ヤコブの祈り
創世記31章51節~32章32節

1.序論

みなさま、おはようございます。今年になってから、毎月の月末には旧約聖書からメッセージをさせていただいております。今回で三回目になりますが、今日は創世記から、それも族長ヤコブについてお話しさせていただきます。聖書の神は「アブラハム、イサク、ヤコブの神」としてご自身をモーセやイスラエルの人々に自己紹介されました。それだけこの三人は、イスラエルの人たちにとって特別な存在です。アブラハムは今からだいたい4千年も前の人物とされていて、もともとカルデヤと呼ばれる地、そこはバビロニア帝国が生まれた地ですが、そのカルデヤの住民でしたが、神に召し出されて高齢になってからカナンの地に移り住みました。アブラハムはイスラエル民族のルーツ、開祖とされる人物ですが、イスラエル人だけでなく、アラブ人の祖先でもあります。ですからユダヤ教やキリスト教だけでなく、イスラム教にとってもアブラハムは極めて重要な人物なのです。そのアブラハムの子がイサク、孫がヤコブです。

そしてヤコブという人も、アブラハムに負けず劣らずイスラエルの歴史において重要な人物で、そもそも「イスラエル」という民族名そのものがヤコブの別名、神からヤコブに与えられた新しい名前に由来しています。また、イスラエルにはユダ族やレビ族など12の部族があり、イスラエル12部族と呼ばれますが、そうした部族はヤコブの12人の子どもをその祖先としています。このように、ヤコブはアブラハムと並んで、イスラエル民族の礎を作った大変重要な人物です。しかし、「信仰の人」と呼ばれ、わが子イサクさえ神に献げるほどの、神への全き従順が称賛されることの多いアブラハムに対して、ヤコブにはどこかいかがわしいというか、あまり褒められた人物ではないというイメージを持たれる方も少なくないと思います。ヤコブは父親から祝福を得るために、兄のエサウに変装して父親を騙し、祝福を奪い取っています。「ヤコブ」という名前そのものが「押しのける者」という意味なのですが、父や兄を騙し、また同じく狡猾な性格をしている叔父のラバンをも出し抜いて彼の財産をすっかりそのまま自分のものにしてしまう抜け目のなさ、よく言えば天才的な商売人ですが悪く言えばトリックスター、こういうイメージがあります。ヤコブは、商売上手という意味ではユダヤ人の典型だと言われることもあります。皆さんもご存じのように、ユダヤ民族というのはビジネスに非常に長けた民族です。有名なのは、ヨーロッパ最大の大富豪と呼ばれたロスチャイルド家ですが、アメリカの金融・メディア・ITなどでユダヤ人の経済人の力は圧倒的だということがよく言われます。生き馬の目を抜くとも言われる金融業界・投資業界で生き抜いていく、勝ち抜いていくためには正直さだけでは足りず、相手を出し抜くようなしたたかさも必要なのですが、そういう抜け目ないビジネスマンの原型としてヤコブがイメージされるわけです。

