混乱と秩序
第一コリント14章26~40節

1.導入

みなさま、おはようございます。6月に入って、急に暑くなってきました。このような中でもマスクを着け続けなければならない状況が続き、不便な日常が続きます。そんな中ですが、今日もみことばから励ましを受けていきたいと願っています。

さて、第一コリント書簡ですが、毎週お話ししていますように第一コリントの11章以降は、特に「礼拝」の問題を取り扱っています。礼拝の中で生じる様々な問題をパウロは一つ一つ取り扱ってきましたが、今日の箇所はこれまでのところの総括、まとめのような部分になっています。当時のコリントの教会の礼拝はどんな風に行われていたのか、というのは私たちにとって非常に興味深い問いです。紀元1世紀、キリスト教が誕生したすぐ後の時代の礼拝のスタイルは、私たちにもいろいろな示唆を与えてくれるからです。

先週も申しましたが、コリントの教会はパウロが開拓伝道で立ち上げた教会ですので、まだ生まれてから数年ほどの教会でした。ですから礼拝堂を持っていませんでした。私たちの教会も創立して間もないころ、今のこの建物を購入する前は創業者の村山家の一室を借りて礼拝をおこなっていました。コリントの教会もそのように個人の家で礼拝をおこなっていたのです。もっとも、教会員が急速に増えたので一つの家ではなく、複数の家に分かれて礼拝をおこなっていました。今日の私たちの例でいえば、家庭集会か、あるいは「家の教会」と呼ばれるものもありますが、そういった形態を思い浮かべた方がよいでしょう。「家の教会」というのは聞いたことがないかもしれませんが、積極的に伝道を行っている教会ではこの「家の教会」を大変重視しているということを聞きます。つまり、皆が大きな礼拝堂に一堂に会する礼拝だけでなく、個々人の家を開放して割と少人数で聖書を学んだり、いろいろな問題を話し合ったりする、そういう小さな集会を大事にするということです。大きな教会になると、家族的な親密さが失われがちですが、そうならないように、親密なスペースを作るということです。

その家の教会では、食事を共にするのがとても大事なことだと言われています。食事をすると、雰囲気が和んで、いろいろなことを自由に話しやすくなる、ということがあるのかもしれません。パウロの時代のコリントの教会も、家で集まって礼拝をした後、食事を取っていました。そして礼拝とその後の食事に続いて、主の晩餐、つまり聖餐式を行っていました。これだけ聞いても、当時のコリントの教会の礼拝スタイルは私たちのそれとは、だいぶん違っていたのが分かると思います。私たちの教会では、聖餐式は礼拝の後ではなく、礼拝の一部として行われています。また、礼拝スタイルという意味で私たちとコリント教会との大きな違いは、礼拝の中で異言や預言を語ることがあるかどうか、という点です。コリント教会の礼拝スタイルは、今日のカリスマ派とかペンテコステ派と呼ばれる教会の礼拝に近いものでした。どういうことかと言えば、先週もお話ししたように、礼拝中に自由に異言や預言を語る時間を持つのです。特に大事なのは、異言や預言を語るのは、牧師とか宣教師とかそういう特別な立場の人ではなく、普通の一般使徒だったということです。異言と預言の違いは先週お話しした通りです。預言の場合は私たちに分かる言語で、私たちの場合は日本語ですが、日本語で教会の内外の人々に神からのメッセージを語ることですが、異言というのは私たちには意味不明の言語、それは天国で語られる天使の言葉だと言われますが、その天使の言葉で天上におられる神を賛美する、それが異言です。当時のコリント教会では神の霊、聖霊の働きが非常に活発でした。聖霊は使徒と呼ばれる、イエスから直接遣わされた特別な人たちだけでなく、教会に集う会衆全員に何らかの御霊の賜物を与えていたようなのです。御霊の賜物といってもいろいろあります。病をいやす力を与えられていた兄弟姉妹もいました。しかし、礼拝に一番関係のある賜物は、何と言っても異言を語る賜物と預言を語る賜物でした。コリントの教会では、すべての信徒が礼拝中に自由に異言や預言を語りました。ここで今「自由に」と言いましたが、自由ならすべて良いかと言えば、そうとも言えません。私たちの教会や、今日の多くの教会では、長年守られてきた礼拝のスタイルというものがあります。司会者が式次第に則って、一つ一つの決められた内容に従って礼拝が進んでいきます。ですからこれは安定した感じがあります。しかし、その礼拝式の途中で、式次第に書かれていないのに、突然誰かが立ち上がって意味の分からない言葉で神を賛美し始めたらどうでしょうか。司会者はびっくりしてしまいますね。礼拝の秩序が損なわれて、何か非常に混乱した礼拝になってしまった、そういう風に感じる方もおられるかもしれません。今日の説教題は「混乱と秩序」ですが、今日の話のポイントは、このような自由な聖霊の働きによる異言や預言を礼拝の中で取り入れながら、それがどうすれば混乱をもたらさず、むしろ秩序ある礼拝の一部となることができるのか、そういう問題をパウロが取り扱っているのです。

