キリストに倣いて
第二コリント13章5~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は棕櫚の主日で、主イエスが地上での生涯の最後の1週間を過ごすためにエルサレムに入城したことを覚える日です。そして今日から受難週が始まりますので、週報に今週のためのデボーション・ガイドを挟みました。今週は一日一日、イエスの身に何が起こった日なのかを考えながらお過ごしください。また、1年半に及んだ第一、第二コリント書簡も今日で最終回になりますが、パウロはこの手紙を結ぶにあたり、コリントの人たちに今一度イエスの苦難の生涯を振り返るようにと呼びかけています。ですからこの棕櫚の主日に実にふさわしい箇所だと言えます。

“キリストに倣いて
第二コリント13章5~13節” の
続きを読む

三度目のコリント訪問
第二コリント12章14~13章4節

1.導入

みなさま、おはようございます。4月になりました。私がこの教会で牧会をさせていただいてから今日で3年目になります。このコリント書簡からの学びも今日を含めてあと二回、その後はいよいよ主の復活を祝う復活主日になります。さて、前回まではパウロが「愚かな自慢合戦」、つまりパウロが開拓伝道したコリント教会に後からやって来た宣教師たちが、自分たちはパウロよりも優れていると誇ったのに対して、パウロがいわば強いられた格好でこの自慢合戦に付き合う、彼らと張り合うというところを学びました。しかしパウロは、単に彼らと同じ土俵で自慢合戦を戦ったのではありませんでした。むしろ彼らとは全く逆に、自分は強さではなく弱さを誇る、なぜなら自分の弱さにこそ神の力が輝き出るからだ、という感動的な教えを伝えてくれました。

“三度目のコリント訪問
第二コリント12章14~13章4節” の
続きを読む

パウロの誇り
第二コリント12章1~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は2021年度の最後の主日礼拝となります。当教会のカレンダーは1月始まりですが、多くの学校や企業では4月がスタートになります。第二コリントからの説教も今日を含めてあと三回になりますが、今日の箇所はある意味で第二コリントのクライマックスとも呼ぶべき箇所なので、年度を締めくくるのにふさわしい聖書箇所が与えられたと思っています。

“パウロの誇り
第二コリント12章1~13節” の
続きを読む

愚かな誇り合戦
第二コリント11章16~33節

1.導入

みなさま、おはようございます。2020年の10月から始めた第一、第二のコリント書簡の連続説教も、1年半に及びましたが、それも今回を含めてあと4回になります。ですから復活祭の前の週、棕櫚の主日までは第二コリント、復活祭には特別なメッセージをして、復活祭の後からはマルコ福音書の講解説教を始めます。

さて、それでは今日の箇所ですが、これは先週からの続きになります。この11章においてパウロは今コリント教会で牧会をしている現役の宣教師たちと全面的に対決しています。今コリント教会にいる宣教師たちは、無牧であったコリント教会にやって来たのですが、彼らはコリントの信徒たちに教師として認めてもらう、受け入れてもらうためにいろいろと自己アピール、自己推薦をしました。彼らはユダヤ人の宣教師たちでしたが、初代教会の総本山、エルサレム教会から推薦状を携えてやってきました。これは理解できることですね。私たち教団に属する牧師たちも、本部教団からこの人は按手礼を受けた正式な教師であるという推薦を受けて個別教会に派遣されます。また、彼らは自分たちのこれまでの伝道実績や、自分たちの聖書についての知識についてもコリント教会の人たちにアピールしました。これも理解できますね。今でも各教会に送られる教師は、それまでの学歴とか社会人経験、神学校での学びやこれまでの伝道実績などを経歴書にまとめて教会の役員会に送ります。コリントにいた宣教師たちはこれらに加えて、彼ら自身の霊的な体験、つまり「私はこのような御霊の賜物を受けた、神からこのようなヴィジョンを受けた」ということもコリント教会の人たちと分かち合ったものと思われます。その結果、彼らはコリント教会の正式な教師として受け入れられ、教会から謝儀を受け取っていました。

