信仰、希望、愛
第一コリント12章31~13章13節

1.導入

みなさま、おはようございます。5月も終わろうとしていますが、初夏を思わせるような日が続きますね。これから梅雨の季節が続くと思うと少し気が重いですが、新しい階段のおかげで、雨が降っても安心して教会に来られるようになったことは大変大きな恵みです。

 さて、今日の箇所はパウロの第一コリント書簡の中でも最も有名な、いやおそらくは聖書全体の中でも最も有名な箇所だとすらいえるかもしれません。キリスト教は「愛の宗教」だと言われますが、ではその愛とは何かについて最も簡潔に力強く語っている箇所だからでしょう。今日の説教タイトルは「信仰、希望、愛」となっていますが、今日の話は信仰、希望、愛の三つについて等しく語ろうというのではありません。むしろ、キリスト教信仰においてきわめて大切なものだとされる信仰や希望よりも、なぜ愛がさらに大いなるものだと言えるのか、そのことを考えてみたいのです。

キリスト教における「信仰」の大切さは言うまでもありません。「信仰義認」という教理によれば、私たちが救われるのは私たちの信仰のゆえであり、誤解をおそれずにいえば、私たちの愛のゆえに救われるのではありません。私たちが神を、そしてキリストを信じる信仰によって私たちは救われるのであり、私たちが隣人を愛するその愛のゆえに私たちが救われるのではありません。むしろ、「神様、この愛のないわたしを救ってください」と祈ることの方が多いのではないでしょうか。救われる条件として、「愛すること」が条件になってしまうと、ではどの程度愛すればよいのか、また誰を愛すればよいのか、というなかなか難しい神学的問題が生じてきてしまいます。もし完全な愛が救いの条件だとすれば、マザー・テレサのようなごく少数の聖人以外、誰も救われなくなってしまいます。それゆえ、どうすれば救われるのかということが問われた宗教改革の時に強調されたのは「信仰」であって「愛」ではありませんでした。

 そして、「希望」も「信仰」と並んでキリスト教においては極めて大切なものです。20世紀後半のキリスト教の神学は、しばしば「希望の神学」と呼ばれます。20世紀後半は、二度の世界大戦や核戦争の脅威などによって未来に希望が持ちづらい時代でした。19世紀には、人類の科学文明がどんどん進歩して、いつかユートピア的な世界が実現するだろう、というようなことが語られていました。しかし、ホロコーストや原爆投下など、それまでの人類が経験してこなかった空前の規模の破壊と狂気を目のあたりにして、そんな楽観的な展望が吹っ飛んでしまったのです。そんな時に、キリスト教信仰の根本は未来への希望にある、未来において神が悪に完全に勝利されるという終末論的希望、それこそがキリスト教信仰の中核なのだ、ということが叫ばれるようになりました。そのために、20世紀後半の神学は「希望の神学」だ、と言われてきたのです。

 このように、信仰や希望は極めて大切なもので、パウロもこの二つを「いつまでも残るもの」と呼んでいます。しかし、しばしば教会では信仰や希望の大切さの陰に隠れて、愛の問題がおろそかになってしまうことがありました。この愛は「愛されること」、つまり神様が罪びとの私たちを愛してくださるという受け身の愛のことではなく、私たちが他の人々を積極的に「愛すること」、そのような能動的で利他的な愛です。なぜ愛がしばしば教会の中で軽視されてしまうのかといえば、それが「行い」と結び付けられてしまうからかもしれません。キリスト教の愛とは、好きな人に好意を抱くというような常識的な愛を超えて、敵をも愛するような積極性、また行動を伴う愛のことを指します。しかし、このように人間側の積極性を強調すると、恵みのみで救われるという、プロテスタント教会が強調してきた受け身の姿勢、絶対他力の姿勢が弱まってしまうのではないか、という心配が生じてしまうのです。しかし、この「受け身」の姿勢、神の側の一方的な恵みを強調するあまり、愛の実践がおろそかになる、これがプロテスタントの一番弱い部分なのかもしれません。そのような自省をこめて、今日のパウロの言葉としっかり向き合ってみたいと思います。

