十字架での死
マルコ福音書15章21~40節

1.序論

みなさま、おはようございます。さて、今日はいよいよ主イエスが十字架上で絶命されるという重大な場面です。マルコ福音書の記述は、イエスが徹底的に孤独に追い込まれ、孤立無援、まさに四面楚歌の状況に陥ったことを強調しています。ルカ福音書には、イエスのことを嘆き悲しむ多くのユダヤの民衆が描かれていますが、マルコはそのようなイエスに好意的な群衆がいたことについて触れていません。また、ヨハネ福音書では「主に愛された弟子」と呼ばれるイエスの一番弟子や、イエスの母マリアが十字架のすぐ下でイエスを見守ったことになっていますが、マルコでは十字架から遠く離れたところから見守っていたガリラヤの女性たちのことしか書かれていません。また、ルカ福音書によれば、イエスの両脇で十字架に架かった二人の強盗のうちの一人はイエスに好意的で、イエスに自分を救ってくださいと願い、イエスもそれを受け入れるという微笑ましい情景が描かれていますが、マルコはそのような強盗がいたことを一切書いていません。むしろ、イエスはすべての人から拒絶され、捨てられたことを強調しています。イエスは十字架上で独りぼっちだったのです。

それだけではありません。人間だけではなく、神すらも自分を見捨てられたのではないか、との思いにイエスは囚われていたように見えます。ずっと沈黙を守っていたイエスは、十字架上でたった一言だけ言葉を発します。それが、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」というアラム語で語られた言葉です。ここで、ゲッセマネの祈りのように「アバ、父よ」ではなく「神よ」と呼びかけているところに、イエスと神との距離を感じてしまいます。このように、マルコはすべての人から見捨てられ、神にすら見捨てられて孤独と絶望の中で十字架上で絶命したイエスを描いています。

そのような孤独の中で、イエスは何を思っていたのでしょうか。あまりの苦しさに、何も考えられなくなっていたのでしょうか?そうではなく、イエスは最後の最後まで霊的な戦いを続けていた、ということが示唆されているように思えます。つまりイエスは十字架上ですら、自らが果たすべき使命のために格闘していたのです。では、イエスの使命とは何でしょうか。思い出してほしいのですが、イエスはこのマルコ福音書において公生涯を歩み出したとき、初めになんと言われたでしょうか。それは、「時は満ち、神の国は近くなった」という言葉でした。イエスの宣教の目的とは、この地上世界に神の国の到来を宣言し、さらには自らの宣教を通じて神の支配をもたらすことでした。そのために、これまでイエスは多くの働きをしてきました。しかし、十字架でこのような惨めな死を遂げてしまったなら、イエスの目的である神の支配の実現はまったくの失敗、挫折に終わってしまうことになります。少なくとも、世間一般の人はそのように考えるでしょう。イエスは神の国をもたらすと約束したが、結局それは実現しなかったのだと。夢と終わったのだと。それでいいのか、とイエスにささやく声がありました。その声は、福音書に何度も登場する「試みる声」、サタンの声でした。あなたの素晴らしい理想が、こんなみじめな形で終わっていいのか、いやそんなはずはない、イエスよ、今こそ十字架から降りてみせなさい、あなたの圧倒的な力を人々の前に示しなさい。誰もがあなたを見捨てたが、もしあなたがここで神の子としての力を示せば、大逆転が起こる。人々は瞬く間にあなたを信じるようになり、あなたの掲げる神の王国の大義を受け入れるようになるだろう、このようにサタンはささやきます。このことを、イエスの十字架の回りに群がった人々の口を通じてイエスに訴えかけます。「十字架から降りなさい。自分で自分を救ってごらんなさい。そうすれば、私たちは皆あなたを信じて、従うようになるでしょう」と。イエスを嘲笑する人々の背後には、悪い霊的な力が働いていたのです。