“愚かな誇り合戦
第二コリント11章16~33節” の
続きを読む

ライバル宣教師たち
第二コリント11章1~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週から第二コリント書簡の中でも最後の部分、10章から13章までを学んでいます。先週もお話ししたように、この10章から13章まではひとまとまりの独立した部分です。ここでパウロは、自分から心が離れかけているコリント教会の人々に必死で訴えかけ、今コリントに来ている新しい宣教師たち、彼らはエルサレム教会と関係の深いユダヤ人宣教師たちなのですが、彼らに耳を貸してはいけない、彼らを信用してはいけないと強い口調で警告します。前回の10章でも彼らのことを遠回しに言及していたパウロですが、この11章以降では彼らを直接名指しし、いわば全面対決のような形になっています。

“ライバル宣教師たち
第二コリント11章1~15節” の
続きを読む

パウロの戦い
第二コリント10章1~18節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日の説教タイトルは「パウロの戦い」となっています。「戦い」とは穏やかではない、と思われるかもしれませんが、聖書にしばしばみられるように、パウロはここで戦争のイメージを用いています。実際パウロは、4節では「戦いの武器」という言い方をしています。ではパウロはどんな戦いをしているのかといえば、その戦いには二重の意味合いがあります。一つはコリント教会に今やしっかりと根付いてしまったパウロの反対者たちとの戦いです。コリント教会にはもちろんパウロを支持する多くの信徒たちがいましたが、パウロに敵対的な一部の信徒たちのグループがあり、彼らはエルサレムから来た新しい宣教団とタッグを組んで、パウロに批判的な勢力を形成していました。

“パウロの戦い
第二コリント10章1~18節” の
続きを読む

エルサレム教会への献金(2)
第二コリント9章1~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日の説教は、先週に続いてエルサレム教会への支援募金、支援献金のお話です。前回と今回の箇所は、第二コリントでは8章と9章に分かれていますが、内容的は同じか、同じとまではいかなくてもかなり重複していると感じられたかもしれません。ではなぜパウロは同じような話を繰り返しているのでしょうか。この疑問についてパウロ書簡を研究している学者の間では、8章と9章はもともと別々の手紙で、その二つの手紙がこの第二コリント書簡に並んで収録されたのだとする説が有力です。私自身は、その説に100パーセント合意しているわけではありませんが、あり得ることだと思います。例えば私たちの例で考えても、東日本大震災で被災した教会への支援募金を訴える場合、アピール文は一回だけでなく、二回・三回と繰り返されます。パウロも、前回にもお話ししたようにエルサレム教会への献金に、それこそ命を懸けて取り組んでいたので、同じような趣旨の手紙を二回コリント教会に送るというのは十分考えられるからです。また、8章と9章の内容は似て非なるものなので、それぞれじっくり読むに値します。こういう言い方は変かもしれませんが、みことばの有名度合いという点では、この9章の方が私たちにはなじみ深いものだと思います。私たちが使っている同盟教団所定の月定献金袋に書かれているみことばも、この9章から取られたものです。

“エルサレム教会への献金(2)
第二コリント9章1~15節” の
続きを読む

エルサレム教会への献金(1)
第二コリント8章1~24節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は、パウロとコリント教会の信徒との対立、そして和解に向けての双方の努力ということについてお話ししました。今日の箇所では、内容が一転してエルサレム教会への献金がテーマとなっています。エルサレム教会への献金についてはこれまで何度かお話ししていますが、これはパウロの伝道生涯を考えるうえで極めて大切な事柄です。どれくらい大切かというと、パウロはこのエルサレム教会への献金のために命を懸け、そして実際にそのために命を落とした、それくらい重要な事柄でした。パウロは逮捕されて殺される危険があるにもかかわらずエルサレムへの最後の旅行をしました。それは、この献金をどうしてもエルサレム教会に自分自身の手で届けたかったからです。ではなぜエルサレム教会への献金がそんなに大事なのかと言えば、それがパウロにとって非常に大切なヴィジョンを体現するものだからです。パウロが抱いていたヴィジョンとは、「ユダヤ人も異邦人もない」教会、民族の垣根を乗り越えた、世界中のあらゆる民族が一つになる教会というヴィジョンです。私たち日本の教会で言えば、「日本人も外人もない」教会、人種や民族の違いを超えた真にユニバーサルな教会ということになるでしょう。