2.本文

さて、まず今日のテクストを読むにあたって、これまでの文脈を振り返ってみたいと思います。コリント人への手紙全体を通じて取り扱われている問題は、「教会の分裂」という問題でした。コリントの教会には、いくつかの派閥に割れてしまっているという根本的な問題があり、その上に様々な問題が生じました。教会員が世俗の裁判所で互いに訴えあったり、お金持ちの教会員が貧しい教会員を辱めたり、あるいは偶像にささげられた肉に関係して「偶像礼拝」の問題を巡って教会員の中で意見が割れたりなど、様々な問題が出てきたのです。これらの問題の根底にあるのは、愛の欠如でした。

パウロは12章からまた新しい問題を取り扱います。それは「霊的な賜物」、特に異言語りの問題でした。コリントの教会員は、自分が他の教会員よりも優れていることを示すのに熱心でした。彼らは知恵において自分は優れていると、互いに誇りあい、競い合っていたのですが、そのような競争意識をいたく刺激したのが、誰が最も「霊的な賜物」を持っているのか、ということでした。聖霊の働きというと、私たちは特別なカリスマを持った人にだけ与えられるもの、特殊なものだと考えがちですが、初代教会の時代には、聖霊の働きがきわめて強力であり、使徒と呼ばれる特別な人々ではない、一般の信徒にも、多くの御霊の賜物が与えられていました。ペンテコステの日に、使徒たちは習ったこともない外国の言葉で福音を語り始めた、という奇跡が語られていますが、そのような外国語よりもさらに高度な言語として、「天使たちの語る言語」というものがあったようなのです。これが異言語りです。この天使の言葉を語って、自分は特別に霊的な存在なのだということを周りの人たちに示そう、誇ろうとした人たちがいたのです。

そんな彼らに対し、パウロは御霊の賜物には優劣はない、と諭します。聖霊は御自身の自由な主権と判断によって、ある人には異言の賜物を与えますが、他の人には教える賜物、他の人には管理する賜物、また他の人には病気を癒す賜物を与えます。それらはすべて神の教会を建て上げるためであり、体がすべて眼や足だけで出来ているのではなく、様々な肢体によって構成されるように、教会もまた、様々な賜物を持った人々によって構成されているのだ、と論じます。そして最後にこう語るのです。

あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

この手紙をここまで聞いていたコリントの教会の人々は、ではその「よりすぐれた賜物」とは何なのか、と思ったことでしょう。自分もそんな偉大な賜物が欲しい、と思ったことでしょう。そしてパウロは有名な「愛の讃歌」を語り始めます。そうすると、「よりすぐれた賜物」とは「愛」のことなのか、と思われるかもしれません。しかし、そうではありません。むしろ、「愛」とは、聖霊から私たちに与えられる賜物をどのように用いるべきなのか、その用い方に関わるものでした。パウロは13章1節から3節まで、様々な御霊の賜物について語ります。「異言の賜物」、「預言の賜物」、「あらゆる奥義」や「あらゆる知識」、あるいは「山を動かすほどの完全な信仰の賜物」です。これらの賜物は、コリントの人々が熱心に追い求めていたものでした。パウロも、もちろんこれらの御霊の賜物の高い価値を認めています。コリントの人々に、それらを熱心に追い求めなさい、とも言っています。しかし、パウロが問題にしたのは、何のために、またどのようにそれらの賜物を用いるのか、ということでした。自分が他のクリスチャンより優れていることを示すために、そうやって誇るために、そうした賜物を用いるのだとしたら、それには何の価値もない、ということをパウロは語っているのです。そのことを最も端的に示しているのは次の一節です。

