おとなとして
第一コリント14章1~25節

1.導入

みなさま、おはようございます。6月に入りました。6月は、ジューン・ブライドという言葉があるように梅雨さえなければ、花の咲き誇る、一年でももっとも過ごしやすい時期であるのかもしれません。とはいえ、今この東京は緊急事態宣言下にあり、気の抜けるような状況ではありません。この6月も主の守りの中を歩めるように、ともに祈ってまいりましょう。

さて、いつものように、このコリント第一の手紙のこれまでの内容について振り返ってみましょう。コリントの教会は、パウロが1年以上開拓伝道をして立ち上げた教会です。1年半というのは、一か所での滞在期間としてはパウロにとって非常に長いものでした。それだけ異文化や新しいものを受け入れる気風のあるコリントという都市の可能性を、パウロは高く評価していたのです。パウロはコリントを離れた後も忙しく地中海の諸都市を巡り、次々に新しい教会を立ちあげていました。しかし、パウロがいなくなってしまった後のコリントの教会には、実に様々な問題が勃発しました。1年半というのはパウロには相当長い期間でしたが、ユダヤ人のようにもともと旧約聖書に親しんでいたわけでもない異邦人中心のコリント教会にとって、1年半という期間はキリスト教のことを深く理解し、実践していくには短すぎたとも言えます。パウロが去ってからすぐに新しい指導者が与えられたわけではなく、アポロという別の指導者が来るまでの間、コリント教会はリーダー不在の状況になってしまいました。その空白期間、コリント教会では内部分裂というか、いくつかのグループが出来てしまい、それらが互いに対立している有様でした。ほかにも様々な問題が勃発し、コリントの教会はまさに問題のデパートという様相を示していました。

パウロはこの第一コリントの手紙で、そうした問題を一つ一つ取り扱います。パウロはコリントの教会からの報告や質問に対し、丁寧に回答していきます。特に11章以降は、「礼拝」にまつわる問題を扱っています。当時のコリントには今日のような大きな礼拝堂があったわけではなく、何名かの信者さんの個人のお宅で分かれて開く家庭集会、家の教会があったのですが、そこでの礼拝の中で様々な疑問や問題が生じました。まず礼拝中における女性の髪形、ヘアー・スタイルをどうするべきかという問題が生じました。また主の晩餐、つまり聖餐式についても深刻な問題が持ち上がりました。当時の聖餐式は、礼拝後にまず食事会をして、その後に聖餐式という流れだったのですが、食事会の際にお金持ちは腹いっぱい食べて酔っぱらってしまう人までいたのに、貧しい人たちは食べる物ものなく、お金持ちの信徒たちの食事が終わるまで廊下で待っているという有様でした。パウロは、このような貧しい信徒を辱めるような行為は許されないこと、そのような態度で臨む聖餐式は聖餐式ではないことを指摘しました。そして12章からは礼拝中の聖霊の働き、特に異言語りの賜物について語ります。13章では有名な愛の讃歌がありましたが、14章からはパウロは再び異言について語っているのです。このように、12章と14章は同じ異言というテーマについて語っていて、その間に13章の有名な「愛の賛歌」が挟まれる格好になっています。ですから、先週学んだパウロの愛の賛歌と、異言語りの問題とには密接な関係があるのです。今日の説教題は「おとなとして」ですが、このおとなとして行動する、判断する、ということと、愛を自分の行動原理として生きる、ということの間には深い関係があります。そのことを踏まえたうえで、本日の異言についてのパウロの勧告をよく読んでまいりたいと思います。

