さらなる二つの奇跡
マルコ福音書5章21~43節

1.導入

みなさま、おはようございます。私たちはこれまで、マルコ福音書というイエスの伝記を読み進めています。この福音書の著者であるマルコはイエスの直接の弟子ではなかったのですが、彼はイエスについてシモン・ペテロから伝え聞いていました。シモン・ペテロというのはバチカンにあるサン・ピエトロ寺院の名前の由来になった人物ですが、彼はイエスが選んだ12人の使徒のリーダーでした。ペテロは外国語が話せなかったので、外国人にイエス・キリストのことを宣べ伝える時には当時の国際語であるギリシア語を話せる通訳が必要でした。その通訳が、この福音書の著者であるマルコでした。マルコはペテロのために通訳をするかたわら、ペテロの語るイエスの教えや行動を書き留めておき、それを一つの伝記としてまとめ上げました。それがマルコ福音書なのです。

ペテロは、ユダヤ民族の聖都エルサレムから見ると北側、日本でいえば東北地方にあたるガリラヤで漁師をしていましたが、そこでイエスにスカウトされ、イエスと共に伝道活動に従事するようになりました。そのイエスですが、彼はガリラヤの村々を巡り歩き、癒し人として多くの人の病気を癒していました。ただ、イエスの目的は単に人々の病気を直すことではなく、もっと大きな目的がありました。それはイスラエル民族全体の病を癒すこと、イスラエルとはつまりユダヤ民族ですが、彼らの傷を癒し、彼らに再び活力を与えること、それがイエスの狙いでした。当時のユダヤ社会は、端的に言えば超格差社会でした。しかも、今日のように格差社会の頂点にいる人々は大企業のオーナーたちではなく、宗教のリーダーたちでした。エルサレムの大神殿を管理する大祭司たちは宗教のみならず、政治的な権力をも掌握し、同時に大地主として多くの貧しいユダヤの農民から富を吸い上げていました。宗教のリーダーが政治と経済においても権力を独占していたのです。しかも彼らはユダヤの地を支配する外国の勢力、当時の超大国ローマ帝国と結託し、彼らと蜜月関係を築くことで権力を維持していました。ですから多くのユダヤの民衆は、自分たちの宗教リーダーを内心では毛嫌いしていました。では、より民衆側に立っているはずの宗教家たち、つまり権力の側にいない宗教家たちはどうだったかと言えば、彼らもまた人々を助けるというより、むしろ重荷を与える側でした。彼らは律法と呼ばれる聖書の教えに精通した人々でしたが、聖書を元にして日常生活の隅々にまで及ぶような細かい規則をたくさん作り上げて、人々にそれを守るようにと教えました。そして、自分たちの作った規則を守れない人々を「罪人」と呼んで差別の対象にしました。人々はユダヤの宗教リーダーたちから課される税金とローマ帝国から課される税という二重の税に苦しめられ、特に宗教税が払えないと「罪人」というレッテルを張られるので必死に税を納めようとしますが、それが出来なくなると、乞食になったり山賊になったり、あるいは遊女や徴税人という人々が避ける仕事に就くことになりました。こういう歪んだ社会の中で、人々の結束や連帯は失われ、ユダヤ社会の中には分断や亀裂が生じ、暴力革命に走る人たちも増えていきました。イエスは、このようなユダヤ社会の傷を癒し、彼らに神に選ばれた民として生きるための力を与えようとしていたのです。

