神の国の権力者
マルコ福音書10章32~52節

1.序論

みなさま、おはようございます。今日の説教タイトルは「神の国の権力者」ですが、このタイトルを聞いて少し違和感を持たれたかもしれません。といいますのも、「権力者」という言葉の生々しさ、俗っぽさが、「神の国」という聖なるもの、清らかなイメージとそぐわないと感じられるからです。しかし、あえてこのようなタイトルにしました。といいますのも、イエスの弟子たちがイエスに従ってきた動機がかなり俗っぽいものだった、端的に言えば出世のためだったということが、今回の彼らとイエスとの会話で露骨なほど明らかになるからです。イエスの弟子たちは無欲な人たちではありませんでした。むしろ私たちと全く同じような、俗人でした。彼らはずばり、「権力者」になりたかったのです。ですから私たちも、自分自身が聖人にはほど遠い、人並みの欲得で動く人間だと痛感することがあったとしても、がっかりする必要はありません。そんな私たちのことを、イエス様は私たち以上によくご存じです。それでも主は私たちを選んで、召してくださったのです。

今回のテーマも、過去二回の説教と同じく「神の国」、「神の王国」です。神の国は神の支配と言い換えてもよいとよく言われますが、「支配」とか「王国」という言葉を聞くと、どうしても「権力」が連想されます。人々を支配するには力が必要です。そして、あらゆる組織において偉くなればなるほど多くの力を持つことができます。ですから私たちは学校でも会社でもあるいはスポーツ団体でも、常に上を目指します。権力者になろうとするのです。イエスの弟子たちも、イエスがこれから打ち立てようとする「神の王国」に非常に大きな期待をかけていました。弟子たちは、聖地エルサレムを管理する腐敗したユダヤの権力者たち、つまり宗教だけでなく政治や経済の実権すら握っていた大祭司たちのことですが、彼らをイエスが追い出して、自分たちが彼らに取って代わることを期待していました。そして、イエスが打ち立てる王国において、弟子たちは偉くなりたかった、権力者になりたかったのです。今回の場面では、十二人の弟子たちの中でもペテロと並んでイエスの側近だったゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに対し、「あなたが天下を取った暁には、自分たちをあのペテロより偉くしてください」と願い求めています。この願い自体があまりにも場違いなので、滑稽なほどですが、しかし彼らは真剣に願っています。ここに、イエスと弟子たちの絶望的なほどの認識のギャップがあるのですが、イエスはこの愚かな願いに対して正面から向き合い、非常に大切なことを教えられます。それは神の国の権力者というのは如何なる人物なのか、どんな人が神の国において重んじられるのか、というとても大切な教えです。私たちの生き方にとっても、非常に大切な事柄です。

今日の箇所は、エルサレムへの旅の最後の局面です。そこでイエスは最も大事なことを教えられました。それは、イエスがこれまで旅の合間に何度も教えてこられた内容なのですが、旅の最後に、いわば総決算のような意味でその教えを繰り返したのです。これはある意味で、イエスによる「申命記」ともいえるかもしれません。旧約聖書の申命記には、かつてイスラエルを率いたモーセが、旅の最後に人々に教えた事柄が書かれています。英語で申命記はデュトロノミーといいますが、これはギリシア語で二度目という意味の「デュトロ」と律法という意味の「ノモス」を組み合わせたものです。申命記とは二度目の律法ということです。モーセは旅の初めに十戒とその他の律法を与えましたが、旅の終わりに二度目の十戒を与え、また他の戒めを与えます。モーセは大切なことは繰り返し教えました。イエスも旅の終わりに、今一度大事なことを教えました。ですから私たちも心して主イエスの教えに耳を傾けたいと思います。

2.本論

さて、ではまず32節です。ここではイエスたち一行の旅の目的がはっきりと書かれています。エルサレムに向かうのだ、と。これまでもイエスたちは旅を続けてきたのですが、その目的地がエルサレムであるとはっきりと書かれているのは、実はここが初めてなのです。この時期は、ユダヤ人にとっての年に三回の大祭の一つである過越祭が近づいていたころですから、様々な場所から多くのユダヤ人が聖地エルサレムに旅していたので、イエスたちがエルサレムに向かうのも別に珍しいことではなかったのですが、弟子たちの心は穏やかではありませんでした。弟子たちも、自分たちが良くも悪くもエルサレムの権力者たちから注目されていて、しかもイエスの予告によれば、これから自分たちには何か大変なことが待ち受けているらしいということが分かっていました。そのような運命の待つエルサレムにイエスが先頭に立ってぐんぐん進んで行くのを見て、弟子たちの心は驚きと恐れで満ちていました。

