パウロとコリントの教会
第一コリント16章5~24節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリント書簡からの説教は今日で32回目、いよいよ最終回になります。といっても、これから引き続き第二コリント書簡の説教を続けていきますので、これで終わりということではなく、まだ道半ばといったところです。コリントというのは地中海世界の交易・交通の要衝に位置する大きな都市で、人口も50万人を超えていたと推定されます。50万というのは当時の古代世界では途方もない、大変な数です。ですからパウロはこのコリント教会に大きな期待をかけていて、自身のヨーロッパ伝道の拠点にしたいと考えていました。そこでパウロは時間をかけて、コリントの地に教会を建てあげたのです。このように、パウロとコリント教会の関係は深いものがありますが、それは愛憎愛半ばするといった感じで、いつも良好なものではありませんでした。それはこれまで読んできた第一コリントの内容からもお判りいただけると思います。これから私たちは第二コリントを学んでいきますが、そこにはパウロとコリント教会との間での生々しい葛藤が描かれています。今日の第一コリントのあとがきでも、そのことを暗示する箇所があります。その点に気を付けながら、今日の箇所を読んでいきましょう。

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エルサレム教会への献金
第一コリント16章1~4節

1.導入

みなさま、おはようございます。第一コリントからの説教も、今日を含めて残すところあと二回となりました。先週までは15章で書かれている死者の復活と終末について考えていきました。その壮大なヴィジョンが終わって、今日の16章は手紙の末尾、いわばあとがきのような内容になっています。ただ、普通の本でも著者のあとがきというのは重要な内容を含んでいます。私自身もつたない物書きとして本を書かせていただいておりますが、あとがきは一生懸命書きます。ですから、この第一コリントの16章もじっくり学ぶべき価値のある章だと言えます。

16章にはいくつかのことが書かれていますが、はじめにエルサレム教会のための献金について書かれています。この第一コリントの講解説教が終わったら、続けて第二コリントの講解説教に入りますが、第二コリントにおいてはエルサレム教会への献金は大変重要なテーマになっています。ですから、第二コリントの説教の予告編のような意味でも、わずか4節の短い箇所ではありますが、今日の箇所をしっかりと見ておきたいと思います。

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神の奥義
第一コリント15章50~58節

1.導入

みなさま、おはようございます。さて、第一コリントもいよいよ佳境、大詰めに入ってきました。第一コリントの手紙は、割と身近なテーマが多い書簡でした。食事のことや結婚について、または礼拝における様々な問題など、私たちにとっても関係の深い大切なテーマが次々と登場しました。しかし、この手紙の最後の箇所では、パウロは身近とはいえないテーマ、壮大なテーマを語り始めます。パウロがこうした大きな問題を語り始めるきっかけは、やはりコリント教会の側にありました。コリント教会の人々は死者のよみがえりはないと主張しました。パウロは彼らに対して、死者のよみがえりはあると力説しますが、この死者のよみがえりという出来事は終末、世界の終わりに起こる出来事です。そのためパウロは、死者のよみがえりから始まって、終末について語り始めるのです。この「終末」というのはキリスト教における非常に大きなテーマです。キリスト教でいう終末とは、破局のことではありません。つまり、終末とは世界が滅びることではないのです。聖書全体を貫く大きなテーマは、世界の回復であり和解です。神はこの世界を非常に良いものとして創造したのですが、この世界は非常に良いものとは程遠いものになってしまいました。この世界は厳しい生存競争の中、被造物同士が敵意を抱き合う、そういう世界になってしまったのです。この世界に生きる私たちは分断され、敵対しあう関係に置かれています。しかし、このバラバラにされた世界がキリストのもとに一つにされる、世界は回復され、また被造物同士、そして創造主と被造物とが和解する、それがキリスト教で言うところの終末です。そして、この終末における死者のよみがえりはとても重要なことです。我々人間が死ぬということは、この被造世界の破れと分断を象徴するものだからです。死は人と人とを分かつものです。親しい人同士、ずっと一緒にいたいと願う人同士にも、必ず別れが来ます。その最も深刻なものは死です。仲たがいしたのなら仲直りする機会がありますが、死に分かれてしまった人とはもはやそのような機会はありません。しかし、その死、そして死による分断を乗り越えさせるのが死者のよみがえりです。しかし、死人がよみがえる、しかもからだを持ってよみがえるというのはどういうことなのか?それはどのようにして起こるのか?復活のからだはどのようなものなのか?疑問はいくらでも浮かんできます。パウロはこうした問題をできるだけ丁寧に解説しますが、それがこの15章の内容です。そして、その中でも特に重要な事柄として話すのが今日の箇所です。

