ダビデ、油を注がれる
第一サムエル16章1~23節

1.序論

みなさま、おはようございます。早いもので、サムエル記からの説教は今日で18回目になります。そしていよいよ、サムエル記全体のメイン・ヒーローと呼ぶべき人物が登場します。それはダビデです。ダビデは聖書全体の中でもアブラハムやモーセに並ぶ中心的な人物の一人です。

しかし、ここで間違えないようにしたいのは、サムエル記の主人公、中心にいるのはダビデではないということです。ダビデではなく、神なのです。サムエル記で常に行動を始めるのは神です。ダビデも、この神に選ばれたことによって初めてサムエル記の舞台に登場してきます。ダビデが何かをしたから彼が選ばれたのではなく、むしろ神がダビデを選んだので、彼は驚くべきことをするようになるのです。ですから、サムエル記を読むときに気を付けるべきことは、各々の登場人物の生き方や信仰の在り方はもちろん大切ですが、なによりも大切なのは神がどのように行動されているのか、という点です。

さて、このようにサムエル記を読みながら神がどのように行動なさっているのかに焦点を当てる時、私たちは難しい問題に直面します。それは神の「選び」の問題です。神はサムエル記を通じて、常に人を選びます。サムエルを選び、サウルを選び、そしてダビデを選びます。ではその「選ぶ」ということにはどんな意味があるのでしょうか。サムエル記を読んでいると、特にサウルとダビデという二人の王の神による「選び」を考える時、その意味が分からなくなるような思いにとらわれます。なぜなら、神はご自分が選んだ人を退けてしまったように見えるからです。神がダビデを選び、サウルを選ばなかったのなら分かります。しかし、神はサウルもダビデもどちらも間違いなく選んでいるのです。しかし、神は選んだサウルを棄ててしまったようにも見えます。けれども、神の選びとは、撤回されてしまうようなものなのでしょうか?

神の選びの問題は、聖書の登場人物のみならず、私たちクリスチャン一人一人にとっても極めて重要な問題です。なぜなら私たちは自分たちが救われていることの根拠を、神に「選ばれている」という事実に置くからです。エペソの手紙では次のように書かれています。1章4節から5節をお読みします。

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

このように、私たちクリスチャン一人一人は、神から選ばれています。そして神に選ばれているということの実質的な証拠は聖霊を受けることです。エペソ書でも、「聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です」(1:14)と書かれています。そしてクリスチャンになるということは、使徒ペテロが言うように「王である祭司」(第一ペテロ2:9)となることです。私たちはキリストと共に王となり、また祭司となるために選ばれたのです。私たちはそのような神の「選び」は取り消されることはない、と信じています。私たちが大きな罪を犯したからとか、あるいはクリスチャンとしてふさわしくない歩みをしているからとか、私たちの側の失敗が原因で神の選びが取り消されることはない、と信じています。

しかし、そのような「選び」への信仰を揺るがすようなことがサムエル記に書かれています。それはサウルの選びです。サウルは確かに神によって王として選ばれています。神はその確証として、預言者サムエルによって彼に油を注ぎ、またその選びの実質的な証拠として聖霊を彼に注いでいます。聖霊を受けてサウルは新しい人へと変えられています。それはすべて、クリスチャンにも当てはまることです。さらには、今回の場面で神はダビデに、サウルにしたのとまったく同じことをされています。神はダビデを選び、預言者サムエルを通じて彼に油を注ぎ、そして聖霊を注ぎました。それ自体は素晴らしいことです。しかし問題は、では今回ダビデが選ばれたということは、神によるサウルの先の選びを取り消してしまうもの、キャンセルしてしまうものなのか、という問いです。たしかに今日のテクストを読むと、そのように思えます。神は一度選んだサウルを退けて、代わりにダビデを選んだように見えます。サウルは神に対して、またサムエルに対して完全に逆らったわけではないものの、その従順さは不十分で、満足のゆくものではなかったからです。

しかし、神が選んだ人でも、その人のパフォーマンスがあまり良くないとその選びが撤回されてしまうというのでは、クリスチャンもその行いがあまり良くない場合はその選びが撤回されてしまう、ということになってしまわないでしょうか。そうだとするならば、これは大変深刻な問題です。せっかく神に選ばれても、その後の行いが悪いと選びを撤回されてしまうのならば、私たちは全然安心できません。

また別の問題もあります。実は、ダビデは王になった後にはサウルよりもよほど重大な罪を重ねていきますが、それでもダビデの選びは撤回されませんでした。なぜサウルの場合は赦されずに、ダビデは赦されたのか、その違いを生んだものは何だったのか、こう考えていくと、神の「選び」というものがよく分からなくなってきます。神の人の扱いは公平ではないのか、何か別の理由で扱いに違いが生じるのか、という別の疑問が生じてしまうのです。

