テモテからの知らせ
第一テサロニケ2章17~3章14節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日は、パウロという有名なキリスト教の伝道者がテサロニケというギリシアの都市にある教会に向けて書いた手紙の一節を読んでいます。パウロという人は、もともとはキリスト教に反対し、教会を攻撃して破壊しようとしていた、かなり過激な人でした。それが、復活したイエス・キリストと出会うという神秘的な体験をした後に一変し、最も熱心なキリスト教の伝道者になりました。パウロはまだキリスト教が伝わっていない地域に福音を届けることに強い情熱をもっていました。そしてヨーロッパのギリシアにはまだ福音が伝わっていなかったので、いち早くそこへむかって伝道をしたのがパウロでした。パウロはまず、ギリシアの北部のマケドニア地方に向かい、まずピリピという都市、そしてマケドニア地方の中核都市であるテサロニケに向かいました。今日お読みいただいた箇所は、パウロがそのテサロニケを去った後、テサロニケの信徒たちに書き送った手紙の一部です。

テサロニケという都市は、現在でもギリシア第二の都市として有名です。つまり今日でも大きな都市なのですが、パウロが活躍した二千年前も大きな都市でした。テサロニケは、あのアレクサンダー大王を生んだマケドニア地方の州都で、テサロニケという名前そのものが、アレクサンダー大王の妹テサロニケイアに由来しています。紀元前二世紀になると、テサロニケは当時地中海世界を猛烈な勢いで征服していたローマ帝国に従属するようになり、ローマに忠実な都市として発展していきました。ローマもテサロニケの忠誠に応えるように、様々な特典をテサロニケに与えました。テサロニケはローマによって「自由都市」、つまり税を免除されるという特権的な地位も与えられました。税が免除されるというのはとてつもない特典です。

そうした中で、テサロニケ市民も、ローマとの良好な関係を築くことをなによりも大切にするようになりました。その努力の一つがローマ皇帝を讃えることでした。讃える、と言っても人間として讃えるのではなく、神として讃えるということです。テサロニケの硬貨には「テサロニケ人はユリウスを神として讃える」と刻まれています。ユリウスとはもちろんローマの英雄ユリウス・カエサルのことです。また、カエサルのための神殿も建立されました。ですからカエサルの養子でローマの初代皇帝となったアウグストゥスは「神の子」となるわけです。また、ギリシアの諸都市ではアウグストゥスが世界の支配者となったことがエバンゲリオン、つまり「福音」であると宣言されていました。さて、お気づきになると思いますが、ローマの皇帝を讃美する言葉と、イエス・キリストを讃美する言葉がとてもよく似ていますよね。しかもそのイエスは、ローマによって罪人として十字架で処刑された人物なのです。パウロはそのイエスが、神によって死者の中から復活させられ、今や世界の真の王となられた、そのイエスがこの世を裁くために天から戻って来られる日は近い、という「福音」を宣べ伝えたのです。

ローマの支配の下に生きていたギリシア人には、パウロのメッセージは何とも理解しかねるものでした。十字架刑というのは、ローマ帝国がその支配する領域の人々に恐怖を植え付けるために用いた、極めて残忍で非人間的な処刑方法でした。人間の尊厳を奪う、誰もが目をそむけたくなるようなものです。そんなひどい死に方をした人が、今や世界の王となって、やがて世界を裁くことになる、という話は荒唐無稽な作り話にしか思えないと考えた人は多かったでしょう。しかし、パウロは真剣そのものでした。彼はこの福音を伝えるために、昼も夜も休みなく働き、そして仕事の合間を縫って熱心に伝道しました。その彼の真摯な生き方を見て、この人の言っていることは嘘ではない、真実の力がある、と感じる人たちが起こされていきました。しかし、パウロの言葉を受け入れる人たちが段々と増えていくと、周囲の人々は不安を感じました。パウロはイエスを信じるようになった人々に、それまでの生活を改めるようにと促しました。あなたがたは神に選ばれたのだから、神の民としてふさわしい生き方をしなさい、と教えました。これまでギリシア・ローマ世界の人々の間では当たり前のように行われていたことも、キリスト教の倫理観からは許容されないということがあるのです。その最も分かりやすい例は、多神教信仰からの決別です。