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王権の継承
列王記上1:1-8
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日から列王記に入りたい、と思います。お読みいただいた個所は、ダビデの晩年のところで、最後のダビデ後継者争いが、始まるところです。この頃、ダビデは70歳くらいとみなされておりますが、体力は衰え、だれの目から見ても、最後の時が近づいている、と見える時でした。まず、先ほどお読みいただいた列王記の個所での出来事と、その結末について申し上げます。

一言、事前に申し上げておきたいことがあります。これから、私が申し上げることはダビデというユダヤ人に英雄視されている人物に関する手厳しい批判です。伝統的な神学から大きく外れる内容で、牧師であれば、お話することは憚られるだろう、と思いますが、私は「信徒伝道師」という立場でお話していますので、自分の考えを率直に言わせていただくことが許されている、と心得、申し上げる、ということです。ご容赦願います。

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復活の体とは?
第一コリント15章29~49節

1.導入

みなさま、おはようございます。この第一コリント書簡の学びも終盤になってきました。いつものように、これまでの手紙の内容を確認したいと思います。前回の箇所では、死者のからだのよみがえりなどない、というコリントの信徒たちがいたことを学びました。彼らは死んだ後に魂が天国に行けば十分だ、この世にふたたびからだをもってよみがえる必要などない、と考えたのでした。彼らに対し、もし死者のからだのよみがえりがないのなら、キリストもよみがえらなかったことになる、ということをパウロは指摘します。イエスは十字架に架かって確かに死にました。死者がよみがえらないのなら、キリストだってよみがえらなかっただろう、とパウロは論じたのです。そして、もしキリストが死者の中からよみがえらなかったならば、キリストはよみがえられたという福音を世界中で宣べ伝えているパウロたちはうそつきだということになります。さらには、もしキリストがよみがえらなかったのなら、私たちの罪のために死んでくださったその十字架上の死も無意味になり、私たちは今でも罪の中にいることになる、私たちには救いも希望もなくなってしまうのだ、とパウロは語っています。ですから、死者のからだのよみがえりを否定するということは、私たちの救いそのものを否定することになってしまうのです。

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復活
第一コリント15章12~28節

1.導入

みなさま、こんばんは。7月に入りましたが、第一コリントからの講解説教も今回で28回目となります。ずいぶん長いこと学び続けていますが、第一コリントはいろいろなテーマ、話題を含んでいる書簡なので、こういう言い方が適切かどうかは分かりませんが、いろんな意味で飽きさせない書簡であると言えると思います。そして、私たちは今この書簡の中でも最も重要なテーマ、つまり「復活」、からだのよみがえりについて学んでいます。この復活の問題は、コリントの教会だけでなく、あらゆる教会にとって立つか倒れるかという死活的な問題なのです。

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福音
第一コリント15章1~11節

1.導入

みなさま、おはようございます。6月も最後の主日礼拝になりました。今日から第一コリントも、いよいよ最後のテーマに入っていきます。これまでパウロは、コリントの人々からの質問に答える形で、四つのテーマを取り扱いました。7章からは結婚について、8章からは偶像に献げられた肉について、そして11章以降は礼拝に関しての様々な問題について、丁寧に指示を与えました。そして15章からは復活、からだのよみがえりの問題を扱っています。パウロはこの復活の問題を、手紙の最後で取り扱っているのです。なぜ一番最後にしたのか?といえば、それがあまり大事ではない、最後に付け足しのようにして論じればよい問題だったからではありません。反対です。これが最も大切な事柄なので、この手紙の最後の部分にとって置いたのです。なぜそんなに大切なのか?それはこの問題が「福音」にかかわる問題だからです。