こうした問題について、ここからは私見を述べさせていただきますが、神の選びは撤回されることはない、と私は考えています。サウルの選びも撤回されません。ですから神はサウルを王に選んだものの、彼のパフォーマンスに満足できなかったのでご自身の選びを撤回した、ということではないだろうということです。実際、ダビデが油を注がれた後もサウルは長いこと王職に留まっていて最後までその責務を全うしますし、既に油注がれていたダビデもサウルが王であると認め、王位簒奪に動くことは決してなかったのです。ですから、今日の箇所でダビデが選ばれて油注がれたことは、すなわちサウルの選びの否定だったということにはならないと言うことです。神は間違えて人を選んで、後でそれを撤回するようなことはなさらないのです。

ここで注意したいのは、「選び」と「救い」とは似て非なるものだということです。神に選ばれるということと、その人が救われるというのとは少し違うのです。なぜなら、人は救われるために選ばれるのではなく、他の人に仕えるために選ばれるからです。「選び」の目的とは自分の「救い」という利益のためではなく、他の人のため、利他的なものだということです。王というのもまさに人に尽くす職業です。神はある人が好き勝手に何でもできる権威を持つことができるようにその人を王に選ぶのではなく、人々に尽くさせるために王として選ぶのです。神がサウルという自分が選んだ王がいるのにもかかわらず、ダビデを新しい王として選んだのは、サウルが王として人々に仕えるという職務を全うするためには問題を抱えてしまったことを見て取ったからでした。すなわち、サウルはサムエルとのいざこざから精神を病んでしまい、王としての職務が十分に果たせなくなる状態に陥ってしまったのです。サウルが王として働けなくなってしまった時に、神はイスラエルを導くために代わりの人を用意する必要があります。神がダビデに油を注いだのは、いわば神のコンティンジェンシー・プラン、緊急事態に備えてのことなのです。このような「選び」の理解は私たちクリスチャンにも当てはまるのではないでしょうか。私たちは自分が神に「選ばれた」と聞くと、これで自分の救いは確実だ、天国への切符をもらった、と考えるかもしれません。しかし、私たちは自分の救いのためにではなく、神と人とに仕えるために選ばれたのです。そのことを忘れないようにしたいと思います。さて、前置きが長くなりましたが、今日のテクストを読んで参りましょう。

2.本論

さて、では16章1節を読んで参りましょう。ここでも行動を起こしているのがサムエルでもなくダビデでもなく、神だということは強調すべきでしょう。神は、サムエルとサウルの間に修復不能なほどの亀裂が入り、その結果サウルが精神を病んでしまっていることをご存じでした。神は先を見据えて次なる行動を開始します。つまり、サウルが王としての役割を果たせなくなってしまったときに備えて、その役割を引き継ぐことのできる人材をスカウトするのです。ある意味で切り替えの早かった神とは対照的に、サウルに対して王失格の引導を渡したサムエルの方は、まだ割り切れていませんでした。サウルの事をくよくよと悩んでいました。そこで神はサムエルを促し、新しい王に定められた人に油を注ぐようにと命じます。

しかし、サムエルはそのことを恐れました。今までサムエルはサウルの精神的指導者として振舞い、サウルに対しては一段高い立場から接することができました。しかし、今や自分はサウルから激しく恨まれていることも自覚していました。サムエルはサウルの二度の不従順によって彼に王失格を宣言しましたが、サウルからするとサムエルは自分に無茶な要求ばかりして、自分を助けるどころか足を引っ張った、それだけでなく自分に代わる新しい王の出現まで予告した、自分の敵だ、そういう認識を持ったのです。そして、サウルは王です。いかに預言者サムエルといえども、いまやイスラエルの絶対権力者である王の敵となることの意味が分かっていました。自分が新たな王の擁立に動けば、サウルに殺されるかもしれないと恐れたのです。神もこのサムエルの懸念を理解し、格好の言い訳を与えました。王を選びに行くと堂々と宣言するのはまずいので、「主にいけにえをささげに行く」という口実で行動するようにとアドバイスしたのです。

