おのおのの仕事
第一コリント3章1~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。来週からいよいよアドベントが始まりますが、ここ数日は夏日になろうかという温かさで、どうも季節感のない日が続いています。次週以降のアドベントですが、クリスマスの主日はもちろん特別なメッセージをしたいと思っておりますが、それまではこれまで通りコリント書簡の講解説教を続けていきます。この書簡から、クリスマス・シーズンにふさわしい説教ができると考えているからです。クリスマス・シーズンをどのように過ごすべきか、という話は次週にしたいと思っています。

さて、今日の箇所は、前回に続いてとても大事な内容です。今日の箇所では、パウロは特に教会について話しています。教会とは何か、また教会のリーダーとはどんな人たちなのか、ということを豊かなイメージを用いて語っています。イメージと言いましたが、つまりは比喩を用いて、パウロは教会とその指導者のことを説明しているのです。比喩には二通りあって、「君はバラのようだ」というように、「ようだ」を付けるのが直喩、「君はバラだ」と言い切るのが隠喩、メタファーです。君はバラだ、と言われるのは女性でしょうが、この言葉を聞いて単純に喜ぶわけにはいかないかもしれません。なぜなら、確かに良い意味では「君はバラのように美しい」という誉め言葉でしょうが、悪い方の意味では「君はバラのように棘がある、意地が悪い」という皮肉かもしれないからです。

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デボラとバラクとギデオン
士師記4:4-7; 7:4-7
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日は四大士師のうち最初の二名の士師についてです。まず、デボラですが彼女は女預言者と呼ばれ軍事的指導者としてはバラクを指名しますので、デボラ/バラク両者一体で士師とみられます。もう一人はギデオンです。お話の中心はあとの方のギデオンです。最初にデボラ/バラクをみます。

4:1に「その後、イスラエル人はまた、主の目の前に悪を行った。エフデは死んでいた。」といわれています。モアブの王の支配からイスラエルを解放したエフデは既になく、イスラエルは主の目の前に悪をおこなった」と言われています。おそらく、カナンの地の宗教に染まってヤハウェ信仰から離れていった、ことを指ししている、と考えられます。そこで、主なる神はイスラエルをカナン王ヤビンの手に渡したと言います。カナンのそもそもの由来は、ノアの子ハムの子、クシュ、ミツライム、プテの弟カナンの系譜ということになっています。クシュはエチオピア、ミツライムはエジプト、プテはリビアを指します。カナンはフェニキアからペリシテまで含む広義のカナンの地の住民のことです。イスラエルはノアの子の内セムの系譜であり、カナン人とは民族を異にします。その王ヤビンには将軍シセラが居ました。デボラ/バラクのように対(つい)で考えるとヤビン/シセラということになります。彼らは戦車900両を持っていたと言われていますので鉄の兵器を持っていたようです。そしてイスラエルを圧迫していました。まだ税金徴収の習慣はなかったので、時々、イスラエルの民の住むところに来て略奪をしていった、ということでしょう。

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天と地をつなぐ礼拝
ヘブル書12章1~3節

みなさま、おはようございます。今日は召天者記念礼拝ですので、それにふさわしいメッセージをしたいと願って、準備してまいりました。説教には、大きく分けて二つの種類があります。一つは講解説教と呼ばれるもので、エレミヤ書や第一コリント書簡など、聖書の一つのテクストを数か月かけて、場合によっては数年かけてじっくり学んでいくという形の説教です。これは聖書テクストに沿って、聖書そのものに語ってもらおうという、そういう説教です。それに対し、もう一つの説教の種類とは「テーマ説教」と呼ばれるものです。ある一つのテーマ、主題について語る説教ですので、一つの聖書箇所にとどまらず、聖書全体を広く見渡しながら、一つのテーマについて深く考えていくのです。そして今日の説教はテーマ説教です。ですから今日お読みいただいたヘブル書12章1-3節は今日のメッセージにとってとても大事な箇所ではありますが、この箇所の以外の場所もいろいろ見ていきます。そして、今日の説教で考える中心的な問題とは、私たちここに集う礼拝者と、かつてここで共に礼拝を守っていたけれど、すでに天に召された兄弟姉妹たち、この両者の関係をどう考えるのか、ということです。今日は先に天に召された方々を思い起こす日ですが、そのことにどんな意味があるのかを考えていきたいと思います。