ここでイエスとサタンとの間で争われている問題とは、イエスの語る「神の国」とは一体如何なる王国なのか、どのようにして実現する国なのか、ということです。イエスは暴力ではなく苦難と十字架での死、人を上から押さえつけたり、人から奪うよりも、むしろ人に惜しみなく与えることによって実現する神の国を示そうとします。イエスの成そうとしたことは一種の革命ですが、しかしその革命はフランス革命やロシア革命のようなものではなく、一切の暴力を否定した革命なのです。しかし、そんなイエスの目指す革命は誰にも理解できないものでした。人間の理解を越えたものです。勝利ではなく、十字架という敗北を通じて実現する王国など、誰が理解できるでしょうか?だからあなたは人々から見捨てられてしまったのだ。そんな高尚な話には誰も耳を傾けないのですよ。むしろ誰にでも分かる形で神の力を示しなさい。そうしてあなたの語ってきた神の支配を実現させなさい、とサタンは十字架で苦しむイエスに執拗に語り掛けます。そのような緊迫した霊的な戦いが行われていたことを思いながら、今日のみことばを読んで参りましょう。

2.本論

さて、前回の箇所でローマ総督カヤパから死刑宣告を受けたイエスは、ローマ兵たちからの暴力と嘲笑を受けました。それから、イエスは自分で自分の架けられる十字架を背負わされて処刑場まで歩かされます。しかし、拷問のむち打ちの刑で受けた傷が深すぎて、体力が極端に落ちていて自分では十字架を運べなかったものと思われます。そこでローマ兵は、見物していた群衆の中から一人を選び出して代わりにイエスの十字架を担ぐように命じます。当時のローマ兵は、植民地支配している地域の住民に荷物を一ミリオン担いで運ぶようにと命じることができました。ですからイエスに十字架を背負わせていたローマ兵は、たまたまそこにいたアレキサンデルとルポスの父であるシモンというクレネ人に、イエスの代わりに十字架を背負わせました。マルコがこのシモンについてここまで詳しい情報を提供しているのは、マルコ福音書が書かれた頃にはこのシモンという人物は教会の中ではよく知られていた人だったからだと思われます。彼はこの出来事を通じて、おそらくイエスを信じるクリスチャンになったのでしょう。

それからイエスはゴルゴタと呼ばれる処刑場に到着しました。そこでイエスは手足に木釘を撃ち抜かれて十字架に付けられます。また腰の布も取り去られて文字通りに素っ裸にされます。十字架とは苦痛を与えるだけでなく、恥辱を与えるためのものでもあったからです。ここで、この受難劇の中では唯一の武士の情けとでも呼びたくなる行動がなされます。ある人たちがイエスに没薬を混ぜたぶどう酒をイエスに与えようとしたのです。これは耐えられないほどの苦痛に苦しむイエスを、お酒で酔わせて少しでも苦痛を和らげようという配慮から出た行動でした。これを与えたのはおそらくローマ兵ではなく、ユダヤの群衆だった思われますが、この受難の最中での唯一のイエスに対する好意的な行動だと言えるでしょう。しかしイエスはそれを飲もうとはされませんでした。イエスが意図的に飲むことを拒否したのか、あるいは意識が朦朧として飲むこともできなかったのか、よくは分かりません。ともかくも、イエスはぶどう酒を飲みませんでした。ローマの兵士たちは、イエスのわずかな荷物や服をくじで分けていました。目の前で苦しんでいる人への同情のかけらもない非情な行動でしたが、ローマの兵士たちにとって十字架は日常の光景であり、十字架上で息をするのすら苦しいと言われる苦しみにあえぐイエスを見ても、何の感慨も抱かなかったのでした。

イエスが十字架に架かったのは朝の9時で、絶命したのは昼の3時でした。6時間の間イエスは十字架に架かっていたのですが、これは十字架刑としては非常に短い期間でした。というのも、しばしば十字架に架けられた人は十字架上で何日も生き残り、その間排泄物は垂れ流し状態となり、また生きたまま野良犬や鳥たちに肉体を啄まれたり食いちぎられたりして、文字通り生き地獄の様相を呈するのですが、6時間という比較的短い時間で絶命できたというのは、こんな言い方が許されればですが、イエスにとっては幸いなことでした。それほどまでに十字架刑とは惨たらしい処刑方法だったのです。

