青年サウル
第一サムエル9章1~27節

1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記からの説教も早いもので、今日で9回目になります。前回の箇所では、イスラエルの人々が王を立てたいとサムエルに願い出ました。それまではイスラエルには王はいませんでした。なぜならイスラエルを王として導くのは神ご自身だったからです。しかし、人々は見えない神よりも、目に見える人間の王を求めました。勇敢で強いリーダーシップを持った王を立てて、彼によって外敵から守ってもらおうとしたのです。しかし神は王という存在の危険性をイスラエルの人々に指摘しました。王があなたがたのために戦うよりもむしろ、あなたがたが王のために戦わなければならなくなると。戦いだけではなく、王は日常生活のいろんな場面で、人々の権利や自由を侵害するだろうとも警告しました。

なぜこれまでイスラエルには王がいなかったのか?その理由は、王という存在はイスラエルの人々を奴隷状態に逆戻りさせてしまう危険性を持つものだからです。そもそもイスラエル民族が誕生したのは、奴隷解放を通じてでした。かつで、イスラエルの人々はエジプトで奴隷として扱われ、苦役にうめいていました。そこで神はモーセを遣わし、イスラエルの人々を奴隷の家から解放しました。それ以後、イスラエルの人々の目的は二度と人間の奴隷とはならないということでした。神のみに仕える、神を王とするということは、人に奴隷としては仕えないということでもあったのです。ですからイスラエルは、その国の中に人々を奴隷として扱うような貴族や特権階級を作らずに、人々が皆神の下に平等であるという、そういう社会づくりを目指してきたのです。しかし人々はそのような神の御心を理解せず、もっと手っ取り早い手段を求めました。つまり、周辺の国々は強い王のもとに強力な軍隊を作って、イスラエルの安全を脅かしている、だから我々もほかのすべての国民のように、強力な王を持ちたい、いや持たなければならないと騒ぎ始めたのです。彼らは神よりも、周りの人々のことばかり気にしていたのです。

このように、イスラエルに王制が導入されるということは、イスラエル民族の理念そのもの、つまりイスラエルは人に仕えずに神のみに仕える、イスラエル人はみな神の下に平等である、という理念を脅かすような危険な動きでした。しかしイスラエルの人々は神の警告に耳を傾けようとせずに、強く王を求めました。神とサムエルは、その声に譲歩するように、王を立てることを容認しました。これは決して積極的な承認ではなく、むしろ消極的な容認でした。かくして、神はイスラエルに王を立てることを認めましたが、認めた以上は王を探さなくてはなりません。今日は、イスラエル初代の王として白羽の矢が立てられた一人の青年についてみてまいりましょう。

2.本論

さて、その王として選ばれたサウルについてみていきましょう。サムエル記においてサウルについて考える上で、注意する点が二つほどあります。まず、サムエル記はサウルという人物の人となりにについて総合的な判断が下せるほど、十分な情報を与えていないという点です。サウルについての記述は断片的で、またとても簡潔です。まさに必要最小限という具合で、そのような短い記事だけで、「サウルとはこういう人物だ」と決めつけることには慎重にならなければなりません。また、「歴史は勝者が作る」ということわざがありますが、このサムエル記はダビデ王朝を正当化する観点から書かれています。ダビデ王朝はサウル王朝にとって代わるようにしてイスラエルの王家となったわけですが、それは決してクーデターのようなものではなく神の御心に基づく正統な王朝交代であるということを示すのがサムエル記の目的の一つであるといえるでしょう。ですから、サウルが一種病的な嫉妬に駆られていつもダビデの命を狙っていたかのようにサムエル記には描かれていますが、そこは多少割り引いて読んでいったほうが良いでしょう。

