献身と裏切り
マルコ福音書14章1~11節

1.序論

みなさま、おはようございます。先週は、イエスがエルサレム当局者たちに下る決定的な裁き、つまりエルサレム神殿の崩壊を予告した場面を学びました。イエスとエルサレム当局者たちとの対立はもう後戻りできないところにまできました。エルサレム当局者たちもここで腹を固めました。このイエスという男を抹殺しなければならないという決意を固めたのです。ここまでは彼らも一応は対話を通じて、ある意味で穏便に事を進めようとしてきました。対話といっても、イエスを貶めようという意図がありありとした対話なので、決して友好的ではものなかったのですが、それでも逮捕とか、そういう実力行使は避けようとしてきました。それはエルサレムの当局者たちが平和主義者だったためではなく、民衆に人気があったイエスを皆の前で逮捕しようとすれば暴動が起きかねず、ひとたび暴動が起きれば大祭司たちはローマの総督から治安を維持できなかった責任を取らされて首にされる可能性が十分にあったからです。

しかし、イエスに論戦を挑んでも勝てる見込みが全くないと分かった以上、もっと過激な手段に出るしかないと決意したのです。つまり、イエスを人目に付かない所で逮捕して、人々が騒ぎ出さないうちに裁判を行って一気に死刑にもっていってしまおうとしたのです。そうすれば、イエスを抹殺できるし民衆の暴動も防ぐことができる、彼らからすれば一石二鳥というわけです。しかし、人目に付かないところでイエスを逮捕するためには、イエスの行動をあらかじめ知っておく必要があります。イエスを逮捕しても民衆が騒ぎ出さないようなタイミングを狙って、そこで一気にイエスの身柄を確保しようということです。そのためにはどうしてもイエスの行動について教えてくれる内通者、密告者が必要でした。イエスも当然慎重に行動するでしょうから、イエスが今後の行動を打ち明けるほどにイエスに身近な人、しかもイエスを裏切る気持ちがある人、そういう人が必要でした。そして、まさにそのような喉から手が出るほど欲しい人が現れました。それがイスカリオテのユダです。

そのユダの裏切りと、もう一人の名もなき女性の献身的な行動、この二つの行動が今回の聖書箇所のテーマです。この二人について、ユダの卑劣さと、女性の一途な献身とのコントラストが強調されている、というのが一般的な解釈です。しかし、どうも話はそう単純ではないのかもしれない、とも思えます。というのは、ユダも、そしておそらくイエスに油を注いだこの名もなき女性もイエスの事を誤解していたように思えるからです。二人ともイエスに大いなる期待を抱いて、イエスにある行動を促そうとしました。しかし彼らの願いとイエスの思いとの間には大きなずれがあったのではないか、そう思えるのです。そのことを詳しく見ていきたいと思います。

2.本論

では、1節からお読みします。過越の祭りとは、アメリカの独立記念日のような日です。それは遠い昔、ユダヤ人の祖先がエジプトで奴隷として使役されていたのを、モーセに率いられて奇跡的にエジプトから脱出したことを祝う日です。つまり「解放」を祝う日です。当然、異教徒のローマに奴隷のように使役されていることに不満を持つユダヤ人たちの怒りが最も爆発しやすい日でした。そんな中にイエスを野放しにしておくと、血気にはやるユダヤ人たちがイエスを担いでローマへの反乱を起こすことになりかねない、そうなる前に何としてもイエスを拘束し、速やかに処刑しなければならない、それが祭司長たちの思いでした。しかし、どうすれば民衆の騒ぎを誘発しないようにひそかにイエスを逮捕できるのか、そのことを祭司長たちは話し合っていました。

イエスたちも、大祭司たちから隠れるかのようにエルサレムを離れて近郊の村であるベタニヤに滞在していました。その時ある出来事が起きました。とある女性が、非常に高価なナルド油の入った壺を持ってイエスの所にやって来て、それをイエスの頭から注いだのです。この油を頭から注ぐという行為には非常に政治的な意味がありました。キリストというのはメシアというヘブライ語をギリシア語にしたものですが、メシアとは「油注がれた者」という意味です。古代イスラエルでは、王や祭司など、特別な任務に就く人は頭から油を注がれてその任務に就任します。特に王の任職の場合は、預言者が王となる人物の頭に油を注ぎます。ダビデに頭から油を注いだ預言者サムエルがまさにそうでした。ですから、この女性がイエスの足を洗うために足に油を塗るのではなく、頭から油を注いだということには象徴的な意味がありました。この女性は、女預言者としてイエスに「あなたこそ、イスラエルの油注がれた王です」と宣言したのに等しいということです。

