士師記の時代
士師記1:27-33
森田俊隆

説教者の希望により、説教原稿を改定しています。そのため、音声と以下の内容が一致しないことをご了承ください。

今日から数回、士師記を学びたいと思います。ヨシュア記、士師記は旧約聖書の難物です。聖書の言葉を文字通りに読んで、「納得」という訳にはいかないからです。その理由は、人間から見て、残虐に見えるような事柄が起こり、それが「神の命令」「神の計画」であると書かれているからです。

そのうち最たるものは新改訳聖書で「聖絶」と訳されている言葉についてです。聖なる破滅と書きます。この言葉が最も沢山出てくるのはヨシュア記です。ついで、申命記、サムエル記と続きます。ヨシュア記では戦争のあと、敗戦のカナンの人々を全員、殺すという意味で出てきます。主なる神の命令として出てくるのです。ヨシュア記の次の士師記ではわずか2か所にしかでてきませんが、そのあとのサムエル記になりますとこの意味での「聖絶」が復活したかの如く何度も登場します。ヨシュア記ではイスラエルの民はカナン人に連戦連勝で、その勝利のあと、対戦の相手を全員殺せと命じられています。士師記になると、イスラエルは周辺の民族との融和路線になり、そもそもすっきりと勝利した戦争は消えます。そのため「聖絶」の言葉も登場回数が減ります。はっきり言えば、カナンの民の方が強かったので、戦争を仕掛けるなどと言うことはほとんどできなかったのです。しかし、サムエル記にはいると周囲の民族との民族存続をかけた戦争に突入します。初代の王サウルはアマレク人を打ち破り、その民を「聖絶」しますが、その家畜は「聖絶」しなかったということから、王として不適格とされる事態に至ります。サウルは精神病のような状態になり、結局、ダビデが王位につくことになります。

天地万物を創造された主なる神、この方は異民族をも創造された方です。その方が、主なる神を礼拝していない、偶像を拝んでいる、ということで、これらの人々を、皆殺しにしろ、という命令を発せられるでしょうか。創世記によれば、「聖絶」の対象となっている民族もそもそもから言えばイスラエルの民の親戚みたいなものです。カナン人はノアの3人の息子の一人ハムの息子カナンの子孫です。その他、アラブ人はアブラハムの側女(そばめ)ハガルの子どもイシュマエルの子孫ですし、アンモン人やモアブ人はアブラハムの甥ロトの子孫です。アマレク人はヤコブの兄弟エサウの孫アマレクの子孫です。主なる神はこのような人々を全員殺せ、というような命令を発するものでしょうか。更に言えば、私たちクリスチャンにとって決定的に重要なことは、主イエスがヨシュア記、士師記の時代にこの世にいらっしゃったとして、このような命令を発するものであろうか、ということです。どうもこの「聖絶」の言葉はヨシュア記、士師記の著者が使用したのとは異なる解釈の余地がありそうです。カナン人を「聖絶」即ち全員殺害するというのは偶像礼拝の罪に対する神の裁きである、という見方があります。冗談ではありません。主なる神を礼拝しているようで実は偶像礼拝をしている、という欺瞞的なイスラエルの民は、ヤハウェ信仰を知らない異民族より罪深い、とも言えます。まず裁きが下されるのはイスラエルの民ではないか、ともいえるのです。現代の私たちに置き換えてみても良いでしょう。イスラム教徒は偶像礼拝者だから、殺されても良いのだ、というのでしょうか。そういうあなたは、何者なのでしょうか。このようなことを言う者は姦淫の女の譬えに登場するパリサイ人以下の者たちです。この傲慢さ、自己義認の態度こそ主の裁きが避けられません。主イエスによる義認の前での謙虚さこそ主なる神の喜ばれることです。