さて、サムエル記の今日の9章から11章までは、サウルがいかにしてイスラエルの王にまで上り詰めるかという、サクセス・ストーリーになっています。ここにはサウルについて、否定的なことはほとんど書かれていません。それとは対照的なのは13章から15章までで、これはサウルの転落のストーリー、サウルがいかにして王失格という厳しい判断を下されるのか、という記述になっています。こちらではサウルについての記述はほとんど否定的なものばかりです。同じ人物について、これほど両極端の肯定的、否定的な記述が続いて出てくるのかと言えば、おそらくサムエル記が別々の伝承を用いているためだと思われます。つまり、9章から11章まではサウル王朝に好意的な視点から書かれた物語だということです。なぜサウルが王になったのか、その正統性を主張している物語だということです。ですからここではサウルは素晴らしい好青年として描かれています。それに対して、13章から15章までのサウルの失墜物語は、ダビデ王朝に好意的な立場から書かれた物語で、なぜサウルが失格者となり、代わりのダビデが立てられなければならないのかを説明するという動機に基づいて書かれていると思われます。同じ人物についての伝記も、どのような視点に立つかでまったく別ものになると言うことを示しているのが、9章から11章までの成功物語と、13章から15章までの失敗物語だと言えましょう。

このように、今日の聖書箇所である9章はサウルのサクセス・ストーリーの一部として読むべきところです。よく、「シンデレラ・ストーリー」という言葉を耳にしますが、それは名もない貧しいけれど美しい女性が王子様に見初められて幸運をつかんでいくというストーリーのことです。サウルは女性ではないのでシンデレラ・ストーリーというのはちょっと違うかもしれませんが、しかし名もない平凡な青年で、特徴と言えばとても美しかったというだけのサウルが神に選ばれ、瞬く間に王位へと駆け上っていく様は、まさにシンデレラ・ストーリーと言えるでしょう。

さて、そのサウルですが彼はベニヤミン族出身でした。聖書に出てくる人物の中で一番有名なベニヤミン族出身の人物は、新約聖書の大使徒パウロでしょう。パウロというのがギリシア語の名前で、ヘブル語では彼は「サウロ」と呼ばれていましたが、その名は同じベニヤミン族でイスラエルの最初の王となったサウルから取られたものと思われます。しかし、サウルがまさに王として選ばれようとしていたその時代、ベニヤミン族はイスラエル十二部族の中では鼻つまみものでした。それは、ベニヤミン族の出身者たちがとんでもない行動をとったためで、それをほかの十一部族が怒ったのです。サムエル記の前の時代を描いた士師記の最後の章である21章の1節にはこう書かれています。

イスラエル人はミツパで、「私たちはだれも、娘をベニヤミンにとつがせない。」と言って誓っていた。

とあります。イスラエルの十一部族は、ベニヤミン族出身者とは結婚によって親戚にはならないと誓っていたのです。このように、当時のベニヤミン族はイスラエル十二部族の中で最も弱小な部族にまで成り下がっていました。まさかそんな弱小部族からイスラエル全体を治める王など生まれるはずがないだろうと、誰もが思っていました。しかし、神は小さな者に目を留められます。この、誰も注目しなかったベニヤミン族の中に、神は王となるものを見出したのです。

さて、ここでいよいよサウルの登場ですが、私たち読者はサウルがいかなる人物だったのか、また神はこのサウルのどんなところに注目して彼を選んだのか、そういった情報は一切与えられません。サウルについてわかっているのはベニヤミン族のキシュという人の息子だったこと、またとても美しかったこと、また背が高かったことだけです。このようにサウルについては外見というか、容貌のことばかり書かれています。これは、主イエス・キリストとは対照的です。福音書には、イエスの容貌については一切書かれていません。イエスがどんな顔だったのか、背が高かったのか、低かったのか、全くわかりません。しかしサウルについては、その外見が際立っていたことが強調されています。現代社会でも、容貌は非常に大切です。ルックスが良いこと、イケメンであることは非常に大きなアドバンテージになります。しかし、まさか神は現代人のように、人を外見で選ぶことはしないはずです。神はむしろ内面、心のありように目を向けて、人を選ぶだろうと考えます。しかし、サウルについてはどうも内面より外見の方が強調されているという、そんな印象を受けます。ここで再び、なぜ神はサウルを選んだのだろうかという疑問が頭をもたげます。ここには書かれていないけれど、サウルの内面や性格にとても良いものがあったので、彼を選んだという可能性はあります。しかし、これは推測にすぎません。サムエル記は、サウルがなぜ神に選ばれたのか、ということについては沈黙を守っているのです。

