神の国に入るためには(2)
マルコ福音書10章17~31節

1.序論

みなさま、おはようございます。前回から、神の国、神が支配される王国に入るためにはどのような生き方が求められるのか、どのような人間であるべきなのか、という大切なテーマについてイエスが教えている場面を学んでいます。神の国とは天国と言い換えてもよいですが、それは私たちの究極の希望ですので、そこに入るためにはどうすればよいのか、というのはクリスチャンであれば誰もが大変気になるテーマであろうと思います。

キリスト教の歴史の中でも、天国に入る、救いに与る条件は何か、ということについては様々に理解されてきました。中世のカトリック教会では、救いを分配する機関としての教会の権威が強調され、救われるためには教会が定めた儀式に与り続ける必要があると教えられていました。カトリックにはサクラメントと呼ばれる七つの儀式がありますが、その中でもとりわけ重要なのが洗礼と聖餐式の二つで、洗礼を受けて、聖餐式に与り続けることで救いは確かなものとなると教えられていました。逆に言えば、聖餐式に与れなくなると救いが危うくなってしまうのです。そのため、教会から破門されて聖餐式に与れなくなることは、死刑宣告、永遠の滅びの宣告にも等しいものと信じられていました。破門権を持っている教会の権威は絶大なものとなり、破門を恐れて王国貴族でさえもカトリックの教皇に逆らうことができなくなってしまいました。破門権はカトリック教会にとって、まさしく伝家の宝刀となったのです。そのようなカトリック教会の権威・権力の肥大化に立ち向かったのが宗教改革で、ルターらの改革者は人が救われるのは儀式的な行為によるのではなく、信仰によるのだ、と唱えました。とはいえ、ルターたちも聖餐式などの儀式、プロテスタント用語では聖礼典といいますが、その重要性を決して否定はしなかったので、では聖餐式とは何なのか、救いにとってどんな意味があるのか、というのは宗教改革においても盛んに論じられてきました。聖餐式についての議論は一旦脇においても、ルターたちはカトリック教会だけが救いを人々に分配できるという、一種の救いの独占状態を打破しました。その功績は非常に大きかったと思います。

同時に、宗教改革によってある種の混乱が同時に生まれたと言ってもよいかもしれません。それは信仰と行いとの関係をどう考えるべきか、という問題についての混乱です。ルターの教えの中心は、「人は行いによらず、信仰のみで救われる」という信仰義認でした。しかし、ではルターは信じさえすれば、クリスチャンはどんな生き方をしても救われるのか、ということについては決してそのようには教えませんでした。むしろクリスチャンは救いの恵みへの感謝として、精一杯神に喜ばれる生き方をすべきであり、そう努めないものはそもそも救われてはいないのだ、教会員になって、毎週聖餐式さえ与っていれば自動的に救われるなどということはない、むしろその人の信仰を証しするような生き方をするのが当然なのだ、と教えました。さらには教会員であればだれでも救われるというような考えを否定し、教会は麦と毒麦、つまり本物のクリスチャンと見せかけだけのクリスチャンが混じり合っているのだ、とも教えました。このように言われてしまうと、クリスチャンである私たちも不安になってしまうかもしれません。果たして自分は麦なのか毒麦なのか、それはどのようにして確かめられるのか、という疑問が生じます。そうなると、やはり行いは重要だ、なぜならそれが確かな信仰があるという証拠だからだ、ということになります。信仰のみ、といっても、行いは重要なのです。

このように、救われるためにはどうすればよいのか、というのはキリスト教の歴史においてとても大切なテーマであり続けてきたのですが、ではイエスは何と教えておられるのか、ということは言うまでもなく一番大切なことです。イエスこそ、あらゆる教師、ルターや教皇よりも偉大な、最高の教師だからです。そのイエスの教えを前回から学んでいるのですが、イエスの教えのポイント、エッセンスは「価値観の転換」と言えるかもしれません。神の国、神の王国にふさわしい人とは誰かという問いについて、この世の価値観とはまったく別の尺度、別の視点で捉えなければならないということです。イエスは弟子たちのこの世的な見方、この世的な考え方を変えるために子どもを例に引きました。イエスは、子どものようにならなければ神の国に入れないと教えました。このイエスの言葉の受け止め方は、現代人の私たちとイエスの時代のユダヤ人とでは大きく異なっていたことに注意が必要です。今の時代は、子どもは無垢や純粋さのシンボルなので、イエスの言葉も「あなたも子供のような純粋な信仰、疑いを知らない信仰を持たないと神の国に入れませんよ」という風に捉えられてしまうかもしれません。しかし、イエスの時代の子どもとは、地位の低さのシンボル、まったく取るに足らない存在、数に入らない存在でした。そのような社会からは不要と思われている人、またそのように自分を理解する謙虚さを持った人こそ神の国にふさわしい、それがイエスの教えのポイントでした。

