サウル、油を注がれる
第一サムエル10章1~16節

1.序論

みなさま、おはようございます。サムエル記の学びは、前回からサウル王の話に入りました。前回の説教でもお話ししましたが、一般的にクリスチャンの間では、サウル王のイメージは正直に申し上げてよくないと思います。以前、改革者の神学者が書いた本を読みましたが、その本ではサウル王は永遠の滅びに定められているに違いない、というようなことが書かれていました。どうも、ダビデ王の命をしつこく狙う嫉妬深い王様、というイメージが定着しているようです。

しかし、前にもお話ししましたように、これは多分にダビデ王朝の立場から作り上げられたサウル王のイメージということもできます。サムエル記という歴史書は、ダビデの時代から何百年も後に編纂された文書です。サウルやダビデについての様々な伝承を編集者が集めて、それを一つのストーリーにまとめ上げているのです。そうした様々な伝承の中には、サウル王朝に好意的で、サウル王を積極的に褒めたたえるようなものもあれば、ダビデ王朝の視点から描かれた、サウルに厳しい評価を下す伝承もあります。ダビデ王朝は、サウル王朝にとって代わる形でイスラエルの王家になったのですが、その権力の移行が「武力革命」、つまり力ずくでの政権交代ではなく、徳の低いサウル王から徳の高いダビデ王への一種の禅譲、つまり誰もが納得するような形でのスムーズな権力の移行だったということを示す必要がありました。ですから、ダビデ側の視点から書かれた歴史においては、ことさらにサウル王の悪い面が強調され、ダビデの良い面が前面に出てくることになります。

しかし、今読んでいますサムエル記の9章から11章までは、サウル王についてのマイナスのイメージを生むような記述はほとんどありません。それどころか、サウルこそ神が遣わしたイスラエルの救世主である、という印象を強く持たれるのではないでしょうか。今日の箇所など、まさにそのような記述になっています。これは、9章から11章までの記述がダビデ王朝の視点からではなく、むしろサウル王朝を積極的に擁護する立場から書かれているということに起因しています。もし仮に、サウル王についての聖書の記述がサムエル記の9章から11章までしかなかったとするならば、サウルは、有名な士師であるギデオンと同じように、「神の人」として後世の人たちから高い尊敬を集めたに違いありません。9章から11章までは、サウルという無名の青年がいかに神によって選ばれ、イスラエルの王とされ、そしてイスラエルを救うためにどれほど奮闘したのか、そのことが書かれています。ですから9章から11章までを読む際には、サウルに対する悪い先入観は一旦捨てて、聖書の記述を素直に読む必要があります。そして、サウルがいかに素晴らしい王として登場したのか、ということを深く味わう、それが今日の箇所を読むのにふさわしい態度だといえるでしょう。では、さっそく今日のテクストを読んでまいりましょう。

2.本論

さて、前回の箇所では行方不明になった父親のロバを捜していたサウルが、不思議な導きで預言者サムエルのもとに導かれるというところを読みました。この時のサウルには何の政治的な野心もなく、自分がイスラエルの王になるなどということは夢にも思いませんでした。しかし、その素朴な青年サウルを、高名な神の預言者であるサムエルがいきなりVIP扱いするのです。いったいなぜ自分がそのような歓待を受けるのか、訳がわからなかったサウルですが、サムエルの「イスラエルのすべてが望んでいるものは、だれのものでしょう。それはあなたのもの、あなたの父の全家のものではありませんか」という謎めいた言葉を聞き、いったいわが身に何が起きているのか、期待と不安に胸を膨らませていました。そして翌朝に、サムエルから「あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから」という、非常に気になる言葉をかけられたところで前回の場面は終わりました。

そして今日の箇所です。預言者サムエルは、言葉ではなく行動で神の御心をサウルに示しました。それは、サウルの頭に油を注ぐという行動でした。メシアというのは油注がれた者、という意味ですから、サウルはここでメシアとしての油注ぎを受けたのです。この時サウルは、頭から油を注がれるという行為にどんな意味があるのか、果たして知っていたかどうか定かではありません。しかし、いきなり頭に油を注がれたわけですから、さぞびっくりしたことでしょう。サムエルは、それからサウルに、この行為の意味を説明します。それはなんと、イスラエルの神ご自身が、サウルをイスラエルの君主に任じたのだ、それを示すための油注ぎなのだ、ということでした。それまでイスラエルには「王」という存在はなかったのですから、「あなたが王なのだ」と言われてもサウルにはにわかにその意味が分かりかねたかもしれません。しかしサムエルは、サウルを納得させるために三つのしるしがあることを伝えました。この三つのしるしは、サウルの三つの役割を示唆するものでした。よく、主イエスは三つの職能を持っていると言われます。それは「王」、「祭司」、「預言者」です。王というのは人々を治める職能で、祭司とは神と人との仲立ちをする職能、そして預言者は人々に神の御心を伝える職能です。主イエスはこの三つの全てを兼ね備えたイスラエルの王なのですが、初代のイスラエルの王となるサウルも、この三つの役割を兼ね備えることになる、ということをこの三つのしるしは示しています。