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飢饉とサウルの子孫
サムエル記下21:1-14
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日の聖書個所はサムエル記下21章ですが、サムエル記下では20章で歴史的記述は終わり、21章から最後の24章までは補遺と言い、付録のようなものです。22章は「ダビデの感謝の歌」、23章は「ダビデ最後の言葉」ですので具体的出来事について書かれているのは21章と24章です。更に21章は「飢饉とサウルの子孫」に関する本日の個所で、15節以降は「ペリシテ戦における武勲」と称し、武勲があったものの列挙のようなものですから、物語になっているのは、本日の21:1-14と24章の2か所だけです。実はこの2か所は話の構成が並行的になっており、キアスムス配列と言われています。

21:1-14は簡単に言えば、飢饉があって原因を探ると、サウルがギブオン人を殺したからなので、サウルの子孫を抹殺すれば、飢饉は終わる、というのでそのようにした、という話です。24章はダビデが人口調査という罪深いことをやったため、預言者ガドは三つの災厄のうち一つを選べ、とダビデに迫ります。ダビデは疫病を選びましたので、民が七万人死にます。ダビデは罪を悔いて、その徴(しるし)に立派な祭壇を作る、という話です。これら二つの構成をみると、①主に対する恥ずべき行為、②そのために起きる主の裁き、③その裁きを避けるための王の行為、の三段階構成が共通しているのです。24章ではダビデの人口調査指示が罪あることとされています。それが災い発生の原因です。21章ではサウルがギブオン人を殺したということが災いの原因とされていますが、ダビデの罪の指摘はありません。しかし、21章の話の背後には24章同様、ダビデの罪が隠されている、と解釈することは可能と思われます。そうすると、この二か所は話の構成上共通しているのみならず、内容的にも共通していることが底に流れている、ということができます。それは「ダビデの罪」です。

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混乱と秩序
第一コリント14章26~40節

1.導入

みなさま、おはようございます。6月に入って、急に暑くなってきました。このような中でもマスクを着け続けなければならない状況が続き、不便な日常が続きます。そんな中ですが、今日もみことばから励ましを受けていきたいと願っています。

さて、第一コリント書簡ですが、毎週お話ししていますように第一コリントの11章以降は、特に「礼拝」の問題を取り扱っています。礼拝の中で生じる様々な問題をパウロは一つ一つ取り扱ってきましたが、今日の箇所はこれまでのところの総括、まとめのような部分になっています。当時のコリントの教会の礼拝はどんな風に行われていたのか、というのは私たちにとって非常に興味深い問いです。紀元1世紀、キリスト教が誕生したすぐ後の時代の礼拝のスタイルは、私たちにもいろいろな示唆を与えてくれるからです。

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おとなとして
第一コリント14章1~25節

1.導入

みなさま、おはようございます。6月に入りました。6月は、ジューン・ブライドという言葉があるように梅雨さえなければ、花の咲き誇る、一年でももっとも過ごしやすい時期であるのかもしれません。とはいえ、今この東京は緊急事態宣言下にあり、気の抜けるような状況ではありません。この6月も主の守りの中を歩めるように、ともに祈ってまいりましょう。

さて、いつものように、このコリント第一の手紙のこれまでの内容について振り返ってみましょう。コリントの教会は、パウロが1年以上開拓伝道をして立ち上げた教会です。1年半というのは、一か所での滞在期間としてはパウロにとって非常に長いものでした。それだけ異文化や新しいものを受け入れる気風のあるコリントという都市の可能性を、パウロは高く評価していたのです。パウロはコリントを離れた後も忙しく地中海の諸都市を巡り、次々に新しい教会を立ちあげていました。しかし、パウロがいなくなってしまった後のコリントの教会には、実に様々な問題が勃発しました。1年半というのはパウロには相当長い期間でしたが、ユダヤ人のようにもともと旧約聖書に親しんでいたわけでもない異邦人中心のコリント教会にとって、1年半という期間はキリスト教のことを深く理解し、実践していくには短すぎたとも言えます。パウロが去ってからすぐに新しい指導者が与えられたわけではなく、アポロという別の指導者が来るまでの間、コリント教会はリーダー不在の状況になってしまいました。その空白期間、コリント教会では内部分裂というか、いくつかのグループが出来てしまい、それらが互いに対立している有様でした。ほかにも様々な問題が勃発し、コリントの教会はまさに問題のデパートという様相を示していました。

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