このように、身分の低い存在の象徴としての子どもこそ神の国にふさわしいとイエスは教えられたのですが、それとは正反対の人物が今回の主役です。しばしば「富める青年」と呼ばれるこの人物は、世の中の基準でいえば、神の国に最もふさわしい人物のはずでした。しかし、実はそうではなかったということが、イエスとの出会いを通じて明らかになります。そのことを学んで参りましょう。なお、「富める青年」とは言いましたが、福音書には彼の年齢を示唆する記述はないので、単に「富める人」と呼ぶことにします。

2.本論

さて、17節ですが、あるひとりの人がイエスのところに走り寄って、イエスの前にひざまずくというところから話が始まります。「走り寄る」という表現からも、この人物がイエスに対して大きな期待を抱いていたことが伝わってきます。さらには「ひざまずく」ということから、この人物がイエスに最大級の敬意を払っていたことは明らかです。この人物は大変な金持ちで、社会的な身分も高かったと思われますので、無位無官の流浪の宣教者であるイエスに対する態度としては、驚くべき謙虚さだと言えます。ですから、これまでイエスを試したり陥れたりする意図でイエスに近づいてきたユダヤの有力者とは違い、この人物は極めて真面目な意図でイエスに近づいてきたのは間違いありません。この人は、イエスにこう問いました。

尊い先生。永遠のいのちを自分のものとして受けるためには、私は何をしたらよいでしょうか。

「尊い」と訳されている言葉のギリシア語原語は「良い」であり、この人はイエスに向かって英語でいえば「グッド・ティチャー」と呼びかけています。彼は、永遠のいのちを自分のものとするためには何をすればよいのか、という重大な問いを単刀直入に聞きました。「永遠のいのち」とはこの世の命が尽きた後にも続く命ということなので、この人は死後の命を信じていたわけです。当時のユダヤ人の中でも最も金持ちのエリートだったサドカイ派と呼ばれる人たちは死後の命を信じていなかったので、この大富豪の人物が死後の命を信じていたというのは決して当たり前のことではありませんでした。ここからも、この人物が敬虔な人物、信仰的な人物だったのが分かります。しかし、どうすればその死後の不滅の命を確かなものとすることができるのかという問いについては、ユダヤ人の間でもいろいろな意見がありました。ですからこの人も、このきわめて重大な問題について、偉大な教師だと評判のイエスの教えを乞おうとしたのです。

この人の問いに対して、まずイエスは「良い先生」という呼びかけそのものを問題にしました。当時は、ある人物を評して「あの人は良い人だ」と呼ぶのは普通のことでしたので、イエスの事を「良い先生」と呼ぶのは何も特別なことではなかったのですが、イエスは究極的な意味で「良い」と形容できるお方は神だけだという事実を指摘しました。しかし、イエスも神ならば彼も「良い」と呼ばれても何の問題もないはずですが、イエスはここで自分自身のことを問題にしていたのではなさそうです。むしろイエスは、その質問をしてきた富める人が世間一般の評価では「良い」人、それも極めて良い人だという評価を受けているということを見抜いていて、「あなたの言う『良い』とは一体どのようなものですか?あなたは自分自身を神の基準に照らして『良い人』だと思っているのですか?」ということを暗に尋ねているようにも思えます。もしそうだとすると、この問いはこれに続く問答の大事な伏線になっています。

イエスは次いで「永遠のいのちを得るには何をしたらよいのか」という問いに対して、至極まっとうな答えを与えます。それは、この富める人もよく知っている旧約聖書の十戒の教えでした。永遠のいのちを得たいのなら、これらの戒めを行いなさいというのがイエスの答えでした。

