キリスト者としての生き方
第一テサロニケ4章1~12節

1.序論

みなさま、おはようございます。私たちはこれまで、毎週旧約聖書のサムエル記を読み、月末の最終週のみ新約聖書のパウロのテサロニケ書簡を読んでいます。今日は第三週ですが、なぜ今日がサムエル記ではなくテサロニケ書簡なのか、と疑問に思われたかもしれません。それは、来週の主日礼拝が当教会では召天者記念礼拝であり、その聖書箇所として第一テサロニケの4章13節以下が相応しいので、今日はちょうどその前の箇所を取り上げようと考えた次第です。

そして今日の箇所です。説教タイトルは「キリスト者としての生き方」ですが、まさにそのままの内容です。パウロはここで、聖なる聖い生活の必要性、兄弟愛、そして労働について短いながらも、とても大切な内容について記しています。パウロの勧告を詳しく見る前に、テサロニケという都市の状況について簡単に振り返りたいと思います。テサロニケはギリシア北部のマケドニア地方の最大の都市でしたが、そこでは多くの神々が礼拝されていました。半神半人の大英雄ヘラクレス、芸術の神アポロン、美と愛と性の女神アプロディテ、エジプトの神であるイシスとオリシス、そして前回もお話ししたようにローマの皇族を礼拝する皇帝礼拝など、あらゆる宗教が混在していました。そうした宗教の特徴として、性的な事柄に甘いというかオープンである、ということがありました。ギリシア・ローマの神話によれば、神々自身が不倫や略奪愛のようなことを平気で行っていますので、そういう神々を礼拝する人たちがそうした神々の真似をする、ということになるのです。ですから、異性関係について高い倫理を持つユダヤ教やキリスト教の信者と、ギリシア世界の人々の道徳観念が大きく異なってくるのは当然のことでした。

また、テサロニケはマケドニア州最大の都市で、地中海世界の様々な人々が行き交う国際都市でしたので、今風に言えば「進んだ」都市でした。進んだ、というのは道徳的に退廃したという意味合いも含まれます。パウロの時代の地中海世界の文化を先導したのはもちろんローマ帝国でしたが、その時代の特徴は性の解放でした。私たちも20世紀にフラワームーブメントやヒッピー文化などの運動を経験しましたが、その時のスローガンは「愛と平和とフリーセックス」でした。パウロの時代のローマにも、同じような現象が起きていました。ローマ帝国というのは基本的には圧倒的な男社会で、妻が姦淫をした場合には死刑になりますが、夫が浮気した場合には何の罰もないという歪んだ男性優位の社会だったということです。ところが、上流階級の女性を中心に、女性の性の解放が進んでいたのが皇帝ネロの時代、つまりパウロが活躍した時代だったのです。旧約聖書の創世記に、エジプトに奴隷として売られたヨセフを、侍従長ポティファルの妻が「私と寝なさい」と誘惑する場面がありますが、ローマの貴婦人たちもそういうことを堂々と行い、夫たちはそれを見て見ぬふりをするということが当たり前の風潮になっていたとのことです。これを女性の社会的な地位の向上とはとても呼べないし、呼びたくはありませんが、ともかくも男女とも性道徳の基準が非常に下がったというのが、この時代の風潮でした。テサロニケのような大都市は、ローマの文化的な潮流に敏感でしたから、性道徳については非常に緩い状態になっていました。そのような場所にパウロは福音を宣べ伝え、神に召された者としての聖い生活の必要性を訴えたのです。こうしたことを踏まえながら、今日の聖書箇所を読んで参りましょう。

2.本論

では、1節から読んで参りましょう。「終わりに」となっていますが、このギリシア語のロイポンという言葉には「したがって」という意味もあります。私はしたがって、の方がよいと思います。というのも、「終わりに」というとこの手紙がもうすぐ終わってしまうような印象を受けますが、実際にはこれから重要なパウロのお勧めがいくつも書かれているからです。一般的にパウロの手紙では、後半部分に教会員のための実際的な教えや勧めが置かれることが多いです。例えばローマ人への手紙では、1章から11章までは難解な神学議論が展開されますが、12章以降は信徒の日常生活に適用できるような実際的、具体的な教えが続きます。第一テサロニケ書簡の場合には、1章から3章までがパウロのテサロニケ伝道を振り返るような内容になっていて、4章から5章までがテサロニケの信徒たちのための具体的な教えとなっています。そのような具体的な内容の冒頭部分は、「終わりに」よりも「したがって」の方がよいと思うのです。

