神殿崩壊の預言
マルコ福音書13章1~37節

1.序論

みなさま、おはようございます。マルコ福音書も、いよいよ重大な局面に入ってまいりました。今日お読みいただいたマルコ13章はオリーブ山の講話と呼ばれる大変有名な箇所ですが、同時に解釈が難しい、専門家や研究者の間でも意見が割れる、とても難解な箇所でもあります。ですからあらかじめお断りしておきますが、私が本日説教する内容が、この13章の唯一の正しい解釈である、ということはあり得ません。こういうと開き直っているように聞こえるかもしれませんが、これまで二千年もの間、世界中で主イエスを信じる熱心な方々が一生懸命に研究を重ねてきて、それでも結論に達していない問題について、自分が解決を持ち合わせているなどとは思わない方が良いという慎重さや謙虚さも大切ではないかと思うのです。

そのうえで、私が今の時点で最善と信じる見方に基づいて説教をさせていただきます。この13章が難しいと思われる最大の理由は、イエスが一体何のテーマ、どのような主題について話しているのか、よく分からなくなってくるからです。というのも、弟子たちはイエスに「神の宮、つまり神殿はいつ、どのようにして壊れるのですか」と聞いたのであり、「世界はいつ、どのようにして終わるのですか」という質問をしたわけではありません。それは1節から4節までを読めば明らかです。しかし、イエスはその答えの中で、神殿の崩壊については何も語っていないように見えます。実際、イエスの講話の中には、宮とか神殿という言葉が一度も出てこないのです。そうすると、イエスは弟子たちの質問を無視して、まったく別のテーマについて話したのではないか、というように思えてきます。なぜなら、イエスの講話の中には「天の万象は揺り動かされます」ですとか、「この天地は滅びます」など、世界の終わりを思わせるような言葉がちりばめられているからです。ではイエスは、いつ神殿が壊れるのかという弟子たちの質問に触発されて、いつ世界が壊れるのかという全く別のテーマについて話をしたのでしょうか?

これはマルコ13章を、この福音書の話の流れの中でどう位置づけるのか、という問題とも関係してきます。これまでの話の流れは、イエスと神殿の管理者、つまり大祭司たちとの対決というものでした。イエスは宮清めによって、今の神殿体制、大祭司たちを中心とするイスラエルの権力構造にダメ出しをしました。いちじくの木を呪ったことも同じ意味ですが、神は実を結ばないイスラエルを裁かれる、そして当時のイスラエルの宗教のみならず権威や権力の象徴でもあった神殿も神の裁きの下にある、ということをイエスはその行動や言葉で暗示しました。そのイエスの真意に気が付いた大祭司たちは激しく反発し、イエスの人気を失わせよう、イエスを陥れようとして様々な罠や攻撃をしかけてきた、というのが前回までの流れです。イエスはそうした罠や攻撃をことごとく跳ね返し、そして論争を終えて神殿から立ち去る時に、決定的な言葉を口にしました。ここでイエスは暗示的にではなく明確に、神殿の崩壊を予告したのです。それが、「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」というイエスの言葉です。このイエスの言葉をめぐって弟子たちが質問をした、というのがこの13章の冒頭部分の流れです。

では、もしイエスがその講話の中で神殿の崩壊については触れずに、世界の終わりについて語ったとすると、それは一体どういうことなのでしょうか?イエスは意図的に、弟子たちが生きている間には体験することのない、それどころかそれから2千年もの間イエスを信じるクリスチャンたちが体験することのなかった世界の終わりについて弟子たちに語ることで、遠い未来に世界の終わりを迎えるであろう人たちに対してのメッセージを託したのでしょうか?つまりマルコ13章だけは神殿をめぐるイエスとユダヤ権力者たちとの対決という当時の文脈から切り離して、数千年後の人々に向けたイエスのメッセージとして読むべきなのでしょうか?そうなると、マルコ13章はこの福音書から切り取って、そこだけ独立した章として読むことができる箇所だということになります。この13章がしばしば世界の終わりの預言という意味で「小黙示録」と呼ばれるのはそういう理由からです。しかし、私はそうは思いません。むしろイエスは弟子たちの質問に正面から向き合って、きちんと答えたのだと考えています。ではなぜ神殿の崩壊ではなく世界の崩壊が語られているのかといえば、それは当時のユダヤ人が神殿を宇宙の縮図、ある意味では宇宙そのものと信じていたからです。つまりユダヤ人にとって、神殿が壊れることは天地が壊れることに匹敵するほどの重大な意味があったということです。日本語で驚天動地の出来事、という言葉がありますが、それは文字通りに天が揺り動かされる出来事という意味ではなく、天が驚くほどの重大事件という意味です。ですからイエスのこの講話で語る宇宙的な崩壊の描写も、そのような比喩的なニュアンスで聞くべきだということです。単刀直入に言えば、イエスは世界の終わりについて語ったのではなく、神殿体制というユダヤの重要な時代の終わりについて語ったということです。その前提に立って、今日の聖書箇所を読んでまいりましょう。

