十字架への道
マルコ福音書15章1~20節

1.序論

みなさま、おはようございます。1年以上続けてきましたマルコ福音書の説教も、いよいよ残すところ今回を含めて3回となりました。マルコ福音書では、淡々と物語が進行していくので、少し味気ないというか、物足りなく感じる面があるかもしれません。この受難劇におけるイエスの心の動きはどうなのか、またほかの人物たちは何を思って行動しているのか、そうしたことに現代の読者は関心があるのですが、マルコはほとんどそのような情報を与えてはくれません。しかし、この受難劇に登場する人物は、みな生身の人間であり、彼らの行動の背後には明確な意図があります。そのような意図は、現代に生きる私たちにも十分理解できるものなのです。

では、イエスを捕らえ、死刑にしようと画策する人々の意図とは何でしょうか?イエスを十字架にかけようとした人たちの目的は、現状を維持することでした。端的に言えば、「保身」です。彼らは権力者・支配者であり、今の状況におおむね満足していて、それを乱そうとするものは誰であろうと排除しようとします。彼らにとって、イエスは自分たちの立場を危うくしかねない、危険な存在なのです。前回はユダヤの権力者たちが、そして今回はローマの権力者が登場します。彼らは立場は違えども、その動機は驚くほど似通っていました。

前回の場面では、イエスに対するユダヤ人たちの不当な尋問について見てまいりました。イエスを裏切った十二弟子のひとりのユダは、ゲッセマネで祈っていたイエスのところに大祭司の僕たちや彼らに率いられた群衆たちを連れてきました。彼らの狙いは、イエスの身柄の確保でした。けれども彼らには、イエスを捕まえる正当な理由がありませんでした。現在の日本の法体系でたとえるならば、彼らは捜査令状も逮捕状も持っていないのです。今の日本では、警察は任意同行という形でならば、捜査令状なしでも容疑者を連行できますが、その場合は相手が拒否した場合には連行できません。しかし、大祭司たちの僕たちは有無を言わさずにイエスを力づくで確保しようとしました。つまり、これは完全に不法な行為であり、拉致というべきものなのです。ユダヤの最高権力者である大祭司が、嫌疑もはっきりしないのに同胞のユダヤ人であるイエスを拉致するというのはとんでもないことなのですが、大祭司はなぜこんな乱暴なことをしたのでしょうか?

大祭司やその仲間たちは、神殿での論争でイエスに手ひどくやり込められたので、イエスに対する恨みを持っていたのは間違いありません。しかし、恨みがあるからといって拉致をするほど大祭司たちも短絡的ではありません。大祭司たちがなぜイエスを捕らえて殺そうとしたのか、彼らの動機を知るうえで、ヨハネ福音書の記述が非常に重要です。ヨハネの11章47節以降をお読みします。

そこで、祭司長とパリサイ人たちは議会を招集して言った。「われわれは何をしているのか。あの人が多くのしるしを行っているというのに。もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。」

ここで祭司長たちは、ユダヤの民衆たちがイエスを信じるようになると、ローマ人がやってきて我々を滅ぼすようになる、という懸念を語っています。しかし、人々がイエスを信じると、なぜローマが滅ぼしにやってくるのでしょうか?ここでは、当時のユダヤ人たちの状況や考えを知っておく必要があります。イエスの時代のユダヤ人は、メシアと呼ばれる救世主が現れて、彼らをローマ帝国の圧政から救い出してくれると信じていました。ですから、人々がこのイエスこそ約束のメシア、キリストであると信じたなら、イエスをリーダーに担いでローマとの独立戦争を始めてしまうかもしれない、そうなると反乱鎮圧のためにローマ軍がやってきて、エルサレムもユダヤ人も滅ぼしてしまうだろう...このようなシナリオを大祭司たちは恐れていたのです。つまりイエスは民衆に人気がありすぎるので、たとえ彼に反乱を起こす気がなくても、人々は彼を放っておかないだろう、彼をメシアだと信じる人たちがイエスを王にして反乱を起こしてしまうかもしれない、そういう懸念を抱いたのです。では、それに対するユダヤの指導者たちの対策は何だったのでしょうか?それを大祭司カヤパが端的に述べています。それがヨハネ福音書11章49節以下です。