ギリシアの人々は、八百万の神を信じる日本人のように多神教に寛容でした。いろいろな神々を同時に礼拝することに何の問題も感じませんでした。しかし、パウロは神は唯一であり、他の多くの神々は存在しない、まやかしなのだと教えました。当然、人間に過ぎないローマ皇帝を神として礼拝することにも反対しました。しかしこのことは、単に宗教的な問題に留まらない、政治的な意味合いもありました。例えば戦前の日本のことを考えてみてください。クリスチャンが、「私はキリスト教徒だから、お寺の仏像には手を合わせません」と言っても問題にはならなかったでしょうが、「私はキリスト教だから、現人神と言われる天皇陛下を崇めることはできません」といえば大問題になったでしょう。非国民と呼ばれ、不敬罪に問われたことでしょう。テサロニケの場合も似たような状況だったと考えられます。クリスチャンとなったテサロニケの人々が、ギリシアの神々を礼拝するのを止めたとしても、人々はあるいは大目に見てくれたかもしれません。しかし、テサロニケの経済的安定を支えてくれているローマ皇帝への忠誠心を疑われるような行動は、大目には見られなかったでしょう。そして、彼らにそのような行動を促していたパウロは、ローマへの反逆者という嫌疑がかけられても不思議ではありません。実際、「使徒の働き」という、パウロたちの伝道活動を記録した文書では、パウロにかけられた嫌疑を次のように記しています。

世界中を騒がせて来た者たちが、ここにもはいり込んでいます。それをヤソンが家に迎え入れたのです。彼らはみな、イエスという別の王がいると言って、カイザルの詔勅にそむく行いをしているのです。

パウロは、ローマ皇帝カエサルとは別の王、イエスという真の王がいると宣べ伝えているという反逆罪の嫌疑をかけられていたということです。パウロは逮捕監禁され、下手をすると死罪になる恐れがありました。パウロとしては、やむなくテサロニケを立ち去るしかありませんでした。パウロとしては、もっと時間をかけて伝道をしたかったのですが、彼に対する反対があまりにも大きかったので、やむを得ず撤退を決めたのでした。

しかし、キリスト教に対する不信や憤りの心は、テサロニケの多くの人々の心に残ったままでした。リーダーであるパウロがいなくなった今、そうした敵意の心はテサロニケ教会の人々に対して向けられました。誕生して間もないテサロニケ教会は、パウロという指導者を失っただけでなく、敵対的な人々に取り囲まれて孤立無援の状況にありました。パウロもテサロニケの状況を、遠く離れたアテネという都市で伝え聞いて、彼らのことが心配でなりませんでした。その時のパウロの揺れ動く気持ちを綴っているのが今日お読みした箇所なのです。

2.本論

では、2章17節から見てまいりましょう。パウロは、「兄弟たちよ。私たちは、しばらくの間あなたがたから引き離されたので」と書いています。これは、命の危険からパウロがテサロニケを急遽立ち去らざるを得なかったことを言っています。しかしパウロは、身体的には遠く離れていても、心では常にテサロニケの人々のことを思い続けてきたことを強調します。パウロと、彼の同労者であるシルワノとテモテは、テサロニケを去った後ベレヤというところに行き、それからずっと南下してギリシアの首都であるアテネに行きましたが、その旅の途上でも、機会があればなんとかテサロニケに戻りたいと願っていました。パウロは一度ならず、二度までも引き返してテサロニケに行こうとしたのです。しかしそれは実現しませんでした。パウロは、「しかし、サタンが私たちを妨げました」と書いています。もちろん、サタンと呼ばれる悪魔が文字通りに現れてパウロたちを妨害したわけではありません。おそらく政治的な力がパウロの帰還を妨げたのですが、その政治的な勢力の背後に悪魔的な力が働いていた、とパウロは示唆しているのです。それでも、パウロはテサロニケに戻ろうとした自分の気持ちは本物だったということを強調します。パウロは、イエス・キリストが間もなく天から戻ってきて自分たちを救ってくれると信じていたのですが、その時にパウロが誇りとし、喜びとするのはあなたがたテサロニケの信徒たちなのだ、ということを強調しています。