このように、おじいさんのアブラハムとは違い、宗教的な敬虔さよりもビジネスの才能ばかりが注目されてしまうヤコブですが、今日の説教タイトルは「ヤコブの祈り」であり、彼の宗教的な面に注目しようというものです。今日の聖書箇所で、ヤコブは必死に神に祈っています。「祈り」というのは宗教的な人間にとって最も大切なものであり、宗教的な人とはすなわち祈りの人と言い換えても良いくらいです。私たちもクリスチャンになっていくとき、まず「主の祈り」を覚えます。祈りとは宗教的な人間にとって呼吸と同じようなもので、それなしには生きていけない、そのような非常に大切なものです。主イエスも、大変忙しい伝道生活の中で、いつも早起きして熱心に祈っておられました。イエスはまさに祈りの人でした。しかし、創世記でのこれまでのヤコブの生涯を見ていくと、驚くべきことに彼が神に祈っている場面がないのです。それまでの人生において、ヤコブは何度も大変なピンチに遭遇し、命の危険さえあったこともあります。しかし、そういう時にも彼は祈ってはいません。むしろ神の方からいつもヤコブに呼びかけています。ヤコブも神の呼びかけには応答しますし、神に感謝することもありますが、しかしヤコブの方から必死に神に呼びかけ、神の助けを求めるということがなかったのです。この「祈りの欠如」というのがヤコブの人生の特徴であり、またヤコブという人がどんな人物であるのかを端的に示しています。彼はどんな時でも自分の力で何とかしてしまう非常に有能な人物で、神でさえ交渉相手にしてしまうほどの根っからの商売人でした。例えばヤコブは、父イサクを騙して兄エサウの祝福を奪い取ったことで兄から命を狙われ、夜逃げ同然に叔父のラバンのいるハランの地に向かいます。その逃避行の際に、神は初めてヤコブに夢の中で語りかけ、「見よ。わたしはあなたとともにおり、あなたがどこに行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」と約束されました。ヤコブはこの神の言葉に感激しますが、しかしその時に神に誓った言葉はいかにもヤコブらしいものでもありました。ヤコブは、もし私が無事に父の家に帰ることができたなら、その時にはすべての財産の十分の一を必ずささげます、と神に誓っています。条件付きで、つまりもし無事に帰ることができたなら、その時には十一献金をします、と言っているのです。理想的な信仰者なら、たとえこれから私の身に何がおころうと、たとえ自分の望み通りにならなくても、私はあなたに信頼し、感謝をささげます、と祈るところですが、ヤコブの場合は非常に現実的な、取引のような誓いです。ここがいかにもヤコブらしいところです。ヤコブはこれからも何度もピンチに陥り、そのたびに神は彼に助けの手を差し伸べ、ヤコブも神に助けられて困難な状況を乗り越え、逆に焼け太りと呼びたくなるほど財産も家族も増やしていきます。その間も、ヤコブの方から神に救いを求めるという局面はありませんでした。しかし、そのヤコブでさえ神に必死に祈らなければならない人生最大のピンチが訪れました。そのことをこれから見て参りましょう。

2.本論

さて、では31章51節から読んでいきましょう。ここではヤコブと叔父ラバンとの間で休戦協定が結ばれています。先にも言いましたが、ヤコブは二十年前に父イサクを騙して本来兄エサウのものである祝福をだまし取ったことから兄に命を狙われることになり、ハランにいる叔父ラバンのところに身を隠します。しかし、この叔父ラバンが食えない人物で、ヤコブが頭が回りよく働くことを見て取ると、彼を騙してなるべく長く自分のためにタダで働かせようとします。ラバンはヤコブに与えると約束した報酬を何度も変えて、彼が財産を蓄えて独立してしまうことがないようにしました。しかしヤコブも負けてはいません。狐とタヌキのだまし合いのようなことが続きますが、ついにはヤコブの富は叔父のラバンを圧倒するようになります。豊かになった自分に対するラバンの当たりが厳しくなってきたことを感じ取ったヤコブは身の危険を感じ、家族と財産とを連れてラバンの下を黙って立ち去り、父の待つカナンの地に戻ろうとしました。ヤコブたちが黙って立ち去ったことを知ったラバンは、ヤコブに嫁がせた自分の娘たちや財産を取り返そうとヤコブを追いかけますが、ラバンも今やヤコブには神が味方していることに気が付くようになり、ヤコブに手を出すのを躊躇するようになりました。そこでヤコブとラバンは手打ちをし、これ以上互いに干渉しないという取り決め、契約を結びました。

ヤコブは二十年もの間ラバンにこき使われてきましたが、そのラバンからようやく解放され、大家族と大きな財産と共に、ついに故郷に錦を飾ることができます。ヤコブはこの時4人の奥さんがいて、子どもも11人もいました。また、ラバンの家畜の大部分を自分のものとしていました。着の身着のままで何も持たずに兄エサウの下から逃れた二十年前と比べれば、大出世と言えます。そしてラバンという後顧の憂いもなくなり、ヤコブはまさに意気揚々と故郷に戻れるはずでした。しかし、そのヤコブからは自信が失われていき、不安で一杯になり、ついには生まれて初めて救いを求めて神に必死に祈り始めたのです。一体ヤコブの身に何が起こったのでしょうか?

