ダビデ、武勇を立てる
第一サムエル17章1~58節

1.序論

みなさま、おはようございます。さて、前回からいよいよダビデが登場しましたが、今回はその少年ダビデの大活躍の場面を学びます。これは旧約聖書の中でも最も有名な話の一つで、教会学校では一番人気のあるお話しかもしれません。

ただ、このダビデの話は単に子どもたちを喜ばせるようなヒーロー物語ではありません。むしろこれは、私たちに「信仰」の意味を改めて教えてくれる、大人のための物語だと言うべきでしょう。このダビデの物語と対照的な話が、旧約聖書の後の方にあります。それは預言者イザヤと、当時のユダ王国の王、ダビデの子孫であるアハズ王の時代の物語です。その時イザヤはアハズ王に対して、「もし、あなたが信じなければ、長く立つことはできない」(イザヤ7:9)と、信仰の大切さを訴えました。ですから初めにこのアハズ王の話をして、それからダビデの話に戻りたいと思います。

さて、というわけでいきなりイザヤ書7章の話になりますが、ここに南ユダ王国のダビデから数えると第十四代目の王となるアハズ王の話をしたいと思います。この王様は、周りを敵国に囲まれて困り果てていました。それは、同じ兄弟国である北イスラエル王国や、同じく北方のダマスコ王国が同盟を組んでユダ王国を攻めてこようとしたからです。この二国は国力ではユダ王国を圧倒していました。今の日本で言えば、ロシアと中国が同盟を組んで日本を攻めて来るという、そんな状況です。仮に、あくまで仮にですが、もし中国とロシアが同盟を結んで日本を攻めるとしたら、その時に我が国の内閣総理大臣はどうするでしょうか?考えるまでもないですね、今日の世界最強の国であるアメリカに助けを求めるでしょう。それは当たり前の手段と言いますか、それしかない、と多くの人が思うでしょう。ユダ王国の王であるアハズもまったく同じことを考えました。北の強国二国から攻められそうになって、彼は当時の世界最強の帝国であるアッシリアに助けを求めました。私たちはあなたがたの属国になるので、どうか助けてくださいと頼み込んだのです。しかし、その時に預言者イザヤは何と言ったでしょうか?なんと、彼はアッシリアに助けを求めてはいけないとアハズ王に訴えたのです。それは今日でいえば、内閣総理大臣のアドバイザーが「総理、アメリカに助けを求めてはいけません」と訴えるようなものです。ではイザヤは、アッシリアではなく誰に助けを求めるように言ったのか?それは神です。神を信じなさい、とアハズ王に訴えたのです。しかし、今の日本でそんなことを言ったら、馬鹿にされるか、あるいは頭がおかしいと言われるでしょう。宗教と政治をごちゃごちゃにするな、あるいは心の問題と現実の問題を混同するな、と怒られてしまうでしょう。しかし、聖書の求める信仰とは、まさにそのような信仰なのです。現実を無視した、愚かな行動だと言われるようなことを求める、それこそ神が私たちに求める信仰なのです。

さて、このアハズ王はイザヤの忠告を無視し、アッシリアに走りました。そして、アッシリアは見事にアハズ王の期待に応えてくれました。ダマスコ王国はアッシリアによって滅ぼされ、北イスラエル王国も大打撃を受けて、それからほどなくして滅んでしまいました。アハズ王のアッシリアの属国になるという作戦は成功したように見えました。しかし、それでユダ王国が失ったものは非常に大きかったのです。それからユダ王国は莫大な貢物をアッシリアに納めなければならなくなり、国庫は疲弊していきました。今の我が国も、アメリカから戦闘機を2兆円も出して買ったり、アメリカの旧型のミサイルを言い値で買わされたりと、大変なことになっていますが、ユダ王国もアッシリアのATMと化していき、国が傾いていきました。それだけでなく、アッシリアの宗教も輸入したので、イスラエルの信仰もおかしくなっていきました。そうはいっても、ユダ王国はアッシリアに頼るしかなかったのではないか、と思われるかもしれません。しかし、別の道もあったのです。その道を選んだのが、アハズ王の祖先であるダビデだったのです。そのことを思いながら、今日の箇所を読んで参りましょう。