一つ目のしるしは、サウルの父親であるキシュの使いの者と出会うだろう、ということでした。その使いたちは、昨日サムエルが言ったとおりに父親のロバが既に見つかっていること、そして父親のキシュはロバの事よりわが子のサウルの事を心配していることを告げるだろう、というのです。これは、預言者サムエルの言葉が信頼に足るものである、ということの強力な証拠となります。しかしそれ以上に象徴的な意味を持つのは、「ロバ」が見つかった、ということにあります。ロバというのは、イスラエルにおいては王が乗る乗り物です。主イエスがエルサレムに入場した時にロバに乗られましたが、それはイスラエルの王にふさわしいことでした。預言者ゼカリヤは、こう預言しています。「見よ。あなたがたの王があなたのところに来られる。この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。」ですから、ロバが見つかったというこの知らせは、サウルが王権を握ることになることを象徴的に暗示しているのです。

二つ目のしるしは、べテル、それは「神の家」という意味のイスラエルの聖地ですが、そこに巡礼に行く三人の人たちに出会うだろうということでした。彼らはパンとぶどう酒を携えています。パンとぶどう酒というと、私たちは聖餐式を思い浮かべますが、イスラエルの宗教においてもこの二つは祭司職を表すものです。かつてアブラハムを祝福した不思議な祭司であるメルキゼデクという人物は、パンとぶどう酒を持ってアブラハムを祝福しました。神に献げられる聖別されたパンは、祭司だけが食べてよいものですが、そのパンがサウルに与えられたということは、サウルが祭司職をも持つようになることを暗示します。実際、ダビデやソロモンといったイスラエルの王たちは祭司の役割をも果たしています。

このように、これからサウルに王職と祭司職が与えられることをこれらのしるしは示していますが、三番目のしるしはサウルが預言者職をも持つということでした。そしてこのしるしは最も劇的なものです。それは聖霊の降臨、教会の歴史で言えばペンテコステの出来事に匹敵するものです。サウルは激しい聖霊の油注ぎを受け、神の人に変えられるのです。サムエルはそのことを、こう言い表しています。

主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。

このサウルの体験は、新約聖書の時代に多くの人々が聖霊の圧倒的な注ぎによって新しい人へと変えられたのと、基本的に同じです。旧約聖書の時代には、このような聖霊体験をしたのは王や預言者など、非常に限られた人たちだけでしたが、新約時代にはイエスを信じるすべての人に聖霊が与えられます。確かに、21世紀に生きる私たちは、キリスト教が誕生した紀元1世紀のような目覚ましい聖霊の働きは目撃することは少ないかもしれません。パウロの時代、聖霊を与えられた普通の一般信徒は、奇跡を起こしたり異言を語ったりしました。しかし、今の時代そんなことをできるキリスト者はほんの一握りでしょう。そういう意味で、私たちの時代は旧約聖書の時代に逆戻りしてしまったのではないか、と思われるかもしれません。しかし、それでも私たち信じる者すべてに聖霊が与えられるというのは、新約聖書の最も大切な約束なのです。聖霊なしに私たちはイエスを信じることは出来ませんし、正しい行いをすることも出来ません。私たちを新しい人に作り変えてくれるのは、まさに聖霊の働きです。それを信じることこそ、キリスト教信仰の核心なのです。そしてサウルは、その聖霊の働きを、非常に強く受けて変えられました。ですから、サウルは私たちクリスチャンの先駆者、大先輩だということになります。サムエルはサウルに、大胆にもこう告げます。

このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。

神があなたとともにおられる、とはインマヌエルという言葉の意味です。サウルには神がともにおられ、サウルの行動は神の完全なご支配の下にあります。ですからサウルは大胆に、手当たり次第に行うことができるのです。

ただ、サムエルはここで重要なことを最後にサウルに告げます。それは、サウルは今後も預言者サムエルに完全に従わなければならない、ということでした。サウルは神から選ばれ、神の霊を受けてどんなことであれ、大胆に行動することができます。にもかかわらず、サウルはサムエルに絶対服従しなければならない、ということが最後に語られているのです。神の霊が与えられているのなら、いちいちほかの人間の指示に従う必要などないではないか、とも思えるのですが、このサムエルへの絶対服従が今後のサウルの人生に大変な重しとなっていきます。さらに言えば、果たしてこのサムエルの命令が神の御心なのか、あるいはサムエルの人間的な思いなのか、なかなか判断が難しいところがあります。サムエルはもともと王制の導入には反対の立場の人でした。ここでは神の命令に従って、サウルを王として任職しますが、あくまでサウルを自分のコントロールの下にとどめておきたい、新しい王を自分の監督下に置きたいというサムエルの気持ちがここには現れているようにも思えます。サウルは結局、サムエルの命令に従わなかったということで王として失格だと宣言されることになりますが、その重要な伏線がここにあるということです。先に、サムエルは老いたという記述がありました。彼は耄碌して、ろくでもない自分の息子たちを自分の後継者として任命し、民の失望を買ったことがありました。その失敗を取り返すためにも、何としてもサウルは自分のコントロールの下に置こうという、彼の執念のような思いを8節の言葉から感じ取れてしまうということです。その執念が、もしかするとサウルをダメにしてしまったのではないか、とこの後の続きを読んでいると思うことがあります。

