愚かな誇り合戦
第二コリント11章16~33節

1.導入

みなさま、おはようございます。2020年の10月から始めた第一、第二のコリント書簡の連続説教も、1年半に及びましたが、それも今回を含めてあと4回になります。ですから復活祭の前の週、棕櫚の主日までは第二コリント、復活祭には特別なメッセージをして、復活祭の後からはマルコ福音書の講解説教を始めます。

さて、それでは今日の箇所ですが、これは先週からの続きになります。この11章においてパウロは今コリント教会で牧会をしている現役の宣教師たちと全面的に対決しています。今コリント教会にいる宣教師たちは、無牧であったコリント教会にやって来たのですが、彼らはコリントの信徒たちに教師として認めてもらう、受け入れてもらうためにいろいろと自己アピール、自己推薦をしました。彼らはユダヤ人の宣教師たちでしたが、初代教会の総本山、エルサレム教会から推薦状を携えてやってきました。これは理解できることですね。私たち教団に属する牧師たちも、本部教団からこの人は按手礼を受けた正式な教師であるという推薦を受けて個別教会に派遣されます。また、彼らは自分たちのこれまでの伝道実績や、自分たちの聖書についての知識についてもコリント教会の人たちにアピールしました。これも理解できますね。今でも各教会に送られる教師は、それまでの学歴とか社会人経験、神学校での学びやこれまでの伝道実績などを経歴書にまとめて教会の役員会に送ります。コリントにいた宣教師たちはこれらに加えて、彼ら自身の霊的な体験、つまり「私はこのような御霊の賜物を受けた、神からこのようなヴィジョンを受けた」ということもコリント教会の人たちと分かち合ったものと思われます。その結果、彼らはコリント教会の正式な教師として受け入れられ、教会から謝儀を受け取っていました。

これらのことは特に何の問題もないように思われるかもしれませんが、しかし彼らのやっていることの中には大問題も含まれていました。これらの宣教師たちは、自分たちの前任者、コリント教会の創業者であるパウロのことをよく思っていなかった、よく思っていなかっただけでなく、実際に口に出してパウロへの批判をコリント教会の人たちに伝えていたのです。そのため、パウロへの信頼がコリント教会の中で失われつつありました。なぜ彼らはパウロを批判するような真似をしたのかといえば、初代教会の宣教師たちの中にはパウロをあまりよく思わない人々がいたということがあります。パウロはガラテヤ教会やピリピ教会をめぐってそれらの人たちと対決していました。コリントに来た宣教師たちも、パウロと敵対していた他の宣教師たちと近い立場にいたと思われます。

パウロもそのことをはっきりと自覚していました。パウロは自分とは考えが違う宣教師たちが自分の立て上げた教会、ガラテヤ教会やピリピ教会にやってきて、自分とは異なる福音、より分かりやすく言えばよりユダヤ教に近い福音を宣べ伝えていたことに危機感を抱いていました。パウロの掲げる福音とは「ユダヤ人も異邦人もない教会」、民族の垣根が取り壊された、真にユニバーサルな教会でした。その教会において、ユダヤ人だけが特別である、ユダヤ人は旧約時代からずっと神の民だったのだから、異邦人とは異なる特別な存在なのだ、というようなユダヤ人の誇りが広がることをパウロは非常に警戒していました。今コリントに来ている宣教師たちがまさにそのような誇りを持った人たちでした。彼らはコリント教会の人たちに自らのユダヤ人としての出自を誇り、コリント教会の人々もそれを受け入れてしまっていたのです。そこでパウロはこの危機的状況を打破しようと、あえて彼らの土俵に乗ることを決意します。彼らがユダヤ人としての血統や、これまでの実績や、あるいは霊的体験について誇るのなら、私だっていささかも負けていないことを証明しましょう、そう言っているのです。パウロはそんな誇りは愚かなことだと分かっているのですが、ここでは進んで馬鹿になって、この「愚かな誇り合戦」に参戦しようというのが今日と次回の説教箇所の内容です。それではさっそく、聖書箇所を詳しく見ていきましょう。