2.本論

さて、では17章の1節から読んでいきましょう。これまでもイスラエルを何度も苦しめてきた強国のペリシテ人が、再び登場します。先に預言者サムエルも、またサウル王も、何度かペリシテ人を撃退したことがありましたが、しかし圧倒的な武力を誇るペリシテ人は諦めることなく再びイスラエルに襲いかかってきました。しかも今度はペリシテ人は秘密兵器とも呼ぶべき超人的な兵士を前面に出して戦いを挑んできました。それはゴリヤテとう兵士です。その身長は二メートル十センチほどですから、大谷選手のライバルだった野球のニューヨーク・ヤンキースのジャッジ選手よりも高いということです。鎧の重さは五十キロ以上と、破格のものです。扱う武具は投げ槍とありますが、ものすごく長かったのだろうと思います。とにかく、見るからに強そうな兵士です。その彼が、イスラエルの軍勢に一騎打ちを申し入れてきました。ペリシテ人の代表がこのゴリヤテで、彼とイスラエルの代表選手とが戦い、もしゴリヤテが勝てばイスラエル人はペリシテ人の奴隷となり、反対にイスラエルの代表が勝てばペリシテ人はイスラエル人の奴隷となる、ということです。つまり、たった一人の人物の勝敗が全民族の命運を決めてしまうことになるのです。代表選手にとっては、ものすごいプレッシャーですよね。普通なら引き受けたくないような役目ですが、ゴリヤテは自分の勝利を信じて疑わないのか、自信満々に戦いを挑んできました。

その姿を見たイスラエル人たちは震え上がりました。とてもイスラエルを背負ってこの怪物と戦おうと思う人はいませんでした。しかし、ここでこそイスラエルの人たちの信仰が試されていたのです。イスラエルにおける戦いは、実際はイスラエル人による戦いではないのです。というのも、モーセの時代から始まって、イスラエルはいつも圧倒的な弱者でした。申命記7章では、神がイスラエルを選んだ理由は彼らがどの民族と比べても弱く小さかったからだと言われています。ですからイスラエルの戦いは、常に神が弱いイスラエルのために戦ってくださる、そのような戦いだったのです。イスラエルに必要なのは、強い武力ではなく強い信仰でした。先ほどアハズ王に対し、預言者イザヤはアッシリアではなく神に信頼しなさい、と諭したという話をしましたが、それはこのような理由からなのです。今回も、確かにゴリヤテとまともに戦って勝てるイスラエルの兵士はいないでしょうが、これが主の戦いであることを理解してさえいれば、恐れる必要はなかったのです。

イスラエルの中にはそのような信仰を持った兵士はいませんでした。しかし、一人だけそのような信仰を持っていた人がいました。それは意外にも、兵士にもなれないような年若い少年だったのです。その少年こそダビデでした。さて、ここで少し注意したいのですが、このあとの記述を読んでいくとサウル王はダビデのことを全く知らなかったような印象を受けます。先の16章では、心の病に侵されたサウル王をダビデが立琴を引いて癒して、そのおかげでサウルがダビデを深く愛するようになるという記述があるので、サウルがダビデのことを知らないはずはないではないか、おかしいのではないかと感じられるでしょう。これはおそらく、ダビデとサウル王との出会いについては二つの異なる伝承があったのだと思われます。ダビデというのはイスラエル人にとって伝説の王ですから、彼についてのエピソードは日本でいえば豊臣秀吉のように、いろいろなものが残されていたはずです。豊臣秀吉が主君である織田信長に取り立てられたエピソードとしては、信長の草履を自分の懐で温めたことで気が利くやつだと信長に注目された、というものがあります。他のエピソードでは、秀吉のおじさんが信長に口を利いてあげたというものもあります。いろいろあるのです。ダビデについても王であるサウルとの出会いのエピソードはいくつか残されていたと考えられます。その一つが巧みに立琴を弾くことでサウルに認められたという話で、今回の武勇をサウルに認められるダビデの話はまた別のエピソードだということです。ただ、聖書を編集した人たちはこの二つの伝承の辻褄を無理に合わせようとはせずに、それぞれダビデの性格や人柄を物語る話として組み入れたのでしょう。旧約聖書にはそういうケースがいくつかあります。有名な話は創世記の冒頭で、そこでは人類創造のプロセスが二つ描かれていると言われています。創世記1章では三日目に樹木を創造して六日目に人類を創造していますが、2章では人類の祖先が造られた時にはまた木も草も一本もなかったと記されています。この矛盾をどう説明するのか、ということがよく言われてきましたが、もっとも単純な解決法は、創世記を書いていた編集者が二種類の異なる人類創造の物語を組み入れたという説明です。二つとも大切な真理を私たちに伝えているので、無理につじつまを合わせる必要はなかったということです。同じように、ダビデが歴史の舞台に登場する伝承も2種類あり、それぞれ16章と17章になったということです。ですから、この17章はいったん16章の話とは切り離して、ダビデが初めて歴史の舞台に登場した話として読んだ方がよいでしょう。そしてこの17章の話は、16章と比べてダビデがどんな少年だったのかを実によく描いています。

