ゲッセマネの祈り
マルコ福音書14章27~42節

1.序論

みなさま、おはようございます。マルコ福音書に置いてイエスは一歩、一歩、十字架への道をたどっていますが、今日はその逮捕直前の数時間について学んでいきます。そして今日の聖書箇所は、福音書の中でも最もイエスの人間的な面を意識させられるような箇所です。いうまでもなく、イエス・キリストとは私たちクリスチャンにとっては信仰の対象です。人間というよりも、神としてイエスを見ています。ですからイエス様は私たち人間が普段悩んだり苦しんだりするようなこととは縁のない存在なのではないか、そう考えてしまうかもしれません。実際、四つの福音書の中で最後に書かれ、イエスの神としての側面を最も強調するヨハネ福音書には、イエスが悩んだり苦しんだりしたことを示唆する記述はありません。しかし、最古のマルコ福音書の今朝の箇所では、イエスは明らかに苦しんでいます。

今日の箇所では「イエスは深く恐れもだえ始められた」とあります。この「恐れ」と訳されているギリシア語は必ずしも恐怖するという意味ではなく、「驚嘆する」という、どちらかというとポジティブな意味合いもあります。しかし「もだえる」という言葉は文字通り恐怖を感じるとか、勇気を失うという否定的な意味合いの言葉です。実際、自分は悲しみで死にそうだとすらイエスは語ります。こんなにも弱気なイエスの姿に私たちは驚かされます。福音書以外では、ヘブル人への手紙がイエスの苦しみに注目し、イエスは「大きな叫び声と涙とをもって」祈られたとあります。イエス様が本当に悩み苦しんだことは間違いないのです。

しかし、ただの人間ではない神の子であるイエス様が私たちのように悩むんだろうか、と不思議に感じる方もおられると思います。ここでごく当たり前のことを申しますと、人を治癒する力を持つイエス様は私たちとは違って、殴られたり拷問に遭っても神の特別な力でそうした肉体的な苦痛を感じなかったとか、あるいは和らげることができたとか、そういうことではありません。イエスは完全な人間なので、私たちと全く同じように「痛い」と感じるし、あまりの苦痛に涙を流すということもあります。肉体だけではなく、精神面でも同じことが言えます。私たちも人から仲間外れにされたり、裏切られたりすると精神的に大きな苦痛を感じ、死にたくなることすらありますが、イエスも全く同じで、いくら予想していたこととはいえ、実際に自分が手塩にかけた弟子たちに裏切られたり見捨てられたりすることに対しては大変な精神的苦痛を受けたのは間違いないのです。さらには人間だけでなく、神にすら見捨てられたという絶望を覚えておられたことを、特にマルコ福音書は強調します。ルカ福音書ではイエスは「父よ。わが霊を御手にゆだねます」という、なにか達観したようなイエスの最後の言葉が記録されていますが、マルコ福音書ではただ一言、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という有名な言葉だけが記録されています。わが父ではなく、わが神と呼びかけたところに、イエスと父なる神の距離感のようなものを感じてしまいます。マルコ福音書でもイエスは今わの際に大声で叫んだとなっていますが、ルカ福音書とは違い、何と叫んだのかは聞き取れなかったようです。言葉にならない叫びだったのでしょう。このように、ゲッセマネの園から十字架での死に至るまでの間、イエスは普通の人間と同じような、深い肉体的・心理的ダメージを受けておられたのです。

しかし、特に今日のゲッセマネの祈りの場面では、肉体的な苦しみや、弟子たちの裏切りという要素以上にイエスを苦しめたことがあるように思います。そしてそれこそがゲッセマネの祈りのテーマになっています。主イエスは、自分がなぜ死ななければならないのかを理解しておられました。前回の最後の晩餐で学んだように、イエスの死は新しい契約が結ばれるために必要とされるものでした。しかし、主イエスは頭ではご自身の死の意味を理解しておられたでしょうが、それを心から受け入れるというのはまた別の話ではなかったかと思われるのです。理屈では分かっていても、「主よ、本当にその道しかないのでしょうか、他に方法はないのでしょうか」という疑問、問いかけが主イエスの心に浮かんだというのは十分あり得ることです。イエスの使命とは、この世界に神の新しい支配、赦しと恵み、愛による支配をもたらすことでした。その神の支配、神の王国を担うための人々として新しい神の民を生み出す必要があり、イエスの死はその礎となる、それが神が主イエスに示された十字架の道でした。それは暴力や強制によらず、与える愛によって世界を治めるというイエスの理念を、逆説的な仕方で示したものだと言えます。しかし、十字架というのはあまりにも惨たらしい、恥辱に満ちた、人間の尊厳を奪うための拷問であり、そんなみじめな死を通じてしか神の支配をもたらすことができないのでしょうか、そういう問いはイエス様の心にも浮かんだでしょう。