そのサウルは、神の預言者であるサムエルにあって、自らの天命、召命を知る必要があります。では、サウルがどのようにしてサムエルのもとまで導かれていくのか、その次第が9章に書かれています。それは、サウルの父キシュの雌ロバがいなくなったことがきっかけでした。サウルとその従者は、雌ロバを一生懸命探しますが、なかなか見つかりません。実は雌ロバがいなくなったこと自体、神がサウルをサムエルのところに導くための手段だったのですが、サウルにはそのことを知る由もありませんでした。かなり遠くまで探したのに見つからなかったので、サウルは従者に言いました。「さあ、もう帰ろう。父が雌ロバのことはさておき、私たちのことを心配するといけないから。」サウルは、父が雌ロバのことよりも自分たちのことを心配するだろうと言っています。さりげない一言ですが、ここにサウルと父親との良好な関係をうかがうことができます。サウルについても、親孝行の良い青年という印象を受けます。

しかしここで従者がそれに反対します。彼は今いる町に預言者サムエルがいることを知っていました。彼はサムエルについて、サウルにこのように説明します。「この人の言うことはみな、必ず実現します。」これは絶対的な信頼ですね。サムエルについて、イスラエルの人々の間には絶大な信頼感が確立していたことが分かります。従者は、サムエルならば行方不明の雌ロバについても、きっと適切なアドバイスをしてくれるだろうと信じていたのです。サウルもその話を聞いて、ぜひその神の人のところに行こうと思うようになりました。雌ロバを見つけたいということがもちろんありましたが、それ以上にそんな立派な人に会ってみたいという好奇心もあったでしょう。しかし、そんな偉い人のところへ手ぶらで訪ねていってもよいものだろうか、という心配も口にします。ここら辺の会話を聞くと、サウルが純朴な青年だったという印象を受けます。その時は従者がいくらか持ち合わせがあったので、それで大丈夫だろうという話になりました。

彼らは出かけて行って、町の中に入り、水汲みをしていた女性たちにその神の人、または予見者とも呼ばれていますが、その人がどこにいるのか尋ねました。すると、サムエルが来ていたことはもうすっかり町中に知れ渡っていたようで、娘たちはすぐに彼の居場所を教えてくれました。

そしてサウルと従者はサムエルのところに向かいました。けれども、サムエルはすでにサウルたちが来ることを知っていました。神はすでにサムエルに、王としてサウルを選んだことを伝えていたのです。神がここでサウルについて語っていることは、モーセを思い起こさせるほど肯定的なものです。モーセは、救いを求める民の声を聴かれた神が、エジプト人の手からイスラエルを救うために、神によって遣わされました。サウルも全く同じで、イスラエルの民の救いを求める声を聴かれた神が、ペリシテ人の手からイスラエルを救うために、神によって遣わされるのです。この神の言葉には、のちに王としては失格とされてしまうサウルへの厳しい見方は出てきません。まさにサウルはイスラエルの救世主として描かれています。そしてサムエルは、やってくるサウルを見た時に、神から「彼が、私が話した人物だ」と告げられます。サムエルの胸も高まったことだと思います。なにしろ、イスラエルの最初の王となる人物と出会ったのですから。

それからサムエルが話す内容は、サウルにはただただ驚くしかない事柄でした。まずサウルは、全く初対面の高名なサムエルと一緒に食事をすることになっている、と告げられました。これだけでも十分びっくりするような話ですが、サムエルは言われる前からなぜサウルたちが自分のもとにやってきたのかを知っていました。そして三日前にいなくなった雌ロバはもう見つかっている、と告げたのです。ここまで聞いたサウルは、サムエルに畏敬の念を覚えたことでしょう。この人は何でも知っている、千里眼の人、神の人だと。この瞬間から、サウルはサムエルに絶大な信頼を寄せるようになったはずです。

そして、サムエルの最後の一言はサウルをもっと驚かせる内容でした。「イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか。」この謎めいた言葉は、サウルにいろいろなことを考えさせたことでしょう。「イスラエルのすべてが望んでいるもの」とは一体何なのだろう、という疑問が心に浮かんだはずです。さらには、そのようなものがなぜ自分のものなのか、というのも謎でした。なぜなら、サウル自身がここで語っているように、彼の属するベニヤミン族は、イスラエル十二部族の中で最も弱小な部族であり、その弱小部族の中でも、彼の父のキシュの家は、さらに取るに足らない、名もない家だったからです。そんなちっぽけな家に、イスラエルのすべての者が望むものが与えられるなんてことがあるんだろうか、と信じられないような思いになりました。

