目をさましていましょう
第一テサロニケ5章1~11節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日は今年最後の礼拝であるのみならず、今年の最終日になります。振り返ってみれば、いろいろあったようにも思えるし、あっという間だったという感じもいたします。ともかくも、無事に年末を迎えられるのは大変ありがたいことで、年末年始はいきおいリラックス・ムードになるものです。忘年会などで深酒をして、うとうとと眠り込んでしまう、そんな時期です。そんな中で、今日のメッセージはハッとさせられる、気を引き締めさせられるような響きがあります。

いつも目を覚ましていなさい、というのが今日のパウロのメッセージです。そしてその教えは、主イエスのメッセージを思い起こさせるものでもあります。マタイ福音書の24章は、主イエスの終末に関する教えですが、そこに今日のパウロの教えと非常に近い内容のことが書かれています。少し長くなりますが、今日の箇所とも関係が深いところでもあるので、42節以降を読んでみましょう。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な賢いしもべとは、いったいだれでしょう。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい』と心の中で思い、その仲間を打ちたたき、酒飲みたちと飲んだり食べたりし始めていると、そのしもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、その報いを偽善者たちと同じにするに違いありません。しもべはそこで泣いて歯ぎしりするのです。

長い引用になりましたが、とても有名な箇所ですね。「人の子」とは主イエスのことです。天に昇られた主イエスは、いつかこの世界を裁くために戻って来られますが、その時期はいつだか誰も知らないのだから、注意しなさいという内容です。パウロも今日の聖書箇所を書くときに、イエスのこの教えを念頭に置いていたものと思われます。「主の日が盗人のように来る」というのは、まさにイエスの警告そのものだからです。しかし、では具体的に「目をさましている」というのはどういう意味なのでしょうか。どのような生き方を指しているのでしょうか。そのことを考えながら、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。

2.本論

まず1節を見ましょう。「それらがいつなのか」についてはあなたがたは知る必要はない、という書き出しになっています。この「それら」とは、パウロが4章の後半で話していた内容です。つまり、4章16節で「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」とパウロが記した内容のことです。ここで言われている「主」とは、もちろんイエス・キリストのことです。「御使いのかしら」とは天使長であるミカエルのことかもしれません。キリストは、大天使ミカエルの大号令の下に、地で行われている不正や悪を裁くため、あるいはこの世の悪に苦しんでいるご自身の民を救うために、天から下ってくるというのです。パウロはそれを「主の日」と呼びますが、その日はキリスト教神学では「キリストの再臨」と呼ばれます。再臨とは、キリストが再び来るという意味です。

キリストの再臨とは一体どのような出来事なのか、私たちには想像もつきません。ただ、かなり確信を持って言えることは、キリストが文字通りに白馬に乗って空から降りて来るということではないだろう、ということです。しばしばキリストの再臨はそのようなイラストで描かれることがありますが、これは比喩的な表現であって文字通りに取るべきではないということです。もしキリストが文字通りに空から地上のある地点、例えば聖地エルサレムをめがけて天から下って来たとしても、地球の反対側の日本にいる私たちはそれを見ることができないでしょう。テレビがあれば衛星放送でそのスペクタクルな情景を見ることができるかもしれませんが、テレビとは無縁の生活を送っている人にはそれを知るすべはない、ということになります。そうなると、キリストの再臨があっても、地球上の様々な地域にいる少なからぬ人たちはそれとは関係なく日常生活を続けることになります。いずれはそういう人たちにもイエスの再臨のニュースが何らかの形で届けられるのかもしれませんが、それはいつになるのか分かりません。だいたい、主イエスが二千年前に来られたという「福音」ですら、世界中すべての人に伝わっているわけではないのですから。