確かに旧約の預言者たちも様々な苦難や悲劇を経験してきました。モーセは強情でうなじの怖いイスラエルの民を40年もの間我慢強く導きましたが、その彼も結局は約束の地に入ることは許されませんでした。これは本当に悲劇的な結末です。しかし、モーセの死そのものは恥辱に満ちたものではありませんでした。むしろ神は、誰にも見えないところで静かな死をモーセに賜りました。もう一人の悲劇の預言者としてはエレミヤが思い起こされます。涙の預言者と呼ばれる彼も、何度も命をねらわれ、また親族にまで裏切られるという、主イエスにも似た悲劇の生涯を送った人物でした。またその晩年も、無理やりエジプトに連れていかれてその地で没したと言われています。その晩年も幸せなものではありませんでしたが、しかし十字架のような悲惨な死を遂げたわけではありませんでした。そしてモーセもエレミヤも、相当な長寿を与えられ、人生の夕暮れに老人として死んでいきました。それに対してイエスの死は若すぎるものであり、さらにはあまりにも惨めなものでした。さすがのイエスも、「なぜ私だけ、こんな悲惨な結末でなければならないのですか。他に道はないのですか」と思わず問わずにはいられなかったのだと思います。そのようなイエスの思いをかみしめながら、今日のみ言葉を読んで参りましょう。

2.本論

今回の箇所でますますはっきりしてくるのは、イエスと弟子たちとの間の隔たりです。イエスは最後の晩餐の席で、イエスは弟子の一人が裏切ることを予告されました。それはイスカリオテのユダだったのですが、しかし裏切るのは彼だけではないのです。ユダの場合が積極的な裏切りだとするならば、消極的な裏切り、つまり窮地に陥るイエスを弟子たちみんなが見捨てていきます。イエスはここで、旧約聖書のゼカリヤ書を引用して、弟子たちの裏切りがあらかじめ聖書に預言されていることを示唆します。イエスの引用したゼカリヤ書の箇所は大変難しい、曖昧な箇所であり、これが弟子たちの裏切りの予告なのだろうかと首をかしげてしまうような箇所なのですが、ともかくもイエスは弟子たちの裏切りさえも神が定められている運命なのだ、ということを示唆したのかもしれません。イエスは彼らが「つまずく」と言っていますが、この「つまずく」という動詞はイエスが種蒔きのたとえで用いられた言葉です。4章16節と17節ですが、そこをお読みします。

同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです-みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。

ここでの「つまずく人」とは、イエスの言葉を聞いた四種類のグループの一つで、実を結ばないダメなグループの一つです。みことばを喜んで聞くけれど、困難がやって来るとすぐにひるんでしまうという人たちのことです。イエスの弟子たちは、この種蒔きのたとえを聞いた時には自分たちはこんなダメグループではなく、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶエリートグループだと思ったかもしれませんが、実のところはイエスの逮捕という困難が起きるとすぐつまずいてしまうダメグループだったことが明らかにされてしまうのです。これまでイエスと寝食を共にして薫陶を受けてきた彼らがこんなにあっさりとつまずいてしまうのは驚くべきことです。そんな弱い彼らが、後に立派に立ち直って伝道に励むようになるのはまさに神の恵みとしか言いようがありません。つまり、初めからイエスにふさわしい弟子などどこにもいないのです。みんな初めはダメ人間なのを、神の恵みによって一人前の信仰者に変えていただく、これが福音なのです。私たちも、「自分ってダメだな」と思う時が何度もあるわけですが、そんな時はダメな自分ではなくそんなダメな自分をも辛抱強く変えてくださる神を信じるべきなのです。

