サウル王の遺棄
サムエル記第一15:10-23
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今月はサムエル記からです。サムエル記は上下2巻あります。上巻は預言者サムエルとイスラエル初代の王サウルの話です。下巻は王となったダビデの話です。中原キリスト教会では木曜会で山口先生がサムエル記からお話をされていますので、私のお話において、それも参考にさせていただいております。今日の聖書個所としてあげましたのはサムエル記第一15:10-23ですが、お話は15章全体を念頭にお話し、させていただきます。まず15章には何が書いてあるかを若干のコメントをしながら概略ご説明します。

15:1-3で預言者サムエルはアマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ、との主の命令をサウルに伝えます。15:3には「今、行って、アマレクを打ち、そのすべてのものを聖絶せよ。容赦してはならない。男も女も、子どもも乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも殺せ。』」とあります。ヨシュア記、士師記を呼んだ方は驚かないかもしれませんが、このような知識のない方は驚きます。集団殺戮と何ら変わりません。アマレク人と言うのはユダヤの南のネゲブ砂漠の方に住んでいた人々です。聖書による血統ではイスラエルの始祖ヤコブの兄弟エサウの孫アマレクの子孫です。したがって、そんなに遠くない親類です。全滅させよ、という理由は出エジプトの時、イスラエルの民が南からカナンの地に上ってくるのを邪魔したから、というのです。この理由は調べると怪しいものです。一度は、アマレク人とカナン人がいっしょになってイスラエルを打ち破り、イスラエルがカナンの地に入るのをあきらめさせましたが、結局、モーセはヨシュアをたてて、アマレクを打ち破り、出エジプト記17:14では「アマレクの記憶を天の下から完全に消し去った」ことになっています。サムエルが言っていることは、常識的には何癖です。理由にもならないことを理由にした復讐です。

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サムエル記第一15:10-23
森田俊隆
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ルツ記の女性たち:ルツ
ルツ記2:17-23
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

先月はルツ記に登場する姑のナオミについて主にお話しました。今日は、この文書の名前になっている「ルツ」について主にお話したいと思います。ナオミやルツ以外にルツ記に登場する女性として町の女たちについても若干述べさせていただきたい、と思っています。ナオミの時の話の補足という感じでお聞きいただきたく思います。  この文書はルツ記と称せられていますが、実はルツ自身の言葉はあまり含まれていません。その他の記述から彼女の信仰姿勢等については推測になります。まず、ルツはモアブ人です。モアブ人というのは創世記に示されている血統からすると、アブラハムの甥ロトの子モアブの系譜の人々です。このモアブはロトとその姉娘との間に生まれた子です。このようなことは昔から禁じられていた性行為ですから、モアブは不義の子ということが言えます。アブラハムの子イサクの子ヤコブの血筋であるイスラエルの民とは遠い親戚ということになります。彼らの住んでいた地は死海の東側です。イスラエルの民はエジプトに逃れ、その後出エジプトを経てカナンの地に戻ってきた人々ですが、その途中、モアブ人の土地を通過しようとしたのを断られたことから、両者は、曰く因縁の間柄となります。ルツ記の前の文書である士師記においては、モアブ人の王エグロンがカナンの地に侵入しエリコの町を占領し、18年間イスラエルを支配したと書かれています。そこにベニヤミン族出身の士師、左利きのエフデが起こされ、彼は剣を携え王に近寄り、その剣で暗殺し、そのあと士師の役割を果たした、と言われています。サウル王はモアブと戦いましたが、ダビデは両親をモアブの王に預けたと書かれていますし、ダビデ30勇士にはモアブ人がいたと記されています。両親が殺されたためダビデはモアブ人を討ったというユダヤ教の伝承もあります。ルツ記は士師の時代のこと、と言われていますので、この時代のイスラエルとモアブ人の関係は敵対関係と友好関係が入り組んだような時代であった、と推察されます。ルツ記はユダのベツレヘム出身のエリメレクがモアブの地に移住するところから話が始まります。その息子がモアブの娘ルツを娶る、という訳です。ユダ族とモアブ人との関係は少なくとも庶民の間では隣同士の民族という間柄、という状態であったと思われます。後に、捕囚から帰国したユダの指導者ネヘミヤが異民族との結婚を厳に禁止しますが、この士師の時代にはそのような制約はありませんでした。

