キリストに倣いて
第二コリント13章5~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は棕櫚の主日で、主イエスが地上での生涯の最後の1週間を過ごすためにエルサレムに入城したことを覚える日です。そして今日から受難週が始まりますので、週報に今週のためのデボーション・ガイドを挟みました。今週は一日一日、イエスの身に何が起こった日なのかを考えながらお過ごしください。また、1年半に及んだ第一、第二コリント書簡も今日で最終回になりますが、パウロはこの手紙を結ぶにあたり、コリントの人たちに今一度イエスの苦難の生涯を振り返るようにと呼びかけています。ですからこの棕櫚の主日に実にふさわしい箇所だと言えます。

前回お話ししたように、パウロは今三度目のコリント訪問の準備をしています。その訪問に際し、まずパウロは自分に向けられた疑惑を晴らそうとしました。具体的には、パウロがコリント教会に熱心に呼びかけていたエルサレム教会のための支援金の一部を、パウロが自分自身の活動資金として流用しているのではないか、というお金が絡む疑惑でしたが、パウロはそのような不正が起こる余地がないことを丁寧に説明しました。このような誤解を解いておくことは、三度目のコリント訪問を実りあるものとするためにはぜひとも必要なことでした。同時にパウロは、コリント教会の信徒たちにもパウロの三度目の訪問のために備えておくように強く促します。備えておくといっても、パウロの滞在のために快適な環境を整えるとか、献金を用意しておくとか、そういうことをパウロは求めていたのではありません。パウロの願いは、コリント教会の人たちが自分たちの霊的な状態を整えておくこと、その点に尽きると言ってもよいでしょう。特にパウロがこれまで何度も手紙を通じて勧告していた事柄、コリント教会に起こった内部分裂や性的不品行、偶像礼拝などの問題について、きちんと解決しておくことを望んだのでした。前回の箇所では、コリント教会の人たちは自分たちに主イエスの言葉として強く悔い改めを求めるパウロに対し、「本当にキリストはあなたを通じて語っているのか、その証拠を示してほしい、証明してほしい」と要求したことを学びました。この証拠というのは「ドキメ」というギリシア語で、テストをして、本物かどうか検証するというような意味合いがありますが、パウロはコリントの人たちに対しても「ドキメ」の動詞形である「ドキマゾウ」という言葉を使って、自分自身の信仰が本物かどうかをテストして検証するようにと求めています。そのような文脈を踏まえながら、今日のみことばを詳しく読んで参りましょう。

2.本文

では、まず5節を見ていきましょう。まずパウロは、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい」と書いています。ここで注目していただきたいのは、「信仰に立っている」という言葉の信仰という言葉です。新約聖書はギリシア語で書かれていますが、この信仰と訳されている言葉のギリシア語の原語には冠詞がついています。どういうことかといえば、英語で言えば単なるfaithやa faithではなく、the faithだということです。単なる信仰ではなく、ザ・信仰、ある特別な信仰ということです。「信仰」というのは、ある意味で曖昧な言葉ですよね。「あの人には信仰がある」とか「信仰が強い」と言った場合、ではその信仰とは何なのかというと、結構人それぞれいろんな理解があるのではないでしょうか。いわしの頭も信心から、という諺があるように、いわしの頭がありがたいものだと思い込むような単なる思い込みであっても強く信じる気持ちであればそれは信心、信仰と呼ばれてしまうことがあります。パウロがここで冠詞をつけてthe faithと言っているのは、信仰とはそういう何とでも取れるようなものではなく、もっと明確なものだということを示しています。単なる信仰ではなく、「あの信仰」ということです。また、これもしばしば誤解されることですが、パウロの語る信仰とは知識のことではありません。「信仰に立っている」という言葉の意味は、使徒信条のような正しい信仰告白の内容を知っていて、その内容を知的に受け入れているということではありません。もちろん正しい信仰告白に立つのは大切なことですが、ギリシア語の信仰という言葉、ピスティスという言葉は単なる知識ではなく、生きる姿勢そのものを示す言葉だからです。ピスティスという言葉を英語に訳すと、faithとも訳せますがfaithfulnessとも訳せます。このfaithfulnessという言葉は「忠実さ」という意味です。ですから5節の「信仰に立っているかどうか」は、「忠実に歩んでいるかどうか」、もっと正確に直訳すると「あなたがたは、あの忠実さの中を歩んでいるかどうか」と訳すことができるのです。でも、「あの」忠実さというのはどの忠実さ、あるいは誰の忠実さのことでしょうか?パウロはここで、あなたがたは「あの人の忠実さ」の中を歩んでいるかどうか、自分を吟味しなさい、自らをテストしなさいと言っているようなのですが、ではあの人とは誰のことでしょうか。その答えは5節のすぐ前の4節にあります。パウロはここで、「私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです」と書いています。「キリストにあって」というのは直訳すると「キリストの中にいて」ということになります。キリストの中にいるというのは不思議な表現ですが、パウロがよく使う言い回しでもあります。ただ、これはある種の神秘主義、生きたままパウロが天国におられるキリストと神秘的に一つになっているとかそういう意味ではなく、これは地上で人として歩まれたイエスに倣っている、イエスが苦難の中を歩まれたように、私も弱さの中を歩んでいるという、そういう意味です。パウロが第一、第二コリント書簡を通じてコリントの教会員に繰り返し語ってきたのは、私がキリストを見倣い、キリストの歩んだように歩んでいます、だからあなたがたもそうしてください、ということでした。そしてパウロはここでも同じことを言っています。あなたがたは、自分があのキリストの忠実さの中にいるのか、キリストの忠実さに倣って生きているのか、自分自身をテストしなさい、吟味しなさい、こう言っているのです。