2.本論

では、3節から見ていきましょう。イエスはオリーブ山に座っておられた、とあります。私もエルサレムに一度だけ行ったことがありますが、その中でも忘れられない思い出はオリーブ山に上ったことです。オリーブ山に立つと、目の前に神殿の丘がひろがって見えます。今日では神殿の丘にはイスラム教の寺院が建てられているのですが、イエスの時代にはユダヤ教の神殿、ヘロデ神殿とも第二神殿とも呼ばれた壮麗な神殿が立っていました。イエスはその神殿を見据えながら、この講話を話されたのです。その時に私は、イエスがこの講話で話されたことの真意が分かったような気がしました。イエスは目の前にある神殿の行方について語られたのだと。そのイエスの下に、12弟子たちの中でも側近とでもいうべき4人、つまりシモン・ペテロとその兄アンデレ、そしてゼベダイの子のヤコブとヨハネが人目を忍んでやってきました。彼らは神殿が崩壊するというイエスの言葉について、さらなる情報を求めてやって来たのです。彼らは神殿がいつ崩壊するのか、そしてそれに先立つ予兆や出来事は何か、ということをイエスに尋ねたのです。

当時のユダヤ人の文献を読むと、来るべき救世主、メシアは既存の神殿を打ち壊し、新しい神殿、永遠に続く神殿を立てることを期待されていたのが分かります。弟子たちも、ヘロデ一族によって大規模拡張された神殿をメシアであるイエスが打ち壊し、全く新しい神殿を立てることを期待していたのかもしれません。それは革命と呼んでもいいかもしれませんが、そのような政治的大激変のクライマックスとしての神殿崩壊を弟子たちは期待していたものと思われます。

イエスは、その質問に際し、神殿崩壊に先立つ様々な前兆について語り始めます。その前兆とは、真のメシアであるイエスを差し置いて、自分こそイスラエルを救う救世主である、メシアであると名乗り、人々を惑わす人々が現れるということです。今の時代にも、私は再臨のイエスであると名乗る新興宗教の教祖たちがいますが、イエスの時代にもそのような人たちが何人も現れたのです。しかも彼らは教祖というよりも革命家でした。使途の働きの6章には、紀元6年ごろガリラヤで反乱を起こしたユダという人物のことが書かれていますが、彼の子孫たちは対ローマの反乱の指導者となっていきました。彼らは自分たちがイスラエルの油注がれた王家であるかのようにふるまったのです。そのような革命的リーダー、偽メシアがイエスの前後に数多く現れています。特に神殿が崩壊する紀元前70年には、イスラエルの王のようにふるまう人物が次々と現れました。

さらには、戦争のうわさが広まるとありますが、それも神殿崩壊の前の数年間に実際に起こった現象でした。というのは、キリスト教を迫害したことで悪名高い皇帝ネロの治世に不満を抱く人たちが反乱の起こし、ネロに代わってローマの支配権を得ようと四人もの皇帝を名乗る人物が次々と現れる四皇帝時代という期間がありました。そのローマの動乱の時期にユダヤ人のローマに対する反乱、ユダヤ戦争が起こったのです。その結果ユダヤは徹底的に敗れてエルサレムとその神殿がローマによって破壊されるという悲劇に終わりました。そのような政情が不安定な時代に、戦争だけでなくききんや地震も頻発しました。人々を不安にさせるような出来事が続けざまに起きたのです。

そのような危機の時代にも、使徒たちは積極的に伝道活動を繰り広げ、異邦人の使徒であるパウロたちの活躍もあり、キリスト教はまたたくまに地中海一帯に伝播していきました。パウロはローマ書で「キリストの福音をくまなく伝えました」(ローマ15.19)と語りました。そこには残念ながら私たちの日本は含まれていませんが、しかしパウロたちは彼らの理解する範囲の全世界にくまなく福音を伝えたのです。しかし、福音が伝わるところにはそれに対する反発、妨害、迫害も起こります。イエスの使徒たちも、そのほとんどが殉教したと伝えられています。彼らの命がけの伝道により、当時の世界の多くの人がイエスへの信仰へと導かれました。

