教会の最初のメッセージ(山崎ランサム 和彦師)
使徒の働き2章36節

おはようございます。本日このようにして、中原教会の皆様と共に主を礼拝できる機会を与えられましたことを感謝いたします。山口先生は個人的にたいへん親しい友人であるとともに、尊敬する聖書学者でもあります。私も先生と同じく新約聖書を専門に研究している者でありますが、先生からはいつもたくさんのことを学ばせていただいています。その山口先生から中原教会での説教奉仕をというご依頼を受けましたので、喜んでお引き受けしたのですが、同時に緊張もしております。けれども今朝はご一緒に、聖書のみことばを通して主が語られる内容に耳を傾けていきたいと願います。

さて、今日の説教タイトルは「教会の最初のメッセージ」とつけました。今日の主日も世界中の教会で礼拝が捧げられ、説教がなされます。世界にどれくらいの数の教会があるか、はっきりした数は誰にも分かりませんが、あるデータによるとおよそ3千7百万の教会があるそうです。一つの教会で一日に何回も説教がなされることもありますので、単純計算しても今日一日だけでのべ数千万の説教がなされていることになります。さらに、2千年におよぶキリスト教の歴史の中でこれまでに語られたメッセージの総数を考えると、気の遠くなるような数になるでしょう。

けれども、使徒の働きの2章に書かれている説教は、それらすべてのメッセージの第一番目に位置する、史上最初のキリスト教会のメッセージということになるのです。これはイエス・キリストが復活して天に挙げられた後、弟子たちに聖霊が注がれ、教会が誕生したペンテコステの日に、使徒ペテロによって語られたものです。

入学式や入社式に語られる校長や社長のメッセージにせよ、国家の指導者の就任演説にせよ、最初に語られるメッセージというものは、特別な意義を持っています。教会においても、新年の礼拝で語られるメッセージはその年の教会の歩みを方向づけるものですし、ある教会が創設された時の開所礼拝でのメッセージは、その教会に神様から与えられた賜物と召命を確認し、これからその教会を用いて神様がなされるみわざへの期待と、主に忠実に仕えていこうとする献身の思いを胸に刻むような、特別なものと言えるでしょう。

それと同じように、教会史上最初のメッセージは、これから地の果てにまで広がっていこうとする教会とは何なのか、それが神様のご計画の中でどのような使命を与えられているのかを明らかにする、非常に重要なものであると言えます。ですから、私たちも含めすべてのキリスト教会は、このメッセージにじっくりと耳を傾けていく必要があるのです。

まずは、このメッセージの背景を見ていきたいと思います。イエス・キリストは復活されて後、弟子たちに対してエルサレムにとどまって約束の聖霊が与えられるのを待つようにと命じられ、天に帰って行かれました。その後、ユダヤ教の五旬節(ペンテコステ)という祭の日に、弟子たちに聖霊が下ってきました。その時の様子を読んでみましょう。

使徒2:1-4「1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。 2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。 4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

有名な聖霊降臨の場面です。この物音を聞きつけた人々が集まって来ましたが、弟子たちがいろいろな国のことばで神様の偉大なみわざを語るのを聞いて驚き怪しんだと言います。

しかし中には、弟子たちはただ甘いぶどう酒に酔っているだけだと嘲笑する人もいました(13節)。これがきっかけとなって、弟子たちを代表してペテロが群衆に語りかけます。14節から36節までのペテロの説教が、これまでお話してきた、教会史上最初のメッセージになります。

最初に私たちがどうしても確認しておく必要があるのは、ペテロはこのメッセージを誰に対して語っているのか、ということです。どんなメッセージでも、それがどんな状況で誰に対して語られたのかを知らなければ、その内容を正しく理解することはできません。では、このメッセージは誰に対して語られたものなのでしょうか?

14節でペテロはこう語り出しています。「ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々。」さらに22節では「イスラエルの人たち」とも言っています。そして説教のしめくくりにあたる36節でも「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。」と繰り返されています。つまり、ペテロの説教の聴衆はユダヤ人であり、神の民イスラエル人だったということです。

2章5節にも「さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが」と書かれています。そしてそもそも、聖霊が注がれた弟子たち自身もみなユダヤ人でした。ペンテコステの日に誕生した教会には、異邦人は一人も含まれていませんでした。つまり、教会史上最初のメッセージは、ユダヤ人である使徒たちが、同胞のユダヤ人に語ったメッセージだったのです。これはこの説教の内容を理解する上でとても大切なポイントです。

そのことをふまえた上で、ペテロの説教の内容を概観していきましょう。まず彼は、弟子たちが酔っ払っているという非難に応えるところから始めます。弟子たちが突然外国語で話すようになったのは、酒に酔ったからではなく、旧約聖書のヨエル書に書いてある預言が成就したのだ、と言います。17節から引用されているのはヨエル書2章28節から32節の最初の部分で、そこで語られているのは、神様が終わりの時代にイスラエルを救うために、ご自分の霊を注いでくださる、ということでした。