ヤコブが不安に陥ったのは、神の使い、直訳すれば「神の天使たち」ですが、その神の天使たちと出会ってからでした。ヤコブは二十年前に、故郷から逃れる時にも神の天使たちを目撃しています。その時は石を枕にして眠っていた時に、夢の中で天使たちが天にまで届くはしごの上り下りをしているのを目撃しました。あの時は、ヤコブは天使たちを見て勇気づけられ、励まされました。見えないところで天使たちが自分を守ってくれている、と確信したからでした。しかし、今回故郷に帰る時に目撃した天使たちは、むしろヤコブを不安にさせたのです。なぜ不安になったのか?それは、この天使たちが自分を守るのではなく、むしろ自分たちを先に行かせまいと妨げている、そう感じたからでしょう。ヤコブが見た天使たちは、武器を持って威嚇する天使だった可能性があります。ヤコブからずっと後の時代、モーセの後継者であるヨシュアも、カナンの地に入る前にそのような天使を目撃しています。ヨシュア記5章13節を見てみましょう。

さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」

ヨシュアが見たこの人物は主の軍の将、つまり神の天使たちを率いる将軍でした。ヤコブが見たのも、このように剣を持った天使だったのでしょう。ヤコブは自分たちのいるこころをマハナイム、「二組の陣営」と呼びました。二組のうち、一つはヤコブたちの陣営ですが、もうひとつは天使たちの陣営、神の陣営です。この神の陣営が、ヤコブに脅威や恐怖を感じさせました。ではこの神の陣営とは一体何なのか、ということがヤコブの感じた恐怖を理解する上でぜひとも必要です。ヤコブが向かおうとしていた父祖の地、カナンの地は、後の時代にモーセたちが「約束の地」、「乳と蜜の流れる地」と呼んだ肥沃な土地で、理想的な土地でした。理想郷という意味では、エデンの園と呼んでも良いかもしれません。エデンの園では人は神と出会い、神と共に歩むことができたのですが、ヤコブのおじいさんのアブラハムもカナンの地で神と出会い、神と共に歩んだからです。かつてヤコブはその地で父母たちと幸せに暮らしていましたが、罪を犯したためにそこから追放され、カナンの地から見れば東の地に逃れていきました。その地は「エデンの東」と言い換えてもよいでしょう。そして、遥か昔に同じく両親の下から追放されて、エデンの東に逃れた人物がいました。そうです、人類の祖先アダムとエバの子で、兄弟アベルを殺した罪により追放されたカインです。カインについては、「それで、カインは、主の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた」と書かれていますが、ヤコブも主のおられる地を去り、エデンの東のハランに住みきました。カインは兄弟アベルを殺しましたが、ヤコブは兄弟エサウを殺しはしないものの、彼から長子の特権や父からの祝福などすべてを奪い、ある意味で抹殺したとも言えます。その罪のためにヤコブもまた、楽園を追われて苦役の地であるハランで長い年月を過ごすことになりました。さて、エデンの東に住み着いたカインは、果たしてそこから西に向かってエデンの園に入ることができたでしょうか?いいえ、できませんでした。なぜなら神は、アダムとエバを楽園から追放した時に、ケルビムと呼ばれる天使と炎の剣をエデンの東に配置して、人が再び楽園に入ることがないようにしたからです。

そして時代は下ってヤコブの場合となります。彼はエデンの東から、彼にとってのエデンの地、約束の地である故郷のカナンに戻ろうとしました。しかし、そこには武器を手にした神の軍勢がいました。そしてヤコブは悟ったのです。これまで神はずっと自分を助けてくれたが、今目の前にいる神の軍勢はどうやらそうではないらしい。むしろ彼らは、ふさわしくない者が約束の地に入って来るのを妨げる番人であり、どうやら自分は歓迎されない来訪者として見られているのだと。なぜヤコブは、自分が神に歓迎されていないと感じたのでしょうか?ヤコブはその時改めて、自分が神と人の前に犯してきた数々の罪が思い起こされたのでしょう。ヤコブには自分の罪、特にあの騙されやすく単純な兄に対して犯してきた罪のことが、強く胸に迫ってきました。