このように、13節までは神殿崩壊に至る時期に起こる様々な前兆について語っています。しかしこれらはかなり曖昧な、いつの時代でも起こりうる前兆でもあります。戦争のうわさや、ききんや地震など、そして世界中へのキリスト教の伝道は私たちの時代にも起こっていることでもあるからです。より明確な神殿崩壊の前兆、しるしはないのでしょうか?それが記されているのが14節です。イエスは「荒らす憎むべきもの」が立ってはならない場所、つまり神殿に現れる、と言います。その時こそ、終わり、つまり神殿の崩壊が目前に迫っているということなのです。ここでイエスは間違いなくダニエル書という旧約聖書の書の、七十週の預言と呼ばれる預言を念頭に置いています。七十週の預言というのは有名ですが難解な預言で、イエスの時代にも、現代においてですら様々な解釈があります。この預言に深入りすることはしませんが、これがエルサレム神殿崩壊の預言であるということは覚えておいてください。ですからイエスの神殿崩壊に預言と深い関係のある預言であるということです。そのダニエル書の9章には、「来るべき君主の民が町と聖所を破壊する」という預言がありますが、これはローマの将軍で次の皇帝になるティトスがエルサレムとその神殿を破壊したことを指すものと思われます。そして、その時には「荒らす憎むべきもの」が神殿に現れるだろう(七十人訳)、とも預言しています。イエスはつまり、ダニエルが預言したまがまがしいものが神殿に現れたなら、神殿の崩壊は近いと告げたのです。ではその荒らす憎むべきものとは何か、というのはなかなか難しい問題です。かつて、イエスの時代から200年程前にシリアの王がエルサレムの神殿にギリシア神話の神であるゼウスの偶像を立てたことがあり、それが「荒らす憎むべきもの」と呼ばれたのですが、イエスが預言したユダヤ戦争の時期に同じように神殿にゼウス像が立てられたという記録はありません。しかし、聖なる場所である神殿はユダヤ戦争の間、何度も流血事件を引き起こし、神殿は血で汚れていきました。ユダヤ戦争は内ゲバの様相を呈し、神殿内でユダヤ人が同胞のユダヤ人を殺すという事件が起こったのです。そのような惨劇により、神殿の聖性は汚されていったのですが、そのことをイエスは「荒らす憎むべきものが、自分の立ってはならないところに立っているのを見たならば」と言ったものと思われます。つまり聖なる神殿を暴漢どもが占拠したのを見たならば、という意味です。実際、ユダヤ戦争の最中にエルサレムにいたユダヤ人クリスチャンたち、エルサレム教会の人たちはユダヤ戦争が始まってユダヤ社会が混沌としてくると、イエスの命令通りにエルサレムから逃亡して生き残ることができました。彼らはソドムとゴモラが神に裁かれるときにそこから逃げて生き延びることができたロトたちのように、後ろを振り返らずに一目散に逃げることで命を救うことができたのです。イエスがここでユダヤから逃げなさい、と命じられたことは、ここで言われている終わりが世界の終わりではないことの証明ともなるでしょう。なぜなら全世界が本当に終わってしまうなら、どこに逃げても同じことなので、無駄な努力をせずに自分の愛する場所で死を迎えた方が良い、という話になるからです。

同時に、エルサレムに残った人たちを待ち受ける苦しみや痛みは想像を絶するほど激しいものとなります。イエスはその苦しみを「神が天地を創造してからこのかた、いまだかつてないほど」だと語りました。私も子供のころ、この聖書箇所を聞かされて、「どうか自分がこのような恐ろしい時代を経験することがありませんように」と子供ながらに祈ったことがありますが、それほど恐ろしい響きを持つイエスの言葉です。しかし、選ばれた人々のためにその苦しみの日数を少なくしてくださるという約束も与えられています。これは、エルサレム教会の人たちがユダヤ戦争の比較的初期の段階、あまりにも悲惨な状況になる前に脱出の機会が与えられたことを指しているものと思われます。そのユダヤ戦争の初期段階には、次々と新しいリーダーが現れて自分こそメシアだと名乗りユダヤの人々を惑わしましたが、イエスこそがメシアだと信じていたエルサレム教会の人たちは彼らに惑わされることなくエルサレムから脱出することができたのでした。

さて、それから問題の24節以降が続きます。これまでのイエスの話の流れからすれば、イエスはここで神殿が崩壊する様子を語るものと期待されるところですが、しかしイエスは突然宇宙が崩壊する様子を語り始めたようにも思えます。これをどう考えればよいのでしょうか。ここで注意したいのは、イエスはここで旧約聖書のいくつかの預言を重層的に引用しているということです。イエスは特にイザヤ書の13章10節を引用しています。そこにはこう書かれています。