2.本文

では、16節から読んでいきましょう。パウロは「繰り返して言いますが、だれも、私を愚かと思ってはなりません」と切り出しています。これは、新しい宣教師たちに影響されて、パウロは少し愚かなのではないかと考え始めたコリントの一部の信徒たちへの警告です。彼らがパウロについてこういう疑問を抱いたのは、彼があまりにもいろいろなところで苦難に遭っているというのが一つの理由でした。つまり彼は十分に用心深くなく、危険を回避する知恵に欠けていて、しょっちゅう地雷を踏んでしまうような人なのだという印象を持たれたのです。しかしパウロは、自らの苦難に積極的な意味を見出していました。それはキリストの生き方に倣うこと、パウロの言い方では「キリストの死をこの身に帯びること」であり、恥ではなくむしろ誇るべきことでした。パウロは続けてこう書いています。「しかし、もしそう思うなら(つまり私を愚か者と思うなら)、私を愚か者扱いしなさい。」ここでパウロは、もしあなたが私を愚かだと言い張るのなら、私も愚か者になってやろうじゃないか、ということです。パウロがここでいう「愚か者」とはライバル宣教師たちのことです。彼らは愚かにも、自分たちの生まれや実績を誇っているが、私も彼らのように愚か者になって、ここでは自慢合戦に付き合ってあげましょう、ということです。そこで17節、18節でこう書いています。

これから話すことは、主によって話すのではなく、愚か者としてする思い切った自慢話です。多くの人が肉によって誇っているので、私も誇ることにします。

「多くの者が肉によって誇っている」とありますが、これはライバル宣教師たちのことです。前回もお話ししたように、パウロのボキャブラリーでは「肉によって」というのは悪い意味合いがあります。それは「この世の基準に従って」ですとか、「この世的な」というほどの意味です。

19節から21節までは、パウロは痛烈な皮肉でもってコリント教会の人たちを叱責します。「あなたがたは賢いのに、よくも喜んで愚か者たちをこらえています」というのは、「あなたがたコリントの信徒たちは自分たちが賢いなどと悦に入っているくせに、あの愚かな宣教師たちをよくもまあ有難がって受け入れるものだ」というほどの意味です。20節の、「事実、あなたがたは、だれかに奴隷にされても、食い尽くされても、だまされても、いばられても、顔をたたかれても、こらえているではありませんか」というのもライバル宣教師たちのことです。これらの宣教師たちは、あなたがたを奴隷にし、あなた方に対していばりちらし、だましているのに、あなたがたは彼らにせっせと貢いでいて、結構なことですね、というような意味です。先週もお話ししましたが、パウロのこの宣教師たちへの評価はあまりにも酷だという気がします。現職の牧会者が信徒たちを騙しているなどと、そんなことを言ってしまってよいのかと。しかし、こういうところはとてもパウロらしいという気もします。パウロは剛球一直線的な人で、この激しい言葉がコリント教会の中でどんな騒動を引き起こそうとも自分は思ったことをはっきりと言う、自分は逃げないという強い決意を感じます。21節でパウロは、こういうのは恥だが、私たちは弱かった、と言っています。この「弱い」には二重の意味があるでしょう。一つは、「パウロは弱い、気が小さい」というコリント教会の一部の人々からの批判を意識したもので、もう一つはライバル宣教師たちの挑発に負けて、彼らのように自らを誇ってしまう自分のことを自嘲気味に「弱い」と言っているということです。しかしパウロはそれでもあえて、誇り始めます。

22節では、ライバル宣教師たちがユダヤ人であることを誇るなら、私もいささかも引けを取らないと語ります。ここでパウロは自分がヘブル人でありイスラエル人だと同じようなことを言っていますが、ヘブル人とはヘブル語が話せることを、イスラエル人とは神の契約の民であることを強調したものと思われます。彼はピリピ教会への手紙でも、こう書いています。

私は八日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です(ピリピ3:5-6)

律法の義については非難されるところがなかった、というのはパウロがいかに熱心で厳格なユダヤ教徒だったかを示しています。ですから、他の誰かがユダヤ人であること、ユダヤ教徒であることを誇るなら、私はいささかも引けを取らないとパウロは自負していました。