しかし、キリストの再臨はエルサレムやその周辺に住んでいる人たちや、あるいは文明の利器であるテレビを持っている先進国の人たちだけに関係することではないはずです。むしろそれは全世界のすべての人にとって重要な出来事であるはずです。また、それが起きた時には、世界中の人が同時にそれを知るようになるはずです。ですから、キリストの再臨とは文字通りにキリストが空から地上の特定の場所に降りて来ることではないのだろうと、思えるのです。むしろそれは、私たちの心、あるいは精神の領域で起きるのかもしれません。つまり世界中の人たちが、キリストこそ世界の真の王であると認識するようになる、瞬時のうちに、地上のあらゆる人が隠された真実、イエス・キリストの真の姿をはっきりと知るようになる、そんな瞬間なのではないでしょうか。

それは一瞬にして意識の中に伝わってくるテレパシーのようなものかもしれませんが、具体的なイメージは私も持ち合わせてはいません。もちろん、キリストの再臨とは純粋に精神世界での出来事で、物質世界には何の変化も起きない、といっているわけではありません。パウロは、キリストが再臨する時に生きている人は、たちまちのうちに不死の体に変えられると言っています。そのような劇的な変化は起きるでしょうが、それは人間の精神の変化、あるいは霊的な状態を反映したものとなるでしょう。なにしろ、キリストの再臨については新約聖書も詳しく語っているわけではないので、私たちが知りもしないことをあれこれ詮索するのはあまり有益なことではありません。ただ一つだけ確信を持って言えることは、キリストの再臨とよばれる出来事が起きる時には、クリスチャンや世界の一部の人ではなく、すべての人がそれを知るだろうということです。

これに関連して、キリストの再臨は世界に終末をもたらすと信じられていますが、終末といってもこの世界が滅びることではない、ということも強調しておきます。キリストの再臨に伴って文字通りの意味で大宇宙が崩壊する、つまりいくつもの恒星が空から巨大な隕石となって地球に落ちてきたり、宇宙そのものが巨大なブラックホールの発生によって文字通りにバラバラになるというようなことではないだろうということです。むしろ、地上の人々にキリストの真の姿がはっきりと示されることを通じて、多くの人たちが当たり前のように信じていた常識や考え方が一瞬にして崩れ去る、古い世界観が粉々になる、イエスが語る「天地が滅びる」(マルコ13:31)という表現は、そのような精神世界の大変動を言っているように思えます。

このように、「主の日」というのは、新約聖書ではキリストの再臨を指す言葉として用いられていますが、この「主の日」という言葉自体は旧約聖書で何度も登場する言葉です。旧約の時代にはまだイエスは知られていませんので、当然ながら「主の日」とはキリストの再臨のことではなく、むしろ全世界に神の怒りが降る時だというように捉えられていたようです。旧約聖書にはいくつかそのような預言がありますが、そうした預言は恐怖を呼び起こすものです。救いの時というより、裁きの時というイメージが非常に強いです。その代表的なものとして、旧約聖書のゼパニヤ書には次のような預言があります。1章14節以降をお読みします。

主の大いなる日は近い。それは近く、非常に早く来る。聞け。主の日を。勇士も激しく叫ぶ。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、やみと暗黒の日、雲と暗やみの日、角笛とときの声の日、城壁のある町々と高い四隅の塔が襲われる日だ。わたしは人を苦しめ、人々は盲人のように歩く。彼らは主に罪を犯したからだ。彼らの血はちりのように振りまかれ、彼らのはらわたは糞のようにまき散らされる。彼らの銀も、彼らの金も、主の激しい怒りの日に彼らを救い出せない。そのねたみの火で、全土は焼き払われる。主は実に、地に住むすべての者をたちまち滅ぼし尽くす。

恐ろしい預言ですね。神の怒りは一部の人たちだけでなく、地に住むすべての人に臨むというのです。新約聖書の「主の日」とは、神の怒りの日であると共に、キリストによる全世界の人々の救いの日であるとされていますが、旧約の預言では明らかに神の怒りの方に重点が置かれています。しかし、そこにも救いがないわけではありません。ゼパニヤは続けて2章で、神の怒りから逃れる道をも示しているからです。

