ネヘミヤの改革(1)
ネヘミヤ記5章1~19節

1.序論

みなさま、おはようございます。今年から、毎月月末は旧約聖書からメッセージをさせていただいておりますが、今月は翌週がペンテコステ礼拝なので、第三週に旧約聖書からのメッセージをさせていただきます。本日取り上げるのはネヘミヤ記ですが、ネヘミヤはよくエズラとセットで、エズラ・ネヘミヤ記と呼ばれることがあります。この二人の人物の共通点は、いずれもペルシア帝国の統治下で活躍をしたユダヤ人だということです。このペルシア時代の状況を知ることがネヘミヤの働きを知る上で重要なので、まずはその話をさせて頂きたいと思います。

これまで何度もお話ししているように、イスラエルの歴史においては「バビロン捕囚」がとても大きな意味を持っています。主イエスが活躍された時代から約600年前、当時のダビデ王朝である南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされ、エルサレムの主だった人々、王や貴族や祭司たちはバビロンに捕虜として連行されました。しかし、そのバビロンも次なる超大国であるアケメネス朝ペルシア、現在のイランに相当する国ですが、そのペルシアによって紀元前539年に滅ぼされました。ペルシアの王キュロスは、バビロンによって捕虜となっていた各国の人々を祖国に帰してあげました。その中にはユダヤ民族も含まれていました。キュロス王は各民族が祖国に帰って、先祖伝来の宗教に基づく国づくりをするのを支援しました。ユダヤ人にとっては大変ありがたい政策を行ったわけです。ですからイザヤ書ではペルシアの王であるキュロスは油注がれた者、つまりキリストとまで呼ばれています。外国人の王をメシアまたはキリストと呼ぶのは極めて異例なことです。それほどユダヤ人にとってペルシアの王はありがたい存在だったのです。

しかし、祖国に帰ってきたユダヤ人の生活は順風満帆(まんぱん)というにはほど遠いものでした。かつてのイスラエルは北イスラエル王国と南ユダ王国の南北に分裂していたものの、広大な領域を支配する大きな王国でした。しかし、帰還したユダヤ人に割り当てられたのはエルサレムの回りの非常に狭いエリアであり、かつての広大な領土と比べればすずめの涙でした。しかも国土のまわりはユダヤ人とはあまり良い関係ではないサマリア人、エドム人、モアブ人、アンモン人などにぐるりと取り囲まれていました。つまり国土は貧しく、近隣諸国は敵対的だったのです。日本の歴史でいえば、大日本帝国の時代は日本は朝鮮、台湾、満州などを植民地にしていたのに、戦争で負けた後は東京を中心とする関東地方だけの小国になってしまった、そんな感じでしょうか。かつての大国だった時代を知っている人々からすれば、自分たちはなんと落ちぶれてしまったものかと、そういう屈辱を感じないではおられない状況でした。

また、バビロン捕囚が終わってユダヤ人が帰って来るまでの間、ユダの地を実質的に支配していたのはサマリア人でした。サマリアはかつての北イスラエル王国の首都でしたので、ユダヤ人とはまさに血を分けた兄弟のはずでしたが、しかしサマリア人は実際は混血の人々でした。というのも、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリア帝国は、サマリア地方に多くの外国人を入植させてイスラエル人と混血にしたのです。つまりハーフが中心になってできていた国がサマリアだったのです。バビロン捕囚から戻ってきたユダヤ人たちは極端ともいえるほどの純血主義を取り、ハーフを自分たちの仲間とは決して認めませんでした。それで、エルサレムに戻ってきたユダヤ人たちがペルシア帝国の支援で神殿を再建しようとしたときに、サマリアの人たちが「我々も同じ神さまを礼拝するイスラエル人だから、神殿の建築を手伝わせてください」と申し出たのに対し、「いや、私たちは混血の君たちを同じイスラエル人とは認めない。手伝わせるわけにはいかない、お引き取り願おう」と拒絶しました。それでユダヤ人とサマリア人とは犬猿の仲になってしまい、サマリア人はエルサレムの神殿建築をことあるごとに妨害するようになってしまいました。それでもなんとか神殿建築が完成したのが紀元前516年のことでした。