“エルサレム教会への献金(1)
第二コリント8章1~24節” の
続きを読む

悲しみの手紙
第二コリント7章2~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日も再び、第二コリントのみことばから学んでまいりましょう。今日の聖書箇所はとても重たい内容です。それは、牧師と信徒との対立という事情がこの手紙の背景にあるからです。コリント教会は深刻な問題を抱えていて、それが今日の箇所の重要な背景となっています。私たちの教会は、規模からすれば小さな教会ですが、とても仲が良く、互いに信頼し合っている教会です。私も皆さんのことを信頼していますし、皆さんも私のようなものを信頼してくださっています。ですから、このパウロの手紙が送られたコリント教会の状況とはずいぶん事情が違うのだろうと思います。しかし、残念ながら牧師と信徒の関係がうまくいっていない教会というのも少なからず存在するというのが現実です。そういう状況に置かれた時に、私たちはつい犯人捜しをしてしまいます。あの信徒が悪いからとか、あの役員が悪いからとか、あるいはあの牧師が悪いからとか、そういう犯人捜しをついしてしまうのです。みんなにいくらか問題があるというより、問題の所在をある人に集中させてしまうのです。このコリント教会の手紙に関して言えば、普通は牧師のパウロが100%正しく、コリント教会の信徒が100%悪い、という読み方をしてしまいます。キリスト教におけるパウロ先生の絶大な権威を考えればそれが当たり前なのかもしれません。しかし、ある共同体に深刻な亀裂が生じた際に、どちらか一方が100%正しくて、他方が100%悪いというような状況は現実にはあり得ないのではないでしょうか。コリント教会がこんなに大きな問題を抱えてしまったことに、牧師であるパウロにも少なからず責任があるというのが公平な見方ではないかとも思うのです。このコリント教会への第二の手紙からは、パウロの立場や視点しか知ることが出来ませんが、叱責されているコリント教会の側の立場になって考えるということも必要なことではないかということです。今日の説教では、なるべく複眼的なというか、いろんな角度からコリント教会の現実を考え、学んでいきたいと願っています。

“悲しみの手紙
第二コリント7章2~16節” の
続きを読む

この世とのかかわり方
第二コリント6章14~7章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は、今年最初の礼拝ということで、第二コリントから離れて、ルカ福音書のイエス様とザアカイさんとの出会いの場面から学びました。今日からは、再び第二コリントに戻ります。そして今日の聖書箇所と、先週のルカ福音書との箇所は対照的な内容になっています。先週のルカ福音書では、世の中の多くの人が汚れた人、罪深い人だとして付き合いを避けていたような人に、主イエスは積極的に係わっていき、彼らを救うという場面を学びました。それに対して今日の箇所は、世の中となれ合うな、罪深い人たちとは距離を取りなさいというように、正反対のことを教えているように思われます。では、どちらが正しいのでしょうか。罪人と呼ばれる人たちと親しく交わり、彼らを新しい人へと造り替えていったイエス様に倣うべきか、あるいは「朱に交われば赤くなる」という古くからの諺通りに、悪い人たちとの付き合いを避けるべきだというパウロの勧告に従うべきなのでしょうか。これは難しい問題ですが、どちらにも大切な真理が含まれています。私たちは一方に偏ることなく、どちらの教えにも耳を傾ける柔軟さを持ちたいと思います。

“この世とのかかわり方
第二コリント6章14~7章1節” の
続きを読む