ヤコブという人は、この世の事柄に通じ、世知にたけた人でしたが、霊的な事柄には驚くほど鈍感なところがありました。特に自分が犯してきた罪の重みや痛みには鈍感で、そうした罪を軽く考えてきたきらいがあります。そうでなければあの善良な父イサクを騙すことなどできなかったでしょう。世の中には「騙される奴が悪い。馬鹿だから騙されるんだ」と本気で考えるような人たちがいますが、ヤコブもひょっとするとそうした側の人間に近かったのかもしれません。まあ、そこまで悪人だったとも思えませんが、しかし自分の罪には鈍感なところがありました。神は、このような傲慢でしかも賢いヤコブを取り扱うために、彼とそっくりな人物、彼の分身ともいえる人物を彼の前に送ります。それが叔父のラバンでした。ラバンは、かつてヤコブがしたことと全く同じトリックで、ヤコブを騙します。ヤコブは兄エサウに変装して父イサクを騙しましたが、ラバンは自分の長女レアを、ヤコブが恋焦がれる次女のラケルに変装させ、初夜のヤコブの下に送り込みます。ヤコブを騙して七年間タダ働きさせるためでした。ヤコブは自分が騙されて、初めて人を騙すとはどういうことなのか、騙された人がどんな気持ちになるのかを身をもって知ったことでしょう。しかし、ヤコブはヤコブであり、転んでもただでは起きない人間でした。ヤコブは自分の分身であるラバンを見て、「ああ、自分もかつてはこんな人間だった。もうこんな生き方はやめよう。まったく違う人間になろう」とは思いませんでした。むしろ狡猾なラバンを出し抜けるほどさらにパワーアップして、さらに大きな策略で自分の分身であるラバンにさえ打ち勝って、彼の財産の最良の部分を自分のものにしてしまいます。ヤコブは自分の分身を見ても自分の生き方を変えず、むしろその生き方をさらに突き詰めているのです。ヤコブは、父イサクに打ち勝ち、兄エサウに打ち勝ち、叔父ラバンにも打ち勝ちました。もう怖い者はないはずです。大きな家族と大きな財産も手に入れました。かつての何も持たないヤコブではないのです。しかし今、ヤコブはかつて子馬鹿にしていた単純な兄エサウのことを心底恐れます。なぜなら今や神は罪深い自分ではなく、単純だが善良なエサウの方に立っておられると感じられるからです。かつては簡単に騙せると思っていたエサウのことが、今では心底恐ろしく感じられるのです。そこでヤコブは、前もってエサウに伝令を送ります。その時に兄エサウのことを「主人」、ご主人様と呼び、自分のことは「しもべ」だとへりくだって伝えます。さらには、今や自分には財産があるので、エサウに贈り物をしたいと思っている、ということもさりげなく伝えます。しかし、エサウのところから帰ってきた伝令から、エサウが四百人もの供の者を引き連れていると聞いて、パニックに陥ります。その場面について、こう書かれています。

そこでヤコブは非常に恐れ、心配した。それで彼はいっしょにいる人々や、羊や牛やらくだを二つの宿営に分けて、「たといエサウが来て、一つの宿営を打っても、残りの一つの宿営はのがれられよう」と言った。

ここでヤコブは自分たちを二組の陣営、つまりマハナイムにします。ここでヤコブは、ほとんど妄想に近い状態に落ち込んでいるようです。つまり兄であるエサウは自分を憎み、殺しに来るのだと。それが真実には程遠いことは、後にエサウと実際に会った時に明らかになるのですが、ここでヤコブはエサウについて怪物のようなイメージを作りあげています。彼は弟の自分や女子供でさえ平気で殺すだろうと。しかし実際には、エサウはそんな人ではありませんでした。彼はヤコブのように執念深くはなかったのです。むしろヤコブは、自分の罪深さ、自分の冷酷さをそのままエサウに投影してしまっているのです。自分は父親さえ騙すのだから、その自分の兄であるエサウは弟殺しを平気でやるだろう、兄エサウは弟を殺したカインのような人間なのだ!と。しかし、実際にカインのように神の御前から逃げ去ったのは、実はヤコブなのです。ヤコブの方こそ、兄や父さえ平気で騙す怪物なのです。ですからヤコブは、実はここで自分自身に恐怖しているのです。