パウロは、これから書き記すことは「お願い」であり、「勧告」であると語ります。それは、彼らの日常生活、日々の歩みについてです。パウロが願うのは、テサロニケの信徒たちが日々神に喜ばれる歩みをすることです。宗教というのは、私たちの命が神から与えられたものであり、また私たちが日々当たり前のように思っているもの、空気や水や食料や太陽の光と熱、これらすべてのものが神から私たちに無償で与えられているということを認識し、それに感謝することです。私たちはその感謝の気持ちを、礼拝の場で言い表しますが、それだけでは十分ではありません。むしろ、日々の生活や歩みの中でこそ、その感謝の気持ちを言い表さなくてはなりません。私たちが神に喜ばれる歩みをすることで、私たちは神に感謝の気持ちを伝えることができます。そして、そのような歩みの具体例を、パウロは伝道活動をしながら自らテサロニケの信徒たちに示してきたのです。パウロがこの手紙の前半部分で、自分たちがテサロニケでどのように歩んできたのかをテサロニケの人々に思い出すように促していますが、それはパウロたちの歩みがそのまま4章と5章の勧めの生きた見本だからなのです。

そしてパウロは、テサロニケの信徒たちが実際にそのように歩んでいると、彼らを賞賛します。パウロの願いは、彼らがますますそのように歩んでいくことでした。

しかし、テサロニケの信徒たちは完ぺきな人たちではありませんでした。パウロはテサロニケを訪問していたテモテから、あるいはほかの情報源から、テサロニケ教会のことを聞いて、少し気になった事柄があったようです。そこで念を押すように、いくつかの勧告をテサロニケ教会に書き送ったのだと思われます。パウロは、自分たちがテサロニケの人々に与えた命令、あるいは生き方は主イエスによって彼らに授けられたものだ、ということを改めて強調しています。つまり、パウロの教えは一般的な道徳でも、あるいはパウロ独自の考えでもなく、主イエスの命令だということです。

そして、3節から具体的な教えが提示されます。神の御心は、あなたがたが聖なるものとなることだ、とパウロは書き記します。ここには、旧約聖書の教えがこだましています。それは、レビ記11章45節の教えですが、「あなたがたは聖なる者となりなさい。わたしが聖であるから」というものです。聖なる者、というのはどういうことかといえば、基本的な意味は「神様のものとして取り分けられた者」という意味です。私がよくいうたとえ話ですが、みなさんの財布に千円札が7枚入っているとします。そして、その1枚を神様にお献げしよう、献金しようと思い、その千円札を取り分けます。そうすると、その千円札は神様のものとして取り分けられた千円として、聖なる千円札になります。といっても、他の千円札と何も変わるところはありません。ただ、その用途が神様のためのものとなったということです。

とはいえ、千円札の場合はそうであっても、人間の場合は、神様のために取り分けられた人が他の人と何も変わらないというのでは困ります。私たちクリスチャンは、一人一人が神様から召されたものです。多くの人の中から、あなたが選ばれて神のものとされたのです。あなたが神に選ばれ召された時点では、あなたはほかの人たちと何ら変わるところがないかもしれません。しかし、その時にはそうでも、それからもずっとそのままでは困るということです。神に召され、神のものとされた以上、神と民としてふさわしい者に変えられていかなければならない、ということです。それはもちろん一朝一夕で起きることではありません。時間が必要ですが、しかし着実に変わっていく必要があります。私たちが目指すのは、主イエス・キリストのような人格を身に着けることであり、それがすべてのクリスチャンの目標、ゴールなのです。キリストのようになること、それが聖なる者となるということの意味です。

ただ、キリストのようになるといっても曖昧ですので、パウロはそこから具体的な話を始めます。最初の戒めは、「不品行を避けなさい」というものです。不品行はギリシア語では「ポルネイア」で、ポルノという言葉の語源になった言葉です。今風に言えば、ズバリ「ポルノを避けなさい」ということです。私たちの時代には性的な情報が氾濫しており、子どもでもインターネットでポルノ的なものが簡単に見れるという恐るべき状況になっていますが、古代の大都市であるテサロニケでも性的な絵画があふれていて、性的な事柄には非常にルーズというか、オープンな状態でした。今日の先進国では「婚前交渉」などという言葉は死語になっていて、結婚前のお試し同棲が奨励すらされていますし、婚姻関係にある人以外の性交渉が悪いとか、それに罪悪感を覚える人はほとんどいなくなっていますが、当時のテサロニケでも似たような状況でした。律法によって教えられていたユダヤ人以外は、結婚していない相手との性交渉を罪だと感じる、そういう感覚を失っていました。しかしローマ社会は、妻以外の女性をどうやって手に入れるか、などということが公然と語られるような社会でした。そのような環境で生きていたテサロニケの人々は、パウロの教えを聞いて、そういう生活から離れようと努めました。しかし、これまでの付き合いや人間関係から、そういった事柄からさっぱりと足を洗うのが難しい人もいたでしょう。不倫関係を続けていた人が、クリスチャンになってそれを止めようと思っても、相手がそれに納得せずに騒ぎ出せば、そう簡単に関係を清算できないのです。テサロニケの信徒の中にも、あるいはそういう問題を抱えていた人がいたかもしれません。パウロがどこまでテサロニケの信徒たちの個別の事情を知っていたかは分かりませんが、聖なる生き方をせよ、と命じたすぐ後にポルノを避けよという勧告が最初に来るということは、実際にテサロニケ教会にはそのような問題があったのを伝え聞いたのでしょう。

