試練と誘惑
ヤコブの手紙1章9~17節

1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末には新約聖書から、ここしばらくはヤコブの手紙から説教をさせて頂く予定ですが、今月末は復活主日、イースターになりますので、今月は月の半ばではありますが、今日の説教でヤコブ書を取り上げさせていただきます。

さて、今日の説教タイトルは「試練と誘惑」です。試練と誘惑という二つの言葉は、同じではなく違う意味合いを持っていますが、しかしこれらは二つとも同じギリシア語を訳したものです。英語では試練を指す言葉はtrialとかtestであるのに対し、誘惑はtemptationで、明らかに違う言葉ですが、ギリシア語では同じ「ペイラスモス」という言葉なのです。ペイラスモスには二つの意味があるのです。そしてヤコブは今日の聖書箇所で、「ペイラスモス」という名詞と、その動詞形である「ペイラゾー」という言葉を何度か使っていますが、それらの意味は「試練」とも「誘惑」とも取れますし、「試練を課す」とも「誘惑する」とも解釈できます。いきなりややこしい言葉の説明から入ってしまって申し訳ないのですが、この言葉の意味は今日の聖書箇所を理解する上でカギとなる言葉なので、もう少し話させてください。問題は、ヤコブがギリシア語の「ペイラスモス」という言葉を、「試練」という意味で用いているのか、あるいは「誘惑」という意味で用いているのか、どちらなのかという点です。そしてその答えは、両方の意味で用いている、ということです。実際、私たちの用いている聖書の12節では「試練」という言葉が、13節では「誘惑」という言葉が出てきますが、それらの言葉はいずれも「ペイラスモス」とその動詞形である「ペイラゾー」の訳語なのです。

では、この試練と誘惑というのはどう違うのかを説明したいと思います。試練と誘惑とは似て非なるものです。簡単に言えば、「試練」というのは人の外側にある、乗り越えるべき障害や出来事、「誘惑」というのは人を罪に誘う心の内面の動きと理解すればよいでしょう。より具体的に言えば、有名な創世記のエデンの園の話でいえば、神が食べてはいけないと命じた「園の中央にある木の実」の存在そのものが試練またはテストで、アダムやエバの心の中に生じた「神のようになりたい」という思い、これが誘惑です。エデンの園の中央に禁断の木の実を置かれたのは神です。神が創造されたものですので、それ自体は悪いものではありませんでした。それを食べてはいけないという命令は、神がアダムに与えた試練だといえます。しかし、それを食べて神のようになりたいという思いは神が与えたものではなく、人の心の中から生じたものなのです。この区別をしっかりと付けることが、今日のヤコブの教えを理解する上でとても大切です。そこを踏まえたうえで、ではさっそく今日の聖書箇所を読んで参りましょう。

2.本論

まず、9節と10節ですが、ここにはヤコブ書の一つの重要なテーマである「貧しい人」と「富んだ人」という対比があります。ヤコブ書では貧しいキリスト者と、彼らを搾取して苦しめる外部の富める人々という対比がありますが、ここでは同じ教会の信者同士の間での、貧しい人と豊かな人、という対比です。この世の基準で言えば、豊かな人は高い身分にあり、貧しい人は低い身分にあるというのが常識的な見方ですが、ヤコブはそれを逆転させています。10節では、「富んでいる人は、自分が低くされることに誇りを持ちなさい」となっていますが、直訳すれば「豊かな人は、その低い地位を誇りに思いなさい」となります。つまりヤコブは、貧しい人は高い身分にあり、豊かな人は低い地位にあるという、この世の見方とはさかさまのことを言っているのです。これらは確かに逆説的に聞こえますが、それは主イエスの教えと一致した教えでもあります。イエスは、「貧しい者は幸いです」、「しかし、あなたがた富む者は哀れです」(ルカ福音書6章)と語っておられるからです。ヤコブがここで、貧しい人たちのことを身分が高いと言っているのは訳があります。それは彼らがイエスへの信仰のために貧しい境遇になってしまったからだと思われます。主イエスも、わたしのために迫害を受けた人への天での報いは大きいと語られましたが、ここでヤコブが語っている人たちもイエスへの信仰のためにユダヤ社会の中で不利な立場に置かれてしまった人たちだということです。イエスへの信仰のため、ユダヤ社会の中で孤立してしまった人たちは社会の底辺にいるように見なされていましたが、ヤコブは彼らこそ実は高い身分にいるのだと励ましているのです。

また、同じ信者の中でも、イエスへの信仰を持ちながら世の富を失なうことがなかった人たちがいました。しかしその彼らとても、イエスへの信仰を持っていたために、周囲の人たちから白い目で見られたり、偏見を持たれてしまうことがありました。つまり世間の目からすれば低い地位に落ちてしまった人たちだということになりますが、しかしヤコブはそれはむしろ名誉なことなのだ、それを誇ってよいのだと語っているのです。同時に、自分の持っている富にあまり依存しないようにとも忠告しています。なぜなら世の富は草の花のように過ぎ去るものだからだ、ということです。このヤコブの言葉は、預言者イザヤの言葉を思い起こさせます。「草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ」(イザヤ40:8)という有名なみことばです。11節でも、そのことがさらに詳しく説明されます。財産のある人も、急に病気に遭ったり、事故に遭ったりすることもあります。また、財産のせいで家族に不和が起きたりと、かえって問題を抱え込んでしまうこともあります。もちろん生きて行くためにはお金は必要なものですが、それは決して万能ではなく、移ろいやすいものであることを忘れないように、とヤコブは教えているのです。

