復活
第一コリント15章12~28節

1.導入

みなさま、こんばんは。7月に入りましたが、第一コリントからの講解説教も今回で28回目となります。ずいぶん長いこと学び続けていますが、第一コリントはいろいろなテーマ、話題を含んでいる書簡なので、こういう言い方が適切かどうかは分かりませんが、いろんな意味で飽きさせない書簡であると言えると思います。そして、私たちは今この書簡の中でも最も重要なテーマ、つまり「復活」、からだのよみがえりについて学んでいます。この復活の問題は、コリントの教会だけでなく、あらゆる教会にとって立つか倒れるかという死活的な問題なのです。

なぜ復活がそれほど大事なのかと言えば、パウロの時代でも、私たち現代においても「復活」、つまり死んだ者がからだをもって甦るということが、神を信じる人たちにとってすらも非常に信じがたいことであるからです。私たち日本人はふつう宗教で語られる救いというと、「死んだ後に魂が天国とか極楽とか呼ばれる幸福で平和な世界に行くこと」だと考えるのではないでしょうか。別にからだがよみがえらなくても、魂があの世で平安を得ることができればそれで十分だと考えるのです。これはクリスチャンとか仏教徒に限らず、一般的に日本人全体に言えることだと思います。この世は苦労も多いし大変なこともたくさんあるけれど、死んだあとは平和な世界に行きたい、苦しみのない世界に行きたいと願うわけです。日本で一番信者が多いと言われる浄土宗によれば、阿弥陀様を拝むだけでだれでも極楽浄土に行けると教えるのですが、この罪の世に生きて、なかなか聖人君主のようには歩めない凡人にとっては、立派に生きることはできなくても、信じるだけで極楽に行けるというのは本当にありがたい教えで、多くの人の心をつかんだのです。でも、信じるだけで救われる、というと、キリスト教とそっくりではないか、と思われるかもしれません。キリスト教においても、罪深い私たちは自分の行いでは救われることはできない、でもイエス様を一心に信じれば天国に行けるのだという、そのようにいわれます。こう考えると、キリスト教とは阿弥陀様をキリスト様に変えただけではないか、と思われるかもしれません。

しかし、キリスト教は本来そのような教えではありません。キリスト教は西洋版の浄土宗ではないのです。キリスト教の目指しているものは、私たちの魂が死んでから素晴らしい世界に行くことではないのです。むしろ、私たちの真の希望はこの世界にあるからです。神はこの世界を創造されたとき、この世界を「非常に良い」と言われました。そして、人間にこの世界を正しく管理させるという責任を与えました。しかし、私たちはこの責任を果たそうとせず、今やこの世界は大変なことになっています。環境破壊が進み、多くの動物が死に絶え、温暖化で夏は冷房なしにはいられなくなり、その結果ますます温暖化が進むという悪循環に陥っています。この世界がこのまま突き進むと、あと百年もすると、あるいはそれより早く50年くらいで、この地球は人間が住めなくなる世界になるのではないかと、みんな不安を感じるようになっています。私たちは、この世界を正しく管理するという神から与えられた使命について失敗し、今やそれが取り返しがつかないところまで来ている、そういう時代に生きています。しかし、キリスト教の真の希望は、このような破局にならないように、私たちが神から与えられた使命を全うすること、つまりこの世界を正しく治めることができるようになること、そこにあるのです。今の世界は、原発や核兵器や温暖化や感染症の世界的大流行など、多くは我々人類に責任がある問題のために追い詰められています。しかし、神は自らが創造された世界を決して見捨てない、この世界を回復してくださる、この世界は「非常に良い」ものとなる、これが私たちの真の希望です。そして、その回復され、新しくされた世界に生きる人間にも、新しい体が必要になります。その新しい体で、新しい世界に生き、そして世界を治めるという人間に与えられた使命を果たすことができるようになる、これがキリスト教の提示する希望なのです。

