屠り場に引かれる羊
エレミヤ章11章18節-12章6節

1.導入

みなさま、おはようございます。この2か月の間、私たちの関心を占め続けてきたコロナウイルス問題も、ようやく収束が見えてきたように思います。もちろん現段階で油断することはできませんが、だんだんと普通の生活が戻ってきています。しかし、そうなってくると、私たち日本に暮らす者がどうしても向き合わなければならない現実が頭をもたげてきます。それは地震です。地震の脅威については、それこそ予言のように常に言われ続けてきました。東海大地震、首都直下型地震、南海トラフ大地震、そして最近では北海道で地震に対する注意が喚起されています。まさに日本は地震列島であり、地震は日本に暮らす者が避けて通れない宿命だといえるでしょう。

しかし、避けることのできない地震とは違い、避けることのできる災害もあります。その最大のものが原発事故です。原発事故を避けることは簡単です。原発を止めればいいのです。この地震列島で原発は間違いなく危険です。これから必ず起こるといわれる南海トラフの大地震は四国、近畿、東海など、原発が数多くある地域を襲うと言われています。福島原発事故も、収束には程遠い状況です。東京オリンピック招致のためのスピーチで、安倍総理は福島は「アンダーコントロール」だと言っていましたが、今や汚染水を海に放出しなければならない事態になっています。福島原発のメンテナンスにはすでに20兆円もの資金が使われています。この金額は、いずれ私たちの電気料金や税金に跳ね返ってきます。第二の原発事故が生じてしまったら、いったい誰がそれを支えるのでしょうか。また、原発の事故がひとたび発生すれば、少なくとも100年間はその後始末に追われます。原発をやめるべきなのは明らかです。

しかし現実は全く逆です。福島事故当初は、政府は2030年までに原発をゼロにするという方針を打ち出しました。けれども、世間が段々この問題に関心をなくしていくなかで、今では2030年に原発エネルギーを全体の2割にする、という話にすり替わってしまいました。そして原発は次々と再稼働しています。核のゴミを処理するために造られた青森の六ケ所村、ここでは使い道の分からないウランやプルトニウムを取り出すことになっていますが、その本格稼働が近いという報道もありました。原発が再稼働していく背景には、原発推進派の政府や電力会社の動きが当然ありますが、それだけでは原発は動かせません。原発を受け入れる地域住民がいなければ、再稼働は不可能です。原発などという恐ろしいものを、自分の住む町に建ててもいいというのは、どういう神経なのか、と私たちは思うかもしれません。しかし、原発なしで失業して貧困に甘んじるか、あるいは原発のお蔭で比較的豊かな生活が送れるのとどちらがいいのか、という究極の選択を突き付けられれば、私たちだって後者だと答えてしまうかもしれません。そういう切実な現実に生きる人からすれば、原発反対などと騒いでいられるのは、生活の心配のない人たちのきれいごとにすぎないのかもしれません。

さて、このような話をしたのも、この話が今日お読みいただいたエレミヤと神との対話を理解する上で重要だからです。今日お読みいただいたところは、エレミヤが生まれ育った故郷の村であるアナトテの人々が、自分の郷里から出た預言者であるエレミヤを殺そうと企むという話です。なんで自分たちの郷里出身のエレミヤを殺そうなどと企てたのか、それはエレミヤのやっている活動のせいで、彼の郷里の人々が仕事を失うはめになったからです。エレミヤのやっていることが正しいのかどうかという以前に、彼のやっていることが自分たちの生活の基盤を壊していると、そう判断したので、親族である彼を殺害しようとまで思い詰めたのです。これはエレミヤにとっても、アナトテの人々にとっても悲劇でした。そのことを学んでいきたいと思います。

2.本文

まず、11章の18節と19節を読んでみましょう。

主が私に知らせてくださったので、
私はそれを知りました。
今、あなたは、彼らのわざを、私に見せてくださいました。
私は、屠り場に引かれて行くおとなしい小羊のようでした。
彼らが私に敵対して、「木を実とともに滅ぼそう。
彼を生ける者の地から断って、その名が二度と思い出されないようにしよう。」
と計画していたことを、私は知りませんでした。

ここでいう「彼ら」とは、エレミヤの生まれ育ったアナトテの人たちのことです。彼の家族や親類、幼馴染もいかのかもしれません。エレミヤは彼らのことをまったく警戒していませんでした。むしろ自分の味方だと思っていたのでしょう。ちょうどこれから殺されるために引っ張られていく小羊が、自分の飼い主のことを信頼しきって、自分が彼に殺される運命にあるとはつゆほども思っていない、そんな状態です。しかし、アナトテの人々のエレミヤへの敵意は、エレミヤの想像をはるかに超えたものでした。何が彼らをそんなに怒らせたのでしょうか?

ここで覚えたいのは、アナトテとは祭司たちの住む村だったということです。祭司にはイスラエル12部族のレビ人だけがなれるのですから、彼らはレビ人でした。しかしアナトテはベニヤミン族に割り当てられた土地でした。ではなぜエレミヤたちレビ族の人たちがベニヤミン族の地に住んでいたのでしょうか。もともとエレミヤは、大祭司エリに遡る由緒正しい家柄でした。大祭司とは、日本で言えば天皇のような存在ですから、エレミヤの祖先はレビ族の中でもエリート中のエリート、日本で言えば皇族のような存在でした。しかし、サムエル記を読んでいる方はご存じのように、エリの一族はサウルとダビデとの争いに巻き込まれ、紆余曲折を経た後に、中央政府での祭司のポストを失い、寒村であるアナトテに島流しになってしまったのでした。つまりエレミヤは没落貴族の末裔だったのです。地方に流されたエレミヤの一族は、それでも細々とアナトテで祭司としての仕事を続けていました。エレミヤが預言を始めた時の王であるヨシヤ王の時代までは、ユダヤの各地方には数多くの聖所、神殿がありました。アナトテもエルサレム神殿とは比較にならないものの、小さな神殿を持っていたので、そこに礼拝に来る人たちがいました。日本でも京都に八坂神社という総本山がある一方、全国各地にも八坂神社があります。当時のイスラエルも、各地にミニ・エルサレム神殿があったのです。エレミヤの一族はそうした参拝者たちによって生活を支えられていました。

