神と皇帝
マルコ福音書12章13~17節

1.序論

みなさま、おはようございます。先週は幸いなイースター礼拝を献げることができて感謝でした。今日は再びマルコ福音書からお話しさせていただきます。今日の聖書箇所はわずか5節です。前回のマルコからの説教は24節でしたので、えらく短いとお感じになられたかもしれません。しかし、今日の箇所は極めて重要な箇所で、丁寧な説明を必要とします。また、聖書を研究する人々の間でも解釈が割れる難しい箇所でもあります。ですから今日はじっくりとこの5節についてお話ししたいと思います。

今日の箇所の「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい」というイエスの有名な言葉は、政教分離の原則を表すものとして理解されることが多いと思います。カイザルとはユリウス・カエサル、つまりローマ初代皇帝のアウグストゥスの義理の父で、実質的に帝政ローマを始めたローマの将軍カエサルのことです。イエスは、政治の権威としてカエサル、つまり皇帝の権威を認めて皇帝に税を払い、もちろん宗教的な義務として神には献金をしなさい、税金も献金も払うべきだと教えたと考えられてきました。このような解釈は中世のヨーロッパではとりわけ人気があったのもうなずけます。中世ヨーロッパでは皇帝あるいは国王という政治権力と、ローマ教皇という宗教的権威、この二重の権力があり、民衆は国王にも教皇にも税を納めなければなりませんでした。そのようなことをイエス様も命じておられたとすると、それは大変権力者にとって都合の良いことになります。

また、このような解釈は、使徒パウロの教えとも一致しているように思われます。パウロはローマ人への手紙13章7節でこう言っています。

あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人はみつぎを納め、税を納めなければならない人は税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。

パウロは単刀直入に、税金はきちんと納めなさい、と教えています。ですからイエスも同じように、「皇帝に税金を納めるべきですか?」と問われて、「はい、しっかり皇帝に税金を納めるべきです」と答えたということになります。しかし、この解釈は前後の文脈にはそぐわないものです。ここでイエスに質問をしたパリサイ派の人とヘロデ党の人は、イエスを罠にはめるために来ました。そして彼らはイエスがどう答えても窮地に陥るようないやらしい質問をイエスにぶつけました。理由は後で詳しく説明しますが、イエスは「皇帝に税金を納めなさい」と答えても、「皇帝に税金を納めてはならない」と答えても、窮地に陥ることになります。そのような巧妙な罠を尋問者たちは仕掛けていたのですから、もしイエスが「はい、皇帝に税金を納めましょう」と答えたのなら、まさに罠にはまる、飛んで火にいる夏の虫のようなことになってしまうのです。ですから、イエスがここで単に「皇帝に税を納めなさい」と言ったというのは、文脈から考えるとありそうにないのです。

つまり、イエスはここで政治的な事柄は皇帝に従い、宗教的な事柄は神に従いなさい、と言うような政教分離の原則を教えたわけではない、ということです。では、イエスがここで何を言われたのか、そのことを詳しく見ていきたいと思います。

2.本論

では13節から読んで参りましょう。前回の場面では、イエスは神殿を管理する大祭司たちに神の裁きが下るということを、たとえを通じて語りました。今回はそのイエスに対して大祭司たちが反撃する場面です。大祭司たちはここで、自分たちは表に出ることなく、パリサイ派とヘロデ党の人たちを使ってイエスを陥れようとします。彼らは実に巧妙な質問を思いつきました。まず彼らはイエスにおべっかを使います。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています」と言います。はばからない、というのは「顔色を窺わない」というような意味で、つまり誰に対しても空気を読んだり忖度したりすることなく、はっきりと本当のことを言う方だ、ということです。これは褒めているようで、実はイエスを罠にはめようという意図がありありと見え隠れしています。つまり「私たちがこれから尋ねる質問に対して、逃げないで単刀直入に答えてくれますね。前回大祭司たちが『あなたは何の権威によってこんなことをするのか』と尋ねたときに、あなたは彼らに逆に質問をすることで答えようとはされなかったわけですが、今回はそんなことをせずに、はぐらかさずに私たちの質問に正面から答えてくださいね」と、いわば外堀を埋めているのです。