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世の知恵と神の知恵
第一コリント2章3~16節

1.導入

みなさま、おはようございます。11月に入りました。今日の主日は多くのプロテスタント教会では召天者記念礼拝が行われていますが、当教会では次週に行いますので、今日は通常の聖餐礼拝とさせていただきます。さて、コリント書簡からの説教は今日で四回目になりますが、今日の箇所は、先週の説教箇所の続きですので、少しこれまでの流れを振り返ってみましょう。コリントの教会には大きな問題が生じていましたが、その問題とは、分派争いでした。コリントの人たちは「パウロ派」「アポロ派」「ペテロ派」などの派閥を作って、互いに競っていました。彼らの関心の一つは、優れた「知恵」を得ることでした。ギリシャ文明において知恵は非常に高く評価されました。そこでコリントの人たちは、パウロやアポロ、あるいはペテロの中で誰が知恵において優れているのか、ということをとても気にしていました。できれば一番「知恵」の優れたリーダーに付きたい、そうすれば自分も知恵において優れた存在になれると、そう考えたわけです。そういうわけで、先週の聖書箇所にも「知恵」という言葉が何度か登場しましたが、今日の聖書箇所ではまさに「知恵」が中心的なテーマとなっています。パウロは今日の箇所で、ソフィア、これはギリシャ語の知恵という意味ですが、それは一体何であるのかを論じています。パウロは先に、「ギリシャ人たちは知恵を求める」と書いていますが、コリントで主を信じるようになったギリシャ人のクリスチャンたちは、クリスチャンになる前も、またクリスチャンになってからも、相変わらず知恵を求めていました。当時のギリシャでは、高い知恵を獲得することで、この人は優れた人だ、と社会的に尊敬されたからです。コリントの教会の人たちの中には、キリスト教の先生にも、他のギリシャの哲学の先生のように自分たちに優れた知恵を教えてくれることを期待していました。

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十字架の愚かさと力
第一コリント1章17~2章2節

1.導入

みなさま、おはようございます。10月も最後の週になりました。秋も深まってきましたが、読書の秋ですので、物事を深く考えるのにもよい時期になってまいりました。さて、前回の説教ではコリント教会に生じた深刻な問題、仲間割れと派閥争いのことを学びました。コリントの教会の人たちは、コリント教会の創設者であるパウロ、そしてパウロが去った後に、いわば二代目宣教師としてコリントに来たアポロ、さらにはコリントの教会との直接の縁はないものの、イエスの一番弟子として初代教会の間では名高いペテロ、こうした人たちを自分たちのリーダーに担ぎ上げて、互いに争っていました。なぜ彼らがそのような派閥争いに血道をあげたのかといえば、それは自分たちが他の人たちよりも上になりたい、えらくなりたいという自己中心的な思いから来ていた、ということを学びました。パウロよりペテロの方が偉い、あるいはパウロよりアポロの方が賢いならば、自分はペテロにつきたい、あるいはアポロにつきたい、そうすれば自分はパウロ派の人たちよりも偉くなれる、そんな思いから彼らは相争っていたのです。

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四大士師以外の八士師
士師記3:7-11
森田俊隆

当日の説教では、この原稿の一部を省略して話しています。

今日は士師たちのいろいろな側面を見て、士師記の理解の基本を知っておきたい、と思います。士師記には12人の士師と呼ばれる人物が登場しますが、4大士師ということができる、デボラ、ギデオン、エフタ、サムソンについては次月以降のテーマとし、これら四名の士師を除く8人の士師を見るとともに、士師全体を見て、私たちが心に留めおくべきことを申し上げておきたい、と思います。 士師記はイスラエルの英雄列伝のようなところがあり、イスラエルの庶民には自らの歴史を記憶する上の必須項目でした。単に英雄について述べているにとどまらず、部族間のいろいろな問題等も記されています。ヨシュア記のようにイスラエルのカナンの地での戦いを申命記神学に立って極端に美化しているところもなく、真実味があります。個別の士師を見ていく中で、問題のテーマにつき、お話いたします。

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貧しい人たちのための王国
ルカ福音書6章20節
ワールド・ビジョン・ジャパン・デボーション

みなさん、おはようございます。今日みなさんとのデボーションに招かれたことを心より感謝いたします。また、みなさんの平素からの貴いお働きに心から敬意を表します。

さて、ワールド・ビジョン・ジャパンの10月からの1年間のテーマと聖句が「神の国をまず求めなさい」であるということをお聞きしました。そこで今日は、短い時間ではありますが、この年間テーマで言われている「神の国」とはどんなものなのかを考えてまいりたいと思います。「神の国」、あるいは「天の国」と言われることもありますが、この言葉はイエスの伝記である福音書に100回ほど、イエスの言葉として登場します。イエスの言葉として、こんなに多く使われている言葉は他にはありませんので、まさにイエスという人物、またその働きを理解する上でのキーワードだと言えます。けれども、イエスは神の国とはこれこれこういうものです、ということを事細かには説明しませんでした。むしろ、「神の国とはなになにのようなものです」、というように、たとえ話を用いて、どこかつかみどころのないものとして話すほうがずっと多かったのです。イエスの話は聞く人に、「神の国」とはどんなものなのか、自分自身で思いめぐらすように、また深く考えるようにと促していました。もっと言えば、イエスの地上での生涯そのものが、私たちに「神の国とは何なのか?」と鋭く問いかけるものでもありました。