さて、マルコ福音書の前半部分は、イエスが人々の病を癒し、悪霊を追い出すという活動を中心に描いていました。悪霊を追い出すというと、何かおどろおどろしい感じを受けるかもしれませんが、今日でいえば精神の病を癒すことに近いと言えるかもしれません。今日でもカトリック教会にはエクソシストと呼ばれる悪霊を追い払うことを専門に行う聖職者集団がいますが、彼らの話を聞くと、悪霊に憑かれたと自分や家族が思っている人の9割ほどは、実際は精神の病によるもので、本物のいわゆる悪霊憑きの患者はごくわずかだということです。人間の精神、霊的な分野は今日でも科学の探求が十分には及ばない分野ですので、精神の病と呼ばれるものの原因がどの程度まで外部的な力、つまり悪い霊の働きかけによるものなのか、というのは難しい事柄です。イエスが悪霊を追い払ったというのは、実際に悪い霊を追い払ったという場合もあるのでしょうが、精神のバランスを失った人々の心の均衡を取り戻させた、という面も間違いなくあります。ですからイエスが病を癒し、悪霊を追い出したというのは、人々の体と心の病を癒した、と言い換えることもできるでしょう。また、病を癒すということは、特別な奇跡というより、人間の体に備わっている自然治癒力を引き出してあげる、自己免疫力を高めたのだ、ということもできます。ですから、イエスは確かに優れた癒し人でしたが、それは彼が特別の異能者、一種の超能力者だった、ということでは必ずしもありません。実際、イエスのほかにも当時のユダヤ社会には不思議な病の癒し人はいたのです。

しかし、前回からの箇所、つまりマルコ福音書4章35節からのイエスの言動は、そういう今日の私たちでもある程度理解できるような類のものではありません。マルコ4章35節から8章26節までに、マルコはイエスが行った十の奇跡を書き記していますが、これらの奇跡は合理的な説明ができるようなものではなく、むしろ超常現象とでも呼びたくなるような類の奇跡なのです。マルコはここで読者に、イエスは単なる優れた癒し人ではなく、それ以上のお方なのだ、ということを伝えようとしています。確かに、嵐という大自然の驚異をたった一言で鎮めてしまう人間など聞いたことがありません。今日これから学ぶ二つの奇跡も、私たちが自然な仕方で種明かしできてしまうような奇跡もどきのトリックとは異なるものです。そのことを踏まえて、今日の二つの物語を読んで参りましょう。

2.本文

5章21節から読んでいきましょう。「イエスが舟でまた向こう岸に渡られると」と書かれていますが、イエスはガリラヤ湖という大きな湖の回りで活動をしていて、前回はイエスが拠点としていたカペナウムというところを離れ、向こう岸の外国人が住んでいるゲラサという地域に行きました。そこで二つの大きな奇跡を行ったのですが、そこから再び拠点であるカペナウムに戻ってきたということです。イエスに病を癒してもらおうとする群衆は常にイエスのことを追いかけていましたので、外国人の地から戻ってきたイエスを群衆は喜んで迎え入れました。

そこに、ヤイロという人物がやってきました。彼は会堂管理者のひとりだと言われています。会堂というのは、ユダヤ教の教会のことです。ユダヤ人は宗教的な民族で、すべてのユダヤ人はユダヤ教徒でした。当時のユダヤ人には、私たちの時代のように、信教の自由というものはありませんでした。というより、ユダヤ人は神に選ばれた特別な民族なので、ユダヤ人に生まれれば、だれでも皆当然ユダヤ教徒になるのです。もちろん、内心では「私は神様なんか信じない」と思っていたユダヤ人もいたでしょうが、ほとんどのユダヤ人は当然のようにイスラエルの神を信じていました。彼らは安息日、曜日は日曜ではなく土曜日ですが、土曜に会堂に集って礼拝をして、聖書を学んでいました。彼らが礼拝をする場所が「会堂」と呼ばれていたのですが、会堂を維持運営するためにはお金がかかります。その会堂維持費をユダヤ政府が支給してくれたわけではなく、民営の施設として、礼拝に来るユダヤ人たちの献金によって支えられていました。カペナウムの人々が集まる会堂はそれなりの大きさがありましたので、その維持運営も楽ではありません。そこで町の有力者たちの何名かはその管理に特別な責任を負い、応分の経済的な貢献をしていました。ヤイロは、そのような管理者の一人でしたので、当然ながら町の人々から高い尊敬を集めていました。そのヤイロが血相を変えてイエスのもとにやってきました。それは、彼の娘さんが重篤であり、今にも死にそうな状態にあったからでした。その娘さんは12歳という若さでした。12歳というと今の日本では小学6年生ぐらいのまだ子どもというイメージでしょうが、当時の多くの女性は13歳ぐらいで婚約していましたから、半分大人というイメージでしょう。その大事な娘が大変な状況になったので、かつて会堂で癒しの業を行ったイエスのことを覚えていたヤイロは、娘を助けてほしいとイエスに頼み込みます。会堂という、地域の人々にとって大切な宗教施設の運営のためにいつも骨を折ってくれているヤイロの頼みです、イエスも快く了解し、彼の家に行くことにしました。