また、たとい私が持っている物を全部貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。

愛のため以外に、持っている物を貧しい人に与えるなんてことがあるだろうか、と思われるかもしれませんが、ある人は自分が立派な人であることを他の人に示すために貧しい人に物を与えるというようなことがあったようなのです。使徒の働きによれば、エルサレムの初代教会では貧しい人を助けるために、教会員は自分の家を売ってその代金を共有財産にして、互いに支え合ったということが書かれていますが、アナニヤとサッピラという夫婦は家を売った代金を一部自分の手元に残しておきながら、使徒たちには家の代金の全部ですという嘘の申告をして、神の裁きを招いたという話が使徒の働き4章に記録されています。この夫婦がなぜそんな嘘をついたのかと言えば、それは自分が立派な人物だと見せるため、いわば見栄を張るためにそういうことをしたのです。パウロによれば、もしアナニヤとサッピラが嘘をつかずに全額を教会にささげたとしても、それが仲間を支えようという兄弟愛のためではなく自分をよく見せたいという見栄のためなら、それは無意味だ、ということになります。また、「自分のからだを焼かれるために差し出す」とはどんなことかと言えば、実際初代教会では信仰のためにからだを焼かれた人がいたのです。キリスト教の歴史の最初期の大迫害は、ローマ皇帝ネロによる迫害で、それは紀元64年にローマで大火災があったとき、皇帝ネロが自分の放火を疑われたのでキリスト教徒に罪をなすりつけたという事件です。その時に使徒ペテロやパウロが殉教したと言い伝えられています。キリスト教徒は松明の代わりに生きたまま燃やされたと言われています。もちろん教会の人々は大きなショックを受けたわけですが、だんだんとこういう殉教者が英雄視されるようになります。カトリック教会では、信仰のために殉教した人は「聖人」として人々から大きな尊敬、場合によっては信仰さえ集める場合があります。あの人の信仰は素晴らしい、死をも恐れぬすごい信仰だ、と褒められるのです。しかし、パウロはそのような名誉を得たいという動機で殉教をするのは無意味だ、と言います。イエス様も人から比類のない全き信仰を褒められたいから、讃えられたいから十字架に架かられたのではありません。むしろ、他人のために、他の人たちの益となるために、十字架に架かられたのです。まさに私たちへの愛のために死なれたのです。もちろん、死をも恐れぬ信仰は立派なものです。迫害を恐れて、自らの信仰を隠したり、否定したりすることを主が喜ばれないことを聖書は再三語っています。私たちは臆病であってはならないのです。しかし、そのような強い信仰も、愛のために用いられなければ意味がないのです。主への愛の為、また他の人々への愛のためにこそ、死をも恐れぬ信仰は発揮されるべきなのです。さらにはこのような強靭な信仰そのものが御霊の賜物であることを忘れてはなりません。私たちは信仰によって救われますが、その信仰そのものが神からの賜物です。ですから私たちは自分の信仰を誇ることは出来ません。そして、信仰とは自分のものではなく賜物であり、そして信仰は愛のためにこそ用いられるものなのです。

 それからパウロは愛について、さらに詳しく論じます。まず、パウロは愛が神のご性質そのものであることを指摘します。神は愛です。愛は忍耐強く、情け深いものです。パウロはローマ書2章4節で、神が豊かな慈愛と寛容と忍耐を持った方だと語っていますが、それとそっくり同じ言葉が今日の第一コリントの4節でも語られます。ですからパウロが愛は寛容であるとか、愛は情け深い、あるいは愛は忍耐をする、という場合、「愛」を「神」と言い換えて、神は寛容であり、情け深く、忍耐をされる方だと言ってもそのまま意味が通ります。パウロが私たちに愛を持ちなさい、というとき、つまり私たちに神のようになりなさい、神の愛のご性質に倣いなさい、学びなさい、と言っているのです。そして神をイエスと言い換えることもできます。イエスは寛容で、情け深く、忍耐をする方であるように、あなたがたも寛容で、情け深く、忍耐をする者でありなさい、と言っているのです。

またパウロのこの一連の愛の教えが、第一コリントの他の内容と密接に結びついていることに注意しましょう。パウロは、「愛はなになにではない」という反対命題の形で愛について語ります。「愛はねたまない」という言葉は、第一コリント3章3節の

あなたがたは、まだ肉に属しているからです。あなたがたの間のねたみや争いがあることからすれば、あなたがたは肉に属しているのではありませんか。そして、ただの人のように歩んでいるのではありませんか。

という勧告と響きあっています。コリントの人たちが互いに妬みあっているのは、彼らに愛が欠けている何よりも証拠なのです。

また、次の「愛は自慢せず、高慢になりません」という言葉は、8章1節の

しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は人の徳を建てます。

というパウロの言葉を思い起こさせるものです。コリントの人々は自分たちの知識を誇りあって競争していましたが、誇りは人を高ぶらせます。しかし愛は人を謙虚にさせ、また人と人とを結びつけるのです。