それから彼らは核心を突くような質問をします。あなたが考える「神の道」によれば、皇帝に税を納めることは旧約聖書の教え、モーセの律法に適うことでしょうか、と尋ねたのです。ここで彼らは「ローマ皇帝に税を納めるべきでしょうか」ではなく、「税を納めることは聖書の教えに適うことでしょうか」と聞いています。これも実に巧妙な戦略です。単に税を納めるかどうか、と言う話なら、税を納めないとローマに捕まったり殺されてしまうかもしれない、だから納めるしかないでしょう、というように答えることも可能ですが、しかしそれが律法に適っているかどうかとなると話は別です。ここでは政治的な方便や選択肢ではなく、信仰の在り方、聖書の理解そのものを問うているのです。ですからイエスの答えにも、非常な重みが加わります。特にここで問われている税とは、ローマへの人頭税であることが重要です。ローマ帝国はユダヤの人々に人頭税をかけていましたが、いろいろな税の中でもこの税はとりわけ問題の多い税でした。なぜなら、人頭税とは神にのみ献げられるべきもの、というのが聖書の教えだからです。これは出エジプト記30章12節以降に書かれています。

あなたがイスラエル人の登録のため、人口調査をするとき、その登録にあたり、各人は自分自身の贖い金を主に納めなければならない。これは、彼らの登録によって、彼らにわざわいが起こらないためである。登録される者はみな、聖所のシェケルで半シェケルを払わなければならない。

この人頭税は神殿税とも呼ばれますように、神に献げられるものです。イスラエルの民は、自分たちは神の民である、神の所有物である、だから神に一人一人がお献げするのだ、と信じて人頭税を納めました。ここから自然に、イスラエル人は人頭税を神以外に納めるべきではない、という考えが生まれます。もし他の人に人頭税を納めれば、イスラエル人はその人の所有物だと認めてしまうことになるからです。実際、紀元6年にローマがユダヤ人に人口調査を行って人頭税を取ろうとしたときに、それに反対する反乱がガリラヤで起きました。これはガリラヤのユダと呼ばれる人物が起こした反乱ですが、その時のスローガンが「神のほかに王なし」というものでした。つまりローマ皇帝に人頭税を納めてしまうと、神以外の異教徒の皇帝を自分の主人として認めてしまうことになる、そんなことは許されないということで暴動が起こったのです。しかし、ユダの反乱は鎮圧されてしまいましたので、ユダヤ人はローマに人頭税を納めるほかありませんでした。その状態は、イエスの時代まで続いていました。しかし、征服された者として仕方なく税を納めるのと、聖書の教え、神の教えとしてローマに税を納めるのとでは全然意味合いが違います。ユダのように武力でローマに反乱を起こすことには賛成しない人でも、本来のモーセの律法によればローマに税を納めるのは良いことではない、と考えるユダヤ人は多かったのです。ですからイエスがもしここで、「神の道によればローマに税を納めるべきだ」と言おうものなら、彼の神の道の教師としての権威や信頼性は地に堕ちかねません。ですからイエスはここで簡単に「税を納めろ」とは言えなかったのです。

しかし、では「ローマに税を納めるのは神の律法に反している」と答えようものなら、それはそれで大変なことになります。ローマ人はユダヤ人がいかなる神を信じようと、どのような神学を持っていようとあまり気にしませんでした、彼らがおとなしく税金を納めてくれる限りは。しかし、もし納税を拒否したらそれは大問題となります。ローマ帝国への反逆として厳しく処罰されることになります。実際、ルカ福音書によれば、イエスがローマ総督ピラトの前に犯罪者として連れて来られた時の罪状は「皇帝に税を納めることを禁じている」というものでした。イエスの尋問者たちは、イエスが「ローマに税を納めるべきではない」と言ったならすぐさまローマの憲兵に通報してイエスを捕えさせたでしょう。もうそのような手筈を整えてからイエスのところにやって来ていた可能性すらあります。