天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月は光を放たない。

このイザヤ書の一節にはイエスの時代にも用いられていた七十人訳と呼ばれるギリシア語訳があり、イエスの言葉はそのギリシア語訳の方により近いのですが、細かいことを別にすれば意味は同じです。しかし、ここでイザヤが預言したのは宇宙の崩壊ではなく、大国バビロンの滅亡であったということに注意が必要です。預言者イザヤは政治的大激変を語るのに、宇宙崩壊の言語を使ったのです。これは私たちにも分かることではないでしょうか。例えば現在の超大国であるアメリカが滅びることなど誰も予想していませんが、もしアメリカが本当に崩壊するようなことがあれば、私たちは巨星墜つ、世界が終わった、というような宇宙的言語でそのインパクトのすさまじさを伝えようとするでしょう。しかも、このようないい回しはイザヤだけでなくほかの預言者も用いています。例えば預言者エゼキエルは、エジプトが滅ぶさまを

あなたが滅び去るとき、わたしは空をおおい、星を暗くし、太陽を雲で隠し、月に光を放たせない。わたしは空に輝くすべての光をあなたの上で暗くし、あなたの地をやみでおおう。(エゼキエル32章7-8節)

と、まるで宇宙の崩壊のように語っています。もし旧約の預言者たちが、当時の大国が滅びゆく様を宇宙の崩壊のように語ることができたならば、イエスも同じことをしたと、どうして言うことができないでしょうか。つまり、当時のユダヤ人たちが絶対に滅びることがないと信じていた壮麗無比な神殿と、その神殿を擁する聖都エルサレムが崩壊する様を、宇宙崩壊の言語で語ったと、どうして言うことができないのか、ということです。私はここで、イエスがまさに旧約聖書の預言者たちの伝統に連なる者として、宇宙崩壊の言語を用いてエルサレム神殿の崩壊を語ったのだと考えています。

それからイエスは、その時には「人の子が雲に乗って来るだろう」と語りました。この言葉はイエスが再臨する、つまり世界の終わりにイエスが再びこの地上に現れることを指す言葉だというのが伝統的な解釈です。しかし、この一節は旧約聖書のダニエル書からの引用であり、そしてダニエル書ではこの人の子が来るのは地上ではなく天国であり、天国で人の子が地上のすべての支配権を授けられる預言であるということに注意が必要です。そのダニエル書7章13節と14節をお読みします。

見よ。人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方には、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸言語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。

イエスがこのダニエルの預言の言葉を引用したのは間違いありませんが、ここでは人の子と呼ばれる人物が来るのは地上ではなく天上なのです。人の子は天上の世界の父の身許に来て、そこで永遠の王国を授けられるのです。この情景は戴冠式といっても良いかもしれません。つまり年老いた王が若き王子に王権を譲る場面を思い起こさせます。ですから、ここで言われている人の子がイエスを指すのだとするならば、ここではイエスが天に昇って、父なる神から全世界を治める権威を授けられた情景を描いているということです。地上では、これまでイスラエルを支配していた大祭司たちが裁かれ、彼らの権力の象徴である神殿が破壊されますが、天においては復活したイエスが御父のもとへと導かれ、そこで永遠の王国を授けられる、その情景を描いているのがマルコ13章の24節から26節だということです。天に昇られたイエスは聖霊を使徒たちに与え、彼から遣わされた使徒たちは世界の隅々にまで福音を伝えて選びの民をイエスの下へと呼び集めます。27節の御使いという言葉のギリシア語は天使という意味にもなりますが、使者あるいはメッセンジャーという意味にもなります。27節は使徒たちの世界宣教を指すものと思われるのです。

このように、マルコ福音書の30節までは、世界の終わりの預言だと考える必要はありません。むしろそれは、まさにイエスと同時代の人々が生きていた時代、つまり紀元1世紀に起こった出来事の預言だったのです。その時代に、イエスの予告通りにエルサレムの神殿は崩壊し、同時にイエスは天に挙げられて神からすべての栄光と権威とを授けられたのです。

しかし、では31節はどうなのか、と思われるかもしれません。ここでイエスははっきりと「この天地は滅びます」と言っているではないかと。しかしこの31節はユダヤ人特有の強調表現であり、ここでイエスが言われている言葉は「わたしの言葉が滅びるよりも、天地が滅びる方が優しい」という意味合いが込められています。つまり、イエスの言葉が成就しなければ、それこそ天地は滅びてしまう、それほどまでにイエスの言葉は確かなのだ、と請け負っておられたのです。