エルサレム神殿の再建から約70年後、紀元前445年に、今回の主人公であるネヘミヤがエルサレムにやってきました。ネヘミヤは、ユダヤを支配するペルシア帝国から派遣された「総督」という立場でエルサレムにやってきました。主イエスの時代にユダヤを治めていたのはローマの総督であるポンテオ・ピラトでしたが、それと同じような立場です。もっとも外国人のローマ人であるピラトと、同じユダヤ人であるネヘミヤとが総督であるのとは、統治される側のユダヤ人からすれば全然違うわけです。ユダヤとは縁もゆかりもないのに総督としてやってきたピラトとは違い、ネヘミヤは本国ペルシアで高い地位に就いていたのに、その地位を捨てて同胞であるユダヤ人を助けるために自ら総督に志願してエルサレムにやって来たのです。ユダヤ人からすれば、願ってもない人が総督として来てくれたと、大歓迎だったことでしょう。そのように高い志を持ってやってきた政治家でありペルシアの官僚でもあるネヘミヤがユダヤの地で行った改革、そのことをこれから2回に分けて学んで参りたいと思います。

2.本論

さて、今日のテーマは「改革」です。日本も、かつて小泉元首相が「改革なくして成長なし」というスローガンを掲げて旋風を巻き起こしたことを覚えておられる方も多いと思います。ネヘミヤも、ユダヤ人の間に改革をもたらそうとしたわけですが、その方向性は小泉改革とは真逆のものでした。小泉改革の目玉はなんといっても郵政民政化でしたが、それ以上に日本社会に大きな影響を及ぼしたのが非正規雇用の拡大でした。正規雇用よりも様々な面で待遇の劣る非正規雇用が増えると、生活が苦しい、安定しないという人が増えます。小泉改革以降、非正規雇用者は右肩上がりで増加して、その結果、日本では格差社会が深刻化しています。しかし、ネヘミヤが目指したのはその反対の、格差社会の解消でした。むろん、格差を完全になくそうというのは現実的ではありませんが、それがあまりにも大きくなってしまわないように改革を実施したのです。

バビロン捕囚から帰還した人々が移り住んだユダヤの地は、敗戦後の日本のように混乱した状態にありました。その混乱の中でユダヤ社会の中では格差がどんどん拡大していきました。しかし終戦後の日本は、格差という意味ではバビロン捕囚後のユダヤとは異なるところがありました。日本でも戦後の混乱の中でかなり強引な手段で金持ちになり上がっていく人々もいましたが、同時に戦後の日本では戦前の反省から格差を解消しようという動きがあったからです。それは残念ながら日本人自身の手で成し遂げられたものではありませんでしたが、占領軍司令部による農地改革が行われたのです。農地問題は、戦前の日本では大地主の反対で手が付けられなかった問題でしたが、アメリカの占領軍の圧倒的な権限の下で実現した改革でした。戦前は、貧しい農民は税金を払うことができないときにはお金を借りて税を払っていましたが、お金が返せないと農地を取り上げられて小作人に転落しました。そして農家に占める小作農の割合は大変大きくなりました。小作人は奴隷とは違いますが、実際にはそれに近いものがありました。貧しい小作農の家では女子が売られていくということが当たり前のように行われていました。日本が軍国主義に向かってしまったのも、貧しい農家出身の兵士たちが実家の貧困に憤り、格差社会を助長する腐敗した支配者層を排除しようとして2.26事件などのクーデターを繰り返したためにエリート層が軍部の暗殺を恐れて軍部をコントロールできなくなってしまったからだと言われます。つまり超格差社会が軍国主義を招いたということです。GHPはその反省から、戦前では不可能と思われていた小作制度の改革に乗り出したのです。土地を失った小作人に土地を返してあげたのです。これは占領軍の政策の中で最も成功したものの一つで、後の「1億総中流時代」と呼ばれる平等な社会の基礎を作った改革でした。このように、戦後の日本は極端な格差社会にならないように運営されていましたが、それに対してバビロン捕囚が終わったユダヤ社会はどんどん格差が広がる、そういう社会になっていきました。貧しい農民は借金し、それが返せないので土地を失って小作人になるという、まさに戦前の日本のような状況になっていったのです。そんな状況に危機感を感じていたのがネヘミヤでした。なぜなら、かつてユダヤ人が国を失いバビロン捕囚の憂き目に遭ったのは、その格差拡大が原因だったからです。