しかし、その後のサムエルの行動は、彼の言葉が真実であることを裏付けていました。サムエルはその町の有力者や名士30人ほどと会食をするところでしたが、サウルはそのような名だたる人々の間で上座を与えられました。そして、彼のために取っておいたものだとされるご馳走をふるまわれました。食事の後もサムエルはサウルを去らせることはせずに、語り続けて、宿も同じところを提供しました。サウルは自分の身に起きていることが信じられないような思いだったでしょう。彼は何の心の準備もしていなかったのです。ただ、父親から頼まれて雌ロバを捜していただけでした。それが、イスラエルで最も高名な預言者からVIP扱いを受けて、いったい自分の身に何が起こるのだろうか、と期待と不安で胸がいっぱいになったことだと思います。まさか自分がイスラエルの最初の王に選ばれたなどとは、この時は夢にも思っていませんでした。あれこれ思案していましたが、その日はいろいろなことがあり過ぎました。若いサウルも疲れにまけて、眠りについてしまいました。

朝になると、サムエルが起こしにきました。サウルも、ああ、昨日のことは夢ではなかったんだ、と改めて思ったことでしょう。サムエルはサウルに一緒に歩こうと誘い、そしてサウルの従者について、こう指示しました。

この若い者に、私たちより先に行くように言ってください。若い者が先に行ったら、あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。

サウルは「神のことば」と聞いた時、ドキッとしたことでしょう。いよいよこの自分が一体どうなるのか、サムエルが言っていた「イスラエルのすべてが望んでいるもの」というのが何の事なのか、分かる時が来るのか、と。サウルは期待と不安に胸を膨らませながら、神の人から出る神のことばを待ち望んでいました。

3.結論

まとめになります。今日は、イスラエルで最初の王となるサウルが、神の不思議な導きによりサムエルのところに連れてこられ、サムエルから自分を待ち受ける運命について聞かされるという場面を見てまいりました。「青天のへきれき」という言葉がありますが、サムエルの口から語られたことばは、サウルにとってまさにそのようなものだったことでしょう。

今まで、ごく普通の人生を歩んできた人が、突然時代の変革の真っただ中に呼び出されるということが歴史の中では何度かあります。英雄と呼ばれる人たちは、多かれ少なかれそういう経験をしてきた人たちでしょう。しかし、功成り名を遂げる人は、無名のころから野心を抱き、チャンスが来ればいつでも世に出てやろうと準備をするものです。アレクサンダー大王やナポレオンのような人たちがそうでした。しかし、サウルの場合は、今日の記事を読む限り、まったくそのような心の準備が出来ていませんでした。彼は外見がとても美しいことを除いては平凡な若者で、取り立てて何の野心も持っていないようでした。彼は目立ちたいとは思わずに、むしろ平凡な人生で満足するような人物だったようです。しかし、そのような彼を神は召し出します。

神の召しとはそういうものかもしれません。神は準備万端、やる気満々な人に声をかけるのではなく、むしろまったく準備もやる気もないような人に声をかけることがしばしばあります。なぜそうなのかと言えば、神の業は人間の力や能力に依存しないものだからです。神はまったくやる気も能力もないような人を作り変えて、大きな業をなさしめることがある、ということなのです。私たちも、自分自身を見れば取るに足らない人間だと感じることがあるかも知れませんが、しかし神はそんな私たちにさえ、大きな業をなさしめることが出来るのです。主イエスはかつて、これから自分を裏切るであろう取るに足らない弟子たちが、大いなる業を行うだろうと言われました。ヨハネ福音書14章12節をお読みします。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。

この主イエスの言葉は信じがたい言葉ですが、しかし真実なのです。私たちにも神の力が働く時、思いもしないようなことが出来ることがあります。ですから自分の限界を自分で定めずに、神を信じて歩んでまいりましょう。お祈りします。

サウルを召し出した、イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。サウルはまったく準備が出来ていなかったにもかかわらず、神に召し出されて大きな働きをしました。私たちも何の準備も出来ていない、取るに足らない者たちですが、どうか私たちをもお用い下さい。我らの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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