しかし、そんな弟子たちに対し、イエスは三度目の受難告知をします。しかも、今回の予告は前の二回と比べてもより具体的で、不吉なものでした。今回イエスは、人の子である自分はエルサレムで単に殺されるというだけでなく、死刑判決を受けるということを告げます。さらには自分を迫害するのはユダヤ人だけでなく異邦人、つまりローマ人もなのだ、自分はローマ人に引き渡されるということまで告げます。さらにはローマ人が自分にひどいことをする、侮辱して、鞭打ちの刑で苦しめた挙句に殺すのだ、と言います。本当にぞっとするような話です。そんな恐ろしい運命が待っているのなら、直ちに引き返してガリラヤに身をひそめるべきではないか、というのがまともな判断でしょう。弟子たちも、こんな恐ろしい予告をしながらもエルサレムを目指すイエスの行動が自殺行為にも思えたことでしょう。

しかし、これほどの話を聞いた後に、イエスの側近であるヤコブとヨハネは、まるでイエスの話を聞いていなかったかのように、ものすごいことをイエスに願い出ます。それは、「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左に座らせてください」という願いでした。日本の内閣でも、誰が総理大臣の右と左に座るのか、というのはとても重要なことです。総理の左隣がナンバーツー、右隣がナンバースリーだと言われていますが、イエスの弟子たちもその両隣の席をめぐって争っていたのです。普通に考えればシモン・ペテロがイエスに次いで神の国のナンバーツーということになるのでしょうが、ヤコブとヨハネは彼へのライバル心を丸出しにして、自分たち兄弟をペテロより上の位につけてくれ、と頼むわけです。

たった今、イエスはこれから自分は死ぬのだ、と言ったばかりなのに、そのイエスに次ぐポストを求めるわけです。ですからもし本当にイエスが死んでしまったら、ヤコブとヨハネという二人の兄弟がイエスの跡を継いで神の国のトップになるわけです。彼らがそこまで考えていたかどうかは分かりませんが、非常に生々しい願いであるのは間違いありません。その彼らに対し、イエスは言われました。

あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていないのです。あなたがたは、わたしの飲もうとする杯を飲み、わたしの受けようとするバプテスマを受けることができますか。

イエスは彼らに、あなたがたは栄光を求めているが、その栄光には何が伴うのかが分かっていない、とズバリ指摘します。そして、自分と同じ栄光を受けたいと願うのならば、自分と同じ道を歩まなければならない、あなたがたにはその覚悟があるのか、と問います。「杯」というのは旧約聖書ではしばしば苦難のシンボルとされます。その例を一つ上げると、イザヤ書51章17節が挙げられます。

さめよ。さめよ。立ち上がれ。エルサレム。あなたは、主の手から、憤りの杯を飲み、よろめかす大杯(おおさかずき)を飲み干した。

このような聖書的な杯の意味、「憤りの杯」を知っていたであろうヤコブとヨハネには、イエスの言いたいことが分かったことでしょう。彼らも、栄光を受けるためには苦難の道を通らなければならない、ということは理解していたのです。ですから彼らはイエスの問いかけに対し、「できます」と答えました。彼らも、求める栄光はタダでは手に入らないということは理解していたので、覚悟を示したのです。しかし、その彼らに対するイエスの答えは、彼らをがっかりさせたかもしれません。イエスは彼らの覚悟を認め、彼らも自分のように苦難の道を歩むだろうが、しかしその苦しみが彼らの栄光を保障するものではない、ということを指摘しました。だれが栄光を受けるのかは、実はイエス自身が決めることですらなく、それはただ父なる神の御心によるのだ、ということです。ですから、これこれの条件をクリアすれば、こうした栄光が待っている、というような話ではなく、神の国における栄光の座は、人間の努力や根性で勝ちとれるようなものではないのです。むしろ神の国の栄光は、自分の功績を誇る者でなく、子どものように身を低くする者に与えられるでしょう。