かつての南北のイスラエル王国は、アッシリアやバビロンという超大国によって滅ぼされたのですが、その主な原因の一つはイスラエルが超格差社会になってしまったことだったのです。格差が拡大すると国の中に分断が進み、「自分たちは同じ民族の一員なのだ」という意識が薄れていきます。分裂した国は脆くなります。人々が足の引っ張り合いをしだすからです。預言者たちも、そのような格差社会を批判し、悔い改めて改革をするように促しますが、エリートたちはそういう声を無視してきました。北イスラエルが崩壊することを警告した預言者アモスはこう言っています。

主はこう仰せられる。「イスラエルの犯した三つのそむきの罪、四つのそむきの罪のために、わたしはその刑罰を取り消さない。彼らが金と引き換えに正しい者を売り、一足のくつのために貧しい者を売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地のちりに踏みつけ、貧しい者の道を曲げ、父と子が同じ女のところに通って、わたしの聖なる名を汚している。」(アモス2:6-7)

アモスの時代、北イスラエル王国は空前の好景気、バブル経済のような状態にありました。しかし、それから数十年も経たないうちに北イスラエル王国は滅亡してしまいます。空前の好景気といっても、それで潤っていたのは一部の貴族や金持ちだけで、民衆は疲弊し、国力は落ちていったのでした。その背後には極端な格差という現実がありました。

北イスラエルが滅んで一人残された南ユダ王国も、国家滅亡の危機に瀕して格差の解消を行おうとしたことがありました。それはバビロニア帝国の大軍にエルサレムを包囲されていた時のことでした。ユダ王国の貴族たちは、その時同胞のユダヤ人で借金のために奴隷になっていた人々の解放を宣言したのです。それは、ユダヤ人奴隷を解放せよという聖書の教えを無視してきた国の在り方を改め、神の憐みを乞うためでもあり、同時に奴隷のユダヤ人たちを解放して彼らの愛国心を高め、イスラエル防衛のために働いてもらおうという狙いもあったと思われます。しかし、バビロニア軍は内政の問題もあり、一時的にエルサレム包囲を解き、自国に引き返していったことがありました。それを見たユダの王たちは奴隷解放宣言を撤回してしまったのです。エレミヤ書34章7節以降をお読みします。

そのとき、バビロンの王の軍勢は、エルサレムとユダの残されたすべての町、ラキシュとアゼカを攻めていた。これらがユダの町々で城壁のある町として残っていたからである。ゼデキヤ王がエルサレムにいるすべての民と契約を結んで、彼らに奴隷の解放を宣言して後、主からエレミヤにあったみことば。―それは各自が、ヘブル人である自分の奴隷や女奴隷を自由にし、同胞のユダヤ人を奴隷にしないという契約であった。契約に加入したすべての首長、すべての民は、それぞれ、自分の奴隷や女奴隷を自由の身にして、二度と彼らを奴隷にしないことに同意し、同意してから彼らを去らせた。しかし、そのあとで心を翻した。そして、いったん自由の身にした奴隷や女奴隷を連れ戻して、彼らを奴隷や女奴隷として使役した。―

