福音
第一コリント15章1~11節

1.導入

みなさま、おはようございます。6月も最後の主日礼拝になりました。今日から第一コリントも、いよいよ最後のテーマに入っていきます。これまでパウロは、コリントの人々からの質問に答える形で、四つのテーマを取り扱いました。7章からは結婚について、8章からは偶像に献げられた肉について、そして11章以降は礼拝に関しての様々な問題について、丁寧に指示を与えました。そして15章からは復活、からだのよみがえりの問題を扱っています。パウロはこの復活の問題を、手紙の最後で取り扱っているのです。なぜ一番最後にしたのか?といえば、それがあまり大事ではない、最後に付け足しのようにして論じればよい問題だったからではありません。反対です。これが最も大切な事柄なので、この手紙の最後の部分にとって置いたのです。なぜそんなに大切なのか?それはこの問題が「福音」にかかわる問題だからです。

今日の説教タイトルは「福音」です。「福音」という言葉は、私たちクリスチャンにとっては、とても重要な言葉です。福音とはグッド・ニュース、よい知らせのことです。私たちは福音、よい知らせを聞いて、それを信じてクリスチャンになったのです。また、他の人たちにもこのよい知らせを伝えたいと願っています。では、何が良い知らせなのか?その中身は何か、と聞かれる場合、しばしば今日の聖書箇所が引用されます。パウロは2節でこう語っています。

また、あなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。

この言葉を読むと、ここでパウロがその後に書いていること、すなわちキリストが私たちの罪のために死んだこと、そして復活したこと、この二つを聞いて信じれば、それで救われると言っているように響きます。つまり救われるための条件とは、この二つの事柄を信じ、告白すればそれでよい、と言っているように響きます。しかし、このように理解してしまうと、パウロがこのコリントの手紙で延々と述べてきたことを誤解することになります。というのは、コリントの人たちの一番大きな過ちとは、彼らは自分たちは知識で救われると思い込んでいたのです。キリストに関する知識、その知識を知って受け入れさえすれば、どんな生き方をしても救われる、というような安易な考え方をしていたので、彼らの教会生活はクリスチャンとは名ばかりの、この世の人々と何ら変わりのないものとなっていたのです。しかし、知識では人は救われないのです。知ったことが、実際の自分の生活で生かされる、つまり言われたことをしっかりと実践すること、それが本当に信じるということなのです。夫が妻に、あるいは妻が夫に「あなたを信じます」と口先で言っても、妻あるいは夫のために協力しない、一緒になって人生の困難を乗り越えていかないとしたら、それは信じたことになるでしょうか。相手を信じるとは、その人に人生を賭けてついていくことです。口先だけの信仰は、その人には救いをもたらさないのです。そのことを忘れないようにして、今日のみことばを読んでいきたいと思います。

さて、ここでパウロはイエス・キリストについての福音を宣べ伝えていますが、「福音」を最初に語ったのはパウロではなくイエスです。そのイエスの語った福音を、まず振り返ってみましょう。主イエスは、宣教を始める時の第一声としてこう言われました。

時が満ち、神の王国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。

神の王国とは、神の支配と言い換えることができます。イエス様が伝えた福音とは、この地上世界に神のまことの支配が到来するというメッセージでした。イエスがもたらそうとした神の支配とは、力や暴力によって相手を強制的に押さえつける、そういう支配ではなく、隣人を愛し、敵すらも愛する、そのような平和的な道によってもたらされる支配です。主イエスは、自らが人に仕える生き方、死に至るまでも平和を求め、人を愛する生き方を示すことによって、私たちにこの世界に真の神の平和な支配が確立されるための道を示されたのです。それが主イエスの神の王国の福音でした。

ですから、神の子である主イエスがこの地上を歩まれて、私たちに平和への道を示してくださったこと、その事実そのものが福音だと言えます。パウロも今日の箇所で、福音とはイエスのご生涯そのものであると語っています。そして福音を次のようにまとめています。それは、

