慰めよ
イザヤ書40章1~31節

1.序論

みなさま、おはようございます。クリスマスを待ち望むアドベントの第二週に入りました。私たちは、いつもはサムエル記、そして月末のみは新約聖書から使徒パウロのテサロニケ書簡を読み進めていますが、このアドベントという特別な期間に鑑み、今週と来週の二回はイザヤ書からの説教とさせていただきます。

イザヤ書は旧約聖書の預言書の中でも質量ともに最大のもので、主イエスがお生まれになった時代にもユダヤ人の間では別格の扱いを受けていました。みなさんも死海文書という言葉をきいたことがあると思います。イエス様が活躍された時代のユダヤ教の文書が20世紀の中葉に死海のほとりから大量に発見されたのですが、それらの文書を死海文書と呼びます。その中には旧約聖書の写本も数多く含まれていましたが、一番多くの写本が見つかったのは詩篇で、その次がイザヤ書でした。イザヤ書については、なんと完全な形の写本が見つかっています。他の写本は一部だけなどのものが多いのですが、イザヤ書は66章すべてが含まれている写本が見つかっているのです。それほどイザヤ書は当時のユダヤ人にとって大切に扱われていた文書だったのです。

イザヤ書はユダヤ人にとってだけでなく、キリスト教徒にとっても極めて重要な書です。イザヤ書の中の、特に40章から55章までは「第二イザヤ」と呼ばれる箇所ですが、この書は第五の福音書とも言われています。新約聖書の四つの福音書に並ぶほどの福音的な内容を持つという意味ですが、それは第二イザヤには四つの「しもべの歌」が含まれていて、そのうちの第四のしもべの歌であるイザヤ書53章は、まさに主イエス・キリストの受難を預言したものとして、つとに有名だからです。わたしもいつかイザヤ書全体の講解説教をしてみたいと思っていますが、今回のアドベントでは第二イザヤの最初の章である40章と、最後の章である55章を取り上げることにしました。

さて、ここまで「第二イザヤ」という呼び名を何度か用いましたが、この呼び方になじみがない方もおられると思うので、少し説明したいと思います。イザヤ書は66章からなりますが、1章から39章までが「第一イザヤ」、40章から55章までが「第二イザヤ」、56章から66章までが「第三イザヤ」と呼ばれます。その違いは何かと言えば、それは語りかけられている聴衆が違うということです。イザヤ書1章から39章まではまだ南ユダ王国が健在だった時代、アハズ王やヒゼキヤ王が活躍した時代のイスラエル人に語られたメッセージです。それに対し、「第二イザヤ」と呼ばれる40章から55章までは時代が下り、150年以上も後の時代の人々、南ユダ王国が滅んでしまい、バビロンに捕虜として連行されて失意の中にあったユダヤ人たちに語り掛けたメッセージです。そして最後の「第三イザヤ」、56章から66章までは、バビロン捕囚が終わり、ユダヤの地に戻ってきたユダヤ人たちに語られたメッセージです。

今日は、その中でも第二イザヤ、つまり捕虜として祖国を追われて外国のバビロンの地で暮らすことを余儀なくされたイスラエルの人々に対して語られたメッセージを読んで参りましょう。

2.本論

さて、今までお話ししましたように、今日のイザヤのメッセージは希望を失った人々に対して語られたということをまずしっかりと念頭に起きましょう。このイザヤ書のメッセージが書き送られたのは、紀元前587年にバビロンによって南ユダ王国が滅亡したことを経験した世代です。彼らはバビロンによってエルサレムとその神殿が破壊されるのを目撃した人々なのですが、彼らの受けた衝撃は測り知れないものでした。私たち日本人にとっては、縁起でもないたとえかもしれませんが、たとえば京都のすべての文化遺産が破壊されてしまうような、そんな衝撃です。京都は、あの日本中がアメリカによって木っ端みじんにされた太平洋戦争においても、その高い文化的価値によって戦火から免れた都です。あの最悪の戦争においてでさえ、災いから守られたのだから、京都は不滅なのだ、というような思いが日本人にはあるのではないでしょうか。清水寺や南禅寺、金閣寺など京都には夥しい文化遺産があり、それゆえ失われることはないという安心感があるのです。バビロンによって攻め滅ぼされる前のエルサレムの人々も、エルサレムに関して同じような感情を抱いていました。エルサレムには、あの伝説の王であるソロモンが築いた壮麗なソロモン神殿があり、また立派な王宮など壮麗な建物が並んでいました。かつて世界最強のアッシリア帝国がイスラエルを攻めた時も、エルサレムだけは奇跡的に破壊を免れることができました。イスラエルの神がエルサレムを守ってくださる、なぜなら神はエルサレムの神殿をその住処とされておられるからだ、という信仰があったのです。

