花嫁賛歌
雅歌:4:19-15
森田俊隆

今日は雅歌からです。この文書は、神信仰に関する表現は全くなく、単なる男女の恋愛詩のように見えます。それもかなりあけっぴろげに性的描写があるため、「性」については秘められたこととし、公に語ることが許されなかった時代には教会でこの文書を取り上げることさえタブーとされました。しかし、いろいろな議論はあったにしろ、ユダヤ教の聖書正典に取り入れられ、キリスト教会においても聖書正典の文書とはされてきました。ユダヤ教においてはこの男女の関係の描写が主なる神とイスラエルの民の関係を寓喩的に表現したものだと解釈し、キリスト教では主イエスと教会の関係を表現したものだと解釈し、聖書正典としての「雅歌」を合理化してきました。キリスト教の解釈は主なる神を主イエスに、イスラエルの民を新しきイスラエルたるキリスト教教会に置き換えたものです。根本的問題性はなぜユダヤ教の正典となったのか、という点です。雅歌を色眼鏡なしで読みますと、ここに描かれている花婿のイメージは旧約聖書の他のところで示される主なる神のイメージとは同一とは思えない大きな乖離があります。

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癒しと赦し
マルコ福音書1章40~2章12節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書のこれまでのところは、イエスが歴史の表舞台に登場するまでの様々な出来事を描いた、導入部のような意味合いがありました。そして今日の箇所からは、有名なエピソードが次々と登場します。本日の箇所の二つの癒しもとても印象的な、有名な話です。そして、こうしたエピソードを読むうえで注意していただきたいのは、これら様々な出来事を通じて見えてくるイエスの狙い、目的です。といいますのも、漫然と福音書を読んでいくと、イエスは何の目的もなくガリラヤの村々を放浪しているような印象を受けてしまうからです。イエスは特に目的も目指すべきゴールもなくあちこち歩き回っていたけれど、その行く先々で可哀そうな人たちに出会い、彼らの悲しみや苦しみに心動かされて、自分に備わっている不思議な癒しの力を用いてそうした人たちを癒していった、そんな風に読んでしまうかもしれません。しかし、イエスは決して漫然とあちこちを放浪して、場当たり的に癒しの業を行っていたのではありません。むしろ、一刻も自分に与えられた時間を無駄にしないように、よくよく考えて、計画的に行動していたとみるべきです。実際、イエスには明確な目的があり、その目的に沿って行動していました。イエスの目指していた目標を一言で言うならば、それは「神の王国」の到来、あるいは「神の支配」の実現です。この地上世界に神の支配を目に見える形で実現する、神ご自身が支配されるというのは、どんなものなのかを人々に具体的に示すことです。

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ガリラヤ全土に広がる福音
マルコ福音書1章29~39節

1.導入

みなさま、おはようございます。5月からマルコ福音書の説教を始めてちょうど2カ月が経ちましたが、今日の箇所でマルコ福音書の最初のステージといいますか、初めの部分が終わります。ここまではイエスが鮮烈なデビューを飾るという局面です。無名の青年であったイエスがガリラヤで一躍人々の注目を集めるようになっていく、時の人になる、そのような過程でした。前回のカペナウムの会堂での場面では、イエスは人々に強い印象を与えた二つのことを行っています。

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ガリラヤの会堂にて
マルコ福音書1章21~28節

1.導入

みなさま、おはようございます。前回はイエスが四人の漁師たちを弟子として召し出したところを学びました。今回は、いよいよイエスが本格的な宣教活動をスタートさせる、そういう場面です。イエスはカペナウムというところに行って、そこで活動を開始します。カペナウムはイエスの宣教の拠点となる重要な場所なので、この地についてすこし解説しましょう。イエスが生まれ育ったナザレはガリラヤ湖畔の村ではありません。湖からはかなり離れた内陸の、むしろ隣国のサマリヤに近いところにありました。人口は数百人しかいない小さな村で、かなり引っ込んだところ、というイメージでしょうか。それに対してカペナウムはガリラヤ湖畔の町としてはかなり大きなもので、人口も1万人ほどでした。そこはローマの軍隊の駐屯地になっていましたので、今の日本で言えば米軍キャンプのある横須賀のような感じでしょうか。そこにはローマ帝国に代わって税金を取り立てる取税人たちの事務所があり、12使徒のひとりの取税人マタイもこの町でイエスに弟子になるようにと呼ばれました。それでも、カペナウムは都会と呼べるほど開けたところではありませんでした。そこは比較的大きな漁村ではありましたが、都市ではなかったのです。

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労苦の中にしあわせを
伝道者の書3:9-17
森田俊隆

「伝道者の書」は新改訳聖書の文書名ですが、口語訳聖書では「伝道の書」と訳されていました。日本のカソリックとプロテスタントが共同して訳した新共同訳では「コヘレトの言葉」となっています。ヘブル語原典では「コヘレト」と言います。これは、“会衆を召集する”という意味の「カーハル」の変化形で「会衆を召集する者」という意味になります。そこから伝道者、という意味になった訳です。ルターは「説教者」と訳しているそうです。ギリシャ語訳では「エクレシアステス」で英語訳でもこの名前です。“集会を司る者”の意味です。「エクレシア」といえば教会のことを指します。この伝道者の書は聖書の他の文書とは非常に異なっています。1:2で「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空」という言葉で始まり、人生に否定的で、信仰の書としての聖書に相応しくない、と見える文書です。