今申しましたように、秩序正しい礼拝というと、式次第が完璧に出来上がっていて、その定められた手順通りに行われる礼拝というものをイメージしてしまうかもしれません。しかし、パウロの時代の礼拝のスタイルはそれとはかなり違ったものでした。むしろ、相当に自由度の高い、音楽で譬えればアドリブにあふれたような礼拝スタイルでした。しかし、そのような自由の中にも秩序が求められていました。自由と秩序の二つのバランスをどのように取るのか、ということを追求することがパウロの考えていたことなのです。そうしたことを念頭に置きながら、今日の御言葉を読んで参りましょう。

2.本文

では、今日の箇所を見ていきましょう。まずパウロはこう語ります。

あなたがたは集まるときには、それぞれの人が賛美したり、教えたり、黙示を話したり、異言を話したり、解き明かしたりします。

と言っています。これを聞くと、コリントの教会の礼拝がどのようであったのかが、少し見えてくるようです。まず礼拝で「賛美したり」とありますが、新共同訳などではここは「詩編の歌を歌い」となっています。当時の讃美歌は、詩篇に歌をつけるというのが一般的だったのです。これはユダヤ教から引き継いだものです。私たちも交読文では詩篇を読みかわしますが、讃美については讃美歌を用います。しかし、当時の教会には私たちのような讃美歌集はなかったのです。それから教えがあります。これが説教に当たるものだと思われます。説教といっても、いくつかの家の教会に分かれて礼拝を守っていたコリント教会でしたから、どの教会にもパウロやアポロのようなプロフェッショナルの使徒や説教者がいたわけではありません。ですから、信徒の中でもリーダー格の人、私たちの教会でいえば役員さんが説教を行っていたと思われます。

しかし、私たちの教会の礼拝と異なるのは次のところです。「黙示を話したり」とありますが、黙示とはアポカルプスィスで、啓示などとも訳されますが、神がこれまで隠されてきたことを私たちに明かしてくださる、というような意味です。ヨハネの黙示録では預言者ヨハネがイエス・キリストから啓示を受けるのですが、そのような啓示が通常の礼拝でも起こっていた、という驚くべきことが書かれているのです。ただ、黙示とか啓示とかいうと難しい感じですが、分かりやすく言えば「預言を語る」ということです。そして異言が来ます。異言の原語はグローサで、直訳すれば「舌」という意味ですが、これは「言葉」と訳すことも可能です。そして、前回の説教で学んだように、パウロは礼拝中に語られる異言には必ず解釈が伴わなければならないと指示しています。異言とは人間の言語ではないので、話している人以外には意味が分かりません。ですから異言は人間の言語に翻訳される必要があります。異言とその解釈、解き明かしとはセットなのです。それらすべての礼拝での行為は、すべて教会を造り上げる、徳を高めるためのものだ、ということをパウロは強調します。

興味深いのは、預言を語ったり、異言を語るのは、教会の教師の専管事項ではなかった、ということです。「教える」という役目は決められた人、教師や役員の務めだったと思われますが、そのあとの預言や異言はそれを神から与えられた人が自由に語るのです。ですから、コリントの教会は文字通りの全員参加型の礼拝でした。しかし、それは同時に礼拝の秩序を保つのが難しいということでもあります。なぜなら、司会者が礼拝の流れをコントロールできるわけでなく、教会員が自発的に、また予期せぬことを語り始めるかもしれないからです。