「聖絶」ということばはヘブル語では「he:rem」、ギリシャ語では「anathe:ma」です。ヘブル語の「he:rem」は「滅び、奉献物、呪い」と一見、非常に異なる三つの意味があります。ヨシュア記などでの「聖絶」はこの「滅び」の意味です。申命記史書以後の文書にもこの言葉は使われますが引用的なところとか、主なる神の預言としての言葉は別にして、具体的にイスラエルの民が人間を殺す意味で使用されるところはありません。新改訳聖書は旧約におけるこの言葉を一貫して「聖絶」と訳しています。しかし、他の日本語訳の聖書ではこの言葉を、「奉献物」の意味で訳している訳が多数あります。口語訳聖書ではほとんどの場合「奉納物」と訳しています。これは、ギリシャ語の「anathe:ma」と同音で一字違いの「anathe:ma」という言葉がありますがその意味に引きずられたのではないか、という理解もありますが、ヘブル語の「he:rem」にも「いけにえ」の意味があります。カソリックの聖書であるフランシスコ会訳では動詞の場合は「滅ぼしつくす」、名詞の場合は「奉納物」と訳しているように見受けられます。旧約と新約の間の中間期の文書で「anathe:ma」が使われる時はほとんどがこの「奉献物」の意味です。この「滅ぼし尽くす」ことと「奉献物」の意味の両者を含んでいるのは、イスラエルの伝統的祭儀でいえばレビ記で定められた「全焼のいけにえ」です。イスラエルの民が最も大切にしているものをいけにえ、として差し出し、これを完全に焼きつくし、香りとして主なる神に差し出す行為です。これは罪の贖いの意味を持っています。現代のユダヤ教でいえば年一回の最大のお祭り「贖罪の日」の祭儀ということになります。

最後の「呪い」という訳も重要です。新約聖書では「he:rem」のギリシャ語訳「anathe:ma」とその関連語が十数か所出てきますが、ほとんどは「呪い」と訳されています。第一コリント書16章22節でパウロは「主を愛さない者はだれでも、のろわれよ。主よ、来てください。」と言っています。ギリシャ語では「anathe:ma」、新約聖書のヘブル語訳では「he:rem」です。この言葉は、後にカソリック教会で破門を宣言する言葉になりました。教会破門宣言「アナテマ」です。「滅びに落ちよ」の意味と考えられます。もう一か所は、黙示録22章3節です。「もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え」と言われています。新天新地において諸国民がいやされ、「のろわれるもの」はもはや存在しない、と言っています。

この用法は三位一体の教理を確定させたニカイア信条において「変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、公同なる使徒的教会は、呪うべし。」という形で出てきており、ルターの95か条の告発文の第71に「使徒的贖宥の真理に反して語るものには、アナテマと呪いとあれ。」という表現で出ています。聖書の最も古い日本語訳である文語訳では旧約聖書の「he:rem」を呪詛(じゅそ)の詛(そ)をつかって「詛(のろ)われしもの」と訳しています。これは最古の聖書英語訳KingsJamesVersionが「he:rem」を「のろい、のろう」と訳していたことに由来する、と言われています。

但し、注意しなければならないことは、ここでの呪いは呪術的な意味での呪いではありません。パウロがそんな意味でこの言葉を使うはずはありません。旧約聖書では「呪い」は大別して2つの言葉が使用されています。呪術的な意味を込めた「呪い」の「a:rar」、神の祝福から完全に排除される意味の「呪い」である「ka:lal」です。「聖絶」の「he:rem」を「呪い」と訳するにしても、この「ka:lal」に示される、神の恵みからの排除の意味の「呪い」と解釈すべきです。一点付言しますと、実は、この「he:rem」が新改訳の旧約聖書で「呪い」と訳されている箇所が一か所あります。旧約最後の書マラキ書4章6節です。「彼は、父の心を子に向けさせ、 子の心をその父に向けさせる。 それは、わたしが来て、 のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」と述べられています。この忌まわしい響きを持つ言葉で神がこの地を滅ぼすことのないように、と言う祈り、です。新旧約聖書において、「呪い」と訳されている「he:rem」「anathe:ma」が人間を殺す意味で使用されている箇所は全くありません。悪しき霊を追放する、とか神の恵みの一切ない世界に追いやるという意味です。霊の働き、に大いに関連しているのです。

