天と地における教会
ヨハネ黙示録7章1~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。本日は召天者記念礼拝になります。私たちの教会の仲間やそのご家族で先に天に召された方々のことを思い起こし、同時に天国におられる彼らと共に礼拝を献げようという、そのような特別な日です。そのような特別の日ですから、今日はこれまで行ってきたマルコ福音書の連続説教からいったん離れ、今日の礼拝の目的に沿った聖書箇所からお話ししたいと思います。そして本日はヨハネ黙示録からメッセージをさせていただきます。実は私が朝の礼拝でヨハネ黙示録からメッセージをするのは今日が初めてです。そこで今朝はまず初めに、ヨハネ黙示録とはいかなる書なのかということを、簡単にお話ししたいと思います。

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五千人の給食
マルコ福音書6章30~56節

1.導入

みなさま、おはようございます。今日もマルコ福音書から、イエスのご生涯について学んで参りたいと思います。さて、これまで何度かお話ししてきたように、マルコ福音書4章35節から8章26節にかけて、イエスの10の大きな奇跡が記されています。これらの奇跡は、それまでイエスがなさってきた数々の病の癒しなどと比較しても、その規模も内容もはるかに巨大なもので、このような力ある業を行うこのイエスという人は、一体どなたなのだろう、という驚愕や疑問を人々に抱かせるものでした。そして、こうした10の奇跡の中でも今日の五番目の奇跡と六番目の奇跡はとりわけ特筆すべき、驚嘆すべきものです。といいますのも、前回見てきたような、長年どうやっても治らなかった病気が癒されるという現象は確かに驚くべきことですが、そのような癒しについては合理的な説明の余地が残されています。人間の中に本来備わっている自然治癒力が、神への強い信仰によって異常なくらい高められて病が治ったのだ、というような説明が可能です。イエスが死人をよみがえらせたという出来事でさえ、合理的な説明が可能かもしれません。なぜなら、医学的に死亡が確認された人が数時間後、場合によっては数日後に蘇生するという現象、いわゆる臨死体験はこれまで世界中で観測されてきたからです。イエスが数時間前に死んだ少女をよみがえらせたことも、そのような事象の一つなのだ、と言うことが出来るかもしれません。

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バプテスマのヨハネ
マルコ福音書6章14~29節

*今回の説教には録音がありません。ご了承ください。

1.導入

みなさま、おはようございます。だいぶ気温も下がり、秋が深まって参りました。さて、これまでイエスの活躍を見て参りましたが、今日の箇所では珍しくイエスは登場しません。イエスの噂が聞こえてくるだけです。では、今日の聖書箇所の主役は誰かと言えば、バプテスマのヨハネと、ヘロデ大王の息子でガリラヤの領主だったヘロデ・アンティパスの二人です。バプテスマのヨハネはこれまでにも登場しましたが、ヘロデ・アンティパスは今回初めての登場です。そこで、このヘロデ・アンティパスという人物の背景やヨハネとの関係についてまずお話ししたいと思います。

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故郷での拒絶
マルコ福音書6章1~13節

1.導入

みなさま、おはようございます。マルコ福音書はマタイ福音書やルカ福音書とは違い、イエスの誕生物語やイエスの少年時代の記述がありません。イエスが30歳前後の年齢に達し、伝道を始めるところから始まります。ですから、故郷でどんな少年時代を過ごしたのか、ということは分かりません。むろん、マルコ福音書でもイエスは「ナザレの人イエス」と呼ばれているので、彼がナザレ出身であることは分かりますが、イエスと故郷ナザレの人々との関係については、これまではほとんど言及されませんでした。たった一度だけ、イエスと故郷の人々との関係を垣間見せる場面がありました。それは、イエスの家族がナザレからカペナウムにいるイエスのところに会いに来るという場面でした。しかし、イエスの母や兄弟たちがやって来た目的は、イエスに伝道活動をやめさせて、故郷に連れ戻すためでした。彼らはイエスが気が違ってしまったという噂を真に受けて、イエスを止めに来たのでした。このエピソードから分かるように、イエスとその郷里の人々との関係は必ずしも良好ではありませんでした。

