、イエスに論戦を挑んだのです。

しかし、イエスの方も彼らの意図をすでに見破っていました。彼らの仕掛けた罠にはまらずに、むしろボールを投げ返して彼らの方が守勢に回るようにします。実は、イエスに権威を与えることのできる人物が、大祭司のほかにもう一人いました。それがバプテスマのヨハネです。実に、イエスの公生涯において、イエスに権威を与えたといえるのはバプテスマのヨハネただ一人でした。彼はイエスにバプテスマを授けているからです。そのヨハネに権威を与えたのが神であるならば、イエスに権威を与えたのも神だということになります。ですからイエスは彼らに「ヨハネのバプテスマは、天から来たのですか、人から出たのですか。答えなさい」と言いました。この逆質問によって、大祭司たちは窮地に追い込まれます。もしバプテスマのヨハネを神の人だと認めてしまえば、イエスのことも神の人だと認めてしまうことにつながります。そうなると、質問をしたことがかえってやぶへびになってしまいます。ですから何としてもそれを認めたくはありません。しかし、では「彼は神の人ではない。自分勝手にバプテスマを授けていたのだ」と言ってしまえば、群衆から大きな反発を受ける恐れがありました。バプテスマのヨハネはガリラヤだけでなく、ユダヤやエルサレムでも大変有名な人物で、彼のことを神の預言者だと信じている人もたくさんいました。そんな人たちの前でバプテスマのヨハネを否定すれば、怒った群衆が暴動を起こしかねません。それも大祭司たちは絶対に防がなければならないことでした。そこで彼らはイエスの問いに対して「わかりません」と逃げを打ちます。彼らが逃げたのを見て、イエスの方も彼らの挑発に乗る必要はなくなりました。そこでイエスも彼らの問いには答えませんでした。

ここで、イエスは反撃に転じます。イエスはあるたとえを語りますが、それは有名な「不正な農夫たちのたとえ」です。イエスのこのたとえの中で、ぶどう園の主人は神で、ぶどう園そのものは神の民であるイスラエル、そして農夫とは神からイスラエルの人々の世話をすることを委ねられている牧者たち、大祭司たちのことを指しています。大祭司というのは、今でいえばローマ教皇のような宗教界の権威です。そのような尊敬すべき人が「不正な農夫」である、というのは驚きかもしれません。しかし、イエスの時代の大祭司は、現在のローマ教皇よりもむしろ日本の総理大臣に近い人だったといえるかもしれません。宗教家というより政治家だったという意味です。そのことを説明しましょう。

大祭司というのは、イスラエルの歴史上最大の預言者であるモーセ、そのモーセのお兄さんがアロンという人だったのですが、そのアロンの子孫しかなれないはずでした。日本でも、いくら優秀な人がいても決して天皇にはなれないように、ユダヤの大祭司になる資格は何よりも家系、血統でした。しかし、イエスの時代の大祭司たちはそのような血統の力ではなく、むしろお金の力、財力で選ばれていました。イエスの時代の大祭司はアロンの子孫ではなかったのです。大祭司は、宗主国であるローマ帝国とうまくやれる人が就任していました。実際、当時は誰がユダヤの大祭司になるのかをローマ帝国が決めていたのですが、ローマはユダヤ社会の中でも最も金持ちの四つの家族を選び、そこから大祭司を決めていたのです。日本でいえばソフトバンクの孫さんとか、そういう天文学的な金持ち家族から大祭司を任命しました。しかし、大祭司とはそもそも金持ちがなるものではないし、モーセの律法によれば金持ちになれるはずもなかったのです。なぜなら祭司の一族であるレビ族は、土地を持つことが禁じられていたからです。彼らには自分の財産がなかったので、他のユダヤ人たちの献金によって彼らの生活と宗教活動が支えられていました。けれども、当時のユダヤ人祭司たちは、祭司が土地を持ってはいけないというモーセの律法の解釈を変えてしまいました。日本の平和憲法では日本は軍隊を持てないはずですが、実際には世界有数の軍事力を持っています。日本の政治家は憲法を変えずに、その解釈を変えたのです。それと同じで、当時のユダヤ人たちも神の言葉であるモーセの律法の文言は変えずに、解釈を変えました。それは、祭司は土地を持ってはいけないのではなく、土地で農民として肉体労働をしてはいけない、というように解釈を変えたのです。地主になって年貢を取り立てることはよいけれど、自ら農夫となって労働してはいけない、ということにしてしまったのです。それから大祭司たちは、貧しい農民に大きな宗教税を課して、その税金が払えなくなると彼らの土地を取り上げて、彼らを小作農として働かせました。貧しい農民は、酷いときは収穫の7割を税金や小作料で搾り取られました。ですから彼らはどんどん貧乏になり、彼らを助けて養うべきはずの大祭司たちがどんどん金持ちになっていくという、非常にゆがんだ状態になりました。大祭司たちはローマ帝国と結託し、異教徒であるローマの武力を用いて貧しい人々の不満を押さえつけました。ローマ帝国にとっては、大祭司が信仰心に篤い人かどうかというのはどうでもよいことでした。ローマにとっての良い大祭司とは、ローマのために民衆からきっちり税金を集めてくれて、また民衆のローマに対する暴動を抑え込む手腕がある人でした。ですから大祭司たちも、神ではなくローマの顔色ばかりをうかがうようになっていったのです。したがってイエスと対決していた大祭司は、ユダヤで一番の大富豪であり、同時に総理大臣の権力も併せ持つ、そんな人物でした。神はもちろん神に仕える祭司たちがそんな状態であるのを喜ばれません。そこで彼らに反省を促すために、これまで多くの預言者を遣わしてきました。しかし、歴代の大祭司たちは自分たちを批判する神の預言者たちを次々に迫害し、あるいは殺し、ついには神の子であるイエスさえも殺そうとしている、そのことをイエスはたとえを通じて語り、大祭司たちを公然と告発したのです。