そしてイエスがヤイロの家に行く途上で、もう一つの出来事が起きました。そこには、悲劇的な人生を送ってきたある女性がいました。この女性は12年もの間、長血を患ってきました。具体的にどのような病気だったのかは分かりませんが、血の漏出があるということはユダヤ人女性にとっては健康面のみならず、社会面でも大変深刻な影響があることでした。というのは、ユダヤ教の戒律である律法によれば、月のさわりの期間ではないのに血の流出がある女性は、宗教的な意味で「汚れている」と見なされてしまうからです。旧約聖書のレビ記という書の15章には、このことが詳しく書かれています。ユダヤ教の考え方では、汚れた状態にある人に他の人が触れると、その人も汚れてしまいます。また、人だけでなく、汚れた状態にある人が触れた「モノ」も汚れてしまいます。このように、汚れは人から人へ、あるいは人からモノへと移る、感染性のもとだと信じられていました。ですから、12年間長血を患った女性は、単に病気で苦しめられるだけでなく、人々に近づいてはいけない、人々から隔離される、そういう状態にずっと置かれていたことになります。つまり、まともな社会生活が送れない、まともな人間関係が築けない、そのような状態に置かれていたのです。さらには、この女性にとってもっとつらかったのは、神に祈る機会すら奪われていたことです。宗教的に汚れた状態にある人が絶対にしてはいけない行為、それは神を礼拝するために神殿に行くことでした。神は汚れを嫌われるので、汚れた人は絶対に神殿に行ってはいけない、という戒めが旧約聖書のレビ記にあります。このように、汚れた状態にある女性自身は、神殿に行くことなど夢にもできませんでした。そのようなことをしたら、死罪を免れなかったでしょう。神をことさらに汚す行為をした、神を冒涜したと見なされるからです。さらには、神殿で働く祭司は、もし汚れた女性に触れると彼自身も汚れてしまうので、神殿でのお勤めができなくなります。ですから祭司などの宗教家は、汚れた女性に決して近づこうとはしませんでした。この女性は「この病を癒してください」と神殿に行って祈ることもできないし、かといって、家で祭司などの宗教家の人に一緒に祈ってもらうようにお願いすることもできませんでした。この女性は、神に祈るという人間の根源的な行為ですら許されていない、このように感じたことでしょう。

そこでこの女性は医者のところに熱心に通って、治療をしてもらおうとしました。それこそ治療費に全財産をつぎ込んだのですが、それでも長血はちっとも良くならず、かえって悪化するような有様でした。中には、この女性を治せないのがわかっているのに、高額の治療費を請求するような悪質な医者もいたのだと思われます。こうして万策尽きて、財産も失い、疲れ果てて人生を諦めたような状態になった女性ですが、その時イエスという不思議な癒し人の噂を聞きました。この人はどんな病気でも治すことができる、そういう噂でした。とはいえ、自分は汚れた人間なので、宗教家はまともに会いに行っても相手にしてもらえないだろう、人々も自分に触れると汚れが移ってしまうというので、そのイエスという人に取り次いではくれないだろう、と思い、隠れてイエスを見に行きました。イエスの回りには人だかりができていて、こっそりイエスに話しかけるなどということはとてもできそうにありません。そこで、何とか人に知られずにイエスに触れようと考えました。どんな病でも癒すほど力のある神の人なら、その人に触るだけで治るかもしれない、いや治るに違いない、とそう信じたのです。まさに、藁をもすがる思いだったのでしょう。そこでイエスの着物の房に手を伸ばして触れました。当時のユダヤ人は、着物の四隅に房を着けていたので、それに触れたのです。