そこでパウロは、礼拝中の秩序を保つために、次のような指示を与えます。

もし異言を話すならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。

どういうことかと言えば、異言を語りたい人がたくさんいたとしても、皆が一斉に語り出せば収拾がつかなくなります。そこで、異言を語るのは二人か多くても三人に限定し、しかも異言を語る場合には自分でその意味を解説する、もしくは他に解釈者がいなければならない、という基準を定めたのです。先週、異言を語る人は自ら解釈も語るべきだとパウロが教えたところを見ましたが、自分以外にも、異言を解釈できる賜物を与えられた人がいたのです。しかし、自分でも異言を普通の言葉に解釈できず、また他に適当な解釈者がいない場合は、その場合は黙っているようにとパウロは指示します。28節にはこうあります。

もし解き明かす人がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。

異言とは「天使の言葉」とも呼ばれるように、天上の言葉で神を賛美することです。しかし、そのような素晴らしい言葉であっても、語っている人以外には分からないような言葉であれば、礼拝の場では相応しくないのです。ですから、解釈できない異言は、公共の場である礼拝ではなく、家に帰った後で自分だけで神に対して語りなさい、というアドバイスをパウロは与えているのです。

次いでパウロは預言について語ります。預言とは、先ほどの「黙示」と同じような意味だと考えてよいでしょう。先週も学んだように、異言は神に向かって語られますが、預言の場合は神からの言葉が人に向かって語られるのです。ですからパウロも、礼拝においては異言よりも預言の賜物を求めなさいと語っているのです。しかしその預言すらも、たくさんの人が礼拝中に語り出せば礼拝は無秩序化してしまいます。ですからパウロは、預言の場合でも語る者は二人か多くて三人にしなさい、と命じています。そんなことをいっても、神から啓示を与えられれば黙っているわけにはいかないではないか、と思う人もいるでしょう。昨年学んだように、預言者エレミヤも、エレミヤ書20章9節で次のように語っています。

私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません。」

とまで告白しています。預言者エレミヤは、神からの言葉を預かっているので、それを自分の中に留めておくことはできないのだ、と。ですから、礼拝の中で神の霊によって預言の言葉を与えられた人たちも、それを語らずにはおられなかったでしょう。しかしパウロは、礼拝の秩序の方を重んじ、たとえ多くの人に預言が与えられたとしても、語る者は二人か多くても三人にしなさいと語ります。その根拠として、パウロは、預言者の霊は預言者に服従する、預言の霊に圧倒されて語らないではおられない、ということにはならないと言っています。預言の霊は、預言者に従うのです。ですから預言者が黙っておこうと決めたなら、たとえ預言が与えられても黙っていることは可能なはずだ、とパウロは言うのです。

さて、少し戻って29節には「ほかの者は預言を吟味しなさい」とあります。異言の場合は、他の人がそれを解き明かすのですが、皆が分かる言語で話す預言の場合は解き明かしは必要ないものの、それを吟味する必要はあるのです。つまりは、預言が本当に神からのものか、それとも人の思いなのかをチェックしなさい、ということです。パウロはテサロニケの第一の手紙でも同じようなことを語っています。5章19節からお読みします。

御霊を消してはなりません。預言をないがしろにしてはいけません。しかし、すべてのことを見分けて、ほんとうに良いものを堅く守りなさい。

パウロは預言を大事にしなさいと言いながら、すべてのものを見分けるようにとも言っています。預言の霊だからといって全て良い霊だとは限りません。ですから、霊が本当に神からのものなのか、信徒同士で相互チェックしなさい、とパウロは指示しています。ヨハネ第一の手紙でも同じことが言われています。4章1節にはこうあります。

愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。それらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。

では、どうやって確かめるのかといえば、神から来た霊は、神の子であるイエス・キリストが人となって来られたと公に言い表すかどうか、これが判断基準となる、と語っています。当時はイエスは本当は人ではなく、人に見えただけで本当は霊なる神だったのだ、というようなことが言われていたので、そのようにイエスについて間違った理解をもたらすような霊は神からのものではない、と言われたのです。もちろんこれだけが判断基準だ、ということではありません。これはその当時の問題を反映した一つの基準にすぎないのですが、これも一つの非常に大事な基準ではあります。