繰り返しますが、今日の説教題は、「おとなとして」となっています。パウロはコリントの信徒に対し、主にあって大人の判断をしなさい、という趣旨のことをこの手紙の中で繰り返し言います。子供のようであってはいけないと。そこで、この場合の大人と子供というのはどういう意味で対比されているのか?という疑問が浮かんできます。主イエスは「子どものようにならなければ神の王国を相続できない」とも言われましたので、子どものもつ特性の全部が悪いと言っているわけではもちろんありません。子供にも、大人が見習うべきもの、または大人が失ってしまった良いところがいくつもあります。しかし他方で、子どもにも欠点というか、克服すべき点があります。その一つは周りが見えずに何でも自分中心に考えてしまうという点です。子供は、自分がしていることが、他の人にどういう影響を与えるのか、ということの認識が成熟した大人に比べて弱い、ということは言えるでしょう。子供には、自分と全然違うタイプの人について、その人の身になって考えるとか、そういうことが難しいのです。それは経験が少なくて、他人の立場に立って考えることができないからです。そして愛のない行動というのも、実は子供っぽい行動だと言えます。愛とは、他人の必要を感じ取り、それに共感し、他人の必要のために行動したいという、そういうものです。他人のことを考えずに、ただただ自分の考えや善意を押し付けてもそれは愛の行動とはなりません。そんな行動は独りよがりの、子供っぽい行動だと見なされます。ですから、パウロが13章で語った「愛を追い求めなさい」という勧告と、ここでの「おとなになりなさい、おとなとして行動しなさい」という助言とは、実は同じものなのです。コリントの信仰者たちも、自分のことに夢中になるあまり、自分たちの振る舞いが他人にどういう影響を与えるのかを充分に考えませんでした。パウロは彼らのそういった面をたしなめているのです。この点を踏まえながら、今日の御言葉を読んでいきましょう。

2.本文

さて、先ほども言いましたが、前回の13章は「愛の讃歌」でした。聖霊が私たちに与えて下さるいろいろな賜物を私たちはどのように用いるべきか、ということについてパウロは「愛」という根本的な動機の重要性を強調しました。どんな素晴らしい聖霊の賜物も、それが愛によって生かされなければ台無しになってしまう恐れがある、ということを語ったのです。愛こそが、私たちに与えられる聖霊の賜物を活かす力なのです。そこで14章のまず冒頭では「愛を追い求めなさい」という言葉を13章の要約として語ります。そしてそれから具体的な内容に入っていきます。

パウロは聖霊の賜物の中でも、特に「預言」の賜物を求めなさいと語ります。パウロはここで、異言と対比する形で預言を強調しています。なぜならコリントの人々は、預言よりもむしろ異言の賜物を求めていたからです。しかしパウロは、異言よりも預言の賜物の重要性を訴えます。それはなぜか、ということがこれから語られていきます。皆さんは「異言」と言われても、何のことだか分からないかもしれません。私も実は異言語りをする教会の礼拝には参加したことはないのですが、しかし身近に知っているケースがあります。私の父は九州出身なのですが、父の両親が亡くなって空き家になった家を、ある教会が礼拝堂として購入してくれました。その教会は外国人宣教師が牧会している教会なのですが、それがペンテコステ派の教会、つまり神の霊である聖霊の働きを強調する教会で、礼拝中にも普通に異言語りがあるのです。礼拝中に祈祷の時間があるのですが、その時各人は各々自分の席で祈ります。その時に聖霊が働いて異言を語るように促された信徒の方は立ち上がって異言を語り始めます。しかし、その言葉は理解不明の言葉なので、その方が異言を語り終わった後、別の信徒の方が立ち上がって、その異言の意味を解釈するのです。慣れていない人には甚だ不思議な情景でしょうが、しかしこういう異言語りは今日の教会においてもなされている、ということを忘れないようにしたいものです。

さてパウロの手紙に戻りますと、パウロはまず、異言には「神に向かって」語られるという面があることを指摘します。異言は天使の言語とも呼ばれるように、神のおられる天上界、天国で語られる言葉であり、異言を語る人は神に対して、天国の言葉で賛美を捧げているのです。これは確かに素晴らしいことです。異言を語り人たちは、天国にいる天使たちと共に、天上の言葉で神に賛美を捧げるのです。しかし、そこには問題もあります。地上で生きる私たち、天上の言語を知らない私たちには、異言を語る人が何を言っているのか全く分からないのです。それに対し、預言は「人に向かって」語られます。神からの言葉を、地上に生きる私たちが理解できる言語で語るのが「預言」です。注意したいのは、「預言」というのは、ノストラダムスの大予言のような未来の予告のことではないことです。預言とは、神の言葉を預かるという意味です。神様は私たち人類に、罪を捨てて神に立ち返るようにと呼びかけていますし、その他さまざまなことがらを私たちの必要に応じて語られます。その神の言葉を語るのが預言者です。旧約時代には、イザヤとかエレミヤといった大預言者が神の民イスラエルに向かって神のメッセージを語りました。しかし、イエスが到来した後には、この預言の役割を担うことができる人は大きく拡大しました。なぜなら、ペンテコステの日の後には、聖霊はバプテスマのヨハネやイエスなどの特別な人物だけにではなく、あらゆる信徒に注がれるようになったからです。ですから、パウロの立てたコリント教会においては、パウロやアポロのような使徒、教師ばかりではなく、一般の信徒も預言をすることができるようになりました。その預言の言葉は、皆が分かる言葉、つまり当時一番よく用いられていたギリシャ語でした。私たちの今日の教会で預言が語られるとすれば、その言語は日本語になるでしょう。ですから、異言の場合と違って、その意味を明らかにする通訳は必要ないのです。異言の最大の問題は、それを解釈する人がいないと、異言語りする人は自分だけが忘我状態に陥り、ほかの人が目に入らなくなり、その結果自分だけが恵まれる、ということになりかねないことでした。それでパウロは、