さらに、「愛は自分の利益を求めない」という一文は、この書簡の10章24節の言葉を思い起こさせます。

だれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

コリントの人たちは自分たちの利益を追い求めて互いに争っていましたが、これも愛の欠けている証拠でした。「愛は不正を喜ばない」、という言葉もパウロのこれまでの勧告を思い起こさせます。この手紙の6章7節では、互いに訴えあうコリントの人たちに向けて語ったパウロの言葉を思い起こさせます。パウロはこう言いました。

そもそも、互いに訴え合うことが、すでにあなたがたの敗北です。なぜ、むしろ不正をも甘んじて受けないのですか。なぜ、むしろだまされていないのですか。

不正を喜ばないというのは、不正な相手を訴えなさい、ということではありません。むしろ不正を理由に相手を訴えるよりも、むしろそのような不正を甘んじて受けなさい、とパウロは大胆に語りました。愛は不正を喜びませんが、そのために争うことはせず、むしろ不正に耐える力を与えてくれるのです。

このように、パウロの13章の愛の讃歌は、まさに第一コリントで語られてきた様々な内容を凝縮し、まとめたもの、総集編だとすら言えます。コリントの教会が問題のデパートと呼びたいほどに様々な問題に苦しんできたのは、一言でいえば「愛がなかった」ためなのだ、ということなのです。

パウロは愛が「すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」と言います。ここに「信じる」、また「希望を持つ」という二つの動詞が使われていることに注意しましょう。私たちの信仰や希望も、愛に基づいているのです。未来への希望も、愛に基づかなければ無意味です。自分だけの利益を求める人が思い浮かべる未来とはどんなものでしょうか?自分の願いが何でも叶うような未来でしょうか。しかし、自分だけが幸せになって他の人は幸せになれない未来があるとしたら、そんなものが素晴らしい未来でしょうか?そんな世界を私たちは心から楽しむことができるでしょうか。ですから、希望も、愛に基づかなければ無意味なのです。私だけではなく、あなたの、また他の人にとっても素晴らしい未来を願うこと、これこそがキリスト者の希望なのです。そしてパウロはこう語ります。

愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。

これはどういう意味かといえば、預言や異言や知識はみな素晴らしい御霊の賜物ですが、しかしこれらの賜物が必要とされるのは、神の国の完成、新しい天と新しい地が完全に実現する時までの中間的な時代、キリストが再臨されるまでの今の時代までだということです。その時が来れば、私たちは神と顔と顔を合わせてお会いすることができます。天使たちの語る天上の言葉を誰もが話せるようになるでしょう。また、今では隠されている多くのことについても、完全な知識を得ることができるでしょう。今の私たちは幼子のようなもので、神とその世界についての多くのことについて子供のような知識しか持ち合わせていませんが、その時になれば大人としてそれらを知るようになるでしょう。しかし、そのような終末における完成の時でさえ、ますます必要とされ、その輝きが衰えないのが「」です。私たちが新天新地の時代に生きるとき、私たちの新しい命の根本原理となるのが「愛」なのです。そして教会とは、その素晴らしい時代の前味を味わうところです。ですから、教会のすべてのわざは愛に基づいている必要があるのです。

3.結論

今日は、「信仰、希望、愛」と題して、愛という観点から信仰や希望、そしてキリスト者としての歩み、また神の教会の歩みはどうあるべきか、ということを教えられました。私たちは主から恵みによって召された者として、神から様々な賜物を与えられています。私たちは教会に仕え、またこの世に仕えていくために、こうした賜物、タラントを積極的に活用していく必要があります。そして、その賜物を用いる目的また目標が「愛」である、ということを学びました。愛とは、簡単に言えば他人の幸せとその成長を喜ぶ心です。自分のことばかり考え、自分の利益に囚われてしまうという状態から抜け出して、自分と同じように他人の必要について考えられる状態です。神は私たちがそのような者となるようにと、私たちを召して下さいました。私たちはこれからも、豊かな賜物を神に願っていきましょう。そして、それにもまして、その賜物を愛をもって用いることができるように祈って参りましょう。お祈りします。

天におられますわれらの父よ。今日は使徒パウロの素晴らしい愛の賛歌を通じ、私たちがどう生きるべきか、またあなたから頂いている様々な賜物をどのように用いるべきかを学びました。愛こそがもっとも大切なことを改めて学びました。私たちが愛をもって歩めるように強めてください。われらの救い主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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