こうしてサムエルは神に促され、ベツレヘムへと向かいました。しかし、ベツレヘムの人たちはサムエルの来訪を歓迎するどころか、恐れました。この記事は、イエスというイスラエルの新しい王が誕生したことを知ってベツレヘムを訪れようとした東方の三博士たちのことを思い起こさせます。彼らの来訪を聞いて、聖都エルサレムの人たちは恐れました。なぜならヘロデ王がいるのに別の新しい王が誕生するということは、王が二人いることになり、争いが生じることを予感させたからです。今回のケースも同じでした。サムエルとサウルが決定的に仲たがいし、サムエルが新しい王を捜しているという噂は、瞬く間にイスラエル人の間に伝っていたのでしょう。ベツレヘムの人たちは、サムエルを迎え入れたことで自分たちが新しい王を擁立して謀反を企んでいるとサウルに睨まれることを恐れたのです。そこで彼らはサムエルに尋ねました、「平和なことでおいでになったのですか」と。争いごとになるようなこと、つまり新しい王を選びに来たのではないでしょうね、とくぎを刺したのです。サムエルも経験を積んだ、熟練した人物ですから、相手の思惑を悟って、「平和なことです」と答えました。これは嘘ではないものの、相手の問いの意図を知りつつもそれには答えないという、キツネとタヌキの騙し合いのような会話です。

さて、サムエルはエッサイとその子たちをいけにえの儀式のお供として聖別しました。聖別というのは、神の特別な目的のためにある人たちを取り分けるということで、この場合はいけにえという儀式の助手的な役割ということです。少なくとも、エッサイの家族の人たちはそのように考えていました。しかし、言うまでもなくサムエルには別の目的がありました。エッサイの息子たちの中から、次なる王を見つけだして彼に油を注ぐことでした。サムエルはエッサイに、息子たちを全員連れて来るようにと指示しました。エッサイは、サムエルがいけにえの儀式の助手を選ぼうとしていると考えたのでしょうが、サムエルの方は、誰が神の選んだ次の王なのかを知ろうとして必死でした。エッサイの子らは皆姿かたちのよい、美形ぞろいの兄弟だったようです。サムエルは彼らを見て、その誰もが次の王にふさわしいように思えました。しかし、神の判断は違いました。神はエッサイの長男エリアブを「退けている」と言われました。これは神がサウルを退けている、という1節のことばと同じ動詞が使われています。そこには神がこの人を拒絶している、というような強い意味はありません。神は他の人のことを考えている、というような意味です。ここではサムエルは、この世の常識に従って考えていました。サウルも背が高く、大変なイケメンでした。だからサウルの代わりに王になる人物も、そのような人に違いないと考えたのです。しかし神は「人はうわべを見るが、主は心を見る」と言われました。エッサイは七人の息子すべてを連れて来ましたが、神の眼鏡にかなう人はいませんでした。しかし、実はもう一人いたのです。ただ、その子はまだほんの少年で、サムエルの助手を務められるとは父エッサイにはとても思えませんでした。そこでエッサイも彼だけは呼ばずに、兄たちの代わりに羊の番をさせていました。その少年がダビデでした。彼は姿かたちがとても美しい少年でした。

サムエルも、その少年の美しさには強い印象を受けたものの、まだ子供ではないか、という思いを持ちました。しかし神に「この者がそれだ」と言われて、驚きながらも兄たちの目の前で彼に油を注ぎました。この時、ダビデがそれをどう思ったのかは何も書かれていません。ダビデがやる気満々の少年で、神から選ばれるのを待っていたのだとか、あるいは全然そんなことを考えたこともない素朴な少年だったとか、そういった彼の心の動きは何も書かれていません。彼の性格がどんなものかは分かりませんが、しかし神はダビデの心を見て、彼を選びました。それがどんな心だったのかは分かりません。なぜなら、その後確かにダビデは勇敢な少年であることを示していきますが、それは彼がもともと勇敢だったせいなのか、あるいは聖霊を注がれたおかげなのか、どちらの可能性もあるからです。ともかくも、神はダビデを選んだのです。

さて、ダビデの兄たちは、「油を注ぐ」ということの意味が分かっていたでしょうから、サムエルが一番下の弟に油を注いだことは大変な驚きだったことでしょう。つまりこの一番小さな弟が、自分たちすべての上に立つ王になるということですから。創世記に下の弟であるヨセフが父ヤコブから特別扱いされて兄から嫉妬を買いましたが、ダビデも同じような状況になったのは想像に難くありません。しかし、預言者サムエルの前ですから、兄たちもここでは何も言えなかったことでしょう。