しかし、紀元前587年に、そのエルサレムはついにバビロニア帝国によって破壊されてしまいました。それだけではありません。祖国を失ったユダヤの民の多くは、捕虜として異国の地バビロンに連行されました。その中には預言者のダニエルやエゼキエルも含まれていました。この民族の悲劇について、預言者たちは、イスラエルの罪が大きすぎたので、イスラエルの神はエルサレムを見捨てたのだ、と語りました。それは真実かもしれませんが、祖国を失った傷心のイスラエルの人々にとっては傷口に塩を塗られるような言葉だったでしょう。また、他方でバビロンの人々は勝ち誇り、バビロンの神マルドゥクがイスラエルの神ヤハウェに勝利したのだ、と喧伝していました。イスラエルの神は世界帝国バビロンの神の前には無力なのか、とイスラエルの神への信頼を失いそうになっていた人たちもいました。

そのような人たちに、イザヤは語り掛けます。それは、第一イザヤに繰り返し現れるイスラエルの罪への裁きの宣告ではない、むしろその反対の、慰め、また励ましの言葉でした。イスラエルの民よ、あなたがたは自らが蒔いた罪の種を刈り取り、今やその報いを受けて苦しんでいるが、主なる神はあなたがたの苦しみを倍にして祝福として返してくださる、だから希望を持ちなさい、と呼びかけます。確かに、エルサレムがバビロンによって滅ぼされてしまったのは、神が罪深いエルサレムを見捨てたからでした。その結果、ユダヤの人々は捕虜としてバビロンに連行されました。しかし神は永遠にユダヤの人々やエルサレムを見捨てたのではありません。むしろそれはほんの短い間、懲らしめとしてエルサレムを捨てたのであり、神はイスラエルの民への永遠の愛を捨ててしまったわけではない、その証拠にあなたがたは祖国の地、ユダヤの地に戻ることができる、捕囚は終わるのだ、というメッセージをイザヤは語りました。それだけではありません。バビロンによってエルサレムが滅ぼされる時に、神の栄光はエルサレムを去ってしまいました。しかし、その神は再びエルサレムに戻って来られる、だからあなたがたは主が戻って来られる時に備えて道を整備しなさい、とイザヤは呼びかけます。

この神がエルサレムに戻って来られるというイザヤの預言は、究極的には主イエス・キリストにおいて実現します。神がエルサレムに戻って来られるという預言は、究極的には人となられた神であるイエスがこの世にお生まれになり、エルサレムに来られた時に成就したからです。ですから福音書記者マルコは、福音書の冒頭にこのイザヤ書40章を引用し、「預言者イザヤの書にこう書いてある。[…]『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ』」と記したのです。

