ヨナタンの信仰
第一サムエル13章15~14章23節

1.序論

みなさん、おはようございます。私たちはこれまで、イスラエルの初代の王となったサウルの成功と挫折の物語を読み進めて参りました。そのサウルの物語の中で、今日はもう一人の重要な人物が登場します。それがサウルの息子で、彼の後継者となるべき王子ヨナタンです。このヨナタンはサムエル記の中でも非常に好感度の高い、人気のある人物で、後にダビデの刎頚の友となっていきます。

そこで詳しくテクストを見ていく前に、このヨナタンという登場人物について考えてみたいと思います。サムエル記はもちろんイスラエルの王朝時代を描いた歴史書ですが、同時に優れた文学作品でもあります。サムエル記が旧約聖書の中でもとりわけ人気が高いのは、生き生きとした登場人物の描写とそれを支える優れた文学性にあります。そのようなわけで、文学的にこのヨナタンという人物の持つ意味について考えてみます。今後、ヨナタンはサムエル記のストーリー展開の中で重要な役割を果たしていきますが、彼はある意味でサウルの分身のような役割を果たします。つまり、ヨナタンという人物の位置づけはサウルとの関係の中で理解すべき人物だということです。

どういうことかといえば、王になっていくまでの輝かしい時代とは対照的に、これからサウルは没落していき、それだけではなくヒール役、つまり悪役を演じていきます。預言者サムエルから王失格の烙印を押されたサウルは、段々と心を病んでいき、その心は暗やみで覆われるようになります。嫉妬にかられ、罪なきダビデを殺そうとします。サウルは、いわゆる「ダークサイドに堕ちていく」という経験をしていくのです。心理学者は、人がダークサイドに堕ちてしまう時にどのような経過をたどるのかを分析していますが、それはまさにサウルに見事に当てはまってしまうケースなのです。人がダークサイドに堕ちていく過程を簡潔に描くとこのようになります。一見平凡な、無名の人物がある人から才能を見出され、そして徐々にその才能を発揮していき、周囲の人々からも注目を集めるようになります。そうした成功体験の中で、今まで自分は平凡な人に過ぎないと考えていたその人は、自分には特別な才能があるのではないか、自分は選ばれた、特別な人間なのではないか、そのように考えるようになります。段々と自意識が高まっていくのです。しかし、より大きな成功を掴もうとしている段階で、理不尽とも思えるような経験をしてしまう、とくにこれまで自分に目をかけてくれると思っていた師匠あるいは上司から突然突き放されたり、あるいはその上司から非常に低い評価を受けてしまう、ダメ出しを受けてしまう、そういう時に人はダークサイドに陥りやすいのです。自分のためにあると信じていた明るい未来が突然奪われてしまう、閉ざされてしまう、掴みかけていた成功や未来を失うことへの恐怖が人の心の負の側面、闇の面を増幅させてしまい、自我が負の感情に乗っ取られてしまう、そのような心の葛藤の最中で、人はダークサイドに堕ちます。サウルがまさにそうでした。彼は全く無名の青年でしたが、高名な預言者サムエルに見いだされ、王として任命されます。最初は「自分なんかが王になれるのだろうか」と半信半疑だったサウルですが、サムエルからの強い後押しがあり、また戦場でいくつかの実績を重ねて行く中で、段々と自信を深めていきます。自分はイスラエルの良き王になれる、そんな手ごたえを得ていきます。そんな中で、前回見て来たように、緊急事態の中で自分の師であるサムエルの指示を仰がずに自分の判断で行動したことをサムエルに咎められ、王失格を宣言されてしまいます。頼りにしていた指導者から突然突き放されます。そういう失意の積み重ねの中で、サウルはこれから闇に堕ちていくのです。