実際に、もし死んだ後に魂が天国に行くことがクリスチャンの究極の、つまり以上望むものはないという意味での最高の希望と考えるならば、それはクリスチャンの希望とは言えないのです。そのことを、紀元二世紀の有名な神学者である殉教者ユスティノスが次のように語っています。彼は『ユダヤ人トリュフォンとの対話』という有名な文書を残していますが、そこにはこう書かれています。

「クリスチャンと呼ばれる人で…死者のよみがえりなどないといい、死ねば、その魂は天国に連れて行かれるのだ、と主張する人たちがいる。彼らがクリスチャンだなどと、考えてはならない。」

とこのように書いています。なかなか厳しいことを言うな、と思われるかもしれません。しかし、使徒パウロも全く同じことを言っているのです。死人がからだをもってよみがえる、と聞くと、もしかするとゾンビなどを連想して薄気味悪く感じるかもしれません。しかし、復活のからだとはゾンビのような気持ちの悪いものではなく、私たちがぜひとも欲しいと願うような、そういう素晴らしいものなのです。そのことを今日の箇所から改めて考えて参りましょう。

2.本文

さて、先週学んだように、パウロは15章の1節から11節にかけて、「福音」とは何かを説明しました。福音の内容は以下の事柄です。

キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと

これが「福音」の中身、核心です。しかし、コリントの教会ではこの福音を実質的に否定するような人たちがいました。「実質的に」、と言ったのは、表立ってイエスの復活を否定した、という意味ではないからです。むしろ、ある人たちは「イエスが復活した、ということを文字通りに取るべきではない。むしろ、イエスの魂が天国で栄光を受けていることを示す比喩的な言い方、言葉のあやなのだ。私たちも復活すると言われているが、それは私たちの死んだ体が生き返るという意味ではない。私たちもまた、天国でイエスのように栄光を受けることを指す比喩的な言い方なのだ」というように説明したのです。そういわれると、なんとなく私たちも納得してしまうかもしれません。別に死んだ体がよみがえらなくても、魂あるいは霊が生き続けて天国に行ければいいではないか、と。しかし、パウロはそのようなことをきっぱりと拒絶しています。キリストが文字通りに死者の中からよみがえって復活しなかったのであれば、「私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです」。「実質のない」という言葉は「空っぽ」とか「空虚」などと訳すこともできますが、意味がない、無意味だということです。パウロが人生をかけて、それどころか命をかけてやっていることは無意味だ、ということになるのです。さらには、もし死人がよみがえることがないならば、パウロは自分たちが嘘つきになる、と言っています。死人がよみがえらないなら、イエスもよみがえらなかったはずです。それなのに、神がイエスを死人の中からよみがえらせたなどと、嘘を触れ回っていることになってしまう、と。このように、死者のよみがえりを否定することは、パウロの宣教も、コリントの人々の信仰も、なにもかもを無意味なもの、更に言えばパウロたちを嘘つきにしてしまうことになるのです。

そればかりか、「そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです」とパウロは言います。この一文については驚かれるかもしれません。というのは、仮にイエスが死人の中からよみがえらなかったとしても、キリストが十字架で死んだという事実は残るからです。キリストはわたしの身代わりに十字架で死んでくださった、身代わりの犠牲の業は完了している、という事実は残るのです。ですから、もし万が一イエスが死者の中からよみがえらずに、その魂が天国に行かれて、そこで栄光を受けたのだとしても、身代わりの死という事実のゆえに、私たちの罪は赦されているのではないか、その事実は変わらないのではないか、と。しかし、そうではないのです。罪の問題は、死の問題を解決することなしには解決されないのです。