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弟子たちの召命
マルコ福音書1章16~20節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は大変恵まれたペンテコステ礼拝になりましたが、今週から通常通り、マルコ福音書からの説教に戻ります。前回は、イエスがいよいよ福音宣教に乗り出すという場面でしたが、イエスにはまだその時には仲間がおらず、単独で行動を始められました。しかし、神の王国を人々に広めるという任務は一人だけでできるようなものではありません。ある王国があって、その王国には王様一人しかいなければ、それは王国とはとても呼べません。神の王国は神の支配という意味ですが、その支配に従う人々がいて初めて王国は王国となるのです。ですからイエスの最初の仕事は、王国の中で自分に従ってくる弟子たち、しもべたちを呼び集めることでした。今回は、十二使徒の中でも特に有名な四人の弟子たち、彼らの召命物語を見てまいります。

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生ける水としての聖霊
ヨハネ福音書4章1~42節

1.導入

みなさま、ペンテコステおめでとうございます。おめでとうございます、と言った後に説明するのも変ですが、ペンテコステとは、死者の中から復活した後に天に戻られたイエスに代わって、教会の主として、またリーダーとして聖霊が教会に与えられたことをお祝いする日です。イエスという指導者を失った教会に、新たに聖霊という指導者が与えられたのです。ペンテコステは、クリスマスとイースターと並んで、キリスト教の三大主日の一つとされています。しかし、クリスマスやイースターと比べると、ペンテコステは世間一般ではほとんど知られていない、地味な主日だと思われているのではないでしょうか。クリスマスはイエス様の誕生日ということで分かりやすく、今やクリスチャンのみならず、すべての人のお祭りのようになっています。それに対してイースターは、イエスの復活を祝う日ですが、死んだ人がよみがえるというのは確かに一般の方には信じがたいことかもしれませんが、テレビなどで海外の盛大で荘厳な復活祭の様子がしばしば報道されていることもあって、かなり認知度が上がっていると思います。私も今年の春、近くのトップというスーパーで買い物をしていると、「イースターはイエス・キリストの復活を祝う記念日です。みなさんこの機会にぜひ卵を買いましょう」という場内アナウンスを聞いて、イースターも日本でとうとう市民権を得たな、とうれしく思いました。それに対し、ペンテコステと聞いてもほとんどの日本の方からは「それ何?」という反応しか返ってこないように思います。

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神の王国の到来
マルコ福音書1章14~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今日で四回目になりますが、この福音書は非常にテンポが速いといいますか、展開がとても急です。前々回、イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネが登場しましたが、早くも彼は舞台から消え去り、イエスが歴史の表舞台に登場することになります。この展開の早さがマルコ福音書の魅力でもあるのですが、同時に簡潔な記述の背後にある様々な事情を考えながら、丁寧に1節1節読み進めていく必要があります。今朝のみことばもわずか2節ですが、しかしここには大変重要なことがらが凝縮して書かれています。ここには、まさにマルコ福音書の主題、メインテーマが提示されています。みなさんもよくご存じのベートーヴェンの交響曲5番「運命」、この曲は運命のテーマと呼ばれる「タタタターン」というわずか四つの音が縦横無尽に展開されて壮大な音楽の世界を作り上げているのですが、マルコ福音書における「タタタターン」は「神の王国」という短い言葉です。この言葉、マタイ福音書では「天の王国」とも言われますが、これは四つの福音書ではイエスの言葉として100回近くも登場する非常に重要な言葉です。そして、今日のイエスの宣教第一声で、この言葉がいきなり登場するのです。

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イエスの洗礼と試練
マルコ福音書1章9~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今回が三回目になりますが、今回からいよいよ主イエスが登場します。前回はイエスの登場を予告した二人の証人、つまり旧約聖書のイザヤをはじめとする預言者たちと、イエスとほぼ同時代に生きた人ではありますが、イエスより前に活動を始めていたバプテスマのヨハネのことを見てまいりました。今回は、イエスがそのヨハネからバプテスマ、つまり洗礼を受けるという場面と、それに続く荒野での誘惑について見ていきたいと思います。

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あなたを憎む者
箴言25:21-22; 24:17-18
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は、「箴言」のなかから、主イエスの「汝の敵を愛せよ」に通じる言葉ではないか、と思われる個所からお話をさせていただきます。「箴言」という言葉は英語では「proverb」といい、「格言」とか「諺(ことわざ)」の意味です。ユダヤ人の聖書の文書の分類では「諸書」の一つで、知恵文学と称せられる分野の文書です。知恵文学では「知恵」を大切にし、それを深く理解した「知恵者」となることが理想とされています。箴言以外では「空の空」で有名な「伝道者の書」、外典では「ソロモンの知恵」と呼ばれる「知恵の書」、「集会の書」と呼ばれる「シラ書」があります。更に偽書と呼ばれる文書のなかでは「モーセの遺訓」「ヨブの遺訓」「アブラハムの遺訓」という遺訓シリーズがあります。偉大な人物が語った“人生の真実を語った文書”という訳です。今日はこれらの聖書関連文書を含めてみていきたい、と思います。

“あなたを憎む者
箴言25:21-22; 24:17-18
森田俊隆
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