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ルツ記2:17-23
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ルツ記の女性たち:ナオミ
ルツ記4:13-17
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

お読みいただいたルツ記の個所はルツ記の結論部分で、苦難の人生を歩んだナオミが幸せをつかんだところです。内容はご存じのことかとは思いますが、聖書に添って、順番に見ていきましょう。特に、今日は、ルツの姑ナオミに注意を向けてください。

ナオミはベツレヘム出身のエリメレクの妻です。「ナオミ」の名前の意味は「私の喜び、楽しみ、愉しみ、快い」であり、美しい名前です。この夫婦には二人の男の子がいました。一家は飢饉でモアブの野に行った、と記されています。モアブの地に開拓に入った、と考えよさそうです。私の親戚にもブラジルのアマゾン川下流のベレンに移住した家族がいますが、その開墾は大変な苦労だったようで、結局、ブラジリアに移り、野菜栽培と商売で生計を立てるようになりました。エリメレク一家もモアブの野の開墾は大変なことであったと思われます。その間に二人の息子は現地のモアブの娘と結婚します。長男の嫁がルツで次男の嫁がオルパです。ルツという名前は「友情、潤い、友」という意味の言葉でこれも美しい名前です。その後10年くらいモアブの地に住んでいた、と言われています。ナオミは15歳で結婚したとすると、二人の子が生まれ一家をなすまでが5年とするとナオミが20歳でモアブの地に移り、子供たちが結婚するまでが15年とし、更に10年住んでいた、ということのようですから、ナオミは既に40歳です。当時であれば孫がいて、おかしくはありません。この嫁二人には子供が生まれなかったようです。嫁は25歳くらいです。律法では子の生まれない妻は離縁されても文句を言えないことになっていましたが、エリメレクとその息子たちが離縁を考えた風はありません。おそらくナオミが異邦人であるモアブ人の嫁を自分の子のように扱い、子供が生まれなくても、男どもはそれをとやかく言わなかった、と理解してよいでしょう。男たちは、開墾が大変で、家のことはナオミが仕切っていた、と考えて差し支えありません。女系の雰囲気です。

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ルツ記4:13-17
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士師記;付録
士師記18:27-31; 20:43-48
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は士師記の最後で通常「士師記・付録」と称せられている箇所から、メッセージを受け取りたい、と思います。17章から21章までです。「付録」と言われるのは、士師記の一部に似つかわしくないからです。特別、士師と言われる人物が出てくるわけではなく、士師の時代にイスラエルに起きた出来事を二つ記述してあるだけです。一つは12部族の一つ「ダン族」がユダ族とベニヤミン族の間の地から、イスラエルの最北端のフーレ湖(ガリラヤ湖の更に北)の近くに移住するに際し起きた出来事です。偶像礼拝に関する出来事です。二つ目は「ベニヤミン族」に関することです。ベニヤミンにあるギブアの人々が、一人のレビ人のそばめにひどいことをしたことが契機で、イスラエル全体とベニヤミン族の内戦がおこり、ベニヤミン族は絶滅の寸前にまでいく、という話です。不道徳的な事柄が立て続けに起こり、士師記の時代のイスラエルの極めて堕落した社会を赤裸々に記述しています。

ダン族移住物語の最初の方17:6とベニヤミン内乱物語の最後21:25に共通の言葉があります。「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」という言葉です。士師記の著者がこの付録部分を書いた理由が推測できます。士師記の時代はイスラエルの「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っ」た大混乱の時代であり、イスラエルには部族をまとめる権威ある王が必要である、ということです。いままでの士師に関するお話から推測できるように、例外はありますが、大部分の士師といわれる人物はイスラエルの十二部族をまとめた、などお世辞にも言えない状況であり、おそらく大混乱の時代であったろう、と推測されます。そのなかで、王をもとめる機運が強くなり、士師の時代の次に、サウル王、ダビデ王、ソロモン王の時代になるのです。