ともかくも、こうしたサムエルの言葉を聞いたサウルには劇的な変化が起きました。「サウルがサムエルをあとにして去って行ったとき、神はサウルの心を変えて新しくされた」とあります。神のダイナミックな働きは、すでにサウルの上に働いていたのです。しかしそのことをさらにはっきりと示す出来事が起きました。サウルはサムエルの預言通り、ギブアで預言者たちの一行と出会います。すると、サウルの上に激しく聖霊が臨み、サウルも預言者たちと一緒に預言を始めたのです。この出来事を目撃した人々で、以前からサウルを知っていた人たちは衝撃を受けました。それはちょうど、ペンテコステの日にイエスの弟子たちが突然預言を始めたのを見て多くの人たちが驚いたのに似ています。キシュの家系は預言者の家系でも祭司の家系でもありませんでした。サウルはごく普通の、ハンサムな青年でした。その彼が、突然預言者たちと一緒に預言を始めたのです。人々は驚き怪しみ、「キシュの息子は、いったいどうしたことか。サウルもまた、預言者のひとりなのか」と言い合いました。

さて、このように驚くような聖霊体験をしたサウルは、預言を語り終えてようやく父の家に戻っていきました。サウルのおじが彼を出迎えましたが、そのおじはサウルがサムエルと会っていたという情報を聞きつけていました。彼は興味津々に、神の人が自分の甥に一体何を話したのかを知りたがりました。考えのない若者なら、自分がたった今体験してきたことを夢中で話してしまうかもしれませんが、サウルは慎重さを持ち合わせた賢明な青年でした。叔父には、サムエルがいなくなったロバはもう見つかっていると告げたことだけを話しました。こうして、サウルにとっての驚くべき一連の体験は終わりました。

3.結論

まとめになります。今日の箇所は、イスラエルの初代の王となるサウルがサムエルから油を注がれ、また彼が受けることになる三職、つまり王、祭司、そして預言者としての働きを表すしるしを受ける場面を学びました。サウルはまさに前途洋々たるスタートを切ったのです。しかし、彼の不遇な後半生を知る私たちは、これほど明るい未来を約束された人がどうして転落していってしまったのか、と不思議に思ってしまうでしょう。とくに、聖霊を注がれるということは救いの確証であるとキリスト教会は教えてきましたので、神のよって選ばれて聖霊を豊かに受けたはずのサウルが神の恵みから離れて行ってしまうのはどうしてなのか、と思わずにはいられません。

しかし、転落していくのはサウルだけではない、ということにも注意が必要です。サウルの次に王となったダビデも理想的な王だったはずでしたが、彼も道を踏み外してしまい、ダビデ王朝そのものは存続したものの、彼の家族はめちゃくちゃになってしまいました。そのダビデの跡を継いだソロモンも、最初は理想的な王に見えたのに、彼もまた道を踏み外し、その結果王国は南北に分裂してきました。このように、失敗して神の恵みから落ちていくのはサウルだけではなく、ダビデもソロモンも同じなのです。それは一体なぜなのか。その理由の一つは、王位という強大な権力の持つ魔力なのでしょう。どんなに善良で有能な人物も、絶対的な権力を握ってしまうと堕落していく、という冷徹な事実をサムエル記は教えているように思えます。サムエル記だけではなく、それに続く列王記も同じです。結局、イスラエルに理想的な王は現れなかったのです。この王という強大な権力を持つ魔物に打ち勝つことができたのは、徹底的に人に仕える王、サーバント・キングとして十字架で死なれたイエスただおひとりでした。ですから私たちも、サウルやダビデの失敗から学びつつ、彼らのような失敗に陥らないために、聖霊を悲しませることがないように、主イエスのように謙虚に生きていかなければならない、と改めて思わされます。サウルやダビデが聖霊を豊かに与えられたにもかかわらず、どうして道を踏み外してしまったのか、それは主イエスという彼らがモデルにすべき王の存在を知らなかったためだ、と言ってよいかもしれません。しかし私たちは主イエスのご生涯を知っています。聖霊の賜物を私たちが生かすために私たちがすべきことは、ひたすらイエスを見上げて、彼のように歩もうと努めることです。そのための力をお与えくださるように、主に祈りましょう。お祈りします。

サウルを選び、王とされた歴史を導かれる神様、そのお名前を賛美します。私たちはこれからサウルの栄光と挫折を学んでまいります。その中から、私たちがどのように生きるべきかについての貴重な教訓を学べるように、私たちに知恵をお与えください。我らの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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