さて、ヤコブとヨハネは他の弟子たちに聞こえないようにイエスにこっそりと願い出たのですが、どうも彼らの会話はほどなく他の弟子たちにも明らかになってしまいました。他の弟子たちからすれば、まさに抜けがけであり腹立たしい限りの話でした。他の弟子たちも内心ではヤコブやヨハネのように、神の国でできるだけ高い地位に就きたかったのです。それなのに先を越されて悔しがったのです。他の弟子たちは、高い地位を求めるのはそもそも卑しいことだ、というような立派な理由で腹を立てたのではなかったのです。

イエスも弟子たちの神の国についての理解、神の王国ではどのような人が偉いのかということについての理解が根本的に間違っていることに気が付いておられました。そこで、とても大切な教えを彼らに与えました。まずイエスは、この世での権力者の在り方を簡潔に描写します。

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

これが、この世の権力の標準的なあり方、あるいはモデルです。支配者は人を支配する権限を有します。会社でも、基本的には上司の命令は絶対です。もちろん上司の命令を拒否することは可能ですが、その場合は低い評価や配置転換に甘んじたり、最悪の場合は解雇を覚悟しなければなりません。民主主義社会では、政治家も公務員も建前の上では公僕、つまり公の目的に仕える者とされていますが、実際は偉い政治家や高級公務員は僕というよりも主人のように振舞います。誰でも、命令されるよりも命令する側に立ちたいので、どんな組織でも人々は上を目指します。もちろんトップに立てるのはごくわずかな人なので、多くの人は挫折の中で、自分の身の丈に合った立場に満足することを覚えていくのですが、それでもチャンスがあれば上に立ちたい、人を命令する立場になりたい、というのはほとんどの人が心の底では感じている願望なのかもしれません。イエスの弟子たちもまさにそのような願望を抱いており、イエスに従ってきたのも、そうした願望を満足させるためでした。

しかし、イエスはこの世の常識とは正反対のことを語ります。神の国は、この世のスタンダードとはまるで違う、正反対とさえ言える世界だということです。神の国、あるいは天国とは、人を支配しようとする人ではなく、むしろ人の役に立つ、人の幸せのために生きるのを喜ぶ、そういう人たちのための世界なのです。それは私たちの日常生活の場面で考えみればよく分かると思います。学校のクラスを考えてみましょう。あるクラスには、クラスメイトを使い走りにしていばりたい、権力者になりたい、そういう人ばかりが集まっているとします。そこでは常にトップを目指す権力闘争があります。そんなクラスには入りたくないですよね。そこで学生生活の3年間を過ごさなければならないとすると、それこそ地獄のようです。しかし、この世の有様はしばしばそのようになっているのです。それに対し、いつも周りの人を気遣う人たちが集まっているクラス、自分が困っているとすぐに助けの手を差し伸べてくれるような人たちが集まっているクラスに入れば、それこそ天国にいるような気持になるでしょう。もちろん、自分もいつも人から何かをしてもらうだけはなくて、逆に困っている人がいれば自分の方から助けの手を差し出すことも必要です。そうやって互いに助け合えば、そのクラスはますます良いクラスになっていくでしょう。神の国、あるいは天国とはそんな素敵なクラスのような国なのです。私たちの人生は、そのような神の国、天国にふさわしい生き方、人格を身に着けるための訓練の場であると言えます。イエスは天国的な生き方、品性を身に着けるために、次のように教えられました。

しかし、あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。

ここで「しもべ」と訳されている言葉を直訳するなら「奴隷」です。イエスは、「みなの中で一番になりたいなら、奴隷になりなさい」と教えているのです。これはものすごくインパクトのある、ショッキングだとさえいえる言葉です。イスラエル人には、奴隷だけにはなりたくないという思いがありました。そもそもイスラエル民族が誕生したのも、奴隷であった祖先たちがモーセを通じてエジプトへの隷属状態から解放されたことによるのです。イエスの時代のユダヤ人たちも、ローマ帝国に対する半分奴隷のような状態から解放されたい、自由になりたい、独立したいというのが悲願でした。そのような思いを抱いている弟子たちに対し、イエスは「みなの奴隷になりなさい」と教えられたのです。しかも強いられてそうするのではなく、率先して奴隷のように仕えなさい、と教えたのです。