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分裂するキリストのからだ
第一コリント1章10~17節

1.導入

みなさま、おはようございます。先週から使徒パウロのコリントの教会への手紙を学び始めました。前回は、コリントとはどんなところなのか、その歴史を振り返ってみましたが、今日の箇所からいよいよ本題に入っていきます。先週もお話ししたように、使徒パウロはギリシャの商業都市コリントで開拓伝道を始め、そこで約1年半をかけて伝道活動を行いました。パウロは、自らの使命を牧師と言うより、今日でいうところの外国人宣教師のように考えていました。宣教師とは、まだ福音が宣べ伝えられていない、異教徒の住むキリスト教未開の地に入っていって、そこで初めてキリストの福音を宣べ伝え、信者を獲得していくという、そういう働きをする人です。日本にも、明治時代以降に欧米からたくさんの宣教師が来てくれました。彼らは教会が立ち上がると、そこで長く留まろうとせずに、新たな開拓地を探してほかの場所に移り、自らが開拓した教会のことは日本人の牧師などに託すという行動パターンを取ります。彼らの目的は、なるべく広い地域に福音を届けることなので、一か所にずっといるということはないのです。それに対し、牧師というのは、一つの教会に10年とか、かなり長い期間留まります。そこで教会員の人たちと長期間にわたって人格的なかかわりを持ち、教会の発展や教会の周囲の地域社会とのつながりを深めていく、という役割があります。パウロには、長期間にわたって一つの教会に関わってその教会を発展させていくことよりも、なるべく早く広い地域に福音を届けるという明確な目的がありました。なぜかと言えば、パウロは自分にはあまり時間がないと思っていたからです。パウロはキリストが再び来られるとき、つまり再臨が近いと信じていたので、それまでのうちに世界中に福音を広めようと思っていました。世界中といっても、パウロにとっての世界とは地中海世界のことで、中国や、ましてやアメリカ大陸などは、その存在すら知らなかったでしょう。パウロの目的とは、キリストが再び来られるまでに、彼が知っている範囲の世界全体に福音を届けることでした。ですから彼はあわただしい旅人の人生を送っていたのです。

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コリントの教会とパウロ
第一コリント1章1~9節

1.導入

みなさま、おはようございます。4月から半年の間、旧約聖書の大預言者エレミヤについて学んでまいりました。今日からは、新約聖書の使徒パウロの手紙を学んでまいります。今回は半年というわけにはいかず、おそらく1年近くかかる連続説教になると思います。

エレミヤの時代とパウロの時代は600年以上も離れています。具体的にいえば、足利幕府の室町時代と平成の時代ぐらい離れているわけです。室町幕府の時代からつい先ごろの平成までの時代には、日本には本当に多くの出来事があり、室町の頃の日本と平成の日本とは、単純に同じ国だとは言えないぐらいの違いがあります。ですから、エレミヤ書とこのパウロのコリント教会への手紙は、同じ聖書の書だからといって、似ているはずだとか、同じような内容だとは到底言えないのです。室町時代に書かれた本と、平成の時代に書かれた本が全然違うのと同じです。しかし、同じイスラエルの神に仕える人たちが、同じ神の霊感を受けて書いた書ですから、共通する部分はもちろんあります。もっといえば、エレミヤ書そのものがパウロに強い影響を与えているのです。

ここで忘れてはならないのは、パウロが子供の頃には新約聖書はまだ一つも書かれていなかったということです。新約聖書の約半分がパウロ自身によって書かれた手紙だということを考えてみれば、当たり前のことですね。パウロの年齢は、おそらくイエス様とほぼ同じだったか、少し若いぐらいだと思われますので、彼の少年時代にはイエスのことを聞いたこともなかったでしょう。したがって、当然イエスの伝記である福音書も書かれていません。むしろ、彼にとっての聖書とは、旧約聖書だけだったのです。ですから、少年から青年になる年齢にかけて、パウロは旧約聖書を一生懸命読んでいました。旧約聖書の中でも、エレミヤ書は大変有名で重要な書だったので、パウロはそれをよく読んでいて、勇敢な大預言者エレミヤに憧れる思いを抱いていたでしょう。パウロの手紙の中には、エレミヤを思わせるような記述があったり、エレミヤ書から引用している箇所がありますが、それは彼がエレミヤ書に深く親しんでいたことの何よりの証拠です。

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新しい契約
エレミヤ書31章23~40節

1.導入

みなさま、おはようございます。半年間かけて、エレミヤ書に取り組んでまいりましたが、今日はその最終回になります。前回は、エレミヤの人生の終わりがどのようなものだったかを学びました。20歳そこそこの青年時代からすべてを神に献げ尽くした人物の生涯の終わりとしては、それはあまりにも悲劇的なものでした。このような義人の苦しみ、神に心から仕えた人の受けた苦難の意味をどう考えるのか、というのは聖書における一つの重大なテーマです。神に仕える人は神に守られるべきではないか、なぜ神は僕を見捨てたもうたのか、という問いは、実にイエス・キリストの十字架にまで続く大きな問いなのです。しかし今日は、エレミヤの生涯の軌跡を追うよりも、そのような苦難の人生を経てエレミヤの思想がどのように深められていったのかを考えてまいりたいと思います。エレミヤという偉大な預言者の思想、あるいは神学の深まりの軌跡を考えていこうということです。

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