宝はここに(間島 直之師)
マタイ福音書13章44~46節

*今回の説教には音声はありません

今日開きましたのは、主イエス・キリストがお語りくださった天の御国のたとえです。主イエスは天の御国を宝にたとえてお話なさいました。高価な宝、夢にまで見るほどの宝です。皆さんそれぞれ、人生最大の宝は何でしょう。もっとも高価な買い物は何だったでしょう。値段も問題でしょうけど、それをほしいと思って努力したり貯金したりずっと思い続けてやっと手に入れた、あるいは、その素晴らしさにあまりに魅了されて、前後の見境もなく衝動買いしてしまった、というような経験や思い出のある物は何でしょうか。主イエスがお語りくださったのは、そんな宝を手に入れた二人の人のお話です。

主イエスは普通の人として普通の人たちの中で暮らして、庶民の暮らしをよく知っていた方です。福音書に収められた主イエスのお話は、どれをとっても普通の人の普通の暮らしが鮮やかに映し出されたものです。とは言え私たちにとっては2000年前に書かれたものですし、風土や習慣は私たちが見慣れないものも多いですが、当時の人たちは聞いて「そうそう」と頷き、「なるほどね」と納得し、ときには「あはは」と笑った、生活に密着した話です。だから人々の記憶に鮮やかに残って、そしてこのように記録されているのです。当時の習慣や文化を解きほぐしながら読んでみましょう。

まず44節、これは畑仕事をしている人が宝を見つけたという出来事です。この人、自分の畑ではなくて、雇われて働いている人です。「その畑を買います」とありますから。

どうして畑に宝があるのでしょう。今私たちが心を痛めて毎日のニュースで見る通り、残念ながらパレスチナという土地は古代からずっと戦争が絶えないところでした。聖書の時代から現代に至るまで、大国の王たち、皇帝たちは皆この土地を取りたがりました。それはここがアジア、アフリカ、そしてヨーロッパを結ぶ位置にあるからです。地政学という言葉を最近よく聞くようになりましたが、ここはまさしく地政学的に世界中見回しても指折りに重要な土地です。しかしこれは庶民にはたまったものではありません。それで、古代には銀行などありませんから、もしもお金が少したまれば貴金属に換えて、そして瓶や壺に入れて土に埋めてしまうのです。万一その土地を離れなければならなくなったら、壺を掘り出して出ていくのでしょう。ところが、戦争があって急いで出なければならなくて、持って出られないということもあるでしょう、そして隠した本人が亡くなってしまい土地の所有者が代替わりとなれば、財産があったはずだけど、さて、もう分かりません。そうなると、土地は何も知らない人のもとで畑になってしまうというわけです。

そしてある日、地主のもとで働く農夫が土地を耕していると、ゴツッと何かに当たって、あれ、と思って掘り返してみると、そこに腰を抜かすほどの宝の壺を見つけた、というのがこのお話です。そしてその人、何食わぬ顔して壺を埋め戻して畑仕事を続けて、地主さんには取れた作物を届けてお疲れさん、などと言われるわけですが、ある日、分不相応な大金の包みを持って地主さんのところに現れて、その畑を売ってくださいと言うのです。地主さんは驚くでしょうけど、あんなところでいいなら、と言って取引成立です。

私たちの今の常識だと少し不思議に思う話です。私たちは何か見つけたら警察に届けます。でもこのお話の場合、土地の所有者は分かるのですから、宝が出てきたという話はまず地主さんにしなければなりません。それで地主さんがぜんぶ取ってしまうか、それとも歴史を紐解いて元の持ち主を探すのか、それでもそもそもの所有者が分からなければ出てきたお宝は地主さんと見つけた農夫とで分け合うか、となるのではないでしょうか。この人は、自分の持ち物を全部売り払って畑を買いました。それで正々堂々、埋められていた壺を掘り出して宝物を自分のものにするのです。彼が持ち物を売り払って作ったお金は、畑を買うには充分でした。でも宝と交換するほどではありません。この人は、全財産に換えて、そして知恵を尽くして、なんとかして宝を手に入れようと努力した、そして念願かなって宝を手に入れました。

これが、天の御国です、と主イエスはおっしゃるわけです。物語の背景や様子はよく分かります。でも、やはり誇張されているなぁ、と思いませんか。農夫は宝が埋まっている畑を買うために持ち物全て売り払ってしまったのです。家族がいたかもしれません。家や家財道具はどうしたのでしょう。この人が家のものを全部持って出て処分してしまったら奥さんや子どもたちは大変困ったかもしれません。賢い人なら、ずる賢い人なら、壺か瓶かの中から地主には内緒で少しずつ取り出して少しずつ現金に替えていくかもしれません。でも彼はそうしなかった。大胆ですし、思い切ったものです。でもこれが、天の御国を見つけた人の態度だと、主イエスはおっしゃいます。

次は45節と46節です。真珠は今でも高価なものです、たとえば銀座のお店で売られているものは、並んでいる数字の数にため息が出るほどでしょう? それでも、今はアコヤ貝を養殖して真珠を造らせることができるので安くなりました。天然でしか真珠が手に入らなかった古代では、それこそ天文学的高値でした。物の本によると、エジプトのクレオパトラが持っていた真珠は、当時の価値で2500億円の値段がつけられたとか。しかも、当時はアコヤ貝が天然しかなかったわけですから、どこの海でも取れるものではないのです。パレスチナに近い南の紅海でも採れたそうですが、品質が良くなかったらしいです。それで、真珠の商人たちは当時としては信じられない程の長い遠い旅をして高価な真珠を買い付けに行ったそうです。ペルシャ湾、そしてインドの沿岸がその産地だったというのです。そんな物を商う商人は貧しい人ではありません。高価な真珠を買い付ける資本がないと商売ができません。当時はまだ為替などないので、取引は現金です。自分が富豪でないとこういう仕事はできません。その彼が、これが世界で一番と思ったか、最高のひと粒を見つけました。彼は持っていたものすべてを売り払ってそれを買うというのです。当然、持っていたものの中にはこれから売るはずだった真珠がいくつもあるでしょう。土地、屋敷、資本金、そのすべてを彼は全部売り払って金に換えて、最高のひと粒につぎ込んだのです。