しかし、サウルはそもそも、いろいろな意味で良い性格や長所を持った好青年でした。だからこそ神は彼をイスラエルの最初の王として選んだのであり、決してマイナスの要素だけの人物ではないのです。そして興味深いことに、サウルの持っていた良い側面、彼の良心、正義を求める心、勇敢な軍人としての側面や、神への強い信仰、こうした良い面をすべて受け継いでいるのが彼の息子ヨナタンなのです。サウルが徐々に失っていく長所をすべて備えた人物としてヨナタンは描かれています。後にサウルは嫉妬にかられてダビデを殺そうとしますが、その行動を息子のヨナタンが止めようとします。これはある意味で、サウルの悪い心を、彼の中に残っていた良心が押しとどめようとしているという図柄として見ることもできるように思います。このように、ヨナタンという人物は、サウルがますます心の闇に囚われていく中で、彼の本来持っていた良い性格を体現していく、ある意味での彼の分身ともいえる立ち回りをしていきます。サウルがついには非業の死を戦場で遂げる時に、息子であるヨナタンもそこで一緒に戦死するのは示唆的です。サウルとヨナタンは、時には激しくぶつかりながらも運命を共にするのです。サウルが人間の心の中の闇を引き受けたのに対し、ヨナタンが光の部分を引き受けてきたと考えるならば、サウルとヨナタンとの密接な関係の意味が分かってくるような気が致します。そんなことを考えながら、今日の聖書テクストを読んで参りましょう。

2.本論

さて、では前回からの流れを振り返ってみましょう。この話の発端は、ヨナタンが大きな武勲を上げたことでした。ヨナタンはイスラエルに脅威を与えていたペリシテ人の守備隊長を打ち倒しました。これはイスラエル人にとっては意気上がる出来事でしたが、ペリシテ人からすれば、やられっぱなしではすまされない、由々しき事態でした。そこでペリシテ人は大軍を率いてイスラエルに攻め込んできました。イスラエルの軍隊は3千人なのに対し、ペリシテ人は機動力のある戦車部隊だけで3万人という、圧倒的な軍事力でイスラエルを蹂躙しようとします。多勢に無勢の中で、イスラエルの頼みの綱は神の助けだけなのですが、神に嘆願をしてくれるはずのサムエルが約束の刻限になってもサウルのところに来てくれません。それを見て兵士たちがサウルを見放していく中で、サウルはサムエルの代わりに神にいけにえをささげて勝利を祈願します。しかし遅れてやってきたサムエルは、サウルが勝手な行動をしたことを咎めて、彼に王失格の宣言をして、そこから立ち去ってしまいます。

まさに泣きっ面に蜂、四面楚歌の状況のサウルでした。しかも、最初は3千人いたイスラエルの兵士たちも、いまやたった6百人になってしまいました。相手は戦車部隊だけでも3万もの大軍なのです。サウル軍はもはや絶望的な状況に陥ってしまいました。ペリシテ軍は数の優位に頼んで、軍隊を三つに分けて三方面から攻撃をしかけようとします。しかも、軍隊を三つに分けてもそれぞれの軍の兵士の数はイスラエル全体よりも断然多いのです。さらには、ペリシテ人は数的優位だけでなく、武器の質においてもイスラエルより優位な状況にありました。ペリシテ人は、当時の技術革新を先取りしていて、他の民族に先駆けて鉄製の武器を用いていました。彼らはその技術を秘匿し、イスラエル人に知られないようにしていました。また、武具を整える鍛冶屋も囲い込んでいたので、イスラエル人は武器を整備するために敵であるペリシテ人に頼まなければならない有様でした。太平洋戦争の際に、日本が戦いに必要な石油を敵国であるアメリカに依存していたようなものです。サウルの軍の中で自前の武器をもっていたのはサウルとヨナタンだけ、というなんとも哀れな状態だったのです。

この絶望的な状況を打開したのがヨナタンの勇気ある行動でした。ヨナタンは、こんな状況でも勝利を確信していました。といっても、ヨナタンには何か特別な奇策があるわけではありませんでした。彼は非常にシンプルに、主が助けてくださる、主がこの戦いを戦ってくださるという信仰を持っていたのです。そしてまさにこれこそがイスラエルの信仰でした。普通に考えれば、戦争に勝つためには敵を上回る兵士を動員し、敵を上回る強力な武器を持つ必要があります。これが古今東西の兵法の鉄則です。しかし、イスラエルにおいてはそうではありませんでした。イスラエルは常に敵より圧倒的に劣る兵力しか持たない無力な民でした。しかし、その弱い民のために神ご自身が戦ってくださる、これがイスラエルの戦い、イスラエルの信仰でした。そのような信仰を最も端的に表していたのが士師たちの時代に活躍したあのギデオンでした。有名な話ですが、ギデオンの信仰について読んでみましょう。士師記7章2節から3節です。