ということで、12節のダビデの紹介を読んでみましょう。ダビデの家族の説明は、16章のものとまったく同じものです。ダビデの父エッサイはユダ族の人で、彼には8人の息子がいて、ダビデは末っ子でした。年上のお兄さんの三人はサウルの軍隊に召集されていましたが、ダビデは羊の番をしていました。ダビデは父エッサイから使い走りのようなことをさせられていて、兄たちの陣中見舞いに食べ物を運んだりしていました。ある時エッサイは、軍務に就く息子たちの安否を確認するために、ダビデに息子たちの上司の千人隊長に食べ物の差し入れをするように命じます。そして千人隊長から息子たちの様子を聞いて来るようにと頼んだのです。ダビデはそれから、陣中に向かいましたが、彼はそこでペリシテ人の巨人ゴリヤテを目撃します。普通なら震え上がるところですが、少年ダビデはひるむどころか、なぜイスラエルには彼と戦う戦士がいないのか、といぶかります。むしろ、あの無割礼の者、つまり神との契約にない者は何様のつもりか、生ける神に逆らうとは身の程を知らないやつだ、と憤ります。この態度は、先の戦いでペリシテ軍の大軍に囲まれて意気消沈していたイスラエル軍の中で、一人気を吐いていたヨナタンそっくりです。ヨナタンもダビデも、自分自身が強いと自惚れていたのではなく、むしろ自分たちには生ける真の神がついている、とそのような堅い信仰を持っていたのです。また、ダビデはあのゴリヤテを倒せば、サウル王が娘を与え、また税を免除してくれるという話も聞きました。ダビデは段々と、自分こそその任に当たろうという思いを抱いていきました。しかし、そのダビデの様子を見た兄たちは、ダビデに対して怒りました。まだ小僧のくせにと、「おまえのうぬぼれと悪い心はわかっている」とたしなめました。おそらくダビデは普段から非常に強気で勝気な性格の弟で、兄たちも危険を顧みずに羊を守って野獣たちと戦ってきたダビデのことを頼もしいというより、厄介な弟だと見なしていました。万が一お前が怪我でもしたら、お父さんのエッサイが悲しむではないか、と思っていたのでしょう。ですから今回も、間違ってもあのゴリヤテと戦おうなどとは思うなよ、とダビデにくぎを刺したのです。しかし、そんなことでひるむダビデではありませんでした。一番上の、親子ほども差があっただろうお兄さんに堂々と反論しています。ダビデは相当に強い性格の少年だったことが分かります。

ダビデは周囲の人たちに、自分こそあの巨人を打ち負かすと話していたのでしょう。そのことを伝え聞いたサウル王は、あのゴリヤテを倒せるとはどんな勇者が現れたのかと、藁をもすがる思いでその人物を自分の元に呼び寄せました。しかし、まだあどけなさを残す美少年ダビデを見て、サウルはがっかりしたことでしょう。「少年よ。悪いことは言わない。相手は怪物だ、お前がどうにかできるような相手ではない。命を大事にしなさい」というようなことをダビデに言います。しかしダビデは全くひるまずに、神が今まで自分を守ってくださったこと、野獣の王である獅子や熊の手からも自分を救い出してくださったという体験を語り、今回もあの巨人の手から神は私を守ってくださる、と語りました。おそらくサウルはダビデの真っすぐな信仰心に打たれたのでしょう。また、どうせだれもあの巨人ゴリヤテにはかなわないのだから、このいたいけな少年が相手ならば、あのゴリヤテも多少は手心を加えてくれるかもしれないという打算もあったのでしょう、なんとダビデ少年をイスラエルの代表として送り出すという決断をします。せめてもの手向けとして、自分の武器や鎧をダビデに与え、神のご加護を祈りました。