しかし、彼らのうちのひとりで、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない。」

大祭司カヤパは、イエス一人を殺せば、反乱の芽を摘むことができる。反乱を抑え込めるなら、イエス一人の命など安いものではないか、ユダヤの国民全体を救うためなら、イエス一人に犠牲になってもらおうではないか、そう提案したのです。一人の人が犠牲になることで、多くの人の命を救えるなら、その方がいいじゃないか、得策ではないか、というのです。こういうことは政治家がしばしば考えることです。

しかし、このような政治的ご都合主義による判断は大きな誤りでした。実際、彼らはイエスを殺したものの、その40年後にはローマがエルサレムにやって来て、エルサレムも神殿も滅ぼしてしまったからです。イエス一人を殺しても、ユダヤ人たちのローマに対する敵愾心や嫌悪感はなくなりませんでした。彼らはイエスの代わりの別のリーダーを担ぎ、ローマへの反乱を始めてしまったのです。ですからユダヤ民族が生き残るためには、イエスを殺すことではなく生かすことこそが必要だったのです。イエスは彼らに、滅びではなく命の道を教えようとしました。命の道、救いの道とは武器を取って敵と戦うことでもたらされるものではなかったのです。ユダヤ人たちが生き残るために必要だったのは、イエスの平和の教えに従うことでした。それだけがユダヤ民族の唯一の生き残りの道だったのです。「敵を愛しなさい」というイエスの教えは侵略者であるローマを憎むユダヤ人たちにはとても受け入れられないものでしたが、しかしそれだけがユダヤ民族が救われるための道だったのです。

そのイエスがいよいよローマの手に渡されて十字架への道を歩んでいく、そのような場面を今朝は考えて参ります。

2.本論

さて、イエス自身の口から「私はユダヤの王、メシアである。それどころか、私は父なる神から一切の権限を授けられた特別な『人の子』なのだ」という衝撃的な証言を引きだすことに成功したユダヤの大祭司たちは、さっそく謀反の疑いありということでイエスをローマ総督ピラトのもとに連れてきました。当時のユダヤはローマの植民地であり、ユダヤの王や大祭司というポストを任命できるのはローマだけでした。普通の人が勝手にユダヤの王を名乗ることはローマへの反乱と見なされるのです。マルコより後に書かれたルカ福音書では、イエスが如何なる嫌疑でローマ総督のところに連れてこられたのかが具体的に書かれています。ルカ福音書23章の1、2節をお読みします。

そこで、彼らは全員が立ち上がり、イエスをピラトのもとに連れて行った。そしてイエスについて訴え始めた。「この人はわが国民を惑わし、カイゼルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました。」

イエスがローマ皇帝カエサルの権威を認めず、自ら王と名乗って民衆を扇動してローマに逆らわせている、というのです。そこでピラトはイエスを取り調べて、「お前は自分がユダヤ人の王だと名乗っているのか」と確認しました。それに対し、イエスは「はい、その通りです」と答えましたが、その後は一切説明しようとはせず、黙ってしまいました。イエスは、自分は確かにユダヤ人の王だが、ローマと戦うつもりも、謀反を扇動するつもりもない、ということを弁明してもよさそうなものです。しかし、イエスはピラトとの対話を拒否するかのように、何も答えようとはされませんでした。なぜイエスは黙っておられたのか、それはなかなか難しい問いです。イエスはマタイ福音書の山上の垂訓で、「聖なるものを犬に与えてはいけません」(マタイ7:6)と言われました。ユダヤ人の間では、犬とは異邦人を指す蔑称でした。イエスは決して異邦人を差別したり、救いから排除したりはなさいませんでしたが、しかし初めから聞く気のない者、謙虚に救いを求めない者に対して真理のことばを語っても意味はない、と教えています。イエスはピラトがどういう人物であるのかを見抜き、ここで彼に真理を告げても彼はそれに耳を傾けようとはしないだろうと考えられたのではないかと思います。実際、当時の歴史書によればピラトは冷酷で残忍な男で、ユダヤ人から何かを教わろうなどという謙虚さを持ち合わせていない人間でした。彼はユダヤの大祭司たちと同じように、真理を探究するよりも自分の保身を何よりも優先するような人物でした。そのような人物に何を語っても無駄だとイエスは考えたのでしょう。