かつて南ユダ王国は、バビロンの前の超大国であるアッシリアにエルサレムを包囲されたことがありましたが、神の奇跡によって間一髪で救われたことがありました。その後アッシリアは二度とエルサレムを攻めることがなく、かえってバビロンによって滅ぼされました。今回も同じことが起きたのだ、とエルサレムの人たちはぬか喜びをしたのです。喜んだだけでなく、急に解放した奴隷のことが惜しくなって契約を破って彼らを再び奴隷にすることにしたのです。そのことをご覧になった神は怒られ、エレミヤを通じて次の裁きの言葉を伝えました。

わたしはまた、ユダの王ゼデキヤとそのつかさたちを敵の手、いのちをねらう者たちの手、あなたがたのところから退却したバビロンの王の軍勢の手に渡す。見よ。わたしは命じ、―主の御告げ―彼らをこの町に引き返させる。彼らはこの町を攻め、これを取り、火で焼く。わたしはユダの町を、住む者もいない荒れ果てた地とする。(エレミヤ34:21-22)

こうして南ユダ王国とダビデの王朝は、奴隷解放を撤回した罪によって滅んだのでした。

バビロン捕囚を経験したユダヤの人たちは、先祖たちが犯した過ちから学ぶべきでした。ユダヤ人とは、そもそも奴隷から解放された民です。彼らはエジプトで奴隷として苦しめられていたところを、神によって救われて自由の身となったのです。その神の救いの業に感謝するのならば、あなたもまた奴隷を解放しなければならない、同胞を奴隷にしてはならない、ということを神は教えられました。ですから神はモーセの律法を通じてそのことを教えられました。ただ、ここでは奴隷制度そのものは否定していないことに注意が必要です。古代世界の奴隷制度は、近現代の奴隷制度、アメリカの黒人奴隷とは全く別物です。アメリカの奴隷制度は、黒人への人種差別に基づくものであり、また奴隷の子は奴隷となるように定められた固定的・因習的なものでした。つまり奴隷として生まれてしまうと、自由になるチャンスはなかったのです。それに対してイスラエルの奴隷制度は、借金をして返せなくなった場合に、しばらくの期間労働奉仕をすることでその借金に相当する労働を提供しようというものでした。神もこの制度自体を認めましたが、奴隷という身分が固定化しないように制限を設けられたのです。それがモーセの律法の趣旨でした。出エジプト記21章2節にはこうあります。

あなたがヘブル人の奴隷を買う場合、彼は六年間、仕え、七年目には自由の身として無償で去ることができる。

ここには絶妙のバランスがあります。借金をして、返せない場合はもう返さなくてもよい、ということではありません。もしそこまでやってしまうと、借りたことの責任というものがなくなり、モラルが失われていきます。しかし、だからといって、その人をいつまでも奴隷として使ってもよいということにはなりません。返せないようなお金を貸した方にも責任があるわけで、ですから奴隷として働かせることができるのは6年までと制約を設けるのです。イスラエル人の主人は神だけであり、人の奴隷になってはならないのです。しかし、この奴隷解放についての神の戒めはイスラエルの中では実践されることがなく、空文化していきました。奴隷主人の方は、ただで仕える労働力を手放したくなかったので、いろいろと理屈をつけて奴隷を解放しようとしなかったのです。しかし、この彼らの自分勝手な行動は神の怒りを招き、ユダ王国は亡国の憂き目に遭ったのです。