パウロの言っていることを理解するためには、「罪」と「死」の関係についてよく理解しなければなりません。私たちはなぜ死ぬのか?という死の問題がここにはかかわってくるのです。聖書によれば、私たちが死ぬのは罪のゆえです。22節に「アダムにあってすべての人が死んでいるように」とありますが、ここはもっと正確に言えば、「アダムの罪によってすべての人が死ぬことになった」ということになります。ここはパウロがローマ人への手紙の5章で詳しく説明している点ですが、ローマ書5章17節では「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったのだとすれば」と書いています。神が「非常に良い」と言われた世界、創造されたばかりの世界には、もともと死は存在しなかったのです。死というのは生の反対であり、生ける神は御自分の造られた世界を蝕む「死」を嫌われます。しかし、その「死」が、アダムの罪によってこの世界に入ってきてしまったのです。アダムが神の戒めを破った時、死の無い世界に死が忍び込んできた、というのです。

これを文字通りに捉えるべきか、あるいは比喩的に捉えるべきか、ということについてはもちろん議論があります。現代の科学によれば、宇宙は死の無い世界どころか、その反対の生命の無い世界、死の世界として始まり、それが気の遠くなるような長い年月をかけて生命を生み出したとされています。宇宙はそもそも死の世界として始まったのだと。また、現在の科学によれば、人類が誕生する前の世界、例えば恐竜が闊歩していた世界にもすでに死が存在していたのであり、アダムの罪によって死が世界に入ったなどというのはナンセンスだ、と思われるかもしれません。このような現代的な世界観を受け入れて、なおかつ創造主なる神を信じる人は、神は長い年月をかけて、進化というプロセスを用いて、死の世界だった宇宙に生命を誕生させたのだと主張します。このような説明は、パウロがここで言っていることと真っ向から対立するように響くかもしれません。私たちは「科学」を信じるのか、「聖書」を信じるのか、どちらかを選ぶように迫られているのでしょうか?

しかし、そのように極端に考える必要もないでしょう。パウロの手紙の中では、しばしば「罪」とか「死」という言葉が、擬人化されて使われることがあります。「罪」とは、単に私たちが犯す過ち、という意味ではなく、それを超えて、人格的な力、私たちを罪の奴隷、あるいは罪の中毒にしてしまうような巨大な意思を持った霊的な力として描かれているのです。超人間的な人格、とでも呼びましょうか。アダムのなした違反が、このような擬人化された罪や死の力を私たちの世界に解き放った、とパウロは論じているのです。ですから、このような神話的な、あるいは神学的な言語が、果たして現代の科学と調和するのか、と考えてもあまり意味がないように思われます。

むしろ、ここでのポイントは、私たちの住む、神の造られた世界には深刻な破れがある、不調和がある、ということなのです。実際、今の世界を見て、単純に素晴らしい、何の問題もない、と思う人はいないでしょう。むしろ、スゥエ―デンの16歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが訴えたように、人間はこの世界をひどい状態にしています。私たちの貪欲が、私たちの罪が、この世界を台無しにし、多くの生物を死に至らしめているのです。アダムに代表される人類が、この世界を死に満ちた世界に変えているのです。ですから、確かに罪によってこの世界は死に支配されることになります。私たちはまさに、罪によって死が支配する世界に生きているのです。

その傷ついた世界の歴史を変えたのが、キリストの復活なのです。この滅びに向かう世界を救い出すのがキリストの復活なのです。拷問を受け、十字架で絶命したイエスのからだ、命を失ったイエスのからだを、神が再びよみがえらせました。しかも、そのよみがえった体は死を克服したからだであり、もはや死ぬことのないからだなのです。そして、キリストのからだが死を打ち破ったことは、この世界全体、傷つき傷んだこの世界も再びまったく新しいものによみがえる、回復されることの証し、証拠なのです。神は死んだキリストのからだを、命に満ち溢れたからだ、もはや死ぬことのからだに変えられました。もし神にそのような力があるのなら、神は私たちの死すべきからだをも不死の体に変えることができるでしょうし、そればかりか、この被造世界全体をも、死を克服した新しい世界へと造り替えることができるでしょう。しかし、もしキリストの死んだからだがよみがえらなかったのだとしたら、神には死んだからだをよみがえられる力がないか、あるいは力があってもその気がない、ということになってしまいます。そうすると、私たちも救いの希望を失ってしまうことになります。もし神の子であるイエスでさえ、死の力に飲み込まれてしまったのなら、私たちが死の力から救われる希望はまったくないでしょう。