そのとき、主はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。今、民に聞こえるように告げ、『恐れ、おののく者はみな帰りなさい。ギルアデ山から離れなさい』と言え。」すると、民のうちから二万二千人が帰って行き、一万人が残った。

ミデヤン人の大軍と戦っていたギデオンのもとには多くのイスラエル人が集まっていたのですが、ギデオンは神に命じられてわざわざ軍隊を三分の一ほどに減らしました。それでも多いということで、最終的にはギデオンの軍はわずか三百人になりました。常識ではあり得ない判断ですが、この少人数でミデヤン人の大軍に勝利してしまったのです。ヨナタンも、主が戦われるのであれば、兵士の多い少ないというのは関係ないということを良く分かっていました。彼には本物の主への信頼があったのです。ヨナタンは部下の若者にこう言いました。「大人数によるのであっても、少人数によるのであっても、主がお救いになるのに妨げとなるものは何もない。

しかし、14章1節によれば、ヨナタンはペリシテ軍に攻め上ろうという自分の計画を、父のサウル王には打ち明けませんでした。サウル王は預言者サムエルに見捨てられて、意気消沈し、とてもこの難局をこちらから攻めて打開しようという気持ちになれなかったのでしょう。サウルが弱気になっているのを見たヨナタンは、父ではなく自分が何とかしなければ、と考えたものと思われます。サウルとヨナタンとの親子関係は決して悪いわけではないのですが、ヨナタンは独立心の強い人物で、いちいち父の判断を仰がずに独断で動く傾向があります。この時にもヨナタンのそのような強気の性格の一端を見ることができます。むろん、ヨナタンが父サウルを蔑ろにしているとか、そういうことではありません。むしろヨナタンは父サウロに欠けたところを補っているのです。このような息子を持ったサウルは果報者だと言えます。興味深いことに、サムエル記の主要な人物たち、祭司エリや預言者サムエルやダビデなどはみな後継者問題でつまずき、苦労します。しかし、サムエル記の中で一番評価が低いと思われているサウルは、後継者育成という意味では最も成功しているのです。そこがサウルという人物の興味深いところです。

さて、ペリシテ軍に奇襲をかけようとしていたヨナタンですが、そのことを父に黙って計画していたので、他の部下たちに声をかけることができませんでした。そんなことをすれば、自分の計画が父に露見してしまい、「そんな無謀なことはやめてくれ」と父から強く制止されたでしょう。ですから味方の兵士たちにも気付かれないように、自分が最も信頼する道具持ちの若者だけに計画を打ち明けました。私たち二人だけでペリシテ人を攻めよう、と打ち明けたのです。ペリシテ人の大軍に対し、たった二人で攻撃を仕掛けるというのは正気の沙汰ではないようにも思われますが、ヨナタンが狙っていたのは敵軍に正面から戦いを挑むことではなく、むしろ奇襲によって相手側に混乱を生じさせることでした。奇襲を成功させるには、大軍は必要ありません。かつて日本の源平合戦でも、平家の軍隊が富士川の戦いで水鳥の羽の音を聞いて大軍が攻めて来たと勘違いして逃げ出したというエピソードがありましたが、奇襲によって相手を驚かすことができれば驚くべき戦果を挙げることができるものです。戦場で一番恐ろしいのは恐怖です。人は恐怖心にかられると、まともに動けなくなる、戦えなくなります。いかに大軍といえども、ひとたびその軍が恐怖に囚われてしまえば、攻略は容易になります。ヨナタンが狙ったのもまさにそれでした。敵が予想もしないところから攻め上り、敵軍に恐怖心と混乱を生じさせ、その混乱に乗じて父サウルの軍隊を呼び込もうと考えたのでしょう。ヨナタンは敵軍の死角となる断崖絶壁をよじ登り、敵が思いもしない所から現れて敵軍に混乱をもたらそうとしたのです。