しかしダビデは、そんな重たい武具を身に付けては動けないと、それらを返して、普段通りの羊飼いの姿でゴリヤテに挑むことにしました。杖と石だけで二メートルの巨人と戦おうというのです。ダビデを見たゴリヤテは呆れました。なめてんのか、という具合です。ダビデをさんざんに嘲笑します。しかしダビデは全くひるみません。ダビデには分かっていました。これは自分の戦いではなく、主の戦いなのだと。「この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう」と語ります。神はミサイルも戦闘機も必要としません。神が求めているのは、ご自身への全幅の信頼です。少年ダビデはそれを持っていたのです。そしてダビデは、この戦いに勝利することで、全地の人々は真の神を知るだろうと語ります。ですからダビデにとってこの戦いは宣教の機会だったのです。真の生ける神が、弱く小さな少年を救い出す、そのような救いの出来事としてこの戦いを捉えていたのです。

果たして神はダビデに味方してくださいました。ダビデは石一つで、二メートルの巨人を打ち倒しました。ダビデの放った石がゴリヤテの額に命中したのです。額は人間の急所です。そこをやられると、脳を損傷してしまい、動けなくなってしまいます。ダビデは剣を持っていなかったので、ゴリヤテの剣を奪ってそれで相手の首を刎ねました。

この信じられない出来事を見て、ペリシテ軍の兵士たちは慌てふためきます。慌てて逃げ出すペリシテ人を追いかけて、イスラエルは追撃戦を行います。それで多くのペリシテ兵が倒れました。

その様子を見ていたサウル王は驚嘆しました。なんという奇跡が起こったことかと。サウルはダビデのことを知りませんでした。彼をゴリヤテとの戦いに送り出す時に、彼の側近中の側近、イスラエルの大将軍となるアブネルに「あの少年はいったい何者なのか」と尋ねましたが、アブネルも自分は誓ってあの少年のことは知らない、と言います。つまりダビデは全く無名の少年だったのです。その少年が、まさに窮地のイスラエルを救う救世主となりました。ゴリヤテに勝利したダビデをアブネルはサウル王の下に連れて行きます。そこでダビデは初めて自分のことを名乗りました。「私は、あなたのしもべ、ベツレヘム人エッサイの子です」と。

3.結論

まとめになります。今日はダビデが一躍その名をイスラエルに、それどころか全世界にとどろかせた出来事を学びました。ダビデの行動は一貫していました。自分が戦うのではなく、神が戦われる、私はその主の戦いを戦うのだ、と。主が戦うのですから、戦力の差など問題にならない、ということが分かっていたのです。むしろ主は弱い自分を通じて働かれる、という固い信仰を持っていたのです。

このダビデの姿勢は、私たちすべての信仰者が見倣うべきものです。主イエスは、「もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです」(マタイ17:20)と言われました。私たちの小さな信仰、神への信頼は、山をも移すのです。これは比喩ではありません。文字通りにそういうことは起こるのです。クリスチャンの証しではありませんが、本当の話として最近こんな出来事がありました。最近、脱炭素社会ということで、風力発電等の自然エネルギーの開発が進んでいます。これ自体は必要なことですが、注意すべきはそれに伴う環境破壊です。具体的には、青森の八甲田山に150基の風車を設置する計画があったのですが、それは樹齢300年ものブナ林を犠牲にすることを意味していました。また、地下水が汚染される恐れもありました。その自然破壊を憂慮した青年は青森市議会に立候補し、たった一人でこの計画反対の動きを始めました。すると彼の意見に多くの人が耳を傾けるようになり、何のコネもなく選挙活動を始めたその人物は市議会議員に当選しました。それからは、市議会だけでなく県知事も彼の意見に同意するようになりました。そしてついには風力発電の事業者も白紙撤回を決めたのです。これはすごいことです。大きなお金が絡む大プロジェクトを止めるのは難しいことですが、不可能ではないのです。東京でも神宮外苑再開発に反対する人が多いですが、それでも計画を止めるのは不可能だと考えてしまいがちです。しかし、この八甲田山のケースは、たった一人の行動が大きなプロジェクトすらも変えてしまうことを示しています。そして、もし私たちが生ける神の御心に従うならば、そして主が味方してくださるなら、それよりもさらに大きなことさえ成し遂げられるでしょう。私たちに必要なのは、主への信頼と、主に従う勇気なのです。ダビデの物語も、私たちにそのことを教えてくれます。お祈りします。

ダビデの信仰に応え、大きなことを成し遂げてくださった神様、そのお名前を讃美します。私たちは本当に小さな群れですが、しかしあなたは大いなる方です。私たちを通じて、大いなる働きをなさってくださいますよう、願い求めるものです。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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