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。

ここでは、主イエスの公生涯全体というより、特にその生涯の終わりに起こった出来事、とりわけその十字架での死と、三日後の復活に焦点が当てられています。しかし、ここがよく誤解されるのですが、パウロはイエスの死と復活だけに関心があったのではありません。イエスがその公生涯において、神の王国を宣べ伝えたこと、病に苦しむ人々を癒したこと、人々を悪霊の支配から解放したこと、人として生きる道を様々な譬えを用いながら教えられたこと、そのすべてがパウロにとって重要だったのです。しかし、その中でもとりわけイエスの死と復活を強調し、それを福音として伝えたのは、その出来事がイエスの生涯の意味を最もよく伝えるものだったからです。イエスの十字架での死は、彼の公生涯の延長線上にあります。十字架をイエスの公生涯から切り離して理解してはいけません。イエスは、仕えさせるのではなく自ら仕えることで、神の支配とはいったい何であるのかを示されました。神の支配とは、「支配」という言葉が連想させるような力づくでの統治ということではありません。むしろ互いに仕えあう、愛し合うことによって実現する神の王国です。与えられるよりも与えることに喜びを見出す、そのような人たちにとって建て上げられる王国です。イエスは人々に仕える人生の極致として、自らの命さえ人々のために与えたのです。それが十字架です。それは、平和のためだといって暴力を用いる、そういうあり方を拒否した、イエスご自身のメッセージが具現化したものなのです。

しかし、そうはいっても、イエスが死なれたことは、彼に従った弟子たちにとっては衝撃でした。それはそうでしょう。彼らはイエスが長く活動を続けて、この地上世界に神の平和な支配を打ち立ててくれると信じていたのです。それが、3年にも満たないような短い期間でイエスの活動が終わってしまったなら、神の王国が来るという約束はどうなってしまうのか、と思ったことでしょう。イエスの公生涯が3年足らずというのは、考えてみれば異常な短さです。仏教の教祖ブッダの正確な没年は分かりませんが、少なくとも80歳までは生きたとされます。ブッダが悟りを開いたのが35歳だとすると、少なくとも45年間は弟子に教え続けたのです。イスラム教の教祖マホメットの場合も、40歳から布教をはじめ、60歳過ぎに死んでいますので、やはり20年ぐらいは伝道していたことになります。それに較べると、イエスの公生涯の短さは際立ちます。そして弟子たちはイエスに頼りっきりでしたから、その大切な指導者を失って、自分たちはこれからどうすればよいのか、途方に暮れたことでしょう。そして、確かにイエスが死なれたままだったなら、イエスが死んだという事実はグッド・ニュースどころかバッド・ニュースだったでしょう。とても福音などと呼べなかったはずです。しかし、イエスはよみがえられた。それですべてが変わったのです。死んだらそれで終わり、ではなかったのです。この復活があったからこそ、イエスの死に大きな意味があったことが分かったのです。この復活の福音について、これから学んでまいりたいと思います。

2.本文

さて、15章の冒頭で、これから「福音」について再確認しよう、とコリントの兄弟姉妹に呼びかけています。この福音に堅く立っていれば救われることができるという、それほど重要な「福音」です。コリントの人たちはそれをパウロから伝えられたのですが、パウロもまたそれを使徒たちから伝えられました。パウロがイエスとの邂逅後に初めてエルサレムに上った時に、15日間ペテロのところに滞在した、とガラテヤ書に書かれていますが、おそらくその時にペテロから伝えられた内容でしょう。もちろん、パウロもその内容は他のクリスチャン仲間からいろいろな場面で聞いていたでしょうが、12使徒のリーダーであるペテロから直接聞いたことには大きな重みがあったということです。15日間もいたのですから、パウロはペテロからイエスに関することをたくさん聞いたことでしょうが、とりわけ重要だったのが、先にお読みした3節の内容です。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと。