このように、イエスがどう答えても苦境に陥る、そういう巧妙な罠を尋問者たちは仕掛けてきたのです。では、それに対してイエスはどう答えたのでしょうか?イエスは彼らが何を狙っているのかよく分かっていました。それで、「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい」と言われました。ここで言っているデナリ銀貨とは、ユダヤの硬貨ではなくローマの硬貨です。ローマへの納税はローマの硬貨を使う必要があったからです。その硬貨にはローマ皇帝、イエスの時代の皇帝は二代皇帝ティベリウスですから、彼の肖像が刻まれていました。しかも、そこにはユダヤ人にとっては許されざることが書かれていました。「ティベリウス・カエサル・神であるアウグストゥスの子」となっていたのです。初代皇帝アウグストゥスが死んで葬儀がなされた際に、ローマの元老院はアウグストゥスが「神となった」と宣言しました。ですからそのアウグストゥスの子であるティベリウスは「神の子」なのです。唯一神信仰を堅持するユダヤ人にとって、人である皇帝を神とする、神の子とするなどというのは到底許されないことでした。そのような冒涜的な文字が、イエスの尋問者たちが持つローマの硬貨には刻まれていました。ですからローマに納税をするということは、その冒涜的な硬貨をローマにつき返すという風にも捉えることができます。「私はユダヤ人です。唯一の神を信じる私はこのような冒涜的な硬貨を持つことは出来ないので、あなたに返します」ということです。したがって、ローマに納税するということは、ある面から見れば冒涜的な物を捨て去る、偶像礼拝のためのアイテムを偶像礼拝者であるローマにつき返す、ということになります。イエスが「皇帝のものは皇帝に返せ」と語った言葉の意味は、「ローマに納税をしなさい」という意味ではなく、「偶像礼拝者に偶像アイテムを突き返しなさい」というように理解できるということです。おそらくイエスと尋問者たちとの対話を聞いていたユダヤ人たちは、このようなイエスの意図を理解できたのでしょう。だから彼らはイエスの知恵に「驚嘆した」のです。イエスはローマへの納税そのものを否定しませんでしたが、その意味を変えてしまった、いわゆる換骨奪胎してしまったのです。これでイエスの尋問者たちは、イエスを訴える口実を失いました。

そうすると「神のものは神に返しなさい」というイエスの言葉の意味も、一層明らかになります。この世にあるすべてのものは、神のものなのです。ここまではローマ皇帝のもので、ここからは神のもの、などという区別はありません。政治は皇帝の領分で、宗教は神の領域、などということもありません。政治も宗教も経済も、すべては神のものなのです。詩篇24篇1節が語るとおりです。

地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは主のものである。

ローマ皇帝のもの、ローマに属するものなど何もありません。ですから「神のものは神に」とは、「あなたの持つすべてのものはローマのものではなく神のものなのだから、感謝して神に献げなさい」ということなのです。

しかし、だからといってイエスはローマへの納税を禁じたわけではありません。実際問題として、ユダヤの地はローマ帝国の植民地なのですから、税金を払わないということになれば反乱と見なされます。納税拒否のためにローマに捕まりたくなければ戦うしかなくなります。そしてこれが「熱心党」と呼ばれる武闘派グループの唱えた道でした。ユダヤには、ローマの支配に抗ってゲリラ的抵抗を続ける戦士たちが数多くいて、ローマは彼らを捕まえては十字架で処刑していました。イエスはこのような武力による抵抗を明確に禁じています。とはいえ、ではローマの支配に唯々諾々と従って、ローマの忠実な臣民として生きるという生き方をイエスは勧めたわけでもありません。そのようなローマとの妥協、ローマにおもねる生き方は、イエスが批判した大祭司たちの生き方であっても、イエスの目指す生き方ではありませんでした。イエスは暴力的抵抗を否定しましたが、ローマによる暴力的支配を是認したのでもないのです。ローマに反抗するのでもなく、ローマにおもねるのでもない、これらとは違う第三の道をイエスは示そうとしていました。それは非暴力的な抵抗でした。イエスは山上の垂訓で、右の頬を打たれたら左の頬を差し出せと言われました。とても有名な言葉ですが、多くの人には理解に苦しむ言葉かもしれません。暴力を我慢するだけでなく、さらに暴力を受けることを要求するなんて、マゾではないか?と考える人もいます。この言葉はしばしば無抵抗主義のスローガンというように言われることもありますが、しかしこれは決して無抵抗を促す言葉ではないことに注意が必要です。ここで考えていただきたいのですが、右利きの方は誰かを平手打ちするとき、相手の右の頬を打つことができるでしょうか?できないですよね。左の頬しか打てません。右の頬を打つには、手のひらではなく手の甲で打つしかありません。そして、当時手の甲で人を打つということは侮辱のしるしでした。お前を対等の相手とは見ていない、という侮辱の意味を込めるために手の甲で右の頬を打ったのです。その相手に対し、右の頬を指し出すとはどういうことか?それは「手の甲ではなく、手のひらで打ってください。私はあなたから侮辱されるような人間ではありません。あなたと同じ、対等な人間なのです」という意思表示でした。ですからイエスは、植民地のユダヤ人を見下し軽蔑するローマ兵に対し、自分たちはあなたたちと対等な人間なのだということを勇気をもって主張しなさいと、そのように教えているのです。イエスはローマの非人間的な統治のやり方、暴力的な支配、その典型が十字架ですが、そうした暴力に対して暴力で応じるということはしません。しかし、そのようなローマのやり方を肯定もしません。暴力とは違う仕方で、ローマへの抵抗を示そうとしたのです。ローマから嫌なことを要求されたとしても、それにいやいや従うのではなく、かといって武力で抵抗するのでもなく、むしろ善意のしるしとして、悪意を乗り越える善意のしるしとして、ローマの求めに応じるということです。下着を取ろうとする人に上着を与えよ、というのはそういうことです。それでは悪人をのさばらせるだけではないか、という反論ももちろん分かります。どんな場合でも、だれかれ構わずそのようにしろ、といっているのでもありません。しかし、状況によってはそのような行動は相手に強いインパクトを与え、相手の態度を変える可能性があるということです。ですから非暴力的抵抗を行う場合は、鳩のように素直に、蛇のように賢く行動する必要があります。そしてそれは、非常に勇気のいる行動です。