しかし、イエスの弟子たちにはこの女性の行動の象徴的な意味が分からなかったようです。あるいは、分かっていたのかもしれませんが、いわゆる「女のくせに、生意気な」的な思いを抱いたのかもしれません。当時のユダヤ社会は家父長的社会、男尊女卑社会であり、女性には教育の機会が与えられていませんでしたし、政治的な発言をする自由もありませんでした。この女性の用いた香油は三百デナリの価値があったとされていますが、当時の1デナリとは1日の労働に対する賃金に相当しますから、三百デナリは1年分の年収に相当する金額です。この無名の女性にとってはおそらくなけなしの財産に相当するものだったはずですが、彼女はイエスにそれだけ大きな価値を認め、イエスが王であることを示すような行動をしたのです。イエスの弟子たちからすれば彼女は立派な行動をしたと褒めるのが適当であるように思えますが、弟子たちは彼女の行動にそうした意義を認めず、単なる無駄遣いと決めつけたのです。イエスがメシアなのかどうかというのは、これまでも弟子たちにとって非常に重要な問題でしたから、この女性がイエスをメシアだと大胆な行動を通じて宣言するのを見て、先を越された、出し抜かれたという嫉妬にも似た思いを抱いたのかもしれません。

この女性は、それこそ全財産を費やして購入した香油をイエスに注ぐという、彼女としては一世一代の覚悟でした行動を無駄遣いと非難されてしまって、とてもがっかりしました。それどころか、いかついイエスの弟子たちから睨まれて、恐ろしく感じたことでしょう。困り果てたその女性を見て、イエスが助け舟を出してくれました。「なぜこの人を困らせるのですか」と。その言葉を聞いて、弟子たちには理解してもらえなかったけれど、イエス様には私の気持ちが分かってもらえたのだ、受け止めてもらえたのだと、この女性は感激したことでしょう。しかし、それからイエスが語ったことは、この女性にもまったく意外な、驚くべきことでした。なんとイエスは、彼女はイエスの葬式の準備のためにイエスに油を注いだのだ、と言うのです。これはその女性の意図とは全く別のことでした。この女性は、イエスが死ぬなどとは思ってもいませんでした。イエスが自分の死を予告したのは親しい弟子たちに対してのみであり、他の一般の人たちには秘密にしていたからです。この女性は、イエスがこれから王として活躍してくれるのを期待したのであり、イエスに死んでもらっては困るのです。あの伝説の王であるダビデのように、イスラエルを率いて大国ローマに勝利し、イスラエルに栄光をもたらしてくれる人、それがこのイエスだと信じたからこそ、相当な無理をして、イエスに王としての油を注いだのです。それなのに、葬式のために油を注いだなんて、それはいったいどういうこと?と思ったはずです。

実はこのことは、これまでもイエスと弟子たちとの間に繰り返されてきた大きな誤解でした。弟子たちは、このイエスこそ約束の救世主である、イスラエルに救いをもたらす人だと信じ、すべてを捨ててイエスについてきました。イエスも自分がメシアであることを認めましたが、彼は繰り返し自分を待ち受ける運命は勝利ではなく死だと言うことを弟子たちに語って聞かせました。しかし、そのことが弟子たちには理解できないし、受け入れられません。イスラエルを異教徒の支配から解放し、イスラエルに栄光をもたらすはずのメシアが死ぬなどということが受け入れられなかったのです。そして同じことがここでも繰り返されています。この女性は言葉ではなく行動を通じて、「イエス様、あなたこそメシア、イスラエルの王です」と告白しました。そしてイエスもそのことを認めましたが、しかしその自分を待ち受けるのは勝利ではなく死なのだ、と優しく語るのです。この女性がイエスの言葉にどう反応したのか、書かれていませんが、おそらく非常に驚いて、ひょっとすると憤りすら感じていたのかもしれません。この人は、イスラエルを解放してほしいという私たちの願いを受け止めてくれないのか、と。むろん、イエスの願いもイスラエルの解放でした。しかしその解放への道筋、手段についてはユダヤの人たちとイエスの間には大きな隔たりがありました。イエスは武力による解放を目指さなかったのです。武力を用いて自分たちを支配しようとする人々に立ち向かうには、こちらも武器を手に取るしかないではないか、というのが普通の考え方でしょう。今の世界でも、他国から攻撃された場合に人々が支援に求めるのが武器です。同情するくらいなら武器をくれ、ということです。当時のイスラエルの人たちも同じ気持ちだったでしょう。しかしイエスが指し示す道は「敵を愛しなさい」ということでした。敵と戦うのは簡単なことではありませんが、敵を愛するというのはさらに困難な道です。とりわけ、敵が悪者だと固く信じている場合にその敵を愛するのは非常に困難です。むろんイエスも、敵が行う悪い行動を黙って受け入れなさい、無抵抗でいなさい、ということを教えたわけではありません。イエスの行動を見れば明らかなように、彼は悪を悪として非難しますし、抵抗の意思表示もします。しかし、その抵抗には相手を殺すという暴力は含まれないのです。つまりイエスは無抵抗主義者ではないけれど、暴力的な抵抗という手段は取らなかったのです。非暴力についてはしばしば誤解されることがあります。非暴力主義の人は、警察を否定するのか、と言われることがありますが、そんなことはありません。暴漢に襲われて、受け身を取らないわけでもありません。しかし、襲い掛かってくる敵の動きを止める、相手を押しとどめて暴力行為を止めることと、相手を殺してしまうことの間には越えられない一線があります。たとえ相手がどんな悪人であっても、殺してしまったら相手と和解するチャンスも、相手が心を入れ替えて回心するチャンスも、すべてが失われます。相手がどれほど悪人であっても、その人の命を奪ってしまうということには深刻な結果が伴います。イエスは相手を完全に否定して殺してしまうという道、暴力が暴力を生むという負の連鎖ではなく、相手と何とか和解する道、その道を探し求めるように教えてこられました。