さて、このように自らが作り上げた妄想によって恐慌状態に陥ったヤコブ、自らの罪深さに圧倒されたヤコブは、ここで生まれて初めて、人生で初めて神に必死に祈ります。「困った時の神頼み」という諺がこれほど見事に当てはまる人物は、天才トリックスターのヤコブをおいてほかにはいないでしょう。ヤコブは問題が起きたときには、神に頼らなくても自分で何とかしようとする人間でした。しかもそれが出来てしまうほどの知恵と才能がある人でした。どんな人も、ヤコブに勝つことはできませんでした。越えられない壁はありませんでした。しかし、その天才ヤコブにも乗り越えられない壁がありました。それは人ではなく神です。エサウではなく、神です。神がエサウを用いて、自分がカナンの地に戻るのを妨げようとしている、そう思ったのです。そこでヤコブは必死にその神ご自身に祈ります。ヤコブは、「あなたは私を故郷の地に戻してくださると約束されたではないですか。そして今まで私を助けてくださったではないですか。それなのに、どうして最後の最後に、ご自身の約束を裏切るようなことをなさるのですか」と祈ります。と同時に、ヤコブはこの神からの拒絶が自分自身の罪深さからもたらされていることも認めないわけにはいきません。そこで、ヤコブはとても謙虚に、いや正直になりました。ヤコブは単に敬虔さを装っているのではなく、心の底から「私はあなたがしもべに賜ったすべての恵みとまことを受けるに足りない者です」と叫びました。今まで受けてきた神からの助け、恵みは真に自分にはふさわしいものではなかった、自分は罪深い人間だ、と認めているのです。それでも、やはり神の恵みを求めずにはおれない、たとえ自分がそれにふさわしくなくても、どうしても神に恵みを求めずにはおられないのです。そしてヤコブは、恵みを求める根拠を神ご自身の約束に求めます。神はご自分を偽れない、神はご自身の約束を破ることができない、そのことに賭けているのです。ですからヤコブは、ここで神ご自身がご自分にかけてアブラハムに誓われた約束の言葉を持ち出します。これは、アブラハムがわが子イサクを神に献げたときに、神がアブラハムに与えた契約の言葉です。「わたしは必ずあなたをしあわせにし、あなたの子孫を多くて数えきれない海の砂のようにする」という約束の言葉です。

このように、ヤコブは全身全霊を込めて神に祈ります。しかし、祈ったからあとは何もしない、ということではありませんでした。相変わらずヤコブはヤコブです。この祈りの後も、ヤコブは知恵の限りを尽くして、本当は存在しない兄エサウの脅威から自分たちの一行を守るために策略の限りを尽くします。ヤコブは、贈り物攻勢で兄ヤコブを篭絡しようとし、二重、三重の贈り物を用意します。そして、その後に自分の家族の者たちを先に進ませました。それから後、聖書の中でも最も有名なエピソードの一つが描かれます。それが「ヤボクの渡しにおけるヤコブの格闘」です。そこをお読みします。

しかし、彼はその夜のうちに起きて、ふたりの妻と、ふたりの女奴隷と、十一人の子どもたちを連れて、ヤボクの渡しを渡った。彼らを連れて流れを渡らせ、自分の持ち物を渡らせた。ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