なぜキリスト者はキリストのように歩むことが出来るのか、それはキリストがキリスト者の中にいるからです。ですからパウロは、「それとも、あなたがたのうちにはイエス・キリストがおられることを、自分で認めないのですか」と尋ねています。コリントの信徒一人一人の中には、キリストがおられるのです。でも、自分の中にキリストがおられるとはいったいどういう意味なのか、と思われるかもしれません。それは神の霊、それはすなわちキリストの霊のことですが、その御霊が私たちの中におられることを指しています。パウロはガラテヤ書簡の4章6節でこう書いています。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

神は私たち一人一人に御子の御霊、すなわちキリストの霊を送ってくださっています。もしそれを否定するならば、私たちは自分が救われていることを否定することになります。ですから5節でのパウロからコリントの信徒たちへの問いへの答えは、もちろん「はい、そうです。私たち一人ひとりの中にイエスがおられます」、ということなのです。私たちは心の中に、イエス・キリストをお迎えしているのです。だから私たちはもはや適当に、好き勝手に生きることはできません。私たちの中におられるイエス様が喜ばれるように生きたいと願うし、実際にそうするべきなのです。もしそうでないと、私たちは不適格だということになってしまいます。それでパウロは、「あなたがたがそれに不適格であれば別です」とくぎを刺しています。これはなかなか厳しい警告の言葉です。目が覚めるような言葉ですね。もちろん、私たちは弱い者ですので、すぐにイエス様のように生きるなどということは出来るはずもないです。しかし、本当にそうしようと願っているならば、少しずつでも進歩していくでしょう。これは信仰に限らず、スポーツでも習い事でも同じことです。進歩はゆっくりですが、それでもやり続ける限り確かに前進していきます。そして、そのように正しい方向に歩んでいることこそ大事なのです。初めから完璧にできる人などいません。それでも神を信じ、キリストが指し示す方向に倦まずたゆまず歩み続ける、それが大切です。その歩みの中に、必ず神の力が働くからです。ですからパウロはコリント教会の人たちに、自分たちが正しい方向に向かって歩んでいるのか、自己吟味しなさいと言っているのです。

次いでパウロは、再び自分たちのことを語ります。6節で、「しかし、私たちは不適格でないことを、あなたがたが悟るように私は望んでいます」と言っています。パウロはここで何が言いたいのでしょうか。これはパウロがキリストの言葉を語っていることに疑問を投げかける人たちを意識しての言葉です。パウロのことを外見が弱弱しく、話には迫力がなくてつまらないと批判するコリントの信徒たちに対し、主イエスも外見は弱弱しかった、イエスは謙虚で柔和な方だった、その十字架に付けられたイエスを思い出してほしいとパウロは訴えます。だからこそ私パウロも自分の弱さをいささかも恥じてはいない、むしろ私の歩みが十字架に付けられた無力なイエスを思い起こさせるのなら、それこそが私が適格者であることの何よりの証拠なのだ、そのことをあなた方も理解してほしいとパウロは訴えているのです。

7節では、パウロは再び視点をコリントの信徒たちの振舞へと移します。パウロの願いは、彼らがどんな悪をも行わないことでした。そうすれば、パウロは厳しい態度でコリント教会に臨まなくても済みます。パウロは第一コリント書簡でも、二度目のコリント訪問の前に、このような懸念について書いています。それは第一コリント4章20節以下です。そこをお読みします。