イザヤは、神が語られたこの約束は信頼に足るものを示すために、大変有名な言葉を残しています。

草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

これは本当に素晴らしいみことばです。ぜひ暗記して、心に刻んでください。私たちが信じる多くのものは、儚いものです。自分を信じる、という人がいますが、私たち人間は事故や病、または老いなどで、衰えていきます。また、他の人、あるいはお金などの物を信じる人もいます。確かにお金は必要です。しかし、財産もまた、何かの拍子に簡単に失いかねない儚いものです。また、いくらお金があっても健康を損ねてしまったら、その使い道もなくなってしまうでしょう。このように、私たちがより頼むもので不変のものはありません。まさに諸行無常の響きあり、です。しかし、一つだけ変わらないもの、私たちが全幅の信頼を寄せてよいものがあります。それが神のことばであり、約束です。神は自らを偽ることがおできにならないので、そのことばは確かなのです。捕囚のイスラエルの民が学ぶべきことはこのことでした。あなた方の神は、あなた方を決して見捨てない、あなたがたは祖国に帰れるのだ、という約束でした。それだけではありません。神ご自身がエルサレムに戻ってこられ、そこでエルサレムに戻ってきたあなたがを治めてくださる、守ってくださるというのです。イザヤは「見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める」と、そのことを預言しています。イザヤはこのことを「良き知らせ」、つまり福音と呼んでいます。福音というのは、神ご自身が王として私たちを治めてくださる、というのがその内容なのです。もちろん、見えない神が王として人々を直接治めることはできません。ですので、人となられた神であるイエスが真の王として平和な支配を行う、それこそが「福音」のメッセージなのです。

このように、イザヤのメッセージは究極的にはイエスによって成就されます。しかし、イエスが来られたのはバビロン捕囚から500年以上も後の話です。ですから、この第二イザヤのメッセージを聞いた人々にとって、それは遠い未来の話です。バビロンに捕虜となっていた人たちにとっては、神が人となって私たちを治めてくださる、というような途方もない希望よりも、目の前の問題の方が重要でした。それはつまり、バビロンに囚われの身となっている自分たちは、果たして祖国の地、エルサレムに戻ることができるのだろうか、という問題です。イザヤの力強い言葉にもかかわらず、イスラエルの人たちは不安を感じていました。このイザヤを通じて語られた神の約束、福音は本当に信じられるのか、と思っていたのです。なぜなら、当時の古代社会で、捕囚として他国に連れていかれた人々がみな祖国に帰還できたなどという話は一つもなかったからです。バビロンは征服した多くの国々の有力者たちをバビロンに連れて来ましたが、そうした人たちの中で祖国に戻してもらえた人たちはいませんでした。ではなぜユダヤ人だけが例外だと言えるのか、そんな都合の良い話があり得るのか、と考えたのです。

そこで12節以降で、イザヤはなぜこの神の約束が信頼に足るのかということを、イスラエルの人々に力説します。イスラエルの神は、バビロンの神に勝っているというのではなくて、そもそもイスラエルの神は唯一の神であり、他の神々と呼ばれるものは神でも何でもなく、人間が作り上げた偶像に過ぎないのだ、とイザヤは宣言します。また、地上の王たちはいかに権勢を誇っていようとも、神の前にはわらに過ぎないのだ、とも指摘します。それが23節と24節に書かれています。

君主たちを無に帰し、地のさばきつかさをむなしいものとされる。彼らが、やっと植えられ、やっと蒔かれ、やっと地に根を張ろうとするとき、主がそれに風を吹きつけ、彼らは枯れる。

ここには8節のことばがこだましています。地の王たちは、草や花に過ぎない。しかし、主のことばは永遠に立つのだと。神の偉大なる力は、この世界を見れば認めることができます。私たちの現代の科学は、宇宙が如何に果てしのないものであるのかを明らかにしています。しかし、宇宙のみならず、私たちのからだも、まさに小宇宙というほど神秘に満ちたものであることが明らかになっています。人の身体には、なんと60兆もの細胞があり、しかもその一個の細胞のDNAの中には、それぞれ30億といわれる数の膨大な情報が含まれています。私たちが何気なく使っているこの身体は、まさに神秘としか呼べない複雑さを持っています。そうした想像もできないほど複雑なものがなぜ存在しているのか、なぜここにあるのか、その背後には神の測り知れない知恵があるのです。そのような神を、一体何と比較するというのか、とイザヤは問いかけます。