さて、そのパウロですが、テサロニケから350キロ以上も離れたアテネにまでたどり着いて、そこで伝道していました。私もアテネには一度だけ行ったことがありますが、学問と宗教が盛んな大都市です。そこで腰を落ち着けて伝道するというのも一つの策なのですが、パウロはテサロニケの教会のことがここでも気になって仕方がありません。そこで、300キロ以上あるテサロニケにまで、自分の右腕であるテモテを送り返すことにしました。パウロ本人が行けば大問題になりますが、若くてあまり目立たないテモテならば、うまくテサロニケに潜り込めるだろうと考えたのです。パウロはその目的を、次のように記しています。

それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。

パウロがテサロニケを去ってから、テサロニケの信徒たちは周囲の人々の批判の矢面に立つことになりました。批判といっても、悪口を言われるというような生易しいものではなく、実際に暴力を振るわれたり、仕事の上で大きな不利益を受けて経済的な損害を受けた人もいたでしょう。普通の人なら、入信したばかりの宗教のために、こんな苦しい目に遭うのなら、いっそ信仰を捨てたほうがよい、と考えたかもしれません。しかしパウロは、こうした苦難に会うのは必然なのだ、と言います。これは新約聖書に一貫した教えなのですが、クリスチャンは信仰のために必ず苦難に会う、ということが言われています。それはなぜなのか、信仰というのはそもそも苦しみから救ってもらうために持つものなのに、なぜ信仰のためにむしろ苦しむようになるのか、というのは誰もが思う疑問でしょう。しかし、「艱難汝を玉にす」ということわざがあるように、人間の品性というものは、順風ばかりのなかでは育たないものなのかもしれません。パウロはローマ人への手紙の中で、こう書いています。

そればかりでなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。(ローマ5:3-5)

人間は、実際に苦難に会わないと、苦しんでいる人のほかの気持ちが分からなくなると言います。人というのは、そのように他人の気持ちに鈍感な生き物なのでしょう。したがって、人生嫌なことばかりというのでは困りますが、良い事づくめの人生というのも、人間性の向上という意味ではあまり良くないのかもしれません。パウロはさらに、患難は最終的に希望を生み出すとも語っています。希望というのは、神から来ます。普段は神など必要ない、自分の力でなんでも解決できると思っている人でも、本当に追い込まれると自分の無力さを痛感させられます。そのような時、自分で自分を救えないと思ったとき、人は初めて神の方を向き直り、神からの救いを待ち望むようになるのかもしれません。ですから、希望というのも苦難を通じて初めて得ることができるのでしょう。

パウロも、苦難の中にあるテサロニケの人たちに、神への信仰に固く立ち、未来に希望を持つように促しています。さらにパウロは、テサロニケの人々が苦難に会うことを私はあらかじめ語っておいた、と言っています。

あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。

これは、今私たちが苦難に会っているのはパウロのせいではないか、彼が私たちをキリスト教に導いておきながら、自分だけ逃げだすのは卑怯ではないか、という不満を抱いたであろう一部の信徒を意識した発言かもしれません。パウロもテサロニケを去ったことは甚だ不本意だったので、こうした思いを抱いた信徒がいたとしたら、本当に苦しい思いをしたに違いありません。しかしパウロは、私はあなたがたを欺いたわけではない、むしろ初めからあなたがたがこうした苦難に会うと警告しておいた、ということを思い起こさせます。パウロは、キリスト教について良いことばかりを語って人々を信仰に導いたのではありません。信仰に伴う負の側面、信仰を持つことが苦難を招くことにつながる、ということも語っていたのです。とはいえ、実際に苦難が訪れれば人は動揺します。その時に、精神的な指導者であるパウロがいなければなおさらのことです。そこで、パウロはテモテをテサロニケに遣わす決断をしたのです。