22節からペテロは、主イエスについて語り始めます。これは突然話題を変えたように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。彼はイエス様の宣教と受難、復活、さらには父なる神様の右に上げられたところまでを語っていきます。そして33節ではこう言います。「ですから、神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。」

ここで、イエス様の話と聖霊の話がつながります。つまりペテロは、死からよみがえり、今も生きておられるイエス様が天から聖霊を注がれたのだ、と言っているのです。これは逆に言うと、エルサレムのユダヤ人たちが見聞きしている不思議な現象は、十字架につけられて殺されたイエス様が今も生きておられることの証拠だ、ということです。

そしてペテロの結論は、本日の主題聖句である36節です。「ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」

ここの箇所は、聖書協会共同訳の方が原文のニュアンスをより正確に伝えていると思いますので、その訳でも読んでみます。「だから、イスラエルの家はみな、はっきりと知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけたこのイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」

新改訳ではユダヤ人がイエス様を十字架につけたことが強調される訳し方になっていますが、ペテロがイスラエルの人々に対して伝えたかったメッセージの中心は、「父なる神様がイエス様をすべてを治める支配者とされた」ということです。これこそ福音、「よい知らせ」の中心なのです。ペテロはこの説教の中で「福音」という言葉は使っていませんが、何度も申し上げている通り、彼のペンテコステ説教は教会史上最初の説教ですので、そこで福音が語られていないというのはありえないのです。ちなみに同じような内容をローマ書の冒頭で語っているパウロは、その内容をはっきり「福音」と呼んでいます(ローマ1:1-5)。

当時新しいローマ皇帝が即位した時、そのニュースは「よい知らせ」として帝国のすみずみにまで告げ知らされました。その時使われたことばは、新約聖書で「福音」と訳されているエウアンゲリオンというギリシア語でした。初代教会が宣べ伝えた「福音」も、第一義的には個人の魂の救い(私の罪が赦されて天国に行ける)ではなく、もともとは「イエスが主またキリストとなられた」という公の知らせ(ニュース)だったのです。

現代の私たちには、「主」や「キリスト」と聞いてもピンとこないかも知れません。イエス様の呼び名くらいにしか思わないかも知れませんが、このことばはどちらも「王」あるいは「支配者」という意味合いがあります。「主」という言葉は旧約聖書で神さまを指す呼び名として使われましたが、ギリシア語のキュリオスという言葉はローマ皇帝にも使われていました。また「キリスト」という言葉はメシアというヘブル語のギリシア語訳で、本来は「油注がれた者」という意味ですが、当時のユダヤ教ではイスラエルを解放してくれる王を意味していたのです。つまり、イエス様が「主」であり「キリスト」であるとは、天から世界を統べ治めておられる王なる方だということです。

ここでもう一度、この説教がイスラエルに語られたメッセージであることを思い出してください。ペテロのメッセージはイスラエルの民にとってどのような意味を持っていたのでしょうか? そのことを知るためには、一歩下がって、今日の話をより大局的な、聖書全体の文脈の中で理解する必要があります。

旧新約聖書の全体は、天地創造から新天新地に至る世界の歴史を物語る一貫したストーリーとして読むことができます。そしてその中で、神の民イスラエルはとても大切な役割を演じています。

神様が最初に創造した世界はとても良いものでした。そして人間は神様の代理人としてその被造世界を賢く管理するために造られました。人間の働きを通して世界は神様の素晴らしさを反映し、その栄光が満ち溢れる世界となっていくはずだったのです。

ところが人間が罪を犯して神様から離反し、自分勝手に世界を治めようとしていったために、人間は自分自身が不幸になっただけでなく、人間を通して世界を治めるという神様のご計画も中断してしまいました。

この状況を打破するために神様が行ったことは、イスラエルという契約の民を興すことでした。神様はアブラハムという一人の人物を選んで、彼とその子孫すなわちイスラエルを永遠に祝福すると約束されました。イスラエルは神様の御心を反映し、その祝福を諸国民に取り次ぐべき存在でした。彼らには、諸国民の光となる使命が与えられたのです。

ところがここで、さらなる問題が起こります。神の民であるイスラエル自体が罪を犯して神様に背いてしまったのです。その結果彼らはバビロンに捕囚になってしまい、捕囚から帰ってきてからも、異邦人に支配され続け、全人類を祝福するという神様から与えられた本来の使命を果たすことができないでいました。

けれども、イスラエルの人々は希望を捨てませんでした。いつの日かメシアと呼ばれる救い主が現れて彼らの王となり、彼らを神の民として回復してくださるという望みを持っていたのです。

ペテロのメッセージは、このような背景に照らして考える必要があります。神様ご自身が、十字架につけられてよみがえったイエス様をキリストすなわちイスラエルの王なるメシアとされた、ということは、ここまでお話してきたような、歴史を通して展開する神様のご計画が一大転機を迎えた、ということを意味しています。イエス様がイスラエルを回復することによって、イスラエルは神の民としての本来の使命を果たすことができるようになります。そして実際、使徒の働きの後半では異邦人に福音が伝えられるようになっていきます。その先には、人類全体の回復、そしてパウロがローマ書の8章で述べているような、被造物世界全体の回復までもはるかに望み見ることができるようになったのです。ちょうどオセロのゲームで盤面が真っ黒のような状態でも、一つのマスに白いコマを置くとすべてが裏返って白になっていくように、イエス様の復活を通してすべての回復が始まったのです。