異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

と語るのです。異言を語る人は神を賛美しているのですから、それによって自分の徳を高めますが、それが適切に翻訳されない限りは、他人の徳を高めることは出来ません。なにしろ、他の人たちには何を言っているのか分からないのですから。それに対し預言は、他人を造り上げ、ひいては教会を造り上げるのです。愛を追い求める者、他人の必要のために行動する者は、ですから異言よりも預言の賜物を追い求めるべきなのです。ただし、パウロは異言を否定しているわけではありません。5節では「もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら」という条件をつけています。異言の問題点は、それを語っている本人以外には意味が分からないことです。しかし、語っている内容そのものは素晴らしい神への賛美ですから、その意味を分かるように解釈すれば、他の人たちへの益となるのです。ですから、異言を語る場合、その人は可能であればその解釈まで含めて異言を語るようにしなさい、それが出来ない場合は適切な解釈者を求めなさい、とパウロは勧めています。

先ほども私の父の実家の例でお話ししたように、ペンテコステ派と呼ばれる教会では、ある人が異言を語り、また別の人がその解き明かしをする、というようなことがありますが、パウロはここでは異言を語ったまさにその人が解き明かしまですることが望ましい、と語っていることに注意したいと思います。

さて、パウロは異言がどのようなものかについて更に説明を加えます。7節では、まず楽器を例に引きます。ここでは笛や竪琴に言及されていますが、もっと身近なものとしてピアノを考えてみましょう。ピアノをまったく習ったことのない子どもが、めちゃくちゃに鍵盤をたたいても、そこにはハーモニーもメロディーも何もありませんので、聞いている人にはただの雑音にしか聞こえません。異言もその意味が分からない人にはそうした雑音に聞こえる、とパウロは語ります。

また、当時は戦の時にはラッパを吹いて兵隊を招集しましたが、ラッパも訓練をしないとちゃんとした音が出ません。気の抜けたようなラッパの音を聞いても、兵隊は奮い立つどころか戦意を失ってしまうでしょう。パウロは、周りの人たちにとって異言がそのような気の抜けたラッパの音のようなものだと語ります。異言を語る人は神に向かって語っているのですが、はたから見ると空に向かって話しているようにしか見えないのです。

また、パウロは第三のアナロジーとして、異言を意味の分からない外国語に譬えます。これは分かりやすいですね。たとえば私たちが講壇に、ブラジルからポルトガル語を話す世界的な伝道者をお招きしたと仮定しましょう。そのメッセージは霊的に深く力強く、聴衆の魂を熱く揺さぶります、もし聴衆がポルトガル語を理解できれば、の話ですが。しかし、ポルトガル語が全然分からない聴衆には、いくらその内容が霊的に素晴らしいものであっても、まったく益はなく、すこしも感動を与えません。メッセンジャーは自分の語る素晴らしい言葉に悦に入るかもしれませんが、聞いている人はぽかんと口をあけているしかないのです。異言もまさにこのようなものなのです。ですからパウロは「異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい」と勧めているのです。パウロは15節で

ではどうすればよいのでしょう。私は霊において祈り、また知性においても祈りましょう。霊において賛美し、また知性においても賛美しましょう。

と語ります。「知性」と訳されたギリシャ語はノウスという言葉で、単に「心」と訳すことも出来ます。しかしパウロはここで霊と知性、あるいは霊と心とを対比したのではありません。ここでの「霊」とは異言の事です。異言は霊である神に向かって語られる霊的な言葉ですが、しかし地上の他の人には分かりません。それに対し、知性や心で賛美するとは、その霊的な言葉である異言を、普通の人が理性を持って理解できるような地上の言語に翻訳することです。ですから「霊で祈り、知性においても賛美する」とは、「異言を語り、それをみんなが分かるような普通の言葉でも語りましょう」というような意味なのです。異言がそのようは言葉に訳されて初めて、教会に来始めて、日の浅い人も心から「アーメン」と言うことができるのです。ですからパウロは1万語の異言を語るより、その中の5つでもいいから普通の言葉に翻訳して話しなさい、それが教会を建て上げることになるのだ、と語ります。