これらの「he:rem」「anathe:ma」の理解を前提に、ヨシュア記、士師記、サムエル記など申命記史書と言われる文書に出てくる「聖絶」を考え直してみるということが必要です。聖絶は最も大切なものを罪の贖いの供え物とする、というところに特徴がありますが、生命はこの世の中で最も大切なものです。戦争によって得た、敵の命、戦利品としての動物の命は最も大切なもののひとつです。それらを犠牲にするので罪の贖いになるのです。最終的には自らの命こそ最高のいけにえ、捧げもの、となります。当時は、敵の王さまなどを象徴的に殺す対象とすることはあったでしょう。戦争において、カナンの地で迫害され、イスラエルに味方したカナンの貧困層の人々の復讐心を満たす必要もあったかもしれません。更には、それらの人々の中には、人身御供の習慣が残っていた可能性もあります。極めて例外的にはカナンの一般住民うちのだれか、とか、イスラエルの民のなかで罪を犯した人間が聖絶の対象となったケースもあるでしょうが、しかし、それは、あくまでも象徴的な行為としてのことです。

そして主なる神の「聖絶命令」とは霊の戦いの世界において、偶像において働く霊の働きを封じ込め、滅ぼし、主なる神の霊、即ち聖霊の支配を確立することであり、具体的行動としては「全焼のいけにえ」に示される贖罪の祭儀をその地の民すべてが参加して行うことだという考えに、私は至りました。この偶像において働く霊の働きを封じ込め、滅ぼすことが「呪い」と訳されていることばに示されている意味です。具体的な命を絶つ行為は象徴的なことでよいのです。命を奪うことに、「聖絶命令」の重点はありません。悪霊との戦いにおいて勝利することが重要なのです。現代社会において「霊の戦い」と言ってもピンと来ないかもしれませんが申命記史書の時代においては、すべてのこの世での出来事は霊の働き、によって説明されていましたから、聖なる霊の働きを祈り、試みを与える霊を遠ざけてくれるよう祈り求めることは生活の中心です。その祭儀は信仰共同体においては決定的に重要なことで、個別の命以上の意味を持っていたのです。むしろ現代のクリスチャンはその霊の働きを軽視しているきらいがあるように思います。

繰り返しになりますが、戦争をしてその敵を皆殺しにすることを全世界の創造者であり支配者である主なる神が命ずるなどということはあり得ないことです。霊の働きが問題なのです。もちろん、命は霊の働きの中心です。主が望まれているのは、異教の神々や偶像の霊的働きを滅ぼすための象徴的行為です。聖霊による「きよめ」の行為、と言えるかもしれません。当時の具体的行動としては祭儀です。「全焼のいけにえ」です。皆が参加しなければなりません。豊穣神信仰は極めて強力な偶像崇拝であり、その中で超越神「ヤハウェ」への信仰を確立するのは至難のことでした。もちろん、祭儀だけで「聖絶」の目的は達することはできません。実のところ、イスラエルはことごとく失敗しています。ヤハウェ信仰はその倫理性の高さに特徴がありますが、この世の豊かさを保証してくれるように見える神々への信仰に傾斜するのは当時も今も同じです。

アメリカの西部開拓の歴史のなかで、アメリカン・ネイティブの人々をカナンの民とみなし、その殺戮をヨシュア記によって正当化した、ということはアメリカの恥部(ちぶ)であり、歴史的犯罪です。「西へ、西へ」の別名として言われた「Manifesto Destiny」(明白な使命)というのは、侵略戦争の別名である、と言っても差し支え、ありません。アメリカの歴史は大きな罪を背後に背負っています。アメリカ国民はこの歴史に対する神の悔い改めを行っていません。そういう私を含む日本人も五十歩百歩です。