言い換えるならば、教会史上最初のメッセージの核心は、十字架で死んでよみがえったナザレのイエス様は、イスラエルの王、メシアである、というものでした。つまり、この説教は神の民イスラエルの回復について語っているのです。

さて、この結論を聞いて、みなさんは肩透かしを食わされたような気になっておられるかもしれません。教会史上最初の説教はどんなすごいメッセージかと思ったら、それはイスラエルの回復に関することだった、と言われてもピンとこないかもしれませんね。大昔のイスラエル民族の回復と現代の異邦人クリスチャンである私たちとの間にいったい何の関係があるのでしょうか? 実は大いにあるのです。

まず、異邦人クリスチャンも含むキリスト教会は、旧約時代のイスラエルと連続した存在です。アブラハムの時代から今日まで、歴史を通して神の民は一つしかありません。先にお話したように、ペンテコステの日に誕生した教会は回復したイスラエルでした。異邦人クリスチャンはそのイスラエルの民に後から加わってきた存在なのです。パウロはこのことをローマ書11章で、野生のオリーブの木が栽培されたオリーブの木に接ぎ木される、というたとえで説明しています。私たち異邦人クリスチャンは、霊的にはアブラハムの子孫であり、神の民イスラエルの一部なのです。教会が回復したイスラエルとして始まったということは、私たちのルーツがペンテコステの日をはるかに遡る、アブラハムにまで至ることを示しているのです。

次に、イスラエルの回復というペテロのメッセージは、神様ご自身がどのようなお方であるかについても語っています。それは神様は真実なお方である、神様は決して見捨てることのないお方だ、ということです。

先ほどからお話している聖書のストーリーにおいて、神様はどんな障害があっても、それを乗り越えて、この世界をご自分の栄光あふれる素晴らしい世界にするという最初からのご計画を一歩一歩実現していかれるお方であることがわかります。特に神様はアブラハムに与えた永遠の祝福の約束を決して破ることはありません。イスラエルが罪を犯して離れていった時、神様はさばきを下し、悔い改めを求めますが、決して滅ぼし尽くすことはせず、いつでも残りの民(レムナント)を通してイスラエルを回復してくださるのです。

イスラエルが犯した最大の罪は、彼ら自身を救うためにメシアとして遣わされたイエス様を十字架につけて殺したことでした。けれども、神様はそのイエス様をよみがえらせて、彼らの王とされたのです。そもそも、この説教を語っているペテロ自身、イエス様が捕らえられた時に三度も主を否定した人物でした。けれども彼も赦されて立ち上がり、使徒たちの代表として大胆にこのメッセージを取り次いでいます。これらすべてのことが雄弁に証ししているのは、神様は決してご自分の民を見捨てないお方であり、何度つまずいても私たちを立ち上がらせ、ご自分の働きのために用いてくださるお方だ、ということなのです。

このことは、今日の私たちの信仰にとっても大きな意味があると思います。もし神様が罪を犯したイスラエルを退けて、まったく別のところから教会を起こすような神様だったとしたらどうでしょうか。私たち自身も信仰の歩みにおいて神様から離れたり、何か失敗を犯したりした時、自分も同じように神様から見捨てられてしまうのでは、という恐れや不安に苛まれるかもしれません。

けれども、聖書が証ししている神様は、そのようなお方ではありません。この方は真実な神様であり、私たちがどれほど不甲斐ない歩みをしていたとしても、私たちを決して見捨てず、私たちが悔い改めるならばいつでも赦してくださり、私たちを再び立ち上がらせてくださるお方なのです。

このように、教会史上最初のメッセージが語っているのは、私たちは何千年もの歴史を貫く神様の大いなるご計画の中に生かされている存在だ、ということです。そのご計画は、イエス・キリストにおいて一大転機を迎えました。これこそ教会が最初に語った良い知らせ、「福音」のメッセージです。そしてそのすべてを通して表されているのは、私たちに対する神様の真実の愛なのです。この神様に信頼して、今週も歩んでいきましょう。

お祈りいたします。歴史を導かれる真実な神様。今日は教会史上最初のメッセージについて、使徒の働きから学びました。ペンテコステの日にペテロが語った説教を通して、あなたが御子イエス・キリストをよみがえらせたことによって、世界を回復しようとするあなたの壮大なご計画に決定的な転機が訪れたことを学びました。そしてそのような救いのみわざは、イスラエルに対する、また人類に対する、さらにはこの世界全体に対する、あなたの尽きることのない愛に裏打ちされているものであることを知りました。あなたは真実なお方であり、決して私たちを見捨てることなく、いつでも私たちを支え、導いてくださるお方であることを感謝します。あなたの真実な愛に応えて今週も歩むことができますよう、お一人ひとりをお守りください。救い主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。

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