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エフタとサムソン
士師記11:1-6; 13:1-7
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は士師記四大士師の二回目です。エフタとサムソンです。エフタの話はイスラエル人がヤハウェ信仰からはなれカナンの地場信仰に流れていくところからはじまります。カナンの地場信仰というのはバアルやアシェラに対する信仰であり、自然神・豊穣神への信仰です。そして、10:9「アモン人がヨルダン川を渡って、ユダ、ベニヤミン、およびエフライムの家と戦ったとき、イスラエルは非常な苦境に立った。」とあります。士師記の考え方はイスラエルがヤハウェ信仰から離れることが罪の始まりで、それに対する神のさばきが異民族支配です。そしてその異民族支配から独立することが神の救いの現れ、という考え方です。この考え方はユダヤ教正統派の主張であり、それは新約時代におけるメシア信仰にまでつながっています。士師記のここでもアモン人による支配は主なる神の裁きの現れです。アモン人はアンモン地方に住んでいた異民族です。今のシリアです。そのアモン人はヨルダン川の東、エモリ人の地に居たイスラエルを苦しめた、とあります。

士師記の後の話ですが、エモリ人の生き残りの部族であるギブオン人をイスラエルの初代の王サウルが虐殺しました。しかし、その後王となったダビデはサウルの子や孫七人をギブオン人に差し出し和解した、という話が第二サムエル記21章にあります。これから見ると、そもそもはエモリ人というのはイスラエルの味方の民族であった可能性は濃厚です。その民族とともにイスラエルの民はギルアデの地に住んでいた、ということです。そこにアモン人が侵入してきたのです。それが更にヨルダン川を渡って、イスラエル民族の主要な部族が居るヨルダン川西岸地区に侵入してきたのです。

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デボラとバラクとギデオン
士師記4:4-7; 7:4-7
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日は四大士師のうち最初の二名の士師についてです。まず、デボラですが彼女は女預言者と呼ばれ軍事的指導者としてはバラクを指名しますので、デボラ/バラク両者一体で士師とみられます。もう一人はギデオンです。お話の中心はあとの方のギデオンです。最初にデボラ/バラクをみます。

4:1に「その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。」といわれています。モアブの王の支配からイスラエルを解放したエフデは既になく、イスラエルは主の目の前に悪をおこなった」と言われています。おそらく、カナンの地の宗教に染まってヤハウェ信仰から離れていった、ことを指ししている、と考えられます。そこで、主なる神はイスラエルをカナン王ヤビンの手に渡したと言います。カナンのそもそもの由来は、ノアの子ハムの子、クシュ、ミツライム、プテの弟カナンの系譜ということになっています。クシュはエチオピア、ミツライムはエジプト、プテはリビアを指します。カナンはフェニキアからペリシテまで含む広義のカナンの地の住民のことです。イスラエルはノアの子の内セムの系譜であり、カナン人とは民族を異にします。その王ヤビンには将軍シセラが居ました。デボラ/バラクのように対(つい)で考えるとヤビン/シセラということになります。彼らは戦車900両を持っていたと言われていますので鉄の兵器を持っていたようです。そしてイスラエルを圧迫していました。まだ税金徴収の習慣はなかったので、時々、イスラエルの民の住むところに来て略奪をしていった、ということでしょう。

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士師記4:4-7; 7:4-7
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四大士師以外の八士師
士師記3:7-11
森田俊隆

当日の説教では、この原稿の一部を省略して話しています。

今日は士師たちのいろいろな側面を見て、士師記の理解の基本を知っておきたい、と思います。士師記には12人の士師と呼ばれる人物が登場しますが、4大士師ということができる、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソンについては次月以降のテーマとし、これら四名の士師を除く8人の士師を見るとともに、士師全体を見て、私たちが心に留めおくべきことを申し上げておきたい、と思います。 士師記はイスラエルの英雄列伝のようなところがあり、イスラエルの庶民には自らの歴史を記憶する上の必須項目でした。単に英雄について述べているにとどまらず、部族間のいろいろな問題等も記されています。ヨシュア記のようにイスラエルのカナンの地での戦いを申命記神学に立って極端に美化しているところもなく、真実味があります。個別の士師を見ていく中で、問題のテーマにつき、お話いたします。