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられたのです。そしてキリストは、私たちをも死の力から贖ってくださるでしょう。23節からパウロは、キリストの復活から世の終わりまでの歴史を簡潔に記しています。

しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。

人類の歴史において、初めて死者の中からの復活が実現したのは二千年前です。それがキリストの復活です。そして次なる復活はキリストが再び来られる時、再臨のときです。その時キリストは、主にあって死んだ者をすべてよみがえらせ、またその時にまだ生きている人たちに関しては、生きたまま新しいからだへと変えてくださいます。そのことは、この15章の51節以降でパウロが説明することです。そしてそれから世の終わりが来ます。しかし、世の終わりとは世界の滅亡のことではありません。むしろ神の敵の滅亡のとき、それを世の終わりと呼ぶのです。この世界は滅ぼされるのではなく、神の敵から救われる、贖われるのです。では、悪がどのような形で滅ぼされるのか、それはなかなか難しい問いです。ある人は、キリストが来るとき、キリストは自分を信じない者をみな滅ぼすのだ、という風に考えます。しかし、主イエスは二千年前に地上を歩まれたときに暴力を否定しました。暴力で逆らう者を皆殺しにするというようなやり方は、決して主イエスのやり方ではありません。イエス・キリストは、昨日も今日も、いつまでも変わらない方なのですから、再び主が来られる時に、急に暴力的になるなどということはあり得ません。ですから、ここでパウロが「滅ぼす」という言葉を繰り返しているからといって、それはキリストが暴力で自分に逆らう者を皆滅ぼすことなのだ、という風に考える必要はないですし、またそうするべきでもありません。おそらく、悪は自らの悪に耐えられずに自壊していくのだと思います。キリストは最後に「死」を滅ぼす、とありますが、これは単にこの世界から死を取り除くという意味ではないでしょう。人々が憎しみ合う、生きづらい世界では、死ぬことができないというのはかえって苦痛であり、救いがないようにさえ思えます。ですから「死」が滅びるというのは、私たち人間を苦しめる冷たい関係、悪意に満ちた関係、それらが私たちに死をもたらすわけですが、そうした歪んだ関係が正され、人々が、また人間と他の生物が愛し合う、仕え合う、そういう正しい関係に戻る、そのことを指しているのだと思われます。私たちの世界は、そのような世界を目指して歩んでいるのです。そして、その始まりがキリストの復活なのです。

3.結論

さて、まとめになりますが、今日はパウロがキリストの復活の意義を語り始めた最初の部分を学びました。なぜキリストの復活がそれほど重要なのか、十字架だけでは救いは完成しないのか、ということの意味をパウロは力説しました。神の目的は、この世界全体を救うこと、この世界を死の支配から贖うこと、それが神の究極の目的なのです。キリストのからだのよみがえりは、その世界を救済するプロジェクトの始まり、あるいは先駆けなのです。キリストのからだが死からよみがえったからこそ、この死に瀕した世界もよみがえる、回復されるという希望を持つことができるのです。この素晴らしい知らせを宣べ伝え、一人でも多くの人を、神の世界救済プロジェクトに加わるように招きましょう。そして私たちの宣教に力を与えて下さるように、神に祈りましょう。 イエス・キリストを死者の中からよみがえらせた神よ、その御名を賛美します。今日は復活がなぜ私たちの信仰にとってそれほど大切なのか、そのことを学びました。実にキリストはこの全世界が贖われることの先駆けであり、保証でもあります。この信仰にしっかりと立って今週も歩めますように。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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