しかし、その6時間の間もイエスは肉体的な苦痛に加えて絶えざる嘲笑に悩まされていました。イエスの頭上には「ユダヤ人の王」という罪状が掲げられていました。つまりイエスの罪とは、自分がユダヤの王だと名乗ったということなのです。ローマ帝国としては、彼らの許しなしにユダヤの王と名乗るような輩はみな同じ目に遭うぞ、というメッセージを送っていたのです。また、さらに深読みするならば、たとえ本物のユダヤの王であっても、ローマに逆らう者はこのような辱めに遭うのだと、支配者であるローマと被征服者であるユダヤとの圧倒的な立場の違いを見せつけようとしたのかもしれません。

このようにローマから辱められたイエスですが、同胞のユダヤ人からはさらにひどい辱めを受けました。彼らはイエスに対し、いまここで奇跡を起こしてみろ、そうすれば信じてやろうと挑発します。私たちの王と名乗るのなら、それにふさわしい力を見せてみなさい、そうすればメシア王として認めてやろうというのです。この挑発は、イエスが公生涯を始める時に、サタンが荒野でイエスを誘惑したのと実は同じ内容でした。その時のイエスとサタンとの会話はマルコ福音書には書かれていませんが、マタイとルカには詳しく書かれています。マタイ福音書4章5節から6節をお読みします。

すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。「あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。『神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる』と書いてありますから。」

サタンはここで、人々の前で大いなる奇跡を見せよ。そうすれば人々はあなたにひれ伏すだろう。あなたの実現しようとしている神の国は、あなたが人々を驚かせる奇跡をすればするほど、容易に実現するだろうとささやいたのです。サタンはイエスの目的が分かっていました。イエスの宣教の目的は、この地上世界に神の支配をもたらし、この地上を神の国に変えることでした。しかし、人々がイエスをメシア王として認めない限りは、そんな王国は実現しません。自分だけ王だと思っていても、周りが認めなければ裸の王様だからです。サタンはイエスに、人々がどうすればイエスを信じて、王として認めるようになるのか、という現実問題について非常に具体的なアドバイスを与えたのです。そのためには人々が求めるものを与えてあげればよいのだ。人々は食べ物を、パンを求めている。だからあなたの神の力を使って、石をパンに変えて人々に与えなさい。そうすれば人々はあなたに従うようになるだろう。また、あなたは人々に自分の圧倒的な力を示しなさい。大きな奇跡を皆の前で演じてごらんなさい。人々は熱狂してあなたに従うだろう、そのようにサタンはイエスに持ち掛けます。しかし、イエスはこれらの申し出をすべて拒否しました。なぜなら、サタンの提案した方法は、この世の王国のやり方と何も変わらないものだからです。ローマ帝国は人々をローマに心酔させるために二つのものを人々に与えました。「パンとサーカス」です。人々に食べ物を与え、また人々が興奮するようなスペクタクル、奇跡とも思えるような派手なショーを与えました。イエスも同じことをすれば、すべてのユダヤ人がイエスに従ったかもしれません。しかし、この世の王国と同じ方法で打ち立てた王国は、本当に神の王国と呼べるのでしょうか。単に、ローマ帝国をグレードアップしただけの、いつの時代にもあるような凡庸な王国になってしまわないでしょうか。神はイエスを通じてそんなまがい物のような王国を打ち立てようとしたのでしょうか?いいえ、そうではありません。神はイエスを通じ、この世の王国とは全く性格の異なる王国を打ち立てようとしたのです。イエスの王国とは、王がいばって人々を自分のために仕えさせる王国ではなく、むしろその王が自ら率先して人に仕えるような王国です。自分のために死ねと王が民に命じるような王国ではなく、むしろ王が民のために自らの命さえ与えるような王国です。イエスはそのような王国をこの世界に打ち立てるために生きて、そして今や十字架で死のうとしているのです。しかし、サタンにとってはそのような国を地上に打ち立てられては困るのです。サタンはこれまでと同じような仕方で、世界の国々を操りたいのです。この世の王国が求めるのは富と力です。現代的な表現では、経済力と軍事力といった方がより分かりやすいでしょうか。圧倒的な軍事力と強大な経済力を持つ国こそ、この世を支配する最強の国です。サタンには、このような軍事力と経済力をこれはと思う人に与える権限がありました。これこそサタンの領域、得意分野だからです。サタンはイエスの作ろうとする神の国も、そのようなこの世の王国の一つにしたかったのです。ですからイエスに対して、十字架で惨めに死ぬことなんかやめて、ここで圧倒的な力を示しなさい、奇跡を起こしなさい、十字架から降りて、あなたを苦しめるローマを滅ぼしてしまいなさいと、ユダヤの大祭司たちの口を通じてイエスを挑発したのです。大祭司だけでなく、イエスの両隣で十字架に架かっている強盗の口を通じても同じことを言わせました。前回の説教でもお話ししましたが、これらの「強盗」とはいわゆる金目が目的の押し込み強盗のことではありません。そういう普通の強盗をローマはわざわざ十字架で殺すことはしませんでした。むしろここで言われている強盗とは、対ローマへの強奪行為に特化したレジスタンスの闘志でした。彼らはローマ帝国のユダヤ人への支配を妨害するためにローマの人々やローマに協力するユダヤ人に対して強盗を働いていたのです。その彼らも、イエスを挑発しました。あなたが噂通りの力があるのなら、なぜそれを用いないのか?あの噂は嘘だったのか。さあ、早く自分自身を救って、私たちも救ってくれ。そうして一緒にローマと戦おう。しかし、それが出来ないのならあなたはただの嘘つきの偽メシアに過ぎない、このように挑発しました。