でも、考えてみればどんな組織でも、トップに立つ人がふんぞりかえっていばり散らすよりも、むしろ上に立つ人が誰よりも率先して一生懸命働き、また自分の部下たちの幸せを一番に考えてくれれば、その組織はとてもよい組織になります。リーダーがそのような姿勢を示せば、下の人たちも自然とそれに倣うようになるでしょう。神の国はそのような国なのです。なぜならトップにいる人、王様が誰よりも謙遜で、自分のすべてを与えることになったとしても、部下のためを思う人だからです。そしてそのトップにいる人、王こそがイエスなのです。イエスはその生涯において、とりわけその死において、人に仕える生き方、人に与える生き方を弟子たちに示されました。イエスは次のように語られました。

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

イエスはここで初めて、なぜ自分が死ななければならないのか、その意味を説明されました。「贖いの代価」というのは難しい言い回しですが、保釈金と訳してもよいでしょう。借金をしてお金が返せない場合、自分自身を奴隷として売って借金の穴埋めをするということがあります。そのように奴隷状態に陥ってしまった人を救い出すには、借金と利息を保釈金として支払う必要があります。あるいは戦争で負けて敵の捕虜になってしまった場合、その捕虜の立場から解放されるためには保釈金を払う必要があります。イエスは、私たち人間の状態は、借金が払えなくて奴隷になってしまった人、あるいは戦争で負けて捕虜になってしまった人のようなものだと言っているのです。いや、私はそんな惨めな状態にはいない、奴隷なんかになったことはない、と思われるかもしれません。たしかに私たちの多くは犯罪者ではないし、人生において明確な法律違反を犯したことはない、という人も少なくないでしょう。たまに人に怒ったり、意地悪をしてしまうことがあっても、おおむね人間関係を大切に生きてきた、という立派な人もおられるかもしれません。それでも、胸に手を当てて考えるならば、自分の心にいかに強い自己中心的な思いが潜んでいるのかを見出ださないわけにはいきません。聖書のいう罪とは、殺人とか強盗とか、そのように誰の目にも分かるような分かりやすいものだけではありません。むしろ人目につかない、あるいは普段は意識に上ってこないような根の深い罪を問題にします。自分たちの幸せのためには、ほかの誰かが苦しんでいたり、不利益を被っていたとしても、その問題は自分には関係ないこととして目をつぶってしまう、目をそらしてしまう、そのような状態を聖書は罪と呼びます。非常に具体的な話になりますが、例えば日本のエネルギー政策上原発は必要だ、原発を推進すべきだという方も、自分の住んでいる町に原発が立てられるとなると反対する人は多いでしょうし、自分の住んでいる都市が核のゴミの最終処分場になるとなったら、それこそ必死に反対するでしょう。また、アメリカの基地は沖縄に七割も集中していますが、日本の安全のためにはそうした基地はやむを得ないと考える人も、その基地が自分の町に引っ越してきて、沖縄のように自分たちの家の上をヘリコプターが毎日低空飛行するとなったら、猛烈に反対するでしょう。自分の住んでいるところは嫌だけれど、沖縄なら仕方ない、あるいは福島なら、青森なら仕方ないと考えてしまう心、日本のためには一部の人に我慢してもらうしかない、しかし自分はその我慢する側の人にはなりたくないと考えてしまう心、それが聖書のいう罪です。私たちは誰もがこうした罪を抱え込んでおり、しかもそのような自分を自分で変えることができないでいます。気が付くことすらない、ということもあります。イエスの死も、当時の多くの人にとってそのようなものでした。当時のユダヤ社会の頂点にいた大祭司カヤパは、「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だ」(ヨハネ11:50)と語りました。イエス一人が苦しんで、ほかの多くの人が助かるなら、その方がいいじゃないか、誰かを犠牲にして他の多くの人が助かるならその方が得じゃないか、そのように考えてしまうことが私たちの罪なのです。イエスはまさにそのような人間の利己的な考え方のゆえに死ななければなりませんでした。しかもその死は、私たちを泥沼のような罪の窮状から救い出すために必要な保釈金なのだ、とイエスは言われました。その死が一体どのようにして私たちに救いをもたらすことになるのか、そのメカニズムは何なのか、というのは難しい問いです。イエスもここでは身代金のイメージを語るだけで、詳しい説明は与えていません。しかし、イエスは実際に人間の罪が引き起こした悪を自分の身に一心に引き受けることで、私たちを悪の力から解放しようとなさったのです。イエスの死には実際にそのような力がある、それが私たちの信仰です。