しかし、神がそのように偉大だとしても、その神が私たちちっぽけな一人一人の人間のことなど果たして気にかけてくれるのだろうか?神は本当に私たちのことを見守ってくれるのだろうか、という問いが生じるでしょう。捕囚の民であるイスラエルの人々も、まさにそのような不安に駆られていました。「私の歩む道は、神の前に隠れている」とあるイスラエル人はつぶやきました。「神は私の小さな訴えなど聞いて下さらない。神は私の問題を見過ごしておられる」と不満を覚える人たちもいました。これは、私たちもしばしば考えることかもしれません。私たちは危機に陥ると、神を信頼するよりも神に失望することの方が多いのではないでしょうか。神は私たちの小さな心配事など、気にして下さらないのではないかと。外国の地での捕囚という、希望のない先の見えないトンネルの中にいたようなイスラエル人は、まさにそのような心理状態にありました。そのようなイスラエルの人たちに、イザヤは慰めと励ましに満ちた神のことばを贈っています。素晴らしいみことばなので、少し長くなりますが28節から31節までをお読みします。

あなたがたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には活気づける。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

イスラエルが聞くべきことばがここに与えられています。彼らは疲れ果てたように感じていました。もう前を向いて歩けない、そんな気持ちになっていました。しかし神は彼らに新しい力を与えることができます。鳥のように、翼を広げて飛ぶことすらできるのです。イザヤ書40章は素晴らしいみことばの宝庫ですが、この最後の一節もまさにそうです。『炎のランナー』という映画で、主人公のエリック・リデルがパリの教会でこの箇所を朗読している場面があります。素敵なシーンですので、ぜひご覧になってください。

3.結論

まとめになります。今日は、アドベントということで、旧約聖書の中でも最も福音的なメッセージを含む「第二イザヤ」の冒頭場面、40章を取り上げました。興味深いことに、聖書は66巻ですが、イザヤ書も66章。旧約聖書は39巻ですが、第一イザヤも39章です。それに対して、新約聖書は27巻ですが、バビロン捕囚以降の福音的メッセージを含む「第二イザヤ」と「第三イザヤ」は合わせて27章です。偶然の一致にしては出来過ぎです。イザヤ書を現在の形に66章に分けた人々は、おそらくこのことを意識していたのではないかと思います。第二イザヤの冒頭の40章が、四福音書の中で最初に書かれたマルコ福音書に引用されているも、第二イザヤとイエス・キリストの福音との強い関係性が初代教会によって意識されていたことの表われです。

この第二イザヤのメッセージは、直接的にはバビロンで捕囚の憂き目に遭っていた人々に語られました。しかしその同じメッセージは、それから500年以上も時代が下った、ローマ帝国の圧政に苦しんでいた紀元1世紀のユダヤ人に対しても、希望のメッセージとして語られました。そして最初のキリスト教徒たちは、このイザヤのメッセージがイエス・キリストにおいて完全に成就したのだと信じたのでした。しかし、このメッセージによって鼓舞されたのは紀元前6世紀のユダヤ人や紀元1世紀のクリスチャンだけではありません。このイザヤのメッセージは、2,500年以上の時を超えて、現在に生きる私たちにも希望を与えるものなのです。私たちの時代は、バビロン捕囚の時代やイエスがお生まれになった時代とは状況が大きく異なりますが、大きな問題、大きすぎる問題を抱え込んでいる時代です。私たちは環境問題や戦争、貧困問題など、地球規模の問題に直面し、希望を失いそうになっています。こんな途方もない問題は、誰にも解決できないだろうと。しかし、そんな今こそイザヤのメッセージを聞くときでしょう。イザヤのメッセージは一貫しています。どんなときにも神への信頼を失ってはならないというのがそのメッセージです。神にはできないことはないのです。どんな大きな問題も、神に信頼することで解決の道を見いだすことができます。もちろん私たちは何でも神頼みで自分たちはなにもしなくてもよいということではありません。むしろ神は、小さな私たちの働きを通じてこうした問題を解決することを望んでおられます。ですから神に信頼し、私たちはどんな小さなことでも自分たちに与えられた課題としてしっかり取り組んで参りましょう。特に平和づくりのために働いて参りましょう。お祈りします。

平和の主であるイエス・キリストを遣わされた父なる神様、そのお名前を賛美します。今朝はイザヤの力強いメッセージを聞きました。絶望していたバビロンのユダヤ人々に勇気を与えたそのメッセージは、大きすぎる問題に直面して途方に暮れる私たちをも勇気づけるものです。どうか私たちも主に信頼し、行動においてその信頼を示すことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

ダウンロード