すると、長血の原因となっていたと思われる体のひどい痛みが直ったことを感じました。これは驚くべきことでした。それまでイエスは、病の人に自ら触れることで病を癒してきました。しかし、イエスのほうから近づく、触れるのではなく、相手の方から触れられるだけで人を治すということはこれまではありませんでした。つまり、イエスが意識しないで人を癒すということはなかったのです。しかし、今回はイエスも気が付かないうちに、イエスから力が出て人を癒したのです。ただ、イエスの側にも自分の中から力が出て行った、という感覚はあったので、イエスは誰が自分の着物に触ったのかを探そうとします。癒された女も、自分がイエスの許しも得ずに、汚れた身でありながらイエスに触ったということを咎められるかもしれない、と恐ろしくも感じていましたが、もう隠すことはできないと思い、思い切ってイエスの前に身を投げ出して、洗いざらい本当のことを離しました。しかし、イエスは叱るどころか、とてもやさしく彼女に接しました。

娘よ。あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して帰りなさい。

と、このように女性を安心させる、力強い言葉を与えてくれました。イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、これは確かに真実でしょう。実際、イエスはこの後に故郷のナザレに行きますが、そこでは村の人々がイエスのことを信じなかったので、何一つ癒しの業が行えなかった、という記事があります。イエスが行った癒しの業というのは、ある意味では私たち自身に備わっている癒しの力をイエスが引き出した、と言えるのかもしれません。もちろん、イエス自身には私たちを癒す力があるのですが、その力は私たちの願いや信頼なしに、一方的に働くものでもないのです。東方正教会の神学者であるカリストス・ウェアは「私たちは、キリストなしには何をすることもできないが、私たちなしには、神はどんなこともなさらないというのも真実なのである」と語りましたが、ここには深い真理があります。12年もの間治らなかったこの長血の女性が癒されたのも、どうしても治りたいという強い願いと、神にはどんな病をも治す力がある、という強い信頼があったからです。イエスは、この女性の中に自分を遣わした神への強い信仰があるのを見てとって、彼女を励まして、帰らせたのでした。

さて、この長血を患う女性との出会いは、イエスにとっていわば予期せぬ邂逅だったわけですが、この女性と話している間にイエスは本来の目的へと引き戻されます。ヤイロの娘の癒しです。なんと、この女性と話している間に、ヤイロの娘が亡くなったという一報があったのです。イエスと一緒に家に向かっていたヤイロは絶望のあまり言葉を失ったことでしょう。今目の前で、イエスの目の覚めるような癒しの業を見ました。自分がもう少しイエスを早く呼びに行ってさえすれば、娘は助かったかもしれないのに、という悔恨の思いでいっぱいになったでしょう。しかしイエスは、そのヤイロに言いました。「恐れてはいけない。ただ信じなさい」と。ヤイロは、今まさに長血を患う女の強い信仰を、そしてその信仰がどんな結果をもたらしたのかを目撃しました。イエスは、ヤイロにもそのような強い神への信頼を要求しました。イエス自身も、今自分が直面している状況は、これまでとは違うことは理解していました。これまで多くの人たちの病を癒してきましたが、しかし死んでしまった人を助ける、つまりよみがえらせる、という奇跡は行ったことはありませんでした。イエスは謙遜な人でしたから、自分には何でもできるというような万能感を感じていたわけではなく、むしろ自分は神の御心のみを行うことができると信じていました。ですから、早朝など人の見ていない所で神に祈り、御心を成し遂げる力を与えてくださいと祈り続けていました。そのようなイエスですから、自分なら死んだ人でも簡単によみがえらせることができる、などとは思ってはいなかったでしょう。しかし、イエスは神を心から信頼していました。また、かつて神はエリヤやエリシャという預言者たちを通じて、死んだ子供を生き返らせて親に返してあげたことがあったことを知っていました。だからイエスは、神は同じ力を自分にも与えてくださるだろうと信じ、ヤイロの家に向かいました。そして親であるヤイロにも、自分と同じように神に全幅の信頼を寄せることを求めました。