ただ、イエスは今回の尋問者との対話では、ローマにどのように応対すべきかについて、ここまで詳しいことは語られませんでした。イエスは尋問者たちの悪意を見抜いていたので、彼らには何を言っても無駄であろう、豚に真珠であろうということを見抜いておられました。ですから必要最小限の言葉で、イエスを陥れようとした尋問者たちをかえって出し抜かれたのです。ここには驚嘆すべきイエスの知恵があります。

3.結論

まとめになります。今日はイエスを陥れようとする尋問者に対し、イエスがどのように応答したのかを学びました。それは当時のユダヤ人にとっての最も重要で深刻な問題、つまりユダヤの地を支配する異邦人のローマ帝国とどう向き合うか、という問題でした。イエスの尋問者たちは非常に巧妙な罠をしかけました。それはイエスに反ローマ的な発言をさせるか、あるいは神への忠誠を犠牲にしてローマと妥協する者ととられかねない発言をさせるか、どちらにしてもイエスを窮地に追い込むことになる発言を引き出そうとしました。それに対し、イエスはさらにその上を行くような巧妙な返答で応じました。今日の対話では、イエスの際立った知恵が浮かび上がりますが、同時にイエスはローマに対する武力抵抗でもない、またローマを無批判に受け入れるでもない、そのような道を示しました。イエスはローマの冒涜的な主張、つまり皇帝は神であるというような主張は断固拒否しましたが、同時にローマに対する納税を拒否してローマと一戦交えるというような道も取りませんでした。イエスはローマの兵士がユダヤの人に一ミリオン行けと強いるなら、むしろその者と一緒に二ミリオン行きなさいと教えられました。悪意に対して圧倒的な善意で乗り越えるという、ある意味革命的な主張をしました。敵を敵とするのではなく、むしろ敵を味方にしてしまいなさいということです。これは強い者におもねるとか、長い物には巻かれろとか、そういうことではありません。むしろ、銀の食器を盗んだジャン・バルジャンに対し、銀の燭台まで与えたミリエル司教のように行動しろ、ということです。彼の驚くべき行動は、ジャン・バルジャンを驚かせ、彼を変えてしまいました。敵を神の僕にしたのです。イエスが促そうとしたのもそのような行動でした。大きな話になりますが、今日本は敵国に囲まれているから再軍備をしなければならない、というようなことが言われています。でも、こちらが相手を敵視すれば、相手も当然こちらを敵視します。そんな状態で平和が訪れるでしょうか。私たちは今こそ、主イエスがユダヤの人たちに、そして今日の日本に生きる人たちに示した道を受け入れ、歩みたいと願うものです。お祈りします。

平和の主、武器を捨てて十字架の道を選ばれたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今日は主イエスがユダヤの地を支配するローマに対してどのような姿勢であったのかを学びました。敵を作るのではなく、むしろ敵を友とするような行動をイエスは促されました。いま、敵の脅威を煽り、再軍備に向かう道を日本は選ぼうとしていますが、私たちは主イエスが示された道を忠実に歩むことができるよう、この小さな群れを強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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