さて、ダビデの身にこのような大きなことが起きたのと軌を一にして、サウル王の身にも異変が起こりました。主の霊がサウルを離れたというのです。これはダビデに聖霊が下ったのとは無関係ではないのでしょう。イスラエルの王を導くための神の霊はサウルではなくダビデに宿ったのです。サウルは依然として王ではありますが、神の導きの霊はその次の王となるダビデのところに向かったのです。しかも、サウルは神の霊を失っただけではありません。神からの、わざわいの霊を受けたとあります。わざわいの霊というのが一体どんなものなのか、私たちには分かりません。ただ、この霊も神が送ったものだと聖書は語ります。この神の行動も、私たちには理解に苦しむものです。なぜ神はサウルを苦しめる必要があるのでしょうか?神に不従順だったことへの罰なのでしょうか?神に選ばれても、神に従わないと、こういう苦しい目に遭わなければならないのでしょうか?こう考えると、神に選ばれるということも、あんまりうれしいことだとは思えなくなってしまいます。しかしここで、サウルが心を病んでしまった原因はどこにあるのか、と考えると別の理解が浮かび上がります。それは、サムエルとの確執にあります。サウルは自分なりに最善を尽くしたつもりでしたが、そのことがサムエルから酷評され、王失格の宣告を二度までも受けてしまいました。そのことが、サウルを非常に深く落ち込ませ、また自分の未来に強い不安を抱かせたことは間違いないでしょう。この考えると、彼の病の原因はサムエルとの確執にあると言ってもよいのではないでしょうか。前回もお話ししたように、サムエルのサウルに対する態度には全く問題がなかったとは言えないと思うのです。

ただ、このサウルの病はダビデとサウルを結びつけるという、そういうきっかけにもなったものでした。ダビデは一種の音楽療法で、サウルの心の苦しみを癒してあげます。そのためにサウルはダビデを深く愛するようになります。この結果から見れば、サウルを苦しい病に遭わせたのも、サウルとダビデを出会わせるという神の摂理のためだったとも思えてきます。この後サウルは、大活躍するダビデを脅威だと感じ、二人の関係は悪化していきますが、最初はこの二人は非常に良い関係だったことも覚えておきたいものです

3.結論

まとめになります。今日はダビデが神に選ばれるところを学びました。その選びはサウルが神に選ばれたときとそっくりでした。二人とも預言者サムエルによって油を注がれ、その後に聖霊を受けています。この二人の王の選びから、神に選ばれるというのはどういうことなのかを考えてみました。神は誰かを選ばれても、その人のパフォーマンスが悪いとその選びを取り消して、他の誰かを選び直すのでしょうか?神の選びの有効性は、選ばれた人のその後の行動がよくなければ取り消されてしまう、そんなものなのでしょうか?ここで強調したいのは、神が誰かを選ぶのは、その選ばれた人自身の利益のためではなく、むしろその選ばれた人が他の人々のために働くためだということです。サウルもダビデも、彼ら自身の利益のためではなく、むしろイスラエルの人々のために選ばれました。なぜ神はサウルという王がいながら、ダビデを選んだのか?それはサウルが王として働けなくなったときに、彼に代わってイスラエルを導いてくれる人を用意するためでした。彼ら二人は同じ目的のために神から選ばれたので、対立する必要はなかったのです。しかしその後、サウルとダビデの関係は悪化していきますが、それはサウルが自分の王という立場にこだわってしまったためでした。ダビデが王となったほうが、イスラエルの人々のためになる、とは思えずに、自分の王という立場にこだわってしまったのです。イスラエルの人々のことよりも、自分のことを考えてしまったのです。私たちはみな、社会においていろいろな立場を与えられていますが、それはほかの人に尽くすためだということを忘れないようにしたいものです。

そのことは今日の教会にも特に強く当てはまります。教会にはリーダーが必要です。ですが、リーダーのために教会があるのではなく、教会のためにリーダーが立てられるのです。ですから、神は必要に応じてリーダーを代えることがあります。神がサウルからダビデへとリーダーを代えたのは、イスラエル民族の利益のためでした。サウルを棄てて、ダビデを選び直したというのではなく、あくまでイスラエルの最善のために神は行動しているのです。教会においてもリーダーの交代がありますが、それはすべて教会のためなのです。したがって、牧師などの教会のリーダーは常に謙虚でなくてはなりません。自分はほんのひとときの間だけ、主の群れを預かっているにすぎないのだ、ということをゆめゆめ忘れてはならないのです。それゆえ教会を自分の利益や目的、あるいは野心のために使おうとするなど、決してしてはならないことです。この世の権力者たちは組織のトップに立つと、その組織を自分のために使おうという誘惑にかられます。しかし、主に仕えるものは決してそうであってはならない、そのことをサムエル記とその続編である列王記を読むと思わされます。お祈りします。

ダビデを新しい王として選ばれたイスラエルの神、そのお名前を讃美します。あなたはその群れのために、いつもリーダーを備えてくださっています。そしてそのリーダーたちが、あなたの召しにふさわしく歩むことができるように力づけてください。われらの平和の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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