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士師記の時代
士師記1:27-33
森田俊隆

説教者の希望により、説教原稿を改定しています。そのため、音声と以下の内容が一致しないことをご了承ください。

今日から数回、士師記を学びたいと思います。ヨシュア記、士師記は旧約聖書の難物です。聖書の言葉を文字通りに読んで、「納得」という訳にはいかないからです。その理由は、人間から見て、残虐に見えるような事柄が起こり、それが「神の命令」「神の計画」であると書かれているからです。

そのうち最たるものは新改訳聖書で「聖絶」と訳されている言葉についてです。聖なる破滅と書きます。この言葉が最も沢山出てくるのはヨシュア記です。ついで、申命記、サムエル記と続きます。ヨシュア記では戦争のあと、敗戦のカナンの人々を全員、殺すという意味で出てきます。主なる神の命令として出てくるのです。ヨシュア記の次の士師記ではわずか2か所にしかでてきませんが、そのあとのサムエル記になりますとこの意味での「聖絶」が復活したかの如く何度も登場します。ヨシュア記ではイスラエルの民はカナン人に連戦連勝で、その勝利のあと、対戦の相手を全員殺せと命じられています。士師記になると、イスラエルは周辺の民族との融和路線になり、そもそもすっきりと勝利した戦争は消えます。そのため「聖絶」の言葉も登場回数が減ります。はっきり言えば、カナンの民の方が強かったので、戦争を仕掛けるなどと言うことはほとんどできなかったのです。しかし、サムエル記にはいると周囲の民族との民族存続をかけた戦争に突入します。初代の王サウルはアマレク人を打ち破り、その民を「聖絶」しますが、その家畜は「聖絶」しなかったということから、王として不適格とされる事態に至ります。サウルは精神病のような状態になり、結局、ダビデが王位につくことになります。

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森田俊隆
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アカンの罪
ヨシュア記7:19-26
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日はヨシュア記のなかの物語の一つである「アカンの罪」からメッセージを得ます。このお話は、簡単に言えば、エリコにおける戦勝で奪ったものは、神に捧げるものとしなければならないのに、アカンという家族の長が自分のものとしました。その結果、アイの町との戦いに敗れたということです。そして犯人を見つけ、犯人の家族を石打ちの刑に処して罪を償わせた、ということです。そのあと8章でアイを攻めて勝利を売ることができました。また、新約聖書の使徒行伝4:32-5:11のアナニアとサッピラの話で、家を売って得たお金の一部を手元に置き、残りのみを教会に捧げるということをしたのに対し、神の怒りにより夫婦が死ぬ、という話がでてきます。これは、すべてを神に捧げたはずなのに、一部を自分のものとしたのは神のものを盗んだに等しい、ということから、このような罰が下されることとなった、というものです。「アカンの罪」も主なる神のものとされた聖絶のものを一部自分のものとしたことによって神の怒りを引き起こしイスラエルは、彼の家族全員を石打ちの刑と、焼き尽くすことにより償った、ということです。主なる神のものをちょろまかすのは旧約・新約通して大罪であり死を免れない、ということの話として伝えられてきました。しかし、今日は少々別の角度からこの物語を理解していきたい、と思います。

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森田俊隆
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遊女ラハブ
ヨシュア記2:1-7
森田俊隆

本日はヨシュア記です。ヨシュア記はモーセの死後、ヨシュアに率いられ、カナンの地に侵入するイスラエルの民の物語です。クリスチャンにとって重要な問題を孕んでいる書物です。重要な問題と言うのは「戦争」と「聖絶」の問題です。ヨシュア記では神が戦争の先頭に立ち、また、戦いの勝利のあと、すべての命を完全に絶つこと、即ち「聖絶」を要求している、問題です。この社会倫理に関する根本問題は私自身、今一つ納得できる解釈を持っていませんが、その問題は、別の機会に譲ることとして、本日はイスラエルの民が最初に占領する町エリコにまつわる一つの話からです。

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