弟子たちの召命
マルコ福音書1章16~20節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週は大変恵まれたペンテコステ礼拝になりましたが、今週から通常通り、マルコ福音書からの説教に戻ります。前回は、イエスがいよいよ福音宣教に乗り出すという場面でしたが、イエスにはまだその時には仲間がおらず、単独で行動を始められました。しかし、神の王国を人々に広めるという任務は一人だけでできるようなものではありません。ある王国があって、その王国には王様一人しかいなければ、それは王国とはとても呼べません。神の王国は神の支配という意味ですが、その支配に従う人々がいて初めて王国は王国となるのです。ですからイエスの最初の仕事は、王国の中で自分に従ってくる弟子たち、しもべたちを呼び集めることでした。今回は、十二使徒の中でも特に有名な四人の弟子たち、彼らの召命物語を見てまいります。

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生ける水としての聖霊
ヨハネ福音書4章1~42節

1.導入

みなさま、ペンテコステおめでとうございます。おめでとうございます、と言った後に説明するのも変ですが、ペンテコステとは、死者の中から復活した後に天に戻られたイエスに代わって、教会の主として、またリーダーとして聖霊が教会に与えられたことをお祝いする日です。イエスという指導者を失った教会に、新たに聖霊という指導者が与えられたのです。ペンテコステは、クリスマスとイースターと並んで、キリスト教の三大主日の一つとされています。しかし、クリスマスやイースターと比べると、ペンテコステは世間一般ではほとんど知られていない、地味な主日だと思われているのではないでしょうか。クリスマスはイエス様の誕生日ということで分かりやすく、今やクリスチャンのみならず、すべての人のお祭りのようになっています。それに対してイースターは、イエスの復活を祝う日ですが、死んだ人がよみがえるというのは確かに一般の方には信じがたいことかもしれませんが、テレビなどで海外の盛大で荘厳な復活祭の様子がしばしば報道されていることもあって、かなり認知度が上がっていると思います。私も今年の春、近くのトップというスーパーで買い物をしていると、「イースターはイエス・キリストの復活を祝う記念日です。みなさんこの機会にぜひ卵を買いましょう」という場内アナウンスを聞いて、イースターも日本でとうとう市民権を得たな、とうれしく思いました。それに対し、ペンテコステと聞いてもほとんどの日本の方からは「それ何?」という反応しか返ってこないように思います。

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神の王国の到来
マルコ福音書1章14~15節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今日で四回目になりますが、この福音書は非常にテンポが速いといいますか、展開がとても急です。前々回、イエスの先駆者であるバプテスマのヨハネが登場しましたが、早くも彼は舞台から消え去り、イエスが歴史の表舞台に登場することになります。この展開の早さがマルコ福音書の魅力でもあるのですが、同時に簡潔な記述の背後にある様々な事情を考えながら、丁寧に1節1節読み進めていく必要があります。今朝のみことばもわずか2節ですが、しかしここには大変重要なことがらが凝縮して書かれています。ここには、まさにマルコ福音書の主題、メインテーマが提示されています。みなさんもよくご存じのベートーヴェンの交響曲5番「運命」、この曲は運命のテーマと呼ばれる「タタタターン」というわずか四つの音が縦横無尽に展開されて壮大な音楽の世界を作り上げているのですが、マルコ福音書における「タタタターン」は「神の王国」という短い言葉です。この言葉、マタイ福音書では「天の王国」とも言われますが、これは四つの福音書ではイエスの言葉として100回近くも登場する非常に重要な言葉です。そして、今日のイエスの宣教第一声で、この言葉がいきなり登場するのです。

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イエスの洗礼と試練
マルコ福音書1章9~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今回が三回目になりますが、今回からいよいよ主イエスが登場します。前回はイエスの登場を予告した二人の証人、つまり旧約聖書のイザヤをはじめとする預言者たちと、イエスとほぼ同時代に生きた人ではありますが、イエスより前に活動を始めていたバプテスマのヨハネのことを見てまいりました。今回は、イエスがそのヨハネからバプテスマ、つまり洗礼を受けるという場面と、それに続く荒野での誘惑について見ていきたいと思います。

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あなたを憎む者
箴言25:21-22; 24:17-18
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日は、「箴言」のなかから、主イエスの「汝の敵を愛せよ」に通じる言葉ではないか、と思われる個所からお話をさせていただきます。「箴言」という言葉は英語では「proverb」といい、「格言」とか「諺(ことわざ)」の意味です。ユダヤ人の聖書の文書の分類では「諸書」の一つで、知恵文学と称せられる分野の文書です。知恵文学では「知恵」を大切にし、それを深く理解した「知恵者」となることが理想とされています。箴言以外では「空の空」で有名な「伝道者の書」、外典では「ソロモンの知恵」と呼ばれる「知恵の書」、「集会の書」と呼ばれる「シラ書」があります。更に偽書と呼ばれる文書のなかでは「モーセの遺訓」「ヨブの遺訓」「アブラハムの遺訓」という遺訓シリーズがあります。偉大な人物が語った“人生の真実を語った文書”という訳です。今日はこれらの聖書関連文書を含めてみていきたい、と思います。