このたとえを語り終えた後、イエスはさらに、詩篇からの一節を引用します。それは、イエスがろばに乗ってエルサレムに入城した時に、彼を讃美した人たちが引用した詩篇と同じ詩篇118篇からでした。イエスがエルサレムに入場した時に、人々は詩篇118篇26節を歌いました。

主の御名によって来る人に、祝福があるように。私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。主は神であられ。私たちに光を与えられた。

この詩篇は、このように救い主を待ち望む詩篇でした。しかし、この同じ詩篇には、次のような不思議な預言も含まれていました。それが詩篇118篇の22節、23節です。そこをお読みします。

家を建てる者たちの捨てた石。それが礎の石となった。これは主がなさったことだ。私たちの目には不思議なことである。

家を建てる者たちとは、壮大なエルサレム神殿を建ててそれを管理している大祭司たちのことでした。彼らが捨てた石ころとは、すなわちイエスです。イエスは神殿の管理者である大祭司から不要なものとして投げ捨てられる運命にあります。しかし、このイエスこそ神の神殿の礎、礎石となるのです。これは人間の目にはまことに不思議なことでした。

さて、これまでイエスの話を聞いていたユダヤの当局者たち、大祭司たちは聖書をよく知っている賢い人たちでしたから、この「不正な農夫」や「家を建てる者たち」が自分たちのことを指していることにすぐ気が付きました。彼らは怒りに燃えてイエスを捕えようとしましたが、やはり群衆を恐れました。この時点では、群衆は自分たちよりイエスの方に魅了されていることを見て取ったからです。ここで無理をすれば、群衆の暴動を招きかねません。ですからここでもイエスの逮捕を諦めて、次のチャンスを待つことにしました。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが預言者としてイスラエルの牧者たち、指導者たちに引導を渡し、彼らへの神の裁きが不可避であることを宣告する場面を学びました。いつの時代も、神の民の群れを預かる指導者の責任は重いのです。宗教の指導者は、神という絶対的な権威に基づいて語りますから、非常に強い力を持ちえますが、彼らがその権威を悪用すると、とんでもないことになるということです。特に、今日は様々な新興宗教、お金儲けや人々の心を支配することばかりに関心があるように見える宗教のせいで、宗教全体の信頼が大きく揺らいでいます。これは大変深刻な、不幸な状態です。宗教に関わる全ての人は、その責任の大きさを自覚しなければなりません。

私たちは小さな群れですし、富と権力を独占したユダヤの大祭司のような人たちとは程遠い存在です。それでも、私たちもまた、神から大事な農園を預かっている農夫であることを忘れてはいけません。すべての教会は、私たち教会員のものである以上に、神のものであり、私たちはそれをお預かりしている管理人に過ぎないということを忘れないようにしたいと思います。そのことは、特に牧師である私が胆に銘じるべきことです。私たちが忠実で善良な管理人として主からお褒めに与ることができるように、祈り、励んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今朝は、主イエスがユダヤの当局者たちを不正な管理人として糾弾する場面を学びました。私たちもこのことを他山の石として、自分自身を戒めるために謙虚に受け止めることができますように。同時に、この小さな群れを主ご自身が牧者として愛し、導いてくださっている幸いに感謝いたします。どうか復活主日に続くこの一週間の私たちの信仰の歩みを強めてください。われらの救い主、平和の主であるイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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