しかし、ピラトの方も彼なりにイエスを値踏みし、どうもこの男はローマにとって何の脅威にもならない男だ、ということを見て取りました。この男はどうやらユダヤ人の大祭司たちを怒らせたようだが、別に自分がわざわざ彼をローマの脅威として処刑する必要もなささそうだ、と考えたのです。そこでピラトはイエスを利用することを思いつきました。当時の習慣では過越際には囚人の一人にだけ恩赦を与えることになっていました。今年は民衆が釈放を願っていたのはバラバという男でした。彼は暴徒で人殺しだと言われていますが、そんな危険な男をなぜユダヤ人たちは解放したいと願ったのでしょうか?彼が無頼者だというのはローマの立場から見てのことであって、ユダヤ人にはむしろ人気があったのです。というのは、彼は対ローマのレジスタンスの戦士だったからです。ローマに対するゲリラ的抵抗を続ける戦士たちはユダヤの民衆の間で人気を集めていました。そうした戦士たちはローマからは「強盗」と呼ばれていました。これは実話ですが、ある村では、「強盗」一人をかくまった咎で村人が皆殺しにされたことがありました。なぜ命をかけてまで強盗なんかをかばうのか、と思われるかもしれませんが、当時の強盗はローマ兵やローマに協力する裏切り者のユダヤ人たちだけを狙う強盗だったので、民衆はむしろ彼らを自分たちの味方として支持していたのです。バラバもそのような人の一人でした。もし彼が単なる金銭目的の強盗なら、十字架刑になどならなかったでしょう。十字架刑は、ローマ帝国に逆らった政治犯だけに適用される刑罰だったからです。

ピラトは、このレジスタンスの闘士であるバラバを解放するのは獅子を野に放つようなものだと思っていました。民衆に人気のある彼を解放したら、再び暴動を扇動するようになるかもしれないと思い、彼を釈放させまいとして、民衆に人気のあるイエスを当て馬にすることを思いついたのです。民衆が人気者のイエスの釈放を求めてくれれば儲けもので、危険なバラバを釈放せずに済ませることができます。そこで、今年はこのイエスに恩赦を与えてはどうか、と提案したのです。

しかし、敵もさるもの、大祭司たちはピラトのたくらみに気が付いて、なんとしてもイエスを釈放させてはならないと、民衆を焚きつけました。民衆と言っても、そこにいた民衆は皆大祭司の息がかかった人たちだったということに注意しましょう。なにしろ、この出来事はピラトの総督官邸での出来事です。今の日本で言えば、エルサレムのローマ総督官邸は東京のアメリカ大使館のようなもので、最も警備が厳重な場所です。そこに入ることが出来たのは、特別なコネのあるユダヤ人だけだったのです。つまり大祭司が呼び込んだ「サクラ」だったのです。彼らは大祭司に忠実でしたので、大祭司の言うとおりに行動し、バラバを釈放してイエスを十字架刑にかけることをピラトに強く要求しました。ピラトも思惑通りに事が進まないのを見ていくらか抵抗しましたが、民衆が強硬に要求するのに怖れをなしました。ここで彼らを刺激しすぎると、暴動になりかねないと危惧し、イエスを十字架につけることに合意しました。結局、ピラトにとってもイエスが本当に有罪かどうかはどうでもいいことだったのです。彼にとって大切なことは、自分が支配を任されているユダヤにおいて反乱が起こることでローマ本国から叱責を受け、出世の道が閉ざされることがないようにすることでした。そのためには、植民地の人間の命一つぐらい、彼にはどうでもよかったのです。ユダヤの大祭司カヤパとローマ総督ピラトは大変仲が良かったといわれていますが、それは彼らがお互い似た者同士で、正義よりも保身を優先する俗物だったからでしょう。