これが最も大切な「福音」です。主イエスの御生涯の中でも二つの特別な瞬間、つまり死と復活に焦点があてられています。「キリストは、私たちの罪のために死なれた」と非常に簡潔に書かれています。「聖書の示すとおりに」というのは旧約聖書のことですが、それは具体的にはどこの箇所を指すのか、ということが盛んに論じられてきました。パウロはそのことをはっきりとは書きませんが、おそらくイザヤ書53章でしょう。使徒ペテロも、第一ペテロ2章の24節で、イザヤ書53章を引用しながら「そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。」と語っています。イザヤ書53章は、旧約聖書で最も有名な箇所の一つですが、そこを4節から改めて読んでみたいと思います。

まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

私たちの世界に多くの問題があるのは、人間の罪のゆえです。私たちは利己的な生き方をして、互いに苦しめ合う、それが世界の現実です。イエスは、その罪がもたらす結果をすべてその身に負われました。イエスはその苦しみを通じて私たちの傷をいやされたのです。

しかし、ここでパウロが特に強調したかったのは後半のほう、つまり「復活」の方でした。なぜならコリントの信徒たちの中には、死者の復活などない、と言い出す人たちがいたからです。コリントの人たちにとって、救いとは死んだ後に魂が天国に行くことで十分でした。その素晴らしい天国を味わった後に、からだをもってこの地上世界によみがえるなどというのはナンセンスそのものでした。死人がよみがえる、と聞くと、私たちはゾンビなどの映画を思い浮かべますが、それは何とも気味が悪いものです。コリントの人たちも、天国にいる魂が、またこのわずらわしいからだを持たなくてはいけないなどとは考えたくもなかったのでしょう。

しかし、死者がよみがえることを否定することは、イエス・キリストが死者の中から復活したことをも否定することになります。イエス様も完全に死なれたのですし、死者がよみがえらないなら、イエス様の魂が天国で永遠に生き続けることがあっても、その体が再びよみがえるなどということはありえないことになります。しかし、イエスが復活したことを否定することは、まさに「福音」そのものの否定です。そして福音を否定することは、私たちの救いも否定することなのです。そういう深刻な問題を、コリントの兄弟たちよ、あなたがたは真剣に考えているのか、とパウロは問うわけです。

パウロはイエスの復活を証明するために、二つの証人を挙げます。一つは「聖書」、そしてもう一つは「復活の目撃証言者たち」です。イエスの復活を預言している箇所はどこか、というのは難しい問いですが、しかし使徒ペテロがペンテコステの日に、主イエスの復活を指して引用した聖書箇所が最も可能性が高いでしょう。使徒ペテロは使徒の働き2章27節で詩篇16篇10節から引用しています。その箇所をお読みします。

まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかれず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

神は、義なる者、聖なる者をよみに捨て置かない、と約束していますが、ここで預言された人物がイエスなのだとペテロは証言しているのです。

イエスの復活は、このように聖書に預言されていますが、その復活を実際に目撃した人たちがいました。ここではケファ、つまりペテロと12弟子が真っ先に挙げられています。福音書では女性の弟子たちこそ最初の復活を目撃した人であると記録していますが、当時は女性の社会的地位や身分が低く、女性は証人としては認められていませんでした。こういう男女差別は現在では認められませんし、パウロもそういう差別は良しとはしないでしょうが、ここではパウロは当時の社会的慣習に従って男性の証人たちを挙げたのでしょう。パウロはさらに、復活したイエスは500人もの兄弟の前に現われた、と語ります。その中には存命の人がたくさん含まれていましたので、もしイエスの復活を疑うのなら、これらの証人に直接確かめたらよい、とパウロは示唆しているのです。