さて、裏切りに関するイエスの衝撃的な言葉を聞いた弟子たちはどう反応したでしょうか。真っ先に反応したのはペテロでした。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と、いかにも強気なペテロらしいことを言います。他の弟子たちも「なんだペテロのやつ。自分だけ裏切らないとは何事か。俺たちだって、そんな卑怯なことはしないぞ」と思ったかもしれません。ただ、ペテロは確かにほかの弟子たちよりはイエスに対する強い献身の姿勢を持っていたことはその後の彼の行動からも分かります。ペテロはイエスが逮捕されようとする時、大祭司のしもべに切りかかります。イエスからそのような暴力行為をたしなめられて引き下がりますが、しかしその後も他の弟子たちが逃げ去る中、一人だけイエスの後を追って大祭司の館までつけていきました。しかし、そのペテロも死の恐怖には打ち勝つことができませんでした。イエスは、ペテロでさえ最後は惨めにつまずいてしまうことを予告して、こう言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」なんと、三回も主イエスを否むだろうというのです。これを聞いたペテロは顔を真っ赤にして強く否定します。自分は絶対にそんなことはしません、あなたを否定するぐらいなら、死にますとまで言うのです。ペテロだけではありません。他の弟子たちも口々に、私たちはあなたにどんなことがあってもついていきます。見捨てたり、裏切ったりするようなことはありえませんとイエスに伝えます。それでも、結局は彼らは裏切ってしまうのです。ここまで大見えを切っておきながら、なぜ彼らはあっけないほどあからさまにイエスを見捨てて逃げてしまったのでしょうか。その原因は、彼らの心の準備不足にあったように思います。彼らは心のどこかで、イエスが語られた自分は死ぬのだという言葉を本気にしていなかったのかもしれません。あれだけのすごい力を持つイエスが、捕まったり殺されたりするはずがない、イエス様は単に私たちを試すためにおどかすようなことを言っているのだ、と考えていたのでしょう。そういう彼らの心の油断が、ゲッセマネの園で明らかにされてしまうのです。これに関して、思い起こされることがあります。数日前にイエスは先のオリーブ山の講話でこう言われました。

だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。

通常この警告の言葉は、いつだか分からない、遠い未来のイエスの再臨に備えなさい、というような意味で理解されることが多いと思いますが、実はこの言葉はすぐにも起きる苦難に対して弟子たちに注意を促す言葉だったのではないか、と思わされます。つまりこのゲッセマネの園と、その後に続く試練のための警告の言葉だったのではないか、ということです。弟子たちは、今こそ目を覚ましているべき時でした。しかし、彼らはそうはできなかったのです。

そのゲッセマネでの出来事を見ていきましょう。イエスは十二弟子たちのほとんどをゲッセマネの園のある場所に残して、側近とされる三人だけは一緒に祈るようにと連れていきました。その三人とは、シモン・ペテロとゼベダイの子ヨハネとヤコブでした。彼らとしては名誉なことでしたが、それがむしろ彼らの失態となってしまいました。祈りの中でのイエスの状態は、今まで弟子たちが見たこともないような悲痛なものでした。イエスは苦しみ、あえいでいました。そして三人の弟子には「目をさましていなさい」と命じられました。目の前で師であるイエスがひどく苦しみ、必死に祈っているのに、眠れるはずがないと思えるわけですが、しかし彼らも過越の食事の後で疲れていたのでしょう。どうにも眠気を振り払えませんでした。そんな彼らの前でイエスは神の前にひれ伏して、必死に祈りました。「どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください」と。イエスは苦難の杯を飲むことを、以前から覚悟しておられました。イエスは以前に、自分たちを来るべき栄光の王国のナンバーツー、ナンバースリーにしてくださいと願い出たヤコブとヨハネに、「あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか」と尋ねられました。それは避けられない未来であることをよく理解していたのです。しかし、実際にはその時の直前になって、イエスですらその杯を取りのけてほしいと願われたのです。ここで、イエスの最も人間的な面を見ます。だからこそ、彼の受難はこれほど尊いものなのです。イエスは痛みを感じないスーパーマンとしてではなく、私たちと同じような弱く脆い人間として苦難を通られたのです。そんなイエス様だからこそ、弱い私たちを理解し、励まし慰めることができるのです。主イエスはこの時が過ぎ去ること、この杯が取り去られることを強く願いました。しかし、祈り続ける中で、やがてその運命を受け入れようとしていきます。そしてついに主イエスは「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください」と祈ることがおできになったのです。