しかし、イエスのこの当たり前の答えにこの富める人は満足できませんでした。それらのことは、子どもの頃からすべて守っています、と彼は答えました。この答えには、「わたしが聞きたいのはそんな当たり前のことではありません。永遠のいのちを確かに得るためには、何か特別にすべきことがあるはずです。それを教えていただきたいのです」というような意味合いが含まれていました。私たちも、特別に素晴らしいものを手に入れるためには、何か特別なことをしなければいけないのではないか、と思うことがあるわけですが、この人もそのように感じていたのでしょう。同時に、この人は「自分は十戒を皆守ってきました」と自信を持って言えるほど、それまでの人生を真面目に誠実に生きてきた人だということが言えます。

イエスはこの富める人の真剣さを認め、また彼が自分自身について語っていることに嘘偽りがないことを認めました。「その人をいつくしんで」となっていますが、これはアガペー、つまり愛という言葉の動詞形のアガパオーという言葉が用いられていますので、直訳すると「イエスはこの人を愛して言われた」となります。イエスはこの人物のことを極めて好ましく思い、また高く評価していたのです。そのように考えると、イエスが次に発した言葉に驚かされてしまいます。イエスの要求はあまりにも厳しく、無理難題を吹っかけているようにすら聞こえるからです。イエスはこう言われました。

あなたには、欠けたことが一つあります。帰って、あなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。

イエスは、この完璧にも思える人物にも一つ欠けたところがあると指摘しました。その欠けを補うために、一つのことを要求されました。それは全財産を売り払い、貧しい人に与えなさいというものでした。初対面の人に、いくらなんでもこれは厳しすぎるように思えます。しかし、ここで気を付けたいのは、イエスは問題になっている現在のカルト宗教のように、「全財産を教団に捧げなさい」と言っているわけではなく、貧しい人たちを助けなさいと言われたということです。イエスはご自分の宣教活動をサポートするために、あなたの全財産を献金しなさいと要求しているわけではないし、ましてや教団のための宮殿のような建物を建てるために献金しなさいと言っているわけでもありません。そこが、今日問題になっている様々な新興宗教のケースと、イエスの言葉との決定的な違いです。当たり前のことですが、イエスはあくまでこの人自身と、貧しい人々のためを思ってこう語ったのであり、自分自身や自分たちの伝道活動のためでは決してなかったということです。このことはよく注意しておきたいと思います。また、イエスは全財産を捨てなさいと言われたのではなく、むしろあなたの全財産を天国に貯金しなさい、その方が安全だし、あなたのためにもなりますよ、というアドバイスをしたということです。とはいえ、天国を信じない人にはこのイエスの言葉はまるでナンセンスなものに響くでしょう。

そうは言っても、やはりイエスの言葉は非現実的に聞こえます。実際、財産も仕事も持たなかったイエスたちの活動を支えるために、財産のあった女性たちが彼らを経済的に支えていたという記事もルカ福音書にはありますので、イエスは自分に従う人たちに常々財産を捨てなさいと教えていたわけではありませんでした。ではなぜイエスは、この人に限ってはこれほど高いハードルを示したのでしょうか?それは、イエスとその人物との関係の中で考えるしかないことなのですが、おそらくイエスはこの人の持つ余りにも大きな財産が、その人と神との親しい交わりへの障害となっていることを見抜かれたのでしょう。

人間、生きていくためには当然お金が必要です。しかし、この世の中には必要以上のお金、いくら贅沢な暮らしをしても使いきれないほどの財産を持っている人もいるのです。日々の生活の糧を得ることにあくせくしている一般庶民にとっては、それほどの大金を持つ人はうらやましくも思えるわけですが、しかしあまりにも大きな財産を持つというのは、それはそれでなかなか大変なことです。財産をめぐって家族の中で争いが起きたり、また近づいてくる人たちの多くが金目当てであったりして、なかなか本物の友人関係が育てられないとか、いろいろ不愉快な面倒事も抱え込むことになります。また、体は一つなのでいくらお金があってもこの世の快楽を味わい尽くすというわけにはいかず、むしろおいしいものを食べ過ぎて体を壊すこともあります。お金持ちには異性も多く寄ってくるわけですが、そのために浮気などで家庭が崩壊してしまうこともあります。そして、霊的な意味で何よりも大きな問題になるのは、自分自身の安全や幸福を、神ではなくお金に頼ってしまうということになりかねないのです。これはあからさまな偶像礼拝ではないものの、聖書がマモンと呼ぶもの、つまり富のことですが、そのマモン礼拝に知らず知らずのうちに陥ってしまうことがあるのです。イエスの下に真理を求めてやってきたこの人物は、確かに素晴らしい人物ではありましたが、その大きすぎる財産が彼の霊的成長の妨げになる、そのようにイエスは判断されたのでしょう。そこで彼に、ずばり一番痛い所を突くような要求をされたのです。