恥知らずの国民よ。こぞって集まれ、集まれ。昼間、吹き散らされるもみがらのように、あなたがたがならないうちに。主の燃える怒りが、まだあなたがたを襲わないうちに。主の怒りの日が、まだあなたがたを襲わないうちに。主の定めを行うこの国のすべてのへりくだる者よ。主を尋ね求めよ。義を求めよ。柔和を求めよ。そうすれば、主の日にかくまわれるかもしれない。

ここにあるように、神の怒りを逃れる道とは、へりくだって歩むこと、主を尋ね求め、義と柔和を求めることだということです。新約聖書では、キリストを信じることが救いの道であるということが強調されますが、旧約聖書では何を信ずべきかということよりも、どのように生きるべきか、ということの方が強調されます。もちろんこの点は新約でも大切なことです。「信仰」というのは、単に頭の中で何かを信じることではありません。行動が伴ってこそ、本物の信仰です。ですから旧約聖書が教えるように、へりくだって柔和な生き方をすることが、すなわちキリストへの信仰を持つ人の生き方だと言うことができます。「キリストを信じる」ということは、単にキリスト教の教理の幾つかを信じることではなく、「主を恐れる」歩みをすることだ、ということです。そして、残念ながら世の中の多くの人は、主を恐れることを忘れてしまっています。私たちは世界を好きなように扱ってよいわけではありません。私たちはこの地球を、真の所有者である神から預かっているのです。ですから私たちは神に対して、クリスチャンであろうとなかろうと、地球の管理者としての説明責任があります。しかし私たち人類はそのことを忘れて、地球環境を好きなように扱ってしまっています。神を忘れて、パウロが3節で言うように「平和だ。安全だ」と言っているような状況なのですが、それは実は危険な状態なのです。自分の身の回りだけを見回して、そこが安全であるなら、平和であるならそれで満足し、もっと広い世界の状況を見ようとしない、注意しようとしない、そういう自己中心的な状態に陥らないようにしたいものです。旧約聖書でも、預言者エレミヤはそのことを警告しています。当教会では3年前にエレミヤ書を学びましたが、ここでエレミヤ書6章13節以降をお読みします。

「なぜなら、身分の低い者から高い者まで、みな利得をむさぼり、預言者から祭司に至るまで、みな偽りを行っているからだ。彼らは、わたしの民の傷を手軽にいやし、平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言っている。彼らは忌みきらうべきことをして、恥を見ただろうか。彼らは少しも恥じず、恥じることも知らない。だから、彼らは、倒れる者の中に倒れ、わたしが彼らを罰する時に、よろめき倒れる」と主は仰せられる。

このように、人々は上から下までお金のことばかり考えて、自分の身の回りさえ安全ならば他の人はどうでもよいとばかりに「平和、平和」と念仏のように唱えているというのです。エレミヤがもし今日の日本に生きていたとしたら、おそらくまったく同じ預言の言葉を投げかけたことでしょう。日本も上から下まで利得をむさぼり、それが明るみになっても、「みんなやっていることだ」と平然としています。世界を見回せば終わらない戦争が続いている中で、日本のリーダーである政治家はお金の事ばかり考えて、国民にはマイナンバーだインボイスだと、お金の流れを透明にするように求めておきながら自分たちは数千万円もの裏金を作り、「政治にお金がかかるのは当たり前だ」と開き直っている姿はまさに「恥を知らない」という言葉が残念ながら当てはまってしまいます。パウロはこのような人々を評して、「眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです」と言っているのです。つまり、世の中の欲得がらみのことばかりに心を奪われ、真実が見えなくなっている状態、感覚が麻痺してしまっている状態をパウロは「眠っている」と表現しています。自分自身のこの世での地位やステイタスにばかり目が行ってしまい、神の目には自分の魂の状態がどのように映っているのかには気を配らない、そのような状態の人は神の目には眠りこけている人なのです。主イエスも、そうならないようにと警告をしています。

あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。(ルカ21:34)

主イエスやパウロの言う「目をさましている」とはそれとは反対の状態のこと、つまり世の中の欲得ばかりに心を奪われずに、神の愛と正義を自らの生活の中心に据えることです。霊的な暗がりにいる人は自分の魂の欠点が良く見えず、たとえそれがひどい状態だったとしても気にしません。まるで酔っているかのように、自分の本当の姿を客観的に見ることができないからです。それに対し、神の光の中を歩んでいる人は、自分の魂の状態を常にはっきりと知ることができます。もちろん、それはいつも望ましい状態であるとは限りません。あまり褒められたものではない霊的な状態であるかもしれません。しかし、神の光に照らされて、自分の欠点がよく見える人は、努力してそこから良くなろう、改善しようとします。そのような努力が大切なのです。そして、世の中の悪い影響から自分自身の身を、魂を守ろうとします。パウロはこのことを、「しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう」と防具のたとえを引きながら勧めています。

霊的な暗やみの中を歩む人にとっては、イエスが来られて自分たちの恥ずかしい状態が明るみに出ることは破滅を意味します。パウロはそのことを「御怒りに会う」という言い方で表現しています。しかし、光の中を歩み、常に自らの霊的状態の向上に励んでいた人にとっては、主の来臨は喜ぶべき時、救いの時となります。主イエスが死なれたのは、正に私たちがそのような正しい道を歩めるようになるためだったのです。パウロは10節で、

主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。

と語っています。紛らわしいですが、ここでの「眠っていても」というのは霊的に酔っぱらった状態にあることではなく、比喩的な意味で死んだ状態の事を指しています。つまりここでパウロは、私たちは生きていても死んでいても、つねに主とともに歩んでいるのです、と言っているのです。パウロはこのことをピリピ書で、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です」(ピリピ1:21)と語っています。なぜ死ぬことが益なのかといえば、それはキリストと共にいることができるからです。このように、パウロはいつ来るのか分からない主の日に備えて、つねに霊的な向上を心がける生活を送るようにと勧めています。その締めくくりの言葉が11節にあります。

ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。

パウロはテサロニケ教会の人々の歩みを肯定しています。テサロニケの教会は、設立されたばかりで十分な力はなかったけれども、厳しい迫害の中でも信仰を守り通しました。そんな彼らに対し、パウロは「あなたがたはよくやっている、だから今の歩みを続けなさい」、と言っているのです。しかしそれは一人でできることではありません。仲間たちと励まし合い、良い意味で競い合いながら、高みを目指していきなさいと勧めています。実に、教会の存在意義はここにあるのです。

3.結論

まとめになります。今日は今年最後の礼拝となりましたが、一年を締めくくるにふさわしい、目の覚めるようなパウロの勧めの言葉を学びました。私たちは旅人のようなものです。旅には終着点があるように、私たちの人生にはいつか終わりがあるし、私たち人類全体の歩みも、始まりがあれば終わりもあるのでしょう。私たちは自分の寿命がいつ終わるかを知りませんし、人類全体ともなれば、なおのこと知りようがありません。ですから、いつ終わりがくるのかなどと考えるよりも、今の歩みを大切にしたいものです。また私たちの今の命は、永遠のいのちの準備の時でもあります。私たちは今の世で、来世のために自らの霊性を育てなくてはいけないのです。ただ、何も難しいことをする必要はありません。私たちにできることは、今生かされていることを感謝し、一日一日を大切にし、人との交わりを大切にし、神に喜ばれるように歩むことです。今年一年無事に歩めたことを感謝し、来年も喜びをもって一日一日、主の前を歩む、それが「目をさましている」ということです。来年も主の導きがあるように、共に祈りましょう。

2023年の私たちの歩みを守ってくださった神様、感謝いたします。明日から始まる新年においても、御前を歩ませてください。来年こそ、世界での戦争や紛争が終わりますように。私たちもそのために祈り、行動できますように。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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