それと同時に、イエスは人のために自らの命すら差し出す、そのような利他的な生き方を示すことで、私たちが歩むべき道をも示されました。私たちも、自分たちの持てるもの、そのいのちさえも人のために用いる時、天国にふさわしい生き方、品性を自らのものとしていくことができます。そして、天国はそのような人たちのために用意されているのです。ですからイエスの死は他人ごとではありません。私たちはイエスのように十字架で死ぬ必要はありませんが、しかしその利他的な生きざまと死にざまから自分の歩むべき道を学ばなければならないのです。

イエスの弟子たちも、これからそのような道を歩むことになります。しかし、イエスの語ることが全然理解できていない弟子たちが、果たしてそんな立派な人に変わることができるのでしょうか?そのような疑問に答えるかのように、イエスたちのエルサレムへの旅は、ある印象的な出来事で終わります。それはバルテマイという盲人の癒しの出来事です。思い出していただきたいのですが、イエスたちがエルサレムへの旅を始める時、つまりペテロがイエスをメシアだと告白する直前に、イエスは盲人の目を癒しています。つまりイエスは、エルサレムへの旅の最初と最後に同じ奇跡を行っています。旅における他の奇跡は、口がきけない子どもの癒しだけですから、この二度の盲目の人の癒しはイエスの旅の中で非常に大きな意味を持っています。最初の癒しでは、盲目は一度では直せず、イエスは二度も彼の目に手を当てられました。それだけ彼の盲目は深かったのですが、それはそのまま比喩的に弟子たちの霊的な盲目さの深さを象徴しています。しかし、旅の最後のバルテマイの場合には、イエスは彼の目に触ることもせずに、言葉だけで彼の盲目を癒しています。それはバルテマイのイエスへの信仰が非常に強かったためでもあり、バルテマイは癒された後もすぐさまイエスに従っていく決意をしました。彼はある意味で理想的な弟子の姿を体現しています。弟子たちの霊的な盲目ばかりが目立ってしまったエルサレムの旅の終わりにこのような理想的な弟子の姿があることは、イエスの弟子たちも、このバルテマイのようにやがてすっかり霊的な盲目が癒され、大胆にイエスに従う、イエスの道を歩むようになるということが暗示されています。人にはできないことも、神には何でもできるのです。神には、どうしようもないほどの弟子たちの盲目を癒し、彼らを偉大な宣教者に代える力があるのです。

3.結論

まとめになります。今日は、この世的な考え方で神の国における偉さ、地位の高さを求める弟子たちに対し、イエスがそれとは全く正反対の価値観、神の国における価値観を教えられた場面を学びました。神の国で最も尊ばれる人、この世的な言い方でいえば神の国の権力者とは、自ら進んで奴隷のように人々の必要のために働く人です。そしてイエスはそのような生き方の模範を、自らの人生において、とりわけその死においてお示しになられたのです。私たちは今、イエス・キリストの苦難を覚える季節、レントの中を歩んでいますが、その死を単なる身代わりとしてではなく、私たち自身の歩むべき道として捉えたいと願うものです。私たちをそのように捉えて、また変えてくださるように、主に祈りましょう。

最も偉大な方でありながら、最も低き者として地上の生涯を全うされたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。私たちはまったく自己中心的な者で、なかなか人のことを深く思いやることのできないものでありますが、人のために生きた主イエスの生き方を見つめて少しでもそれに近づくことができるように、私たちを導いてください。われらの平和の主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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