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偽りの預言者
エレミヤ書23:18-29
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書箇所はエレミヤ書23:18-29です。23:9から23章の最後までは「偽りの預言者」と称せられており、本日の箇所はその中心部分ということになります。エレミヤ書全体を極めて概略的に見ますと、ヨシヤ王の時代の託宣、エホヤキム王時代の託宣、ゼデキヤ王の時代の託宣、そして、エレミヤ後半生の事件に関する記述があり、諸外国への託宣で結ばれる、ということができます。本日の「偽りの預言者」の箇所は、ゼデキヤ王の時代の託宣の中間に位置しています。ゼデキヤ王はユダ王国最後の王です。ユダ王国最後の時にエレミヤは当時の預言者達を、偽りを言う預言者として批判したのです。

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さらなる二つの奇跡
マルコ福音書5章21~43節

1.導入

みなさま、おはようございます。私たちはこれまで、マルコ福音書というイエスの伝記を読み進めています。この福音書の著者であるマルコはイエスの直接の弟子ではなかったのですが、彼はイエスについてシモン・ペテロから伝え聞いていました。シモン・ペテロというのはバチカンにあるサン・ピエトロ寺院の名前の由来になった人物ですが、彼はイエスが選んだ12人の使徒のリーダーでした。ペテロは外国語が話せなかったので、外国人にイエス・キリストのことを宣べ伝える時には当時の国際語であるギリシア語を話せる通訳が必要でした。その通訳が、この福音書の著者であるマルコでした。マルコはペテロのために通訳をするかたわら、ペテロの語るイエスの教えや行動を書き留めておき、それを一つの伝記としてまとめ上げました。それがマルコ福音書なのです。

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それぞれの召命
ヨハネ福音書21章1~23節

1.導入

みなさま、おはようございます。実は私は先週体調を崩しまして、微熱と強い腹痛に悩まされ、食事が喉を通らなくなりました。コロナの方は病院で2度検査して陰性でしたので、コロナの心配はなかったのですが、胃腸が強い炎症を起こしているとのことでした。その後は回復して、今日無事に講壇に立つことができたことを主に感謝していますが、そのような事情で先週は説教準備のための十分な時間が取れませんでした。そこで、今回は急遽予定を変更しまして、かなり前にお話ししたメッセージに手を入れて、お話しさせていただくことにしました。来週からは再びマルコ福音書の講解説教に戻ります。

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イエスの権威
マルコ福音書4章35~5章20節

1.導入

みなさま、おはようございます。これまで、二回にわたってイエスが語られた「たとえ」について学びました。これらのたとえは、実際には「神の王国」に関するもので、イエスはご自身が宣べ伝えた神の王国、神の支配がどのように地上世界に実現していくのか、そのことを特に種蒔きというありふれた農作業の光景を題材にしながら語られたのです。神の支配は、人間の目から見ればちっぽけなイエスの活動の中ですでに始まっており、それはいずれ、だれもが無視できないような大木のように成長する、それがこれらのたとえのエッセンスでした。

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イザヤ書における王
イザヤ書42:1-9
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日は先月に続きイザヤ書からのお話です。イザヤ書に示されている王というのはどのような王なのかを見てみたいと思います。主イエスには、キリストとしての三つの職務がある、と言ったのは宗教改革者カルヴァンです。三つの職務と言っているのは「預言者、祭司、王」の三つです。預言者としての役割、祭司の役割はわかりやすいのですが「王」の役割は具体的にはイメージできません。主イエスの十字架上での死は世にいう「王」とは似ても似つかない、みじめなものであったからです。そのため、王であるのを示されたのは十字架によるのではなく、復活によるのである、とか、王の役割・職務が十全に示されるのは将来に予定されている主イエスの再臨、最後の審判の時、である、とか、正直なところ言い訳がましい説が言われます。王たる主イエスのいわば原型がイスラエルの歴史にあるとすれば、イザヤ書に示された王がその理解を助けるものになるのではないか、ということで、「イザヤ書における王」というものを見てみたい、と思うのです。

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さらなる二つのたとえ
マルコ福音書4章21~34節

1.導入

みなさま、おはようございます。前回から、イエスのたとえ話について学んでいます。マルコ福音書4章には三つのイエスのたとえが収録されていますが、それらはいずれも「種」に関するものです。「種蒔きのたとえ」、「自ずと成長する種のたとえ」、そして「からし種のたとえ」です。これらはたとえなので、文字通りの農作業の描写ではなくて、何か別のことを語っているのですが、その別のことというのが「神の王国」、「神の支配」です。イエスは「神の王国の到来が近い」というメッセージと共に福音伝道を始めましたが、どのようにそのイエスの言葉が実現していくのか、それを教えるのがこれらのたとえなのです。

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