しかし、イエスはこのようなサタンの挑発に乗らないように、十字架の上で厳しい霊的な戦いを続けておられました。ひたすら耐え抜いたのです。しかし、それは想像を絶する苦しい戦いだったことでしょう。まるでイエスの心象風景がそのまま現実世界に投影されたかのように、イエスが十字架に架かって3時間後の正午には、太陽が一番高い位置にあるにもかかわらず全地は真っ暗になってしまいました。イエスの心も同じく真っ暗だったのでしょう。イエスは孤独な戦いを続けていました。いつも共に歩んでくださった父なる神の臨在すらも遠く感じる、そのような時でした。イエスは最後の試みを通られていたのです。誰にも理解されない神の国の平和のヴィジョン、そんなもののために命を懸けてどうするのだ、という執拗な問いと戦っていたのです。まさに暗い灯りのない夜道を一人で歩まれていたのです。いよいよ死の瞬間が近づく中、イエスは神に向かって「エリ」と叫びますが、それが周囲の人には「エリヤ」と聞こえたのかもしれません。当時の人々は、エリヤが来てすべてを立て直すと信じていたので、もしやイエスはそのためにエリヤを呼び求めているのではなかろうかとイエスの近くにいた人は考えたのです。ですからここで「エリヤを呼んでいる」と考えたのはローマ兵ではなくユダヤ人です。ローマ人は、エリヤなど聞いたこともなかったでしょうから。そのユダヤ人が、エリヤを呼び求めるイエスを力づけようとぶどう酒を飲ませようとしました。彼らも、エリヤがやって来て、イエスを含めたユダヤ人を救ってくれると期待したのです。しかし、実はエリヤはもう来ていたのです。それはバプテスマのヨハネでした。ですからここでエリヤが来るはずもなかったのです。