主なる神が聖書において認めている戦争は、おそらく聖なる戦争、「聖戦」だけだと思います。「聖戦」は主なる神が戦われる戦争です。主なる神が戦われるので、戦士たちは、基本的にはあとをついていくだけで良いのです。多くの場合、天災地変とか敵内部での問題発生などにより勝利が齎されます。ところがそのあと憎しみによる敵殺戮が起こります。すぐ、罪の塊としての戦争に変わってしまいます。現実の人間社会で起きる戦争がこの「聖戦」に該当するのは極めてまれであり、存在するとしても、完全に正当防衛的戦争に限られた戦争の一部だけです。

また、「聖戦」として始まった戦争も、すぐに、相手を支配するための「人による人のための人の戦争」に変わってしまうのです。中世における「十字軍」を見てください。近くは、独ソ戦を見てください。簡単に侵略戦争、復讐戦争に変わってしまい、悪しき「聖絶」になってしまいます。ヨシュア、士師の時代も同じです。そのずっと後の預言者ミカ、イザヤは結局「武力放棄」しか根本的解決策はない、という結論に至ります。一方的な武力放棄です。主イエスの非暴力の教えはその流れの中にあります。現代では非暴力抵抗が同一の思想的潮流と考えられます。申命記史書の著者たちの戦争観は預言者たちによって、克服されています。

今のイスラエル国家がやっているパレスチナ人殺戮を続けるならば、私は、いつか、再び大きな悲劇が起こるのではないか、と心配しています。ちなみに、「ホロコースト」ということばは「全焼のいけにえ」から来ている言葉です。「ホロコースト(全焼のいけにえ)」と「聖絶」は繋がっているのです。従って、「聖絶」をどう解釈するのかは現代においても極めて重大な問題です。一定の人間集団の命を「聖絶」「全焼のいけにえ」の対象とするようなことは主なる神の意思である、など絶対ありえません。

先ほど申し上げた「主が戦われる」戦争「聖戦」はイスラエル形成の初期に於いてヤハウェに忠実な神の民を形成するための方法でした。しかし、これは成功裡に進みませんでした。逆に、罪の塊としての戦争に進んでいってしまったのです。のちの預言者はこの「聖戦」を霊的戦いと解釈しました。霊的に解釈された「聖戦」は新しいイスラエルにゆだねられ今も続いています。主の私たちへの期待は今も生きています。主が戦われる「聖戦」に私たちも参加するのです。それは現代における二つの偶像崇拝、と戦うことです。それは物質的な恵みを最高位におくマモン信仰と、政治的・軍事的支配が神の支配にとって代わろうとする国家主義です。私たちの心の中に既に染み入っている偶像なのです。ひとさまのこと、他国のこと、昔のこと、ではないのです。

次回は士師記本論の中に入っていきますが、英雄列伝に似たストーリーの士師記が、実はその真逆の戦争という罪の塊のような世界に引きずりこまれていく歴史を示している、というところを見ていきたい、と思います。純粋なヤハウェ信仰の共同体を形成するための主なる神の戦い、即ち聖なる戦争「聖戦」が人による人の支配としての戦争に堕落していく過程ということでもあります。しかし、聖書の偉大なところはそれを罪のうちの罪と理解し、あからさまに罪の現実を語るところにあります。英雄を崇拝するようなことを決して致しません。指導者の罪をあけすけに語るのです。罪の極致ともいうべき悲惨な現実をあからさまに語ります。一言、祈ります。

(天の父なる御神様、今日は士師記を読むに際しての大きな問題について考える機会となりました。「聖絶」と「戦争」という旧約聖書における二つの理解困難な問題にどう立ち向かうべきかの材料を与えられました。どうぞ、主の導きがありますように。戦争の惨禍によってもたらされた平和主義国家の使命に忠実であらせてください。まだ100年もせずにこれを捨て去ろうとする動きがあります。私たちキリスト者が、神の国の証人(あかしびと)として、この使命に忠実であるための勇気をお与えください。救い主イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン)

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