神の国はことばにはなく、力にあるのです。あなたがたはどちらを望むのですか。私はあなたがたのところへむちを持って行きましょうか。それとも、愛と優しい心で行きましょうか。

実際にはパウロは二度目の訪問の際に、厳しい態度で臨むこと、むちを振るうことはしませんでした。むしろ彼は信徒からの言葉の暴力を黙って身に受けました。しかし三度目の今度こそは容赦しないと言っているのを前の説教で読みました。彼らが悔い改めて正しい行いをしているのなら、パウロは愛と優しい心で彼らと再会することができます。パウロもそうなることを望んでいます。けれどもコリントの一部の信徒たちは、パウロが今度こそ厳しい態度で臨み、その力を見せつけてほしいと望んでいました。今度こそ男らしさを見せてくれ、使徒としての権威を見せつけてくれ、と期待する人たちもいたのです。そんな彼らからすれば、もしパウロが今回も再び優しい顔で来るのなら肩透かしを食らう格好になり、やっぱりパウロは迫力不足だ、とマイナスの評価を下すことになるかもしれません。そのことをパウロは7節で「たとえ私たちは不適格のように見えても」と言っているのです。パウロは、たとえ一部の人が自分のことを軽く見るようなことになっても、それでもあなたがたが正しい行いをしてくれることの方を喜ぶのだ、と言っています。なぜなら、パウロにとって人からどう見られるかということは些細なことだからです。パウロを裁く方は神おひとりです。ですから神の前に真理を行うこと、それだけがパウロの願いであり、パウロにはそうすることしかできないのだ、と8節で語っています。

それからパウロは「私たちは、自分が弱くてもあなた方が強ければ、喜ぶのです」と語ります。ここでもパウロはキリストのことを意識しています。パウロはこの手紙の8章9節で、「すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」と語っています。パウロもキリストに倣って、あなた方のために喜んで貧しくなる、弱くなると語っているのです。そしてパウロは、彼らが完全な者になることを祈っている、と続けます。「完全」というのは完全無欠、何の誤りも犯さない完ぺきな人という意味ではなく、ふさわしい状態に整えられた人、という意味合いです。パウロの願いは、彼らがキリスト者としてふさわしく歩むこと、それに尽きます。

そして10節では、三度目のコリント訪問を前に、なぜこの手紙を書いているのか、その理由を改めて説明します。それは、「私が行ったとき、主が私に授けてくださった権威を用いて、きびしい処置をとることのないようにするため」でした。パウロも本心では、むちを持ってコリントに行きたくはありません。兄弟姉妹たちと、今度こそ愛と優しい心で再会したい、そしてコリント教会を立派な教会に建て上げたい、それがパウロの心からの願いなのです。ここで、第二コリントの本文は実質的に終わります。

そして11節からは、まるで祝祷を聞いているかのような言葉が続きます。実際、第二コリント13章13節は最も多くの教会で祝祷に用いられている箇所です。まずパウロは、「終わりに、兄弟たち。喜びなさい」と語ります。喜びなさい、というのはピリピ人へ手紙に繰り返し現れるパウロの勧めですが、何に喜ぶのかと言えば、主が私たちのためになして下さったすべての良いことのゆえに喜びなさい、ということです。有名な詩篇103篇2節のみことば、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」、このみことばがパウロの「喜びなさい」という言葉の背後にあります。「完全な者になりなさい」というのは9節にあるパウロの祈りと同じ内容です。聖書のいう完全とは、一つも失敗しない、誤ることのないロボットのような存在ではなく、たとえ罪を犯してもそのことを隠そうとはせずに、神にすぐに立ち返ろうとする、そういう柔らかな心を持つことです。「慰めを受けなさい」は「励まし合いなさい」とも訳せます。そして互いに心を一つにし、平和を保つ、これが教会にとって最も大切なことです。そのような教会に「愛と平和の神」が伴ってくださるのです。平和とはヘブル語のシャロームですが、それは単に争いがない状態ではなく、神と人、人と人、そして人と他の被造物、これらすべての調和のとれた関係を指す言葉です。パウロも、これまで多くのいきさつやすれちがいがあったコリント教会に、神の愛と平和が豊かにあることを祈っています。そして13節です。「主イエスの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。」先ほども言いましたが、これは各教会の祝祷で最もよくつかわれる聖句です。私は普段は第二テサロニケ書簡のみことばから祝祷をしていますが、もちろんこのコリントのみことばを用いることもあります。ここで出て来る三つのギリシア語、恵みという意味のカリス、そしてとても有名な言葉、愛を表すアガペー、そして交わりのコイノニア、この三つはいずれも大事な言葉なので、覚えておいたほうがよいでしょう。