しかし、この富める人はイエスのチャレンジに応えきれませんでした。顔を曇らせ、悲しみながら去っていったとあるように、この無理難題とも思えるイエスの言葉を聞いても怒ったとか、気分を害したとか、そういうことはありませんでした。イエスの言葉をまともに受け止めて、しかし今の自分にはそこまでのことは出来ないと、ある意味で冷静に判断したのでしょう。自分の大きすぎる財産にイエスが懸念を持っていたということも、聡明なこの人ならあるいは気が付いていたのかもしれません。しかし、イエスに大きな魅力を感じつつも、自分のすべてを捨ててでもついていくべき人なのか、と彼なりに値踏みをして、そこまでイエスに自分自身を託すことができなかったのでした。非常に常識的な判断をしたのです。しかし、この世の常識に従ったゆえに、彼がどれほど大きなものを逃したのか、私たちには想像もできないほどです。

しかし、この世の基準に囚われている弟子たちから見れば、なんてもったいない、どうしてイエス様はこんな立派な人物を弟子に加えなかったのだろう、彼が加わってくれれば自分たちのグループがどれほど力づけられるか、と残念がったのでした。その弟子たちに向かって、イエスは驚くべきことを言われました。

金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。

らくだが針の穴を通ることなど不可能ですから、イエスはここで、金持ちが神の国に入るのは不可能だ、と言っているに等しいのです。この言葉は、特に大きな財産を持つ方には大きなつまずきとなる言葉かもしれません。しかし、この言葉は今や極端な格差社会となってしまったアメリカのような社会では重く響くのかもしれません。今のアメリカでは上位のたったの1%の人々が国の富の三分の一を持っていると言われています。それに対して、下位の50%の人の持つ財産は国の富のたったの2%しかないと言われています。なんと極端な、と思われるかもしれませんが、実感のこもった数字でもあります。私がかつて勤務していたアメリカの銀行の代表は、ストックオプションと呼ばれる報酬や他の様々な報酬を含めると1千億円を超える報酬を得ていたという話を聞いたことがあります。もちろん、頑張った人が多くの報酬を得るのは良いことだとは思いますが、物事には限度と言うものがあります。一人の人が1千億円分も働けるのだろうか、必死に安い給料で日々の業務をこなしている若い行員と、それほどの給料格差が許されるのだろうかと不思議に思ったものですが、今のアメリカは数兆円という資産を持つ人が何人も生まれる社会でもあるのです。また、本で読んだのですが、アメリカの闇を感じさせる記事がありました。皆さんもよくご存じのビル・クリントン元アメリカ大統領とヒラリー元大統領候補の夫婦はクリントン財団という慈善団体を作っています。2014年はヒラリーさんが現役で活躍していた時期ですが、その年の慈善団体の収入は1億8千ドル、つまり100億円超ありましたが、慈善事業に使われていたのはわずか5百万ドルでした。一億円の寄付金が集まったのに、そのうちの5百万円しか慈善事業に使われていないとしたら、寄付した人はどう思うでしょうか。しかも、この団体の関係者は異常なほどの高給取りでした。貧富の差を解消するための慈善団体が、むしろ格差を広げてしまっているのです。こういう歪んだ構造でもなければ、たった1%の人が国の富の三分の一を独占することなどできなかったのかもしれません。そして、そのような超格差社会は神の国の価値基準とは正反対のものである、ということはこれまでイエスの話を聞いてこられた皆さんにはよく理解できるのではないでしょうか。