私たちはイエスの言葉が成就したのは紀元70年であることを知っています。イエスが十字架に架けられたのが紀元30年だとすると、40年後です。現代から振り返れば40年はあっという間の出来事ですが、実際にその時代を生きた人々にとっては非常に長い時代だったことは想像に難くありません。特にユダヤ人クリスチャンにとっては長く続く迫害の時代、同時にユダヤ社会全体がどんどん政情不安になっていく困難な時代でした。その中で、希望を見失って信仰を捨ててしまいたいという誘惑にかられたクリスチャンも少なくなかったでしょう。しかしイエスは彼らに、目を覚ましていなさい、私の語ったことは必ず実現する、と念を押されたのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスの神殿崩壊の予告を聞いて、それはいつ、どのように起こるのかと尋ねた弟子たちに対し、イエスが詳しい講話を与える場面を学びました。お話ししたように、私はこれを世界の終わりの預言ではなく、紀元70年に実現した神殿崩壊の預言として理解していますので、そのような見地から説教させていただきました。

その上で、よく考えたいのは終末という言葉の意味です。キリスト教は終末を待ち望む宗教だとよく言われます。この世界は遠からず滅ぶのだから、来世に望みをかけようという考え方を持っているということです。こうした考えを突き詰めて、終末思想によって人々の恐怖心をあおり、人々をマインドコントロールし、終末を自らの手でもたらそうとする新興宗教まで現れました。私自身も地下鉄サリン事件が起きた現場のすぐそばで働いていましたので、その衝撃は忘れません。そうした新興宗教は、ハルマゲドンとか、キリスト教の宗教用語を使っていましたが、彼らの終末論の根っこにあるのが聖書、特に今日お読みしたような終末預言だとされる箇所であるということは否定できません。であるからこそ、こうした終末を描いているとされる箇所を慎重に学び、正しい理解を持つ必要があります。私自身も、今日の箇所は世界の終わりを描いている箇所だと考えて、子供心に恐怖心を持ったことがあります。子供のころにノストラダムスの大予言というのがはやりましたが、それと変わらないもののように思えてしまっていたのです。しかし、聖書テクストを詳しく学んでいくと、世界の終わりを描いていると思ってきた箇所がそうではなかった、というような発見をすることが何度もありました。むしろ、この世界はすぐに終わるから来世に期待をかけなさい、という考えには非常に危険な面があるとも思うようになりました。今の地球は温暖化とか、環境汚染とか、核戦争の恐怖とか、巨大な脅威にさらされています。世界の終わりというものがリアリティーを持ってしまった時代だといえます。そんな中で、こうした状況をあまり気にしていないクリスチャンがいるという話も聞きます。いわく、世界が破滅に近づけば近づくほど、キリストの再臨が近づくのだから、それは良いことなのだ、と本気で考えているというのです。こうした見方は極端な一部の人たちだけの考えだ、と私たちは言い切れるでしょうか?私たちも、どこかでそういう考えの影響を受けてしまっていないでしょうか。この世界は、神が丹精を込めて創造された素晴らしい世界です。この世界がいかに驚異に満ちた世界であるのかは、現代科学が徐々に解明しつつあることです。それが人間の罪によって傷つき、汚されてしまったから、神はこの世界を放棄して新しい世界を作り直そうとしているのでしょうか。神はそんなに簡単に、この世界を諦めてしまうのでしょうか。そうではないはずです。むしろ神の願いは、この世界を癒し、回復させ、救い出すことにあります。そして私たち人間に、その回復のために力を発揮してほしいと期待しておられるのです。むろん、私たちの悪や罪に対しては、神は裁きをもって臨むでしょう。しかしそれは地球を壊すためではなく、むしろ地球を壊そうとする私たちから地球を守るための裁きなのです。ですから私たちは、現在の世界が抱える問題の大きさにギブアップすることなく、神とキリストを信じてこの世界の回復のために少しでも力を尽くしていくべきなのです。お祈りします。

天地万物を創造され、またすべての被造物を慈しんでおられるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝は、しばしば終末の預言とされる箇所の意味について学びました。しかし、それは世界の終わりではなく、ある一つの腐敗した支配体制の終わりであり、その終わりはキリストの支配という新しい現実をもたらすものであったことを学びました。私たちもキリストの支配に生きる者として、神の願いであるこの世界の癒しと回復のために働くことができるように、どうかこの小さな群れに力をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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