しかし考えてみるとこれはちょっとおかしな話です。たった一つの真珠しか手元に残さないというのは、商売の仕方としてありえないでしょう。彼は全財産をなげうってたった一つの、文字通りに珠玉の一粒を手に入れたのですから、もうそれを売るというのは考えないでしょう。

でも、主イエスは、天の御国の価値は、そういうものです、常識外れの、とんでもないものなのです、とおっしゃるのです。

主イエスはこの二つのたとえを続けてお話しなさいました。このふたり、農夫と真珠商人との同じところは何でしょう。違うことは何でしょう。畑を耕す農夫はおそらく小作人、貧しい暮らしをしていたでしょう。一方で真珠商人は大富豪でしょう。畑を買う金と最高の真珠につぎ込む金の金額は当然違うでしょう。農夫は偶然宝を見つけました。商人は探して探してその挙げ句にとうとう見つけました。でも二人に共通することもあります。持っているもののすべてと換えても惜しくないものを手に入れたということです。そういえば、主イエスのお話しの中には、すべてを捨てなさいという勧めがいくつかあります。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と主はおっしゃって、「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言われます。これは厳しいと思いませんか。

若く立派な青年が主イエスを訪ねてきて「永遠のいのちを得るためには。どんな良いことをすればよいのでしょうか」と尋ねました。主イエスは「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」と教えました。この若者はそれはできないと観念して、悲しみながら立ち去ったとマタイは記しています。このやり取りのあと、主イエスは弟子たちに向かっておっしゃいます。「わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子ども、畑を捨てた者はみな、その百倍を受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」これもまた、とんでもないことでしょう。すべてを捨てれば百倍を受ける、すべてを捨てれば永遠のいのちを受け継ぐ、というのはつまり、捨てなければ手に入らないということでなくて何でしょう。

主イエスが私たちに求めることは到底できそうもない大変なことです。それなのにこのたとえの農夫と商人はそんな困難なはずのことをいともたやすくしたように見えます。いったい何があったのでしょう。彼らがすべてを手放せたのは、一体なぜでしょう。それは二人に共通することが、そうさせたのです。それは大きな喜びです。埋められた宝、そして最高の真珠、二人はこれをどんな気持ちで、どんな心持ちで手に入れたでしょう。手に入れた後、彼ら二人は何と言ったでしょう。やったー!と言ったのではないですか。探していたものを、とうとう見つけた、とうとう手に入れた、最高の喜びだったはずです。

主イエスは、天の御国、つまり天国の喜び、救われる喜び、神とともに生きる喜びというものは、何にも換えられなく大きいのだと、人生最高の宝物なのだと教えて下さいました。お金をためて、準備して、とうとう手に入れた、努力して、忍耐して、探して、見つけて、それまでの苦労や涙が全部昔話になるほどの大きな喜びが、宝物を自分のものにすることにあるのです。家も家財も暮らしていくための備えも何もかも、家族の驚き慌てることもほったらかしてすべてを売ってしまう農夫、これから先の商売のことはもう一切頓着せずに、築き上げてきたはずの財産も全てなげうってしまう商人、こんな人はほんとうはいないよ、これは作り話の中だからさ、と言ってしまうのは簡単です。でも主イエスは、天の御国の喜びは、それほどのものなのだ、人生をひっくり返すもの、価値観を世界観をひっくり返し、生きていくことの意味を、人生の目標やらそれまで追い求めていたすべてのことを取り替えて新しくして、それまで見たことも聞いたこともないほどの喜びで満たすもの、それが神を知ること、神とともに生きること、福音によって新しくされることなのだと、教えて下さいました。まことの神を知ることはそれほどの出来事なのです。

パウロという人は、その宝を見つけた人でした。自分の人生、これまで人より優れたことを成し遂げて、人より優れていることを自慢してきたけれど、いまはそれ全部をあわせたよりももっと素晴らしい喜びがある、と言うのです。パウロという人はエリート中のエリートでした。ユダヤ人としてこの世が与えることのできるすべてを手に入れたような、みな誰もが羨む立派な人でした。でも、彼はこう言います。ピリピ人への手紙3章7節、8節です。「しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはちりあくただと考えています。」

私たちはいまこの宝をすでに持っています。この宝は神がくださいました。何かを捨てて自分のものになさいましたか。何と引き換えになさいましたか。私はもう代償を十分払いました、苦難と忍耐の果に信仰を持ちましたという方も、もちろんおられるでしょう。でも、この計り難い富がいま私のものになっているのは、すべて神の恵みのゆえです。神がその独り子をこの世界に送り、私の罪のために十字架につけ、私がまだ罪人だったときに主イエスの贖いのわざがすべて終わっているそのことゆえに、私はすでに神の子どもにしていただいて、天国の富を嗣ぐものとされました。天の御国の宝は私たちのものです。神の祝福と摂理の御手のまもり、みことばの励まし慰め、永遠の命の約束、明日を生きる希望と喜び、これは何物にも代えがたい宝です。天の御国の喜びです。これをすでに私にくださった主イエス・キリストに、父なる神に、聖霊の神に、心から感謝しましょう。

ダウンロード