しかし、言うは易しで、武力を用いないで暴力を用いる人に抵抗するという道には大きなリスクが伴います。話の通じない相手では、殺されるというリスクすらあります。イエスはまさにそのような危険な道を歩んでいました。彼はユダヤの権力者たちを歯に衣着せぬ言葉で批判しましたが、相手は国家権力を有する人たちです。彼らがイエスを黙らせるための手段はいくらでもあるのです。その困難な道を歩もうとするイエスを理解することは、弟子たちにとっても、そしてイエスに油を注いだ女性にとっては容易なことではありませんでした。むしろ、おそらくこの女性はイエスの意図を理解しないまま、イエスに王としての油注ぎをしました。しかしイエスはそのことを咎めるような無粋なことはされませんでした。むしろその女性の信仰を賞賛し、彼女の行動は末代まで語り継がれるだろうと語られました。

その立派な女性の信仰に対し、卑劣さそのもののような人物が登場します。イスカリオテのユダです。ユダは、なんとイエスの命を狙っている大祭司たちに取引を持ち掛けたのです。イエスをあなたがたに引き渡そうと持ちかけました。このユダという人物がなぜイエスを裏切ったのか、その動機は謎です。マルコよりもかなり後に書かれたヨハネ福音書では、ことさらにユダを悪人として描いていて、彼はイエスたち一行の共有財産を預かる金庫番だったのに、いつもそこから金を盗んでいて、イエスを売ったのも金欲しさのためだったという、とんでもなく卑劣な人物として描いています。しかしマタイ福音書によれば、彼はイエスが本当に逮捕されてしまうと、絶望してイエスを売ったお金を祭司長たちに全額を返そうとし、さらには首をつって死んだと書かれています。もしユダがお金のためだけに生きていて、イエスの弟子になったのも金を盗むためだったとするならば、そんな人がこのような行動をするだろうか、と思ってしまいます。銀貨30枚というと、とんでもない大金のように思われるかもしれませんが、それは大体当時の給料1か月分ぐらいの金額だったとされます。今の日本のお金でいえば、何十万円です。小さなお金ではありませんが、人生を賭けるような金額でもありません。さきほどのナルドの壺の三百デナリの方がよほど大金です。その程度のお金をもらって裏切り者の汚名を背負って生きるよりも、イエスの金庫番を続けて横領するほうがユダにとってはよほど金儲けのチャンスはあったでしょうし、イエスが捕まるとすぐに自殺したというのも、お金目的の人がする行動とはとても思えないのです。

ユダがイエスの金庫番だったとするならば、彼はイエスから非常に信頼されていた人物だったに違いありません。イエスが信頼するほどですから、このユダはひとかどの人物だったのでしょう。ではなぜユダはイエスを売るという卑劣な行動をしたのか?それは、ここからは私の推測ですが、ユダはなんとしてもイエスにユダヤを支配するローマとの武力闘争のリーダーになってほしかったのではないか、と思われます。ユダというのはユダヤ人の間では英雄の名前でした。イエスの時代から200年ほど前、ユダ・マカバイという人物がいました。マカバイというのはニックネームでハンマーという意味ですが、つまりハンマーのように勇ましいユダという意味です。このユダ・マカバイは当時のユダヤを支配していた大国シリアを相手にゲリラ戦争を行い、連戦連勝してユダヤ人を奇跡の勝利に導いた人物でした。イスカリオテのユダも、このユダ・マカバイのようにユダヤ民族を率いて対ローマ戦争を行い、ユダヤを勝利に導くことを夢見ていたのではないかと思います。しかし、イエスはどうも反乱を率いて決起しそうもない、ということにユダは不満や不安を募らせていきました。そこでイエスをもはや反乱やむなしという状況にまで追い込んで、イエスに腹をくくってもらおう、そう考えたのではないかと思われます。つまりイエスを捕えようとすれば、それに抗ってイエスも戦い始めるだろうと考えたということです。