そして、捕囚後のユダヤ人社会において、再びこの問題が浮かび上がってきました。それが今日のネヘミヤ記のテーマです。捕囚後にエルサレムの地に戻ってきた人々、特に農夫たちは様々な理由で借金をしなければなりませんでした。不作、凶作になると食べるものがなく、外国から買い求める必要がありますが、そのためにはお金が必要です。しかし、お金を持たない貧しいユダヤ人の農民は豊かなユダヤ人からお金を借りなければなりませんでした。また、当時のユダヤはペルシア帝国の植民地でしたから、ユダヤの農夫たちは毎年ペルシアに税を納めなければなりませんでした。しかし、十分な収穫がなかったり、あるいは収穫物を売ってお金を作ることができないと、税金を納めることができません。とはいえ、不作だから納税できないなどという言い訳はペルシアには通用しません。借金してでも税金を納めろ、さもなければ逮捕する、という話になってしまいます。そこでこの場合も貧しいユダヤ人は、裕福なユダヤ人からお金を借りなければならなくなったのです。そしてお金を貸す方も、返済を確実にするために担保を取ります。お金が返せない場合は農地を取り上げられ、それでも足りない場合は息子や娘を奴隷として差し出すということになります。こうしてユダヤ社会は一部の大地主と、多くの貧しい小作人というひどく歪んだ状態、格差社会となっていきました。しかし、モーセの律法は担保を取ることには非常に慎重でなければならないと教えています。申命記24章10節以降をお読みします。

隣人に何か貸すときに、担保を取るため、その人の家に入ってはならない。あなたは外に立っていなければならない。あなたが貸そうとするその人が、外にいるあなたのところに、担保を持って出て来なければならない。もしその人が貧しい人である場合は、その担保を取ったままで寝てはならない。日没のころには、その担保を必ず返さなければならない。彼は、自分の着物を着て寝るなら、あなたを祝福するであろう。また、それはあなたの神、主の前に、あなたの義となる。

このように、貧しい人は上着を担保に取られると、夜布団もなくて凍えることになるので上着を返してあげなさい、と教えています。このような貧しい人に配慮する律法の精神を重んじるならば、貧しい農民にお金を貸す時に彼の唯一の生計の手段である土地を担保に取ることは控えるべきだと考えられますが、捕囚前のユダヤ人社会でも、捕囚後のユダヤ人社会でも土地を担保に取り、お金が返せない場合は土地を取り上げたり、あるいはその農夫を小作人として使うということが行われていました。その結果、多くの自作農が小作人の地位に転落してしまいました。

また、さらに大きな問題は、ユダヤ人たちが同胞のユダヤ人たちから利子を取っていたことです。私たち日本人は超低金利時代が長く続いたので、金利と聞いてもそれほど大きな負担とは感じないかもしれません。しかし、当時のペルシア統治下では金利は低くても20%ほどあったと言われています。いわゆるサラ金並みの金利です。ユダヤ人同士の貸し出しの場合はこれよりはいくらか金利が安かったようですが、それでも年利10%は優に超える金利だったようです。これでは利子を返すだけで精いっぱいだという人が多かったことでしょう。そしてこの金利を払えなければ、担保の土地を召し上げられたり、あるいは娘や息子を奴隷として差し出さなければならなかったのです。このような状況が、ユダヤ人社会の連帯意識や仲間意識を大いに損なったことは想像に難くありません。しかも、ユダヤ人同士の貸し借りでは決して利子を取ってはいけないという教えはモーセの律法の中に何度も出て来ます。一つだけお読みしますと、レビ記25章35節以下には次のように書かれています。

もし、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたのもとで暮らしが立たなくなったなら、あなたは彼を在留異国人として扶養し、あなたのもとで彼が生活できるようにしなさい。彼から利息も利得も取らないようにしなさい。そうすればあなたの兄弟があなたのもとで生活できるようになる。あなたは彼に金を貸して利息を取ってはならない。また食物を与えて利得を得てはならない。

このように、モーセの律法では外国人にお金を貸して利息を取ることは容認しますが、同じユダヤ人にお金を貸して利息を取ることは禁止していたのです。それなのに、ネヘミヤがユダヤの総督だった頃は、ユダヤ人はユダヤ人から利子を取っていました。その結果、多くの人が貧しくなり、自分の息子や娘を同じユダヤ人仲間に奴隷として差し出すということが行われていたのです。