さて、12節からはいよいよ「ペイラスモス」、つまり「試練」と「誘惑」についての話になります。すでにヤコブは1章2節で、試練の積極的な意味、肯定的な意味を教えています。すなわち、試練は忍耐を生み出し、その忍耐が人の人格を円熟に導くということです。日本の古いことわざの「艱難汝を玉にす」ということですね。しかし、試練の肯定的な意味はそれに留まりません。神の与える試練は、ある意味で神のテストだと言えます。つまり試練は、私たちが神の与えてくださる栄光にふさわしい者であることを証明するためのものだということです。神が大きな栄誉を与える前に、人に試練を与えるというのは聖書の一つの重要なテーマです。有名な例を挙げれば、アブラハムに課された神の試練がそれです。神は、アブラハムにとってかけがえのないわが子イサクを神に献げなさいという残酷とも思えるような要求をアブラハムに課しました。しかし、実は神は本当にアブラハムにイサクを要求したのではなく、彼の神への信頼を試したのです。神はアブラハムがわが子さえ惜しまないということがわかると、イサクを献げなさいという命令を撤回し、むしろアブラハムに対し、あなたの子孫が全世界を祝福するようになるという大いなる約束を与えました。ですからこの試練は、アブラハムがこの大いなる約束にふさわしい人物かどうかを試すためのテストだったのです。

神がその選びの民を試す、テストするというテーマは聖書に繰り返し現れます。そして、アブラハムのように成功裏にテストを乗り越えるケースばかりではありません。神はかつて、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエル人を救い出すために、モーセを遣わし、彼らを救出しました。しかし、その救われた彼らがすぐに約束の地、乳と蜜の流れる地に入ることができたかといえば、そうではなく、むしろ約束の地に入るまでに彼らは荒野で40年もの間放浪しなければなりませんでした。なぜそんなことになってしまったのかと言えば、それは神が彼らの信仰を試すためでした。そのことが申命記8章2節と5節に書かれています。

あなたの神、主が、この四十年の間、荒野であなたを歩ませられた全行程を覚えていなければならない。その命令を守るかどうか、あなたの心のうちにあるものを知るためであった。

このように、イスラエルが荒野を四十年も彷徨ったのは、彼らが神の命令を守るかどうかテストするためだった、ということです。残念ながらイスラエルの民の多くの者はこのテスト、試練を乗り越えられずに、約束の地には入ることができなかったのです。パウロはこの出来事を私たちクリスチャンも教訓にせよ、と教えています。

神からの栄光を受けるためのテスト、あるいは試練として最大のものは、何と言ってもイエス・キリストの受難です。私たちはいま受難節の季節を歩んでいますが、イエスの受難は大いなる栄光を受けるための試練だったということを忘れてはいけません。ヘブル人への手紙はそのことを強調しています。ヘブル書の12章2節を読んでみましょう。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

また、5章7節にはこうあります。

キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。

このように、イエスは受難の先にある栄光、それは死者の中からの復活ですが、それを受けるために、苦難を耐え忍ばれたということが言われています。イエス様でさえ、栄光を受けるためには試練を乗り越える必要があったのです。ですから、私たちはキリストのように苦難を耐え忍べば、キリストのように栄光を受けるという約束も与えられています。使徒パウロも、「私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります」(ローマ8:17)と語っていますが、それはそのような意味なのです。ヤコブも今日の聖書箇所で、

試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。

と言っています。このように、試練の肯定的な意味とは、それが神からの大きな祝福を受けるために必要なプロセスだということです。

さて、このように「ペイラスモス」には試練という意味がありますが、それとは違うもう一つの意味があります。それは誘惑としての「ペイラスモス」です。この二つの根本的な違いは、試練は神が与えるものであるのに対し、誘惑は私たちの心の中にある欲望が引き起こすものだということです。先ほどのエデンの園の例でいえば、誘惑とはエデンの園でアダムとエバの心の中のささやき、「これを食べればあなたは神のようになれる」という内なる声のことです。

試練と誘惑とは異なります。私たちに、どうしても欲しいものがあるとします。それを手に入れるためにできる限りの努力すること、汗水たらして働くこと、それが試練を乗り越えるということです。しかし、その努力が大変だとか、面倒くさいと思ったりして、その欲しいものを盗もうとしたり、人を騙したり、あるいは力づくで奪い取ってしまえと考えること、これが誘惑です。誰も見ていない、ばれることはないからやってしまえという内なる声、これが誘惑です。このような誘惑は決して神から来るものではありません。当たり前のことですが、神はそのような悪魔のささやきに乗るようなお方ではないし、同時にそのような誘惑で人を迷わすようなことはなさいません。このような誘惑の声は私たちの内側から、特に私たちの欲望から生まれるのです。