心が少し落ち着いたところで後ろを振り返ると、シモン・ペテロが見事に眠りこけていました。1時間足らずの間も、眠らずに起きていることができなかったのです。祈りに集中するというのは確かに難しいものです。祈り始めると、いろんな雑念が頭に浮かんできます。集中できないのです。それに疲れが加わると、見事に眠りに落ちます。ペテロはまさにそんな状態でした。しかし、イエスを裏切るという恥をかきたくなければ、まさにここが正念場でした。ここで不覚にも眠りに落ちたことが、彼のその後の行動を決定づけたと言えます。そのペテロに、イエスはこう諭されました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエスも、ペテロに熱心さがあること、心は燃えていることを認めておられました。それでも、私たちは肉体の弱さを併せ持っています。ですから、神に祈って助けを求める必要があるのです。ペテロを起こしてからイエスは再び祈り始められました。まさに夜を徹しての徹夜祈祷です。それからしばらくして戻ってくると、ペテロもヤコブもヨハネも、再び舟をこいでいました。「ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった」とあります。ルカ福音書によると、イエスは最後の晩餐の席でペテロにこう言われました。

シモン、シモン、見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

ゲッセマネの園で、すでにサタンの力は働いていたようです。ペテロたちは肉体の弱さだけでなく、悪の霊的な力によって祈る力さえ奪われていたようです。彼らは霊的に、非常に危険で無防備な状態にいました。ゲッセマネの園での祈りでご自身の運命を受け入れた後は、イエスはひたすらペテロたち弟子のために祈っていたのでしょう。しかし、そんな師匠の気持ちも知らずに、ペテロたち三人の弟子たちは三度イエスの祈りの最中に居眠りをしてしまいます。そんな彼らを見て、イエスはこう言われました。

まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。

こうして、備えの時間は終わり、試練の時がやってきました。そして、その時の各人の行動は、その時のためにどう備えたのかにかかっていたのです。

3.結論

まとめになります。今日はイエスがユダヤ当局によって逮捕される直前の、ゲッセマネの園での祈りについて学びました。私たちの人生においても様々な試練が襲いかかります。そのために私たちはできる限りの準備をするのですが、その中でも霊的な武装ともいえる祈りは非常に重要なものです。主イエスですら、この大いなる試練を前にして気がくじけそうになりました。「この道以外には本当に道はないのですか。この杯を取りのぞくことはできないのですか」、とイエスは父なる神に切々と問いと願いをぶつけます。しかし、渾身の祈りを通じてイエスは徐々に整えられていき、試練を受け入れる心の強さと落ち着きをついに取り戻すことができました。しかし、繰り返しますが、イエスですら祈りなしには試練を乗り越えることができなかったのです。

そのイエスとは対照的なのが弟子たち、とりわけシモン・ペテロでした。ペテロたちは試練が来ることを何度も何度も警告されていたにもかかわらず、その備えをすることができていませんでした。彼らの心の中には、どこか油断というか、「あのイエス様が死ぬはずがない」という妙な安心感があったのでしょう。確かに彼らはこれまでイエスの多くの大いなる御業を目撃してきました。しかし同時に彼らは何度も主イエスから受難についての警告を受けていたのです。それに対する無理解が、肝心な場面での準備を怠らせることにつながり、イエスを裏切るという結果になっていくのです。

私たちの人生も、時に非常に大きな試練を迎える時があります。それは本当に不意打ちというか、青天の霹靂のような試練である場合もあります。そのような場合は、準備のしようがないでしょう。しかしそのような不意の試練とは異なり、今回の弟子たちのように何度も警告を受けている試練というものもあります。例えば、日本政府は徐々に時間をかけて平和憲法を骨抜きにし、日本を戦争のできる国に変えようとしてきています。これについては多くのすぐれた本が出版され、私たちは誰でもそれらの本を読むことができます。では、日本が本当に東アジアの紛争や武力衝突に巻き込まれた時、私たちはどのように行動すべきなのか、その心の準備はできているのでしょうか。いざその時になって、「いや、そんなことは全然考えたこともなかった」では済まされません。私たちもペテロたちのように、いざ試練の時に頭が混乱し、イエスの教えを忘れて世の中の動きに流されていってしまうということがあるかもしれません。イエスの平和の教えなど知らない、と否定するようなことになってしまうかもしれません。ですから今、まだ時間がある時にこそ祈り、そして必要な行動を取るべきではないでしょうか。ペテロたちの失敗を他山の石とし、私たちは目を覚ましていたいものです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。あなたは悩み苦しむイエスを励まし、その使命を全うする力をお与えになりました。あのイエス様でさえ、あなたの支えが必要でした。まして私たちはあの十二弟子よりもずっと弱い者です。そんな私たちは試練に際して、どんな行動を取ってしまうか予想もつきません。しかし、どうか弱い私たちの信仰を守ってください。イエス・キリストの聖名によって願い求めます。アーメン

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