ヤコブは、自分にできることはすべてやり遂げて、そしてたった一人夜の闇の中に残りました。そこでヤコブは何をしたのか?それは、先の神への祈りを再開することでした。ヤコブは神に祈り、願いながら神と戦いました。自分がカナンの地に帰ろうとするのを妨げる神に対し、「私をそこに入れてください」と願いながら、同時にその神と格闘するのです。アブラハム、イサク、そして私自身へのあなたの祝福の約束を果たしてください、私を祝福してください、と祈るのです。ここでは、ヤコブは果たして善人なのか悪人なのか、神の人なのか反逆児なのか、よく分からなくなります。先ほども言いましたが、ヤコブの恐れとは実は自分自身が造りだした恐れであり、そんなものは存在しないのです。ヤコブの恐れた、弟も平気で殺すような兄エサウなど、どこにもいません。ヤコブは存在しない脅威を取り除いてくださいと、神に祈っているのです。そう考えると滑稽なほどです。しかも、このヤコブの祈りは真実でした。彼の祝福を求める祈りの強さと粘り強さは、神すらも根負けするほどの強さを持った祈りでした。自分自身の妄想が造りだした、存在しない脅威を取り除くために、神すらも根負けするような強い祈りを献げる男、このヤコブという人物はなんと矛盾に満ちた人物でしょうか。しかも、そのような自家撞着に満ちたヤコブを神は祝福したのです。それはなぜか?ヤコブが神を必死に求めたからです。神はたとえどんなに卑劣でねじ曲がった人であっても、ご自身を必死に求める人を喜ばれ、祝福されるのです。

このことは、私たちにも大きな教訓と励ましを与えるものです。私たちは自分自身をよく知れば知るほど、自分は神にふさわしくない、神の祝福を与えられるのに値しない、という事実に気が付きます。普段は気が付かなくても、ヤコブのように、人生の危機においてそれを思い知らされるでしょう。それでも、私たちは神に赦しと祝福とを求めずにはいられないし、そのような私たちを神は受け入れ、祝福してくださるのです。私たちに必要なのは、このような危機の時には正しくあることではなく、むしろ正しくあることができないからこそ神を必死に求めることなのです。一番悪いのは、自分自身を、さらに神を諦めてしまうことです。神を求めることをやめてしまうことです。そのような悲劇的な決断を、残念ながらイスカリオテのユダはしてしまいました。イエスを裏切るという彼の罪は巨大なものでしたが、それでも彼が神を求め続けたなら、神は彼を赦したでしょう。ユダの方から神の赦しを拒絶してしまったこと、それが彼の悲劇でした。私たちは、ヤコブの諦めない心、自分がどんなに醜くても、折れることなく神を求め続ける心、それをこそ学びたいものです。

3.結論

まとめになります。今日は、イスラエルの偉大な族長の一人、ヤコブの生涯、とりわけ彼の人生最大の危機における祈りを学びました。ヤコブという人は聖者というより有能なビジネスマンのような人物で、必ずしも好感を持てる人物ではありませんでした。しかしそんな彼を神は選び、育てていきます。性格的には兄エサウの方が素直で善良な人のように思えますが、神はヤコブを選んだのです。ヤコブは複雑な人物でした。一人の人間の中に、善と悪が共存しているような人物です。矛盾に満ちた人、とも言えます。しかし、私たちにもどこかヤコブのようなところがあります。良い人だと皆から思われている人にもどこかしら悪いところ、ねじ曲がった部分はあり、また誰もが悪人と思うような人でも、意外に善良なところがあったりします。そして神は、そのように複雑な私たちを受け止めてくださいます。常に正しくあることができない私たちを諦めずに、私たちを導き、育ててくださいます。ですから私たちが決してしてはいけないことは、自分自身を諦めてしまうことです。「自分はだめだ。自分は卑しい人間だ。こんな自分を神は受け入れてくださらないだろう」と思ってはいけません。ここでは私たちはヤコブを見倣うべきです。彼の人生で最初の祈りは、ありもしない脅威を取り除いてくださいという、不可思議な祈りでした。しかもその祈りは強く、真剣そのもので、神が根負けするほどでした。この良くも悪くも貪欲な姿勢がヤコブの最大の特徴でしたが、神の祝福を求めることに関しては、私たちもこのように貪欲でありたいと願うものです。お祈りします。

アブラハム、イサク、ヤコブの父であられる神様、そのお名前を讃美します。今日はヤコブという、とても興味深い人物の生涯と祈りを学びました。私たちにも、多かれ少なかれヤコブのようなところがあります。身の程をわきまえずに神とすら交渉を始めるようなこざかしさがあります。しかし、神はそのような私たちをも受け入れ、受け止めてくださいます。ですから私たちもどんなときにも神から離れず、その生涯を全うすることができるように、私たちをつかまえてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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