さて、31節ではパウロはこう語ります。

あなたがたは、みながかわるがわる預言できるのであって、すべての人が学ぶことができ、すべての人が勧めを受けることができるのです。

と言っています。つまり、何人かの預言の賜物を持った人だけが預言をするのではなく、会衆全体が預言できるし、またそうしなさい、と言っているのです。すべての信徒が聖霊を受けている以上、すべての人が預言できるはずなのです。さてここで、その「すべての人」に女性が含まれるのか、という疑問が生じます。なぜなら34節と35節にはこう書かれているからです。

教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されてはいません。律法も言うように、服従しなさい。もし何かを学びたければ、家で自分の夫に尋ねなさい。教会で語ることは、妻にとってはふさわしくないことです。

こんな風に言われてしまうと、預言の霊を与えられた女性は礼拝中は黙っていなければならないことになります。しかし、パウロは11章5節で「女が、祈りや預言をするとき」と書いているように、女性も礼拝中に預言をするのは当然だと考えていたようです。これはどうなのでしょうか?パウロは矛盾したことを言っているのでしょうか?この点については、本文批評という学問が役に立ちます。私たちの持っている聖書の最初に書かれた状態、つまりパウロの手紙の原本は見つかっていません。私たちはそれを書き写したコピーだけを持っています。しかし印刷機の無かった時代、手書きで写した場合、いくつかの違うバージョンのコピー、写本が生まれます。そのどれが原本に近いのかを研究するのが本文批評なのですが、この研究によれば34節と35節はオリジナルの原稿にはなかった可能性があります。つまり、パウロの原稿を写した写字生と呼ばれる人が、パウロの原稿に書き加えて、それが私たちに伝わっているということです。確かに、33節から36節へと続けて読んだ方が意味がよく通じるのです。ですから、女性の方は礼拝中に黙っていなさい、とパウロが教えたとは言えないと私は思います。

さて、これまで数週間かけて礼拝中の異言や預言についてのパウロの教えを学んできました。私たちの教会のように異言や預言を礼拝中に語ることのない教会にとって、パウロの教えは関係のないものなのでしょうか?そうとは言えません。特に今日の箇所はそうだといえます。パウロは礼拝というのは、式次第で決まった通りにやるべきだとは言っていません。むしろ礼拝中に、神の御霊に動かされた人ならば誰でも自由に発言してよいのだ、と語っています。もちろんその場合にも秩序を保つことは重要ですが、それでもかなり自由な礼拝のスタイルを考えていたと言えます。私たちの教会でも、示された人が自由に祈りの言葉を語ることができるような、そんなフリータイムのような時をもってもいいのではないか、そんなことを私も思わされました。

3.結論

さて、今日のまとめとして、この部分の締めくくりとしてパウロが39節以降で語ったことに注目したいと思います。

それゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。ただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。

これがまさにパウロの言いたい事です。パウロは御霊の働きの実である預言や異言が礼拝中になされることを大変良いことだと考えていました。同時に、皆が一斉に預言をして、礼拝の秩序が失われることは良くないと考えました。これは、新しく教会に来られた方のことを考えればなおさらそうだと言えます。皆がばらばらに、あるいは滅茶苦茶に語っている礼拝を見た人は、「この宗教はなんだ、一体彼らはどんな神を信じているのか?」と不審に思うでしょう。しかし、神は無秩序の神ではなく、平和の神です。このような神を世間の人たちに証しするのが礼拝です。礼拝は自分たちのものだけでなく、世の中の人から注目される公共的なものだということを忘れてはいけません。私たちも、常に礼拝をより良いものにしたいと願う者ですが、今日のパウロの教えからも色々と学ぶべきことがあります。神様に献げる、そして世への証しとなるような礼拝を行っていくことができるように、神に祈りましょう。

聖霊なる神様、そのお名前を賛美します。これまで数週間かけて、御霊の礼拝における働きを学んでまいりました。私たちも常に御霊に導かれる礼拝を望むものです。どうか私たちの礼拝を祝し、新しい試みにも開かれた心を持てるようにしてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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