パウロは「誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って」と書いています。「誘惑者」という言葉は「試みる者」と訳した方がよいと思いますが、人間をテストする者、試みる者というのは、これもサタンのことです。サタンあるいは悪魔は、ある意味で人間の本質を図る試験官のようなものです。彼は人間を試みて、神への信仰が本物なのかどうかを図るのです。こう考えると、サタンですらその存在がすべて悪ということでもなく、彼もまた間接的には神の計画を遂行するために働いているということになります。キリスト教は善悪二元論、つまりこの世界を支配する善の力と悪の力は拮抗しているという世界観ではなく、善であれ悪であれ、すべてのものは究極的には神から来ているという信仰を持っています。ですから悪の権化のようなサタンでさえ、究極的には神の目的に奉仕する存在なのです。

さて、そのテモテが数週間して無事にテサロニケから戻ってきました。パウロはアテネの後にはコリントに向かいますが、おそらくパウロはテモテが帰ってくるまではアテネを離れずに彼の帰りをじっと待っていたものと思われます。そしてテモテは大変うれしいニュースを届けてくれました。それは、テサロニケの人たちが非常に困難な状況の中でも信仰を捨てず、また彼らを見捨てたような格好になっていたパウロについて不満を持たず、むしろパウロについて非常に好意的な感情を持ち続け、パウロに再会するのを楽しみにしているという知らせでした。それはパウロを大喜びさせました。彼らはパウロという指導者をなくし、人々の敵意に囲まれながらも、信仰を捨てなかったからです。パウロはその気持ちを、率直にこう書いています。

このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって、堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。

つまりパウロは、あなたたちのお陰で生きていてよかったと思えた、とその喜びを表しているのです。パウロの願いは、一刻も早く彼らに再会したいということでした。実際には、その再会までには数年間を要することになりましたが、その間もテサロニケの人たちは信仰を守り抜き、パウロの事を祈りにおいて、また時には経済的に支え続けたのでした。パウロの願いが、こうしてテサロニケの人々の信仰生活の中で成就していったのです。

3.結論

まとめになります。今日は不本意ながらもテサロニケを去らなければならなかったパウロと、あとに残されたテサロニケ教会の信徒たちのことを学びました。テサロニケの信徒たちは、パウロが去った後に厳しい迫害や困難に直面しました。普通に考えれば、入信して1年足らずの宗教で、しかもそれを伝えた伝道者がいなくなってしまうという状況の中で、そんな困難な状況を耐えられるはずがない、と思うでしょう。しかしテサロニケの人々は耐えきったのです。それは、期間は短かったとはいえ、テサロニケで伝道していた時のパウロの真摯な生き方が、深くテサロニケの人々の胸に刻まれたためだと思われます。彼らはパウロに倣い、苦難を耐え忍ぶことができたのです。

日本でも、かつて戦国時代にキリスト教が伝わり、その後は厳しいキリスト教への弾圧が始まり、江戸時代の長きにわたって厳しい禁制が引かれました。普通ならキリスト教は死に絶えたと思われるところですが、しかしなんと明治時代まで信仰が絶えることはなかったのです。信仰の力は本当に強いと思わされます。同時に、命がけでキリスト教を伝えた伝道者たちの生き方が人々の記憶に残り続けたことが大きかったのでしょう。

私たちは今日、キリスト教信仰を持つうえで何の障害もない時代に生きています。信教の自由が保障され、反社会的なカルト的な宗教でない限り、自由に信仰を持ち続けてよい時代に生きています。しかし、このような自由が得られるようになるためには、先人たちの多くの労苦があったことを忘れてはならないでしょう。同時に、たとえ信仰のために迫害を受けることはなくても、私たちの人生には多くの苦難や悩みがあります。しかし、そうした苦難の中でも耐えることを学び、また将来に希望を持ち続けるものでありたいと願うものです。現実は私たちの願い通りにはならないかもしれません。パウロも、キリストがすぐにも天から戻ってきて信徒たちを救ってくれることを願いましたが、その希望は叶いませんでした。しかし、その代わりに二千年もの間続く教会を立ち上げることができました。ですから、私たちも主を信じて辛抱強く伝道の働きを続けてまいりましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様。そのお名前を賛美します。今日は音楽の集いが午後に控えていることもあり、多くの兄弟姉妹と礼拝を守ることができる幸いに感謝します。また、今日は教会の礎を作ったパウロやテサロニケの信徒たちのことを学びました。私たちも彼らの忍耐に倣い、忍耐強く福音を伝える者とならしめてください。我らの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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