それからイエスは、大勢の取り巻きの中から、自分が信頼する三人の側近、それはシモン・ペテロとゼベダイの子ヤコブとヨハネの三人の弟子ですが、彼らだけを選び、ヤイロと合わせて五人だけで彼の家に向かいました。そしてヤイロの家に着くと、家の者や親類たちが大声で泣いている場面に遭遇しました。イエスは彼らに、子供は死んではいない、眠っているだけだ、と語りました。そうすると、人々はイエスのことをあざ笑いました。そこでイエスも彼らを遠ざけ、ヤイロとその妻、そしてイエスの側近の三人の弟子たちを引き連れて娘のところに向かいました。おそらくイエスは、不信仰な人たちがいることがこれから行おうとすることにマイナスであることを見て取ったのでしょう。イエスが必要だったのは、心から娘が生き返ることを望み、また心からイエスを通じて働く神の力に信頼する少数の信仰の人たちでした。彼らの祈りをも自分の力にして、イエスは少女に命じました。「起きなさい」と。すると、本当に少女は起き上がりました。止まっていた肺と心臓とが動き始めたのです。ヤイロとその妻、そしてイエスの三人の弟子たちは驚愕しました。しかし、おそらくイエスご自身も、自分の目の前で起こったことに深い感銘を受けたことだと思います。病を癒すことと、死んだ人をよみがえらせるということとは、次元の違う業です。イエスも、自らにそのような力を与えられた神に深く感謝したことでしょう。しかしイエスは、そのような大いなる神の業を喧伝することをお許しにはなりませんでした。死人をよみがえらせたとなると、既に大きなイエスの評判はさらに高まったことでしょうが、しかし神の業は見世物ではありません。むしろ、敬虔な人々の強い信仰のみがもたらすことのできる、稀有な事象なのです。イエスは自分が特別な力を持つ超能力者のように見られることを嫌いました。むしろ彼の業は、イエスの神への全幅の信頼とその歩み、またイエスを通じて働く神の業に信頼する人々の信仰の結晶と呼べるものでした。イエスに頼めば、あるいはお金を積めば、なんでもしてもらえるというような安直なものではなかったのです。それでイエスは、この驚くべき奇跡を他の人たちに伝えることを固く禁じました。

3.結論

まとめになります。今日はイエスが行った驚くべき十の奇跡の中でも、三番目と四番目の奇跡を学びました。この二つの奇跡には共通点がありました。それは神への強い信仰です。12年間も長血を患った女性は、神への信仰を何度も失いそうになったかもしれませんが、しかしそれを捨てることなく、ありったけの勇気と信仰を奮い起こして神の人であるイエスに近づきました。このイエスという人が本当に神の人なら、話さなくても、こっそり触るだけでも私は必ず癒されるという強い信仰を持ちました。また、ヤイロの娘の話も、もちろん死んだ状態にあったヤイロの娘には信仰を求めるべくもありませんが、その親のヤイロは強い信仰の人だったのが分かります。イエスも彼の平素からの信仰の歩みと、神への強い信仰を認めたからこそ、この驚くべき業を行うことを決意されたのです。

私たちも、信仰を持って歩んで参りましょう。今の時代に、イエスが起こされたような人目を驚かすような奇跡を私たちが体験することはないかもしれません。しかし、私たちが心から信じるならば、神はひそやかな、しかし驚くべき仕方で私たちの祈りに応えてくださるでしょう。それは、私たちが願った通りではないかもしれませんが、しかし神は私たちよりも私たちのことをご存じです。主は最良のかたちで私たちの祈りに応えてくださいます。「信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」この信仰を胸に今週も歩んで参りましょう。お祈りします。

イエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。今朝は、人々の強い信仰に応えて、イエスを通じてあなたがなさった大いなる御業を学びました。神は今日でも聖霊を通じて働き続けておられ、私たちの祈りに応えてくださることを感謝します。「恐れないで、ただ信じていなさい」というイエス様の言葉を胸に、今週も歩むことが出来ますように。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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