4節では原則的なことを述べています。しかし、この4節がなかなか解釈の難しい箇所なのです。というのも、「自分のからだ」と訳されている箇所を直訳すると「彼の器」、あるいは「彼の容器」となるからです。スケウオスという言葉は「器」という意味ですが、第一ペテロの3章7節でこの言葉が使われていて、そこでは妻が「弱い器」と呼ばれています。つまり、器とは比喩的に女性や妻を指す場合があります。ですからこの4節についても、「聖さと尊厳をもって妻を得なさい」と訳す学者も少なくありません。つまり、ここは「男たちはポルノを避けて、おのおの聖さと尊厳において妻を得なさい」とパウロは勧めているということになります。しかし、こう訳すとパウロの他の手紙の教えとは相いれない内容になってしまいます。たとえば第一コリントの7章27節では「妻に結ばれていないのなら、妻を得たいと思ってはいけません」と書いています。パウロ自身は独身で通していて、信徒たちにも私と同じようにできるならそうしなさいと勧めています。つまりパウロは男は結婚すべきだ、とは教えていないのです。そう考えると、パウロはここで、「人は結婚していても独身でも、各自の身体を聖く尊厳をもって扱いなさい」と教えているということになるでしょう。そのようにパウロが教えるのは、テサロニケの人々が「神を知らない異邦人たち」に取り囲まれて暮らしているからです。朱に交われば赤くなる、ということわざが示す通り、人は周りの環境に常に影響を受けます。パウロは、神を知らない異邦人たちは情欲におぼれている、と指摘します。その詳しい意味は、パウロはローマ書簡で説明しています。神は、神を認めず感謝もしない人たちを情欲に引き渡した、とパウロは書いています。その箇所を読んでみましょう。

こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。(ローマ書1:26-28)

この聖書箇所は、今日大きな政治的・社会的テーマになっている性的マイノリティ、いわゆるLGBTQの問題との関連で取り上げられることが多い箇所ですが、パウロはここで医学的な意味での性的マイノリティの問題を語っているわけではありません。むしろローマの退廃的な性文化、権力を持つ者は男でも女でも子どもでも、社会的身分が低ければだれかれ構わず性的な対象としていた文化を批判したものだと思われます。ここでのポイントは、そうした人は神を敬わない結果として、神によってそうした情欲に引き渡された、と言われていることです。パウロはテサロニケの信徒たちに、今やあなたがたは真の神を知っているのだから、そうした情欲に流されてはいけない、と勧めています。

6節では、「兄弟を踏みつけるな」、「兄弟を欺くな」という勧告が与えられています。非常に生々しい言い方になりますが、同じクリスチャンの仲間の妻と関係を持つな、ということが言われているものと思われます。そんなことがあり得るのだろうか、と思われるかもしれませんが、実際にそのような問題が原因となって崩壊寸前になった教会もあります。私はそのような状況を見て、「なぜなら、主はこれらのことについて正しくさばかれるからです」というみことばは真実なのだと実感しました。不倫を純粋な愛だ、などと呼ぶ今日の文化は、クリスチャンの倫理ではないのです。

7節、8節ではさらに重たいことが語られます。性的不品行は聖霊を拒むことになる、という警告です。この警告は、同じく性的不品行の問題を扱った第一コリント書簡で詳しく書かれています。第一コリント6章18節から20節までを読んでみます。

不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行う者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現しなさい。