しかし、驚いたことにイエスは一切逆らうことなく、黙って逮捕されてしまいました。もうイエスは反乱に立ち上がるどころか、その命さえ助かる見込みはなくなってしまった、自分は彼を金のために売ったただの卑怯者になってしまった、その重い現実を突きつけられてユダは自殺するより他はなかったのではないか、と思えるのです。ユダは、暴力を否定するイエスのことを最後まで理解できなかったのです。マタイ福音書によれば、イエスは戦おうとする弟子たちを諫めて、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われました。しかし、ユダにはそのようなイエスの言動が納得できませんでした。しかし、そのようなユダの気持ちも分からないでもありません。私たちも、平和は大事だといいながらも、追い込まれると、結局は正義のためだとか、いろんな理由を付けて戦争を支持してしまいがちです。あくまで武器を取らないという道を選ぶと、悪を容認するのか、それは卑怯だし、臆病者のすることだ、と非難されることも少なくありません。ユダも、非暴力を貫こうとするイエスに対し、しかし現実はそんなに甘いものではない、そう思ってイエスを武力闘争に導くための最後の賭けをして、それに失敗して自殺という道を選んだとするならば、ユダは本当に悲劇的な人物だと思います。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスに高価な油を注ぎ、イエスこそ王だという勇気ある告白をした女性と、卑劣にもイエスを金のために大祭司たちに売り渡そうとする十二弟子の裏切り者イスカリオテのユダの話を学びました。全く対照的な二人ですが、実はこの二人の行動は同じような動機に基づいているのではないか、という観点からお話をさせていただきました。二人とも、イエスにイスラエルの自由のために立ち上がって欲しい、イスラエルを外国の支配から救い出して欲しいという期待をかけていたということです。しかし、イエスにより近い立場にいたユダは、イエスにはローマと戦う気はないということが分かってきました。ですから彼はイエスに決起を促すために、より過激な方法に訴えたのではないかと思われます。

しかしイエスがもたらそうとした神の王国、神の支配は暴力を通じて実現するようなものではなかったのです。もしイエスが暴力という手段に訴えてしまったら、イエスのもたらす神の国はこの世の王国と何も変わらないということになってしまいます。ローマも、他の王国や帝国もみな逆らう者には容赦のない暴力で臨みました。ローマの恐怖と暴力による支配のシンボルは十字架でした。しかし、イエスがローマをも上回る圧倒的な武力によってローマを打倒し、神の支配、神の王国を打ち立てたとしたら、そんな王国はローマと何が違うと言うのでしょうか。より圧倒的な武力を持っているというだけのことです。神はその圧倒的な暴力によって崇められるということになってしまいます。しかしイエスの父なる神はそんな神ではないし、神の支配とはそのような高圧的な支配ではないのです。むしろ神の支配とは、奪うことよりも与えることを喜ぶ、自分の命すら与えることをいとわない、そのような過激な愛によってもたらされるものなのです。しかし、そのことを理解するのは今も昔も大変難しいことです。イエスはその難しいレッスンを私たちに教えるために、それを身をもって示すために十字架という道を選ばれました。最悪の暴力をその身に受けることで、平和への道を示そうとされたのです。イエスの示す平和が単なる絵空事でないのは、それが彼の人生というリアリティーによって支えられているからです。彼は言うだけでなく、実行したのです。だから彼の言葉は力を持つのです。私たちにとってもイエスの与えるチャレンジを受け止めるのは容易なことではありません。しかし、力には力でという論理では、いつまでたっても平和が訪れないという現実も私たちは見ています。イエスの言葉を信じて、それに賭けてみるというのは一見非現実的に見えても、実は最も現実的なものだということがあり得るのです。「平和を作り出す者は幸いです」というイエスの言葉を胸に、今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

平和を作り出すために歩まれたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今日は、イエスに大きな期待をかけながらも、まったく別の行動を通じてイエスにその期待を伝えようとした二人の人物について考えてきました。おそらくこの二人ともイエスの思いを正しくは理解できていなかったように思いますが、それは私たちも同じかもしれません。強力な軍事力で物事を解決しようとするこの時代にあって、私たちはイエスの思いをしっかりと受け止めることができるように強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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