ネヘミヤはこの事態を重く見て、なんとかしようとしました。そしてネヘミヤの偉かったところは自ら率先して身を切って改革を行ったことです。日本の政治家は、身を切る改革をしようとしません。前から言われている議員数削減の約束も反故になりましたし、領収書なしの毎月100万円の経費の問題も、うやむやにされてしまいました。私たち国民もそういう状況に慣れてきてしまいましたが、政治家への不信感は消えません。それに対してネヘミヤは違いました。彼は、自分が貧しい人にお金や穀物を貸してあげていたのをすべて帳消しにしました。猶予ではなく、帳消しにしたのです。それから彼の統治するユダヤの富裕層に対し、自分のように貧しい人への借金を帳消しにしろとまでは言わないから、せめて利子を返してあげて欲しい、せめてモーセの律法に従って利子を取るのは止めてほしいと訴えました。中国のことわざで『先ず隗(かい)より始めよ』とありますが、それを実践したのです。このように言われては、ユダヤの有力者たちも恥じ入るほかありません。彼の言うことに従い、いままで取ってきた利息を返しました。また、ネヘミヤのさらにすごいところは彼がペルシアの総督として働いていた12年間、その総督の仕事への手当てを、自分の分も自分の親類の分も受け取らなかったのです。手当自体は本国のペルシアの王から送られてくるので、さすがに受け取りを拒むことはしなかったでしょうから、おそらくその全額をユダヤの貧しい人たちのために寄付したものと思われます。それが出来たのも、ネヘミヤが相当な資産家だったからでしょうが、それにしても10年以上もそれを続けるというのは見上げたものです。このような総督だからこそ、ユダヤの人たちも彼に従って、エルサレムの城壁の再建など、インフラ整備のための重い労働も文句を言わずに協力したのでしょう。彼なくしては、エルサレムの再建はありませんでした。指導者の姿勢がいかに重要かということを思わされます。

3.結論

まとめになります。今日は、ペルシア帝国の統治下で混迷を深めていたユダヤ社会に安定を取り戻すために粉骨砕身した総督ネヘミヤの改革を学びました。彼の行った改革は、ここ数十年日本で言われてきた改革、成長のためには格差が拡大してもやむを得ないというような改革ではなく、むしろ戦後のGHPが行った改革、格差を解消しようという改革でした。しかもその改革は、モーセの律法の精神に則った改革、神の御心に沿う改革でした。しかし、こういう改革は既得権を持っているお金持ちの強い反対に遭います。GHPの場合は占領軍という強い立場を使って改革を断行したのですが、ネヘミヤは自らが率先垂範することで改革を成功させました。つまり彼自らが貧しい人たちに貸したお金や穀物をすべて免除してあげて、さらには自分の手当ても全額貧しい人たちのために与えたのです。この清廉潔白な態度がユダヤの人たちに強い印象を与え、ユダヤの人たちは富んだ者も貧しい者も彼に従うようになりました。富んだ人たちは貧しい人たちを助けようとするようになり、貧しい人たちもエルサレムのインフラ工事のために労働を買って出たのです。こうしてユダヤ社会には、段々と一致と団結が生まれてきました。

振り返って今の日本はどうでしょうか?アメリカほどではありませんが、段々と格差と分断が大きくなり、かつての安全神話も失われようとしています。私たちにも、本当にネヘミヤのような指導者がいてくれたら、と願わずにはおられません。私たちは普段あまり政治に関心を持つことがないかもしれませんが、このネヘミヤのような人物がいたら、応援したいものです。そして、ネヘミヤ以上に自らを犠牲にしてまで民を救おうとした主イエスのことを人々に宣べ伝えたいと願うものです。お祈りします。

ネヘミヤの神であるわれらの主よ、そのお名前を讃美します。今日は混迷のただ中にあるユダヤ社会の中で、聖書の掲げる平等な社会建設を目指して働いたネヘミヤのことを学びました。私たちも彼のような指導者・政治家を必要としています。どうかそのようなリーダーをお与えください。また、聖書の示す平等な社会建設のために教会が働けるように、私たちを強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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