欲望というと、なにか悪い響きがありますが、私たちが何かを欲しいと願ったりすること自体は悪いことではありません。何かを得るために努力することで、人間は成長します。たとえその願ったものが得られなかったとしても、そのための努力は決して無駄にはならないし、その人を成長させてくれます。しかし、問題は間違ったやり方で欲しいものを手に入れようとすることです。あるいは、願ってはいけないものを欲しがってしまうことです。その最悪のケースが、今私たちが学んでいるダビデの人生において起きました。彼はイスラエルの王であり、なんでも欲しいものは手に入れることができる立場にありました。しかし、彼が決して願ってはいけないものがありました。それは十戒の第十の戒めが教えていることでした。すなわち、「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない」という戒めです。ダビデには既に美しい奥さんが何人もいました。それなのに彼は、彼の部下であり、命がけで彼のために戦っている部下ウリヤの妻バテ・シェバを欲しがってしまいました。その欲が罪をはらんでしまいました。ダビデはバテ・シェバを強姦し、さらにはその夫ウリヤを殺害し、さらにはそうした罪を隠ぺいしようとしました。しかし神はそうしたダビデの罪を見過ごすことはせずに、その結果ダビデは死ぬより苦しい目に遭うことになりました。彼の息子たちは互いに殺し合うようになり、ダビデ自身も息子に殺されかけます。ダビデの家は、彼の欲望がはらんだ罪によって崩壊していきます。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」という言葉は、誘惑が何を生み出すのかを端的に物語ります。それは私たちに死をもたらします。ですから私たちはこのような誘惑に屈することがないようにしましょう。心の中から生じる誘惑に屈せずに、むしろ神から与えられる試練を乗り越えて、約束のものを手に入れましょう。パウロも、試練が希望を生み出すということについて、大変有名な言葉を残しています。それをお読みします。

患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。(ローマ5:3-5)

このように、「ペイラスモス」の二つの意味の中でも、誘惑については私たちは全力で避けて、また抗うべきであり、そして試練については私たちは力を尽くして乗り越えるべきです。誘惑に抗い、試練に打ち勝つために、私たちは耐えず神に祈る必要があります。イエス様でさえ、人生最大の試練を乗り越えるために夜通し祈られたのです。そして祈る際に大切なことは、疑わずに神を心から信頼することです。すなわち、神が私たちに下さるものはみな良いものであり、神は私たちに悪いものを与えることはない、という信頼です。主イエスも、

あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。(ルカ11:11-13)

このように、神は良い父ですから、私たちに必ず良い物をくださいます。試練でさえ、神が私たちの成長に必要だから与えるのです。申命記8章に5節では、「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを、知らなければならない」と言われていますが、本当にその通りです。ヤコブもそのことを次のように語っています。

すべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

神は善き方です。ですから私たちも神を信頼し、歩んで参りましょう。

3.結論

まとめになります。今日はヤコブの手紙から「試練」と「誘惑」の違いについて学びました。この二つの言葉は、同じギリシア語の「ペイラスモス」の訳語ですが、その意味は全く違います。正反対と言ってもよいです。試練とは、神が人間に与えるもので、神は試練を通じてわが子を鍛え、また試練に耐え抜いた人には大きな報いや栄光を用意されています。しかし、試練とは違って誘惑は神から来るものではありません。誘惑の大元は人間の欲望です。人間の欲望の中でも最悪のものは、欲しいものを何でも手に入れよう、なんであれ自分が好きなことを自由にやりたい、というエゴの塊のような欲望です。これがアダムとエバが抱いてしまった「神のようになりたい」という欲望ですが、ここで言われている「神」とは真の神ではなく、欲望の権化、神というよりも悪魔のような存在です。人間の心の中にはこうした暗い欲望が誰にでもあります。それは普段は隠れていても、ふとした拍子に表に出て来ることがあります。しかし、私たちはこのような暗い欲望に抗わなければいけませんし、間違ってもこうした誘惑の声が神から来たものだと考えていけません。神は私たちに悪いものはお与えにはならないからです。

このように、試練と誘惑とは、それを乗り越えることが困難であるという意味では似た面もありますが、本質は全く別のものです。私たちは誘惑に陥ることなく、神が私たちに与えられる試練を誠実に乗り越えるように努めて参りましょう。その結果はとても祝福、いのちの冠なのです。それを目指して共に歩んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今私たちは受難節を歩んでいて、特に主イエスが遭われた苦難について思いを巡らせています。私たちの人生にも様々な試練がありますが、私たちに試練を与える神は逃れの道をも備えてくださることを信じ、また試練に打ち勝つ力をも与えてくだることを信じ、歩むことができますように。また私たちの内なる誘惑に打ち負かされないための力もお与えください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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