イエスの十字架刑がローマ総督によって決定されると、あとはお決まりの拷問と嘲笑が待っていました。ローマの兵士たちは、鞭でイエスを打ちたたきます。鞭と言っても普通のロープの鞭ではなく、先端に鉄や鉛の破片をつけた、文字通りに骨をも砕くような鞭でイエスを何度も鞭打ちました。一発打たれるだけで気絶するような激痛が走ったことでしょう。ローマは歯向かう者には徹底して残虐でした。暴力による恐怖で、ローマに対する人々の反抗心を打ち砕く、これがローマのやり方でした。また、イエスを辱めるために紫の衣を彼に着せました。紫の服は高貴な者だけが身に着けることを許されていたのですが、彼らはユダヤの王を自称するイエスに皮肉を込めて紫の服をまとわせ、いばらで編んだ冠をイエスにかぶせました。血みどろのイエスの頭を見て、彼らは喜んだのです。完全に倒錯した、歪んだ世界です。このような辱めの中で、イエスの心に浮かんだのはどんなことだったのか、想像するのは難しいことです。イエスは死を覚悟していましたが、あまりの痛みで気絶しそうになる苦痛の中で、いったいなぜ自分はこんな目に遭っているのか、こんな正義も何もないような茶番劇の裁判の果てに、どうして死ななければならないのか、と思われたかもしれません。その時イエスは、確かに正当な理由もなく理不尽な苦しみに遭っている無数の人々との連帯の中にいました。この世には、訳の分からない苦しみがたくさんあります。「神様、あなたがおられるのなら、どうしてこんな不条理が許されるのですか、正義はどこにあるのですか」と叫びたくなる人が古今東西にあまたおられたでしょう。イエスもまさにそのような苦しみを通っておられたのです。へブル人の手紙の著者は、イエスについて次のように書いています。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(へブル4:15)

イエスがなぜこんな理不尽な苦しみを苦しまれたのか?その答えはいろいろあるでしょうが、その一つは私たち人間の苦しみをその身を通じて理解されるためだった、といえるのではないでしょうか。そのような方だからこそ、理屈の通らない現実に翻弄されて苦しんでいる私たちを慰め、力づけることができるのです。なぜならご自身が全く同じ苦しみを通ってこられたからです。そしてイエスを苦しめた人々の共通の目的は「保身」でした。現代の社会でも、権力者の保身のために苦しむ人々はたくさんおられます。イエスはそのような人たちに寄り添われます。それは、ご自身が全く同じ目に遭われたからです。

3.結論

まとめになります。今日は、前回のユダヤ大祭司による予備裁判に続き、死刑執行の権限を持っているローマ総督ピラトのもとでイエスが裁かれ、苦しめられ、辱められる場面を学びました。恐ろしいことですが、イエスを裁いた大祭司カヤパも、ローマ総督ピラトも、彼らなりの正義のためにイエスを死刑にしようとしたのではありませんでした。身勝手な正義を振りかざす人たちに私たちは辟易しますが、彼らにはそのような正義すらありませんでした。正義や真理を司るための存在である大祭司や総督が、正義や真理よりも大事にしたのは自らの保身でした。これはあまりにも情けない、悲しむべき現実ですが、しかし彼らを笑ったり、軽蔑できる人はいないでしょう。私たちも、あまりにも多くの場合に正義よりも自分自身、自分の家族、自分の会社や組織など、そうした自らの属するグループの利益のために行動してしまうものだからです。そうしたご都合主義のために死んでいった人は今日でもいます。森友事件の公文書改ざん問題で自殺された方のことは今でも記憶に新しいですのですが、ご遺族の願いにもかかわらず、その真実はいまだに明らかにされていません。原発事故も、原因があやふやにされたままです。むしろ現状維持を図る人たちは問題に蓋をして、新たな原発開発に邁進しています。私たちは現状維持のため、自分の生活を守るためにはどんなことでもしてしまう卑劣な存在でもあります。そうした私たちのご都合主義のために押しつぶされていく少数者はいつの時代にも存在します。そして主イエスはまさにそのような少数者として非道な裁判と暴力を甘んじて受けられました。しかし、その心は屈することなく、そうした辱めや暴力に耐え抜きました。私たちも、ほんの少しでもイエスの勇気を見倣って、この社会に正義と真理を打ち立てるために働きたいと願うものです。そのような力を与えてくださるように、祈りたいと思います。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝は、イエスを十字架に架けようとした人々の意図について特に考えました。彼らの意図は驚くほど単純で、それは自らの保身のためでした。今日の社会でも、権力者の保身のために真実が明らかにされなかったり、弱者が犠牲になることがあります。しかし、イエスを殺してしまったことがかえってイスラエルに大きな災いをもたらしたように、今日でも真実に目をつむることはより大きな悲劇を招くことを肝に銘じたいと思います。どうか、主イエスのように正義と真実の中を歩む力を私たちにもお与えください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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