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救いか裁きか
マルコ福音書1章2~8節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書からの説教は今日で二回目になります。前回は救世主としての歩みを始めようとするイエス、その彼が向かう世界、ユダヤやガリラヤはどんな社会だったのか、ということを学びました。イエスの時代のユダヤ社会は、端的に言えば超格差社会でした。多くの民衆は四割強、ひどい場合は七割近い税負担にあえいでいました。あまりの税の厳しさに、ひとたび飢饉が発生すると農夫は生きていけなくなり、物乞いになるか、あるいは強盗になってローマ人やユダヤ人の金持ちを襲うしか選択肢がないほどに追い詰められていました。その一方で、エルサレム神殿にいる大祭司カヤパやその一門は富を独占していました。エルサレム神殿には全国各地から莫大な額の献金が送られてくるのですが、豊かになった大祭司たちは貧しい農民たちに貸し出しを行い、彼らが借金を返済できない場合は土地を取り上げて、そうやって大地主になっていきました。宗教家という表の顔の裏で、大祭司は大銀行家であり大地主でもあったのです。このような金満祭司と赤貧の多くの民衆という、ひどくゆがんだ社会に現れた救世主イエスは、この状況を正し、イスラエルを神の指し示すヴィジョンに基づく公正で平等な社会へと作り変えようとしていました。イエスはイスラエルの宗教のみならず、政治経済においても絶大な力を誇る大祭司カヤパを頂点とするイスラエルのエスタブリッシュメントたちを容赦なく批判し、そのために彼らと深く対立していくことになります。私たちも、そのような対立の構図があることを忘れないでマルコ福音書を読み進めてまいりたいと思います。

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超格差社会の中の救世主
マルコ福音書1章1節

1.導入

みなさま、おはようございます。私が毎週日曜日に講壇から説教するようになって6年目になりますが、これまで福音書の連続説教をしたことは一度もありませんでした。復活祭やクリスマスなどの特別の機会には福音書から説教をしてきましたが、福音書全体を連続して説教するということはしていません。それは、福音書全体から説教することに特別の重みがあるからです。聖書全体の中で、福音書から講解説教をすることは最も大変なことであろうと思います。そこで満を持して、とまで大きなことは言えませんが、これまで私なりに福音書を語るための準備をしてきました。これからじっくりと、最も古い福音書であるマルコ福音書を皆さんと一緒に読んでいきたいと思います。

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畏れと驚き
詩篇111:1-10
森田俊隆

今日は先月に続き、詩編のなかからお話をさせていただきます。詩編111編です。詩編には、最初に「ハレルヤ」という言葉で始まる詩編が10編あります。そのなかで「アルファベット詩編」と称し、ヘブル語のアルファベットで各節が始まる詩が2編あります。それが111編と112編です。今日の詩編はそのうち前の方ですが、内容的には連続しているようです。ともに「神賛美の歌」です。両編に共通している言葉は「主は情け深く、あわれみ深く」です。イスラエルの神、主は私たちを超えた存在でありながら、「情け深く、あわれみ深い」存在であることがうたわれています。111編は「尊厳と威光」を示す神、112編は「繁栄と富」を齎す神に強調点がある、と言えようかと思います。

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マグダラのマリヤと復活のイエス
ヨハネ福音書20章1~18節

1.導入

みなさま、復活主日おめでとうございます。2千年前、この方こそ私たちの救い主に違いないとイエスに期待をかけていた弟子たちは、イエスが十字架に架かって死んでしまったことに絶望し、イエスによって始められた運動は空中分解してしまったように見えました。みな、イエスの弟子だということを周囲の人々に隠し、自分の命を守ろうとしました。もう夢は終わったのだと、自分の元の生業に戻ろうとしました。しかし、彼らは突然勇気に溢れて、どんな反対に遭おうともイエスは全世界の王である、主であると大胆に宣べ伝えるようになりました。何が臆病だった彼らを変えたのか、命さえ惜しまずにイエスのことを宣べ伝えるようになったのはなぜなのか。この驚くべき変化の理由として、彼らは主がよみがえったのを目撃したからだ、と福音書は語ります。この驚くべき体験が、すべてを変えてしまったのです。今日は復活の主を最初に目撃した人、復活したイエスに最初に再会した幸いな人について見てまいりたいと思います。

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キリストに倣いて
第二コリント13章5~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日は棕櫚の主日で、主イエスが地上での生涯の最後の1週間を過ごすためにエルサレムに入城したことを覚える日です。そして今日から受難週が始まりますので、週報に今週のためのデボーション・ガイドを挟みました。今週は一日一日、イエスの身に何が起こった日なのかを考えながらお過ごしください。また、1年半に及んだ第一、第二コリント書簡も今日で最終回になりますが、パウロはこの手紙を結ぶにあたり、コリントの人たちに今一度イエスの苦難の生涯を振り返るようにと呼びかけています。ですからこの棕櫚の主日に実にふさわしい箇所だと言えます。

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