果たしてヨナタンの計画は見事に当たりました。たった二人で壁をよじ登ってペリシテ軍に奇襲をかけましたが、敵の見張りの兵士たちは思わぬところから現れたヨナタンたちに驚愕し、あっけなく打ち取られてしまいました。ヨナタンたちが打ち取ったのはわずか二十名ほどで、ペリシテ軍にとっては戦況にはほとんど影響のない軽微な被害でしたが、しかし突然の襲撃に慌てふためいたペリシテ軍の兵士たちは逃げ出し、誰が敵か味方かもわからなくなり、なんと同士討ちを始めたのです。しかも混乱が伝染病のようにペリシテ軍の中を伝播していきました。ペリシテ軍は大騒ぎになっていました。それを遠くから見ていたサウルたちは何事かと思いましたが、ヨナタンの計画のことは何も知らされていなかったので、何が起きているのかさっぱり分かりません。サウルは、この状況でどうするべきか、神意を尋ねようと思い、祭司のアヒヤに契約の箱を持ってこさせました。契約の箱を通じて、神の御心を聞こうとしたのです。しかし、そうこうして神意を尋ねる準備をしている間にもペリシテ軍の混乱はますます大きくなったので、サウルはもう神意を尋ねることはせずに、この機に乗じてペリシテ軍を攻めることにしました。この、契約の箱を用いて神意を尋ねるのをやめてしまったことがサウルの不信仰の表れだという見方をよく聞きますが、それはためにする議論、つまりサウルが如何に不信心な人物かという色眼鏡で見ている議論であるように思います。戦場では一瞬の判断の遅れが命取りになります。サウルがこれこそ天祐とばかりに千載一遇のチャンスを見逃さなかったのは、優れたリーダーであれば当然の行動です。こうしてペリシテ軍の混乱に乗じてイスラエル軍は総攻撃を仕掛け、今まで敗色濃厚と逃げ隠れていたイスラエル兵たちもこの攻撃に合流しました。勢いに乗ったイスラエル軍は、見事ペリシテ軍の撃退に成功したのです。

3.結論

まとめになります。今日は絶体絶命のイスラエルのピンチを、ヨナタンの信仰と勇気ある行動が救った場面を学びました。人間的には全く希望が持てない状況でも、神の助けがあれば打開できるということをヨナタンの行動は教えてくれます。こういう行動は一歩間違えれば命取りの無謀な行動には違いありませんが、しかしヨナタンは主がイスラエルに味方してくださることを確信し、勇気ある行動でその信仰を言い表したのです。

私たちも、人生において絶体絶命と思える場面に遭遇することがあります。現実的に考えれば、もう手はない、お手上げだという場面があります。確かに、そんな時に都合よく危機を免れることができるというのは、そうそうあるものではありません。しかし、どうやってもそのような危機は乗り越えられない、ということでもありません。例外もあるのです。それは、私たちが主の計画、主の御心を行う時に起きます。たとえ私たちが無力でも、神のために私たちが行動している時には信じられないようなことが起きるのです。もちろん、私たちが自分たちの私利私欲のために行動し、その結果自らピンチを招いても、助けなどやって来ないかもしれません。自業自得というような状況で、都合よく助けが来ることはほとんど期待できません。しかし、繰り返しますが、私たちが主の御心に沿った行動をしている場合には常識では考えられないことが起きるものです。奇蹟という言葉を簡単に用いたくはありませんが、当事者からすれば奇蹟としか思えないような不思議な助けや、局面の打開が生じることがあります。特に教会の働きにおいて、そういう不思議なことが起きることがしばしばあります。そういう経験の一つや二つは、どこの教会にも必ずあります。財政的に行き詰まる、奉仕者が足りない、そういうピンチの時に、不思議と必要が満たされるということがあります。私たち日本の多くの教会は、政府や大きな団体から援助を受けているわけではありません。小さな群れの人々が支え合って運営している、ある意味で吹けば飛ぶような団体です。しかし、それが思わぬ力を発揮するものです。不思議なことが起るのです。ここで忘れてはならないのは、私たちの教会は私たちのものであって私たちのものではないということです。これは主の教会です。ですから、私たちだけを見ていればそんな大きな力はどこにもないように思えても、主を見上げれば勇気が湧いてきます。それはわずか二人でペリシテ人の大軍を相手にしたヨナタンの勇気であり、信仰なのです。私たちはヨナタンの時代のような武力での戦いは決してしませんが、それでも主のために比喩的な意味で日々主の戦を戦っている群れです。そして私たちを導くのは万軍の主なのです。ですから私たちも、勇気を持って歩むことができます。これからも、勇気を持って主のために働いて参りましょう。お祈りします。

ヨナタンの信仰に応えられた父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は絶体絶命のピンチにも主を信じて行動することで大きな成果が得られるということを学びました。私たちも小さな群れですが、しかし主は大いなる方です。主を信頼してこれからも歩むことができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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