3.結論

まとめになります。今日で1年半に及んだ第一、第二コリント書簡からの学びは終わりになります。これまでこの二つの書簡を読んで、コリント教会の様々な問題の赤裸々な記述を読んで、なんとひどい教会なのか、と思われたかもしれません。しかし、コリント教会が特別に罪深かったと考えるのは、公平ではありません。ここではあえて、大使徒であるパウロの側の問題についても触れないと公平ではないでしょう。私がコリント書簡を読んでつくづく思ったのは、後継者を育てることの重要性です。パウロがコリント教会で牧会をしたのはわずか1年半です。しかもコリント教会は出来上がった教会ではなく、ゼロから立ち上げた開拓教会です。もちろんみんなが一堂に会することができて、毎日使える礼拝堂もありませんでした。また、パウロはテント職人として忙しく働いていたのでフルタイムで教えることはできませんでした。ですから信徒の中には、バプテスマを受けて数カ月でパウロがコリントを去ってしまい、満足に教えを受けることができなかったと不満を持っていた人もいたことでしょう。そしてコリントを去ってから、パウロが再び手紙を通じてコリント教会とやり取りを始めたのは3年後です。3年もの間、生まれたばかりのコリント教会が牧師なしで活動するのは不可能でしたから、そこに新しい教師たちが続々とやってきました。しかし、その教師たちの多くは、残念ながらパウロの眼鏡にはかなわなかった、それでパウロと新しい教師たちが対立するようになってしまった、これがコリント問題の原因の一端です。ですから、パウロが自分の信頼する後継者をコリント教会に残しておけばこんな問題は生じなかったとも言えます。その意味では、コリント問題は後継者問題ともいえるのです。もちろん、これはパウロが悪いという意味ではありません。彼は猫の手も借りたいほど忙しかったし、彼は新しい教会を次々と立てていたので、それらの教会にすべて後任の人を置くことは不可能でした。しかし、後任のいないことのマイナス面が最も強く出てしまったのがコリント教会だったのです。

私自身は、主の許しがあればこの教会で10年、20年と牧会をしたいと願っていますが、同時にいつか私が退いた後に、この教会に良い教師が与えられるようにと今から祈っています。牧師というのは、赴任したその日から後継者のことを考えるのが責任だと思っているからです。そして一人前の牧師になるには時間も労力も必要です。少なくとも10年はかかります。ですから、この私たちの教会のため、また日本各地の教会のため、常に良い後継者が与えられることを私たちは祈るべきです。

また、パウロが1年半しかコリントにいなかったことで決定的に不足してしまったのは、聖書や信仰について教える時間でした。パウロは第一コリント書簡で、コリントの信徒たちがイエスの復活を信じていないことにショックを受けています。キリストの復活を信じなければ罪からの救いもない、それほど大切なことをコリントの一部の信徒が信じていなかったことにパウロは衝撃を受けましたが、公平を期するならば、これは教えたパウロの側の責任でもありました。パウロが時間をかけて、丁寧に復活の意味についてコリントの信徒たちに教えていれば、このようなことにはならなかったはずでした。からだのよみがえりを信じることは、霊肉二元論的な世界観、つまり肉体はかりそめのもので、霊こそが人間の本質だという考えを持つギリシア人にはとても難しいことだったからです。パウロもそのことに気が付いていたようです。パウロの最後の書簡と言われるローマ人への手紙で、パウロは盛んに主イエスの復活を強調していますが、これはもしかするとコリント教会での経験について反省をした結果なのかもしれません。私たちもいよいよ来週は復活主日を迎えます。それに際し、ぜひパウロの第一コリント書簡15章をじっくりと読み直して、復活についての理解を深めていただきたいと思います。

そして第一、第二コリントを通じてパウロが常に訴え続けたのは、信仰の道とはイエスの足跡に倣うこと、イエスのように謙虚にへりくだって、平和を追い求めることだということでした。イエスは剣ではなく十字架を選びました。戦いではなく、赦しを選びました。そのことを覚えながら、復活へと至る受難週を歩んで参りましょう。お祈りします。

パウロを使徒として召し、イエス・キリストの福音を伝える者として下さった父なる神様。今日で1年半に及ぶ、そのパウロの手紙の講解説教を終えることができました。心から感謝いたします。この書簡を通じ、教会のあるべき姿について様々なことを教えられました。そのことを当教会が今後も活かしていくことができますように。またパウロの最も大切なメッセージ、柔和なイエス様に倣って生きるようにとの教えを、とりわけこの受難週は胸に刻むことができますように。私たちのために命さえ与えてくださったわれらの牧者イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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