なぜキリスト者は聖い生活を送るべきなのか、それは聖なる神の霊を汚れた住まいに住まわせるべきではないからです。このことは改めて私たちの胸に刻むべきことでしょう。

9節と10節では、また別のテーマ、すなわち「兄弟愛」のことが語られています。この兄弟愛という言葉のギリシア語は、有名なアガペーではありません。ここではフィラデルフィアという言葉が使われています。これはアメリカの大都市フィラデルフィアの語源となった言葉です。アガペーというのは神の無償の愛、すべての人類に対する神の愛を表す言葉ですが、フィラデルフィアは肉親、血族に対する愛を表す言葉です。つまり非常に親密な関係にある人々の間での愛情です。キリスト者はすべての人に対する愛、つまり神のようなアガペーの愛を持つことが求められていますが、それにもまして同じ信仰を持つ者同士の愛、フィラデルフィアの大切さがここでは強調されています。一般的な社会全般でも、万人に対する博愛と、家族に対する愛とは、やはりその濃密さという意味では違いがありますが、クリスチャン同士の間では家族同士の絆に等しい愛を持つべきだということです。パウロは、テサロニケ教会の人々の兄弟愛はマケドニア全土の兄弟姉妹に向けられている、と語っています。マケドニアで有名な教会はピリピとテサロニケの教会ですが、他にもマケドニアの小さな町や村にもクリスチャンはいたものと思われます。そうした人々が大都市テサロニケを訪れた時、彼らはそこに住んでいるクリスチャンを真っ先に頼ることになります。テサロニケのクリスチャンは、そうした旅人を家族の一員のように温かくもてなす、そのようなホスピタリティーで有名でした。パウロはそのことに満足していて、それを賞賛しつつ、ますますそれに励んでくださいと述べています。

11節と12節では三番目の勧告、落ち着いた暮らしをし、自分自身の手で働くべきことが語られています。当たり前のことではないか、と思われるかもしれませんが、この点は特にテサロニケ教会にとって重要なことでした。今日でも、世界の終わりが近いということを強調する新興宗教があります。そういう教団に入る人の中は、世界の終わりが近いので働いて将来に備えてお金を貯めても仕方がない、と考えて仕事を辞めてひたすら世界が終わるのを待っているという行動を取る人がいます。しかし、なかなか世の終わりが来ない場合でも日々の生活を過ごすためにはお金が必要ですから、誰かの世話にならないといけません。そして、いつまでたっても世の終わりにならない場合はその人は生活力を失って、一生誰かの好意に甘えて生きなければならなくなります。パウロはテサロニケ教会への伝道において、主イエス・キリストが天から戻られる日は近い、ということを強調しました。それを聞いたテサロニケの信徒の中には、もう仕事などしている場合ではない、仕事をやめて、一日中伝道活動に費やして、一人でも多くの人を滅びから救わなくては、と考える人が出てきました。しかし、そんなことになればその人を養うために他の人が働かなくてはならなくなります。また、周囲の人も、その人の言うことをまともに受け止められなくなります。あいつは頭がおかしいんだ、世界が終わるという強迫観念に取りつかれた可哀そうな人なんだ、という評判が立ちます。こうなってしまうと、キリスト教そのものの評判が大暴落してしまいます。パウロはそんなことにならないように、外の人たちに対しても品位を保てるように、しっかり働きなさいと語ります。パウロ自身も、伝道にすべてを献げる人生を送りながらも、自分の生活を支えるために日夜テント職人として働きました。その真剣な姿が福音を伝えるのに大いに役立ったのです。要は、伝道を言い訳にして仕事をしない、ということではいけないということです。

3.結論

まとめになります。今日は、パウロがテサロニケの信徒たちに送った、三つの非常に具体的な教えについて学びました。一つ目は聖なる生活、特に性的な事柄について、二つ目は兄弟兄について、三番目は労働についてです。これらはすべて、当たり前の事柄に思えるかもしれませんが、しかし折に触れてキリスト者の生活の基本として胸に刻んでおきたいことです。繰り返しになりますが、「聖なる人」というのは特別な聖人のことではなく、クリスチャン一人一人のことです。聖なる人とは、神によって取り分けられた人、神のものとして召された者という意味であり、すべてのクリスチャンはこの意味で聖なる人なのです。自分なんか、とても聖なる人とは呼べない、自分は俗物だ、と多くのクリスチャンは考えるかもしれません。そのような謙虚な心持はとても大切なものですが、しかしその状態に甘んじてもいけないのです。私たちは、自分が一番大切に思う人、例えば恋人などを家に招くときに、家を散らかし放題のひどい状態にできるでしょうか?もしそんな家に恋人を招いたとしたら、自分はその人を愛していないのだ、ということを公言するようなものではないでしょうか。私たちクリスチャンは、なんと神の霊である聖霊をわたしたちのからだにお招きしているのです。そのことをよくよく考えるならば、私たちがどのように生きるべきかがおのずから理解できるのではないでしょうか。もちろん、いつもいつも家をきれいにしていくのは難しいことです。生活するというのは、ある意味では散らかすことですから。でも、やはり心地よい生活のためには定期的な家の掃除が必要であるように、クリスチャンとしてのふさわしい歩みのためには定期的に自らの歩みを吟味する必要があるでしょう。ですから、ぜひ今日の聖書箇所を折に触れて読み返し、自らの生活についての指針として参りましょう。お祈りします。

私たちを聖なる者として召してくださったイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。私たちはこの世の在り方にながされ、キリスト者としての生き方を忘れがちになる者ですが、どうかそのような私たちを導き、あなたが喜ばれる生き方をする者とならしめてください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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