では、かつてはユダヤ教徒として立派だったのは分かるが、今はどうなのか、今はキリスト教徒としてどう歩んでいるのか、ということを書いているのが23節以降です。

彼らはキリストのしもべですか。私は狂気したように言いますが、私は彼ら以上にそうなのです。

パウロはここで、ライバル宣教師たちのことを「キリストのしもべ」だと認めています。彼らのことを「サタンの手下ども」とまで呼んでいたので、このことには驚きですが、パウロは彼らをキリストのしもべだと認めつつ、自分はもっともっとそうなのだと語ります。その証拠として「私の労苦は彼らよりも多く」と指摘しますが、これも意外ですね。普通なら、私は彼らよりも多くの人たちにバプテスマを授けたとか、私の開拓伝道した教会の数は彼らよりも多いとか、そういういわゆる伝道実績を挙げそうなものですが、パウロはここで、自分は彼らよりもたくさん苦しんできたと、そのことを誇っています。当時のギリシア・ローマの人々は、人が多く苦しむのは神々の加護を受けていないからだと信じていたので、このパウロの発言は意外だったでしょう。しかしパウロにとって、宣教のために苦しむことは主イエスの生き方に倣うこと、主イエスのように生きていることの証であり、大いに誇るべきことなのです。パウロは「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度」とさらっと書いていますが、これは恐ろしい痛みを伴ったものです。申命記25章にはむち打ちの刑は40回までという限界が定められていますが、その限界すれすれまでむち打ちをされたということです。40回のむち打ちで死ぬ人もいましたから、これがどれほど恐ろしい刑罰であるのかは想像を超えます。次の「むちで打たれたことが三度」とありますが、これはユダヤ人ではなくローマ帝国の当局者からのむち打ちです。イエス様も十字架に架かる前にこのむち打ちに苦しめられましたが、パウロは三回もそれを経験していたのです。しかしどうしてパウロはこんなひどい目に遭ったのでしょうか。その理由の一つは、主イエスがユダヤ当局とローマ当局によって正式に犯罪者として処刑されていたからです。そのような人物を世界の王として宣べ伝えることはユダヤ人にとっては神への冒涜であり、ローマ人にとっては騒擾罪、社会の安定を乱す行為だと見なされました。しかし、それは他の宣教師たちも同じであり、パウロだけの問題ではありませんでした。パウロがユダヤ人から特に目をつけられていたのは、彼の異邦人とのかかわりのせいだったと思われます。厳格なパリサイ派の人は異邦人とは付き合わないし、食事も一緒に取りません。そうすると汚れてしまうと考えられていました。厳格なパリサイ派としてそのように生きてきたパウロが、いきなり百八十度方向転換して、無割礼の異邦人と親しく付き合っていることに保守的なユダヤ教徒の人たちは衝撃を受けたことでしょう。「パウロだけは赦せない。自分たちの仲間だと思っていたのに、あいつは裏切り者だ」と思った人もいたことでしょう。かつてのパウロがキリスト教徒を迫害したように、これらのユダヤ教徒もキリスト教徒となったパウロをことさらに迫害したのでした。それ以外にも、パウロはいつも旅をしていたので、旅に伴う数えきれないほどの苦難がありました。ローマは各都市間の交通網を整備していたとはいえ、今日とは比較にならないほど当時の旅は危険を伴うものでした。そうした中で何度も命の危険を感じながら、パウロは伝道を続けました。このバイタリティーはどこから来るのか、信じられないほどです。普通は一回でも死ぬ目に遭えば、それ以降は続けることに後ずさりしてしまうものですが、パウロはますます伝道に励んでいったのです。パウロのライバル宣教師たちへの批判は厳しすぎるようにも思えましたが、このようなパウロ自身の生き方を基準にすれば、確かに彼らには裁かれるべき点が多々あったのだと思わされます。