しかし、この金持ちとらくだのイエスの言葉を聞いた弟子たちは、イエスの言葉に共感するどころか、まったく理解できませんでした。それは弟子たちが当時の常識的な考え方、つまり金持ちは神から祝福されていて、天国に一番近い人たちだという考え方をしていたからです。その金持ちが神の国に入れないのなら、誰が一体入ることができるのか、と弟子たちは考え込んでしまいました。それに対するイエスの答えは、まっとうなものでした。金持ちが神の国に入るのは不可能だが、しかし神は不可能すら可能にできる、だから金持ちにも救われるチャンスがあるのだ、と言うのです。たしかにこの富める人は、イエスの弟子になるという千載一遇のチャンスを逃してしまいました。しかし、もう彼には望みがないわけではありません。神は、そのような人をも何度でも救いに招いてくださるのです。では、どうやってこの金持ちの人が救われるようになるのかは分かりません。しかし、この富める人がそれでも神を探し求めるのをやめないならば、神は彼に再びチャンスを与えるでしょうし、富める人は今度こそ神の声に聞き従ったかもしれません。ですから、私たちも身近な人で、この人はどうやってもイエス様を信じそうにない、そんなことは不可能だと思っても、その時には神には不可能はないことを思い出し、あきらめずに執り成しの祈りを続けて参りましょう。

さて、この富める人とのやり取りが終わった後、その場の雰囲気が重く、暗くなっていたのは想像に難くないのですが、その場の嫌な雰囲気を吹き飛ばすように、ムードメーカーのペテロが再び前向きな発言をしました。

ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。

大変な大金持ちの富める人と比べれば、ペテロたちが捨ててきたものは相対的に見れば小さいかもしれませんが、それでも落ち着いた安定した職業を捨てて、どこへ向かうとも知れぬイエスの旅に加わった弟子たちは大変大きな決断をしたことに間違いはありません。そのペテロの言葉に対して、イエスも非常に肯定的な言葉を返されました。あなたが福音のため、またイエスのために家族や仕事を捨てたならば、その百倍に相当するものを受けられるだろう、というのです。ただし、この世で生きている間は、その多くの祝福を迫害と共に受けることになる、ともクギを指しています。この世の旅路では、大きな祝福と同時に大きな困難もあるのです。このイエスの言葉は、私にとっても非常に強い実感を伴って聞こえます。私自身は幸いなことに家族全員がクリスチャンだったので、イエスを信じて献身したことで家族を失うことはなく、むしろ家族との結びつきが深まりましたが、畑を捨てる、つまり仕事を捨てることはしました。そんなことをして大丈夫か、といろんな方に心配されましたし、確かに前職は世間的には文句のつけようがない仕事でしたが、しかしそれから後の人生では、それよりもずっと多くの祝福を受けてきた、と確信を持って言うことができます。このイエスの言葉は確かだと、私も強く思います。ですので、それに続く約束、「後の世では永遠のいのちを受けます」という約束も確かなものだと確信しています。

イエスは最後に有名なことば、「先の者があとになり、あとの者が先になる」ということばを語られました。これは、子どもの話や富める人の話を要約したものだと言えます。みんなから、神の国への旅路の先頭を走っていると思われていた立派な富める人は実は最後になり、誰もが相手にしない子どものような小さき者たちが、実は先頭にいるという現実、それはまさに私たちに「価値観の転換」を迫るものです。神の国を目指す私たちは、まず何よりも神の国、キリストの王国の価値観を身に着ける必要があるのです。

3.結論

まとめになります。今日は有名な「富める人」と呼ばれる人物の話を見て参りました。彼はどこから見ても文句のつけようのない人物、神の国に最もふさわしいと思われていた人だったのですが、彼の最も大きな長所、強みだと思われていた莫大な財産が、かえって神の国に入るための妨げになっていたことを学びました。これは、この世の基準から見れば不思議なことなのですが、神の基準、神の王国の基準からはそれが真理だったのです。神の国は受けるよりも与えることを喜ぶ人たちが集う国なので、確かにそのようなことになるのです。以前話したかもしれませんが、この話を読むと私はいつも祖母が話していたことを思い出します。それは、たらいの水を自分の方に集めようとすると水はかえって自分から逃げていくけれど、水を自分の方から押し出すと、水は自分の方に帰ってくる、という話です。つまり、お金は自分のためにばっかり貯めようとすると逃げていくけれど、気前よく人に与えるとむしろ自分の方に戻ってくる、ということです。神の国の真理とはそのようなものなのです。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。あなたは高ぶる者を喜ばれず、謙虚な小さき者たちを喜んで迎えてくださいます。私たちも小さな者ですが、あなたから力をいただいて、あなたが喜ばれる歩みをすることができますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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