私たちは物の判断については大人でなければなりません。それは、私たちのすることが他の人にどういう影響を与えるのか、よく考えなければならないという意味です。確かに、礼拝において教会員のみんなが異言を語り、天使の言葉で神を賛美できれば、それはその人本人にとっては、本当に素晴らしい経験でしょう。しかし、わたしたちがみなばらばらに異言を語り、恍惚状態になっているところを、教会に初めて来た人が見たならば、なんと思うでしょうか。私たちを怪しげなカルト集会か、あるいはなにか危ないクスリを使っている集団と間違えないでしょうか。そんな印象を持たれてしまえば、その人を主のもとに導くことはほぼ絶望的でしょう。あるいは、そういう危険なことや不思議なことを求めているような人ばかりを引き寄せてしまうかもしれません。ですから、いくら異言がその人本人の霊性にとって素晴らしいものであっても、大人としての判断をするならば、そのことにあまり力を注ぐわけにはいかないのです。

このように、異言語りは、それがもし正しく解釈されないのなら、未信者や求道者を主に導くことは出来ません。むしろ彼らは、教会とは何と訳の分からないところだろう、と驚いて教会を立ち去るでしょう。しかし、誰にでも意味の分かる預言の言葉は違います。預言の言葉、つまり神から託された言葉は、その言葉を聞く人の心を貫き通し、その人が自らの内に抱えている罪の問題を認識させ、神の前にその罪を告白させる力を持つのです。ですから、私たちは主にある大人として、預言の賜物を熱心に求める必要があるのです。

さて、最後に一言加えたいのですが、私たちの今日の教会では、異言や預言を語る教会と、それらを全く語らない教会とがあります。しかし、注意したいのはお互いに裁き合わないようにすべきだということです。預言や異言が今日でも語られうることを否定する教会があります。異言や預言は初代教会のみの時代に起こった特殊な現象なのだ、という人がいますが、そのように言う聖書的根拠はないように思われます。今日でも預言や異言はあり得ると私は考えています。しかし、だからと言って預言や異言の賜物がない教会がある教会よりも劣っているということは決してありません。パウロが宣べているように、聖霊がどの教会に異言の賜物を与え、また与えないかというのは、信徒たちの側の問題ではなく、聖霊の自由な判断によるからです。ですから、たとえ預言の賜物が与えられていなくても、そのことを卑下する必要はないですし、むしろ自分たちに与えられた他の賜物を喜ぶべきなのです。

3.結論

今日は、パウロがなぜ異言ではなく預言の賜物を求めるように勧めているのかを考えて参りました。異言を求める人は、自分が霊的に恵まれることばかりを追い求める人に譬えられるかもしれません。そういう人は、自分の霊的成長のためにはあらゆる努力を惜しみませんが、他の人が霊的に成長することにはあまり関心を示しません。それに対し、預言の賜物を求める人は、自分ばかりではなく他人のことに配慮します。他人とは同じクリスチャン仲間だけではなく、教会の外にいる人たちをも含みます。預言の言葉は教会を立て上げるだけでなく、教会の人にいる人たちにも自らの抱え込んでいる霊的な問題への自覚を促し、彼らを主の教会へと導く力を持つからです。ですから私たちも預言の賜物を熱心に求めましょう。旧約の時代には、預言の賜物は大預言者と呼ばれるイザヤやエレミヤなど、ごく一部の人たちにのみ与えられました。しかし、主イエス・キリストは今やすべての信仰者に豊かに聖霊を注いでくださいます。私たちが聖霊を与えられているように、預言の賜物も与えられるのです。ですから愛を追い求める者としては、異言よりも預言の方が勝っているのです。私たちも、与えられた賜物を愛のため、他人のために用いることができるように、祈りましょう。

聖霊なる神様。そのお名前を賛美します。今日は預言や異言について、これらを大人として、愛に基づいて用いるべきことを学びました。私たちの教会にもいろいろな賜物が与えられていますが、それらを愛のために用いることができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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