こうした開拓伝道に伴う苦難だけでなく、パウロは自らが建て上げた各教会についての心配という重荷がありました。パウロはこう書いています。

このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいて、私の心が激しく傷まないでおられましょうか。

ここは、牧会者としてのパウロの真心が伝わってくる、感動的な箇所です。パウロは教会の一人一人の信仰者のことを覚えていて、その一人が苦しめば自分も苦しむ、つまずけば自分もつまずく、と語っています。思えば、パウロがコリントの宣教師たちにあれほど攻撃的になってしまったのも、それだけコリント教会の人たちのことを深く憂慮しているからなのでしょう。

そして30節ですが、ここでパウロは最も大切なこと、また本当にコリントの人たちに伝えたかったことを述べています。「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」ここまでは、ライバル宣教師たちに対抗する形で愚かな誇り合戦に参戦してきたパウロですが、ここから先は自分の弱さ、そして自分の弱さの中に輝く神の恵みを誇るというように、内容が変わってくるのです。そしてパウロは自分の弱さを示す例として、彼が復活のキリストにダマスコ途上で出会って劇的な回心を遂げてからまだそんなに時間が経っていないころの出来事を話し始めます。彼はナバテヤ王国というアラブの国のアレタ4世からお尋ね者として指名手配されていて、一時期ダマスコを占拠したアレタ四世は、ダマスコにいるパウロを捕らえようとしました。そこで彼は命からがらダマスコの城壁から夜逃げしたのですが、このエピソードをパウロが語ったのは、当時の有名な英雄談義を意識してのことでした。当時、あるローマの兵隊が城壁都市の攻略の一番乗りとして、最初に城壁の壁をよじ登って敵を攻めたのですが、その功績を称えられて冠を与えられました。パウロはそのローマの英雄とは正反対に、戦わずに城壁から逃がしてもらったのですが、パウロはその体験を語ることで、自分の英雄的な行為を誇ることを拒否し、自分の弱さこそを誇ろうとしたのでした。イエスの十字架も、世の中の基準から見れば弱さの証拠です。敵にむざむざ殺されるなら、せめて一矢報いてから死ぬべきだという価値観が当時も今もあるわけですが、イエスはそのような英雄主義、レジスタンス精神を拒否し、一切の抵抗をせずに、弱さの中に死にました。しかし、その弱さの中にこそ、死人をよみがえらせるという神の力が働いたのです。パウロもそれをよく理解していたからこそ、自らの弱さを誇ったのです。

3.結論

まとめになりますが、今日はパウロがライバル宣教師たちの挑発にあえて乗っかる格好で、愚かな誇り合戦に参加するところを学びました。パウロもその気になれば、世の人々に対して誇れるものはたくさん持っていました。しかしパウロは、自らの伝道者としての驚くべき実績を誇ることをせず、むしろ自分の苦難の体験をこそ誇りました。それはパウロが、確かにイエスの道に倣って歩んでいることの証拠だったからです。そしてパウロは、だんだんと強さではなく弱さを誇るというように、「誇る」ということの意味そのものを変えていきました。

今の時代も、私たちの誇りは社会的地位や財産、学歴や外見などであることがほとんどで、自分の弱さを誇るというのは自虐ネタをするお笑い芸人ぐらいなのかもしれません。そういう意味ではパウロの時代も私たちの時代も大して変わりがないように思われます。しかし、私たちの信じる方は世の人が誇るようなものを何も持たない方でした。そして無力な存在として十字架で死なれたのです。しかし、その弱さの中にこそ、神の偉大な力が現れました。今私たちはレントの期間を過ごしています。その中で、このように弱さの中を歩まれたイエスの歩み、またイエスに倣ったパウロの歩みを今一度思い起こしたいと願うものです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。今日は使徒パウロが、ライバル宣教師たちの挑発に乗るようにして自らを誇りながら、だんだんと自らの弱さをこそ誇り、またその弱さの中に働く神の恵みを誇るようになっていったのを学びました。私たちの時代もパウロの時代と同じく、強さや豊かさや美しさや賢さを誇る時代ですが、どうかイエス様やパウロの示した道を私たちも歩むことができますように。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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