それから主は、実の兄弟であるヤコブにも現われた、とパウロは語ります。これはイエスのすぐ下の弟のヤコブで、イエスが復活する前にはイエスを信じませんでしたが、復活の主に出会った後は、主を信じるようになり、ついにはエルサレム教会の指導者になりました。彼がこのように大きく変わったのも、復活の主に出会うという衝撃のゆえでしょう。そしてその後にすべての使徒たちに現われた、とパウロは言います。パウロにとっての使徒とは、イエスの公生涯に同行し、イエスの活動のすべてを目撃した人、ということではなく、イエスから派遣された者、というより広い意味で使われています。ですから生前のイエスを知らないパウロも使徒に数えられるのです。このように、様々な人たちに現われた後に、主はパウロの前にも現われました。イエスが復活後40日を地上で過ごし、その後に天に上げられたのですが、この天に上られた後に主はパウロに現れ、彼を異邦人の使徒として遣わしたのです。このように、生前のイエスを知らなかったことや、かつて教会を迫害した過去があることから、パウロは自分を「最も小さい者」と呼びます。けれども、いやだからこそ、パウロは人一倍一生懸命働きました。パウロは神の恵みを無駄にはしなかったのです。

そしてそのパウロが伝える福音を聞いて、コリントの人たちはそれを信じたのです。この福音、復活者キリストの福音から離れてはいけない、とパウロは語るのです。なぜ復活、からだのよみがえりがそれほど大切なのかといえば、クリスチャンの究極の希望は、死んだ後に霊が天国に行くことではないからです。もちろん、それも大きな希望ですが、もっと大切な希望とは、神様がこの世界を新しくされる、それを新天新地と呼びますが、その新しくされた世界を相続することこそがクリスチャンの希望だからです。新しくされた世界を楽しむためには、私たちは新しいからだ、死ぬことも老いることもない新しいからだが必要です。そしてそのような新しいからだが本当に存在する、神は私たちにそのような新しいからだを与える力を持っておられる、その保証となるのがイエス・キリストの復活のからだです。イエスがよみがえったのなら、私たちもまた、よみがえるだろう、ということです。ですからイエスの体のよみがえりを否定することは、私たち自身の希望をも否定することになるのです。パウロはそのことをローマ人への手紙で語っています。その一節を読んでみましょう。ローマ書8章11節です。

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるのなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたの内に住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

私たちと主イエスをつなぐもの、あるいは共通点と言ってもいいですが、それは私たちは主イエスと同じ御霊を頂いているということです。その同じ御霊が主イエスをよみがえらせたように、私たちをもよみがえらせてくださる、それがキリスト者の希望なのです。

3.結論

さて、今日はパウロが死者の復活という問題を扱うこの手紙の最後の部分の冒頭を学びました。パウロはコリントの信徒たちがすべてからだのよみがえりを経験することになる、そのことを信じるように訴えたいのですが、彼らの復活について論じる前に、主イエスが死者の中からからだをもってよみがえられたことを、まずパウロは力説します。このことが信じられなければ、すべての人の復活も信じられるわけがないからです。このイエスの復活は、まさに福音の内容です。もしそれを否定するのなら、イエスが私たちの罪のために死なれたことも否定されることになります。そうすると、救いの根拠は何もなくなってしまうのです。復活を否定することはこのような恐ろしい結果を招きます。

しかし、主イエスは確かに復活されました。それは聖書と、目撃証言者たちという二つの証人によって確証されるのです。私たちも、この聖書証言と、目撃者たちの証言を重く受け止め、復活信仰が揺るがされないようにしましょう。私たちの救いはここにかかっているからです。今週も、この復活の主を大胆に宣べ伝えて参りましょう。お祈りします。

主イエス・キリストの父なる神様。私たちは第一コリント書を学び続けてまいりましたが、とうとう最後のセクションに入りました。ここでは私たちの究極の希望である復活について学んでまいります。私たちがこの希望をしっかりと掴んで離さないように、私たちの信仰を強めてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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