イエスは差し出されたぶどう酒を飲むことなく、声にならない大声を上げて絶命しました。ちょうどその時、神殿の垂れ幕が真っ二つになりました。これは、イエスが予告した通りに神殿が崩壊することが、イエスの死によってますます確かなものとなったことを表す象徴的な出来事でした。イエスはオリーブ山の講話で、太陽が暗くなる時に人の子が裁きに来る、と語られました。裁きとは、神殿への裁きです。その裁きはイエスの死後40年後に実際に起こるのですが、ここでその前兆とも思える出来事が起こったのです。ユダヤ民族とその神殿がローマとの戦争を回避して生き残るには、イエスの平和の教えに従う他なかったのですが、イエスの死によってそのような救いの道は閉ざされ、ユダヤ民族はいよいよ絶望的な戦争へと突き進むことになってしまうのです。

そして、このイエスの死に際して驚くべきことが起きました。なんと、これまでイエスをただの哀れなユダヤの反逆者の一人として淡々と死刑執行を行っていたローマの百人隊長が、イエスの死に際にただならぬものを感じ、「この方はまことに神の子であった」という言葉を漏らしたのです。この百人隊長も自分が何を言っているのか、よく分かっていなかったかもしれません。しかし、彼の告白は新しい時代の到来を予感させるものでした。すなわち、救いはユダヤ人だけでなく、広く異邦人にまで及ぶようになることを予感させるものでした。

3.結論

まとめになります。今日は、イエスの地上の生涯の最後の時間について学びました。イエスはこの十字架上で、徹底的に孤独でした。肉体的な苦しみに加え、心理的な絶望、霊的な渇きにも苦しんでおられたのです。父なる神すらも遠くに感じられる、そのような極限の孤独の状態にいたのです。そこでサタンは執拗にイエスに働きかけました。サタンとしても、これがイエスを試みる最後の機会なので必死です。サタンはイエスに、「あなたの理想は立派だが、それは誰にも理解できない、理解されない理想だ。その証拠に、誰もかれもがあなたを見捨てたではないか。あんなに人々のために尽くしたのにこのざまだ。あなたのやり方は間違っている。独りよがりなのだ。さあ、私の言うとおりにしなさい。早く十字架から降りなさい。あなたの神の力を人々に見せつけてやりなさい。そうすれば、あなたの目指す『神の国』もすぐに実現しますよ」と。しかしイエスは神を信頼し続けました。神がイエスに示した神の国への道は、十字架の道だったのです。圧倒的な力や暴力と恐怖による支配ではなく、惜しみなく与える愛、苦しみを耐える愛を通じて神の支配は実現するのです。イエスはその試練を耐え抜きました。

ここで私たちにも一つの問いが与えられます。私たちは、イエス様の教える平和の道を本当に信じているのでしょうか。そんな暴力なき革命など空虚な理想論に過ぎないと考えていないでしょうか。私たちの周囲にはそんな理屈が通じない人だらけなのだから、私たちもこの非情な世界で生きる以上、この世のジャングルのルールに従うほかはないではないかと。しかし、私たちにそのようにささやきかけるのはまさにサタンの声なのです。暴力と恐怖、圧倒的な軍事力で問題を解決するのがサタンのやり方です。サタンは私たちクリスチャンにも同じことをさせたいのです。しかし、暴力による革命はさらなる暴力革命を呼び、内ゲバの連鎖になり、やがて自滅することは歴史が証明しています。戦争もしかりです。圧倒的な力で世界を支配しようという人間の野望が、とうとう核兵器まで作り上げてしまいました。しかし、核兵器がもたらすのは平和よりも人類の自滅でしょう。イエスはそのようなやり方とは根本的に違う道を十字架で支援されました。そのような平和への道は決して楽なものではありません。犠牲も伴います。しかし、イエスもその道を通られたのです。私たちもそれに続きたいと願うものです。お祈りします。

十字架で死なれ、その死を通じて新しい王国への道を示してくださったイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。私たちはずっとマルコ福音書を読んで参りましたが、今日は十字架での死という、驚くような物語のクライマックスに至りました。しかしその死は無駄死にではなく、むしろその死から大きな実が結ばれることになりました。そのことに感謝しつつ、私たちも平和づくりのために歩むことができますように。私たちの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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