しかし、ヨシヤ王はそのような全国各地の神殿や聖所を廃止し、エルサレムの神殿一つだけにするという宗教改革を始めたのです。その背景には、地方の神殿では宗教の混合現象が進んでいたことがありました。日本でも神仏習合という現象があり、日本古来の神道と仏教のお寺が合体してしまうというようなことがありましたが、イスラエルでもアブラハム・イサク・ヤコブの神と、カナンの豊穣の神様バアルを一緒に拝むような現象が生まれていました。それらを切り離すのが困難だと見て取ったヨシヤ王は、地方の神殿や聖所を廃止し、首都エルサレムの神殿に一本化し、そこでの礼拝では唯一の神のみを礼拝するという徹底した宗教改革を行ったのです。ヨシヤ王は正しいことをしました。偶像礼拝の結果引き起こされる神の怒りから、イスラエルの民を救おうとしたのです。しかし、彼の正しい行為から不利益を被る人たちもいたのです。ちょうど原発を止めることが多くの住民の安全のためには良いことでも、原発がなくなることで経済的に不利益を被る人がいるように。

ヨシヤ王のために困った状況になる人たち、それはアナトテの祭司たちのような地方の神殿を司る祭司たちでした。彼らはヨシヤ王の改革の結果、みな失業してしまいます。アナトテの祭司たちも当然不満を持つでしょうが、いかんせん王様の命令なので表立っては反対できません。しかも、これは神ご自身の御心なのだ、神のご命令なのだと言われてしまえば、神に仕える祭司たちとしてはどうしようもありません。けれども、あろうことか自分たちの仲間の一人だと思っていたエレミヤが声高にこの地方の神殿廃止の計画に賛同し、しかも神の名によってそれを預言しているとなると、穏やかな気持ちではおれません。こいつは裏切り者だ、我々を助けるどころか、失業させようとしている、と思うわけです。ちょうど原発のお蔭で生活している家族の中で、原発反対を叫ぶようなものです。こいつを黙らせなければならない、ということになります。

では、実際にどのタイミングでアナトテの人たちがエレミヤ殺害を企てたのか、詳しいことは分かりません。今日の箇所は、前後の流れからするといきなり出て来たような印象を与える箇所だからです。しかし、なぜアナトテの人たちが自分の身内に殺意まで抱くようになったのか、その背景にはこうした経済的な問題、生活上の問題があったことは想像に難くありません。

しかし、エレミヤにはまったく寝耳に水の事態でした。彼は別に自分の親族が失業して欲しいなどと願ったのではありませんでした。ただ神から示されたこと、正しいことをしていただけなのです。その正しいことが自分の身内の不利益になり、その結果彼らの殺意を招くとは思いもよらないことでした。エレミヤは、「主が知らせてくださったので、私は知った」と言っています。おそらくこれは、神が誰かを遣わしてエレミヤに陰謀を伝えたということなのでしょう。驚いたエレミヤは、神に復讐を求めます。それが20節に書かれています。

しかし、正しいさばきをし、
思いと心をためされる万軍の主よ。
あなたが彼らに復讐するのを
私は見ることでしょう。
私が、あなたに私の訴えを打ち明けたからです。

聖書は私たちが自分で復讐をすることを禁じています。「復讐するは我にあり」という言葉にあるように、復讐は神のなさることであり、私たちは神の正しい裁きにお委ねすべきだ、というのが聖書の教えです。エレミヤもまさにそのようにしました。突然陰謀を知らされたエレミヤはひどく動揺し、自分を殺そうとする親族たちに激しい怒りすら覚えました。しかし、自分では復讐に手を染めることなく、神にそれを願い求めるのです。この復讐を求める祈りは、エレミヤのショックがどれほど大きかったのかを示すものだと言えるでしょう。

神はエレミヤの祈りにこう応えています。

見よ、わたしは彼らを罰する。
若い男は剣で殺され、
彼らの息子、娘は飢えて死に、
彼らには残る者がいなくなる。
わたしがアナトテの人々にわざわいを下し、
刑罰の年をもたらすからだ。

と、このような厳しい裁きを宣告します。エレミヤの復讐を求める祈りは、100%聞き届けられたように思われました。

しかし、実際にはそのような裁きは起こらなかったようです。少なくとも、エレミヤが期待するほど速やかにはそうした裁きは起きなかったのでしょう。12章以下の、エレミヤと神との対話はそのことを示唆しています。ここでエレミヤは神に不平を述べています。裁きが起こると思ったのに、何の裁きも起きないではないかと。ちょうどヨナが、アッシリアの首都ニネベに降る神の裁きを予告したのにそれが起こらず、へそを曲げたときのような事態が起こったようなのです。そこでエレミヤは、神を訴えようとしています。あなたの裁きは正しくない、と。

主よ。私があなたと論じても、
あなたのほうが正しいのです。
それでも、さばきについて、
一つのことをあなたにお聞きしたいのです。
なぜ、悪者の道は栄え、
裏切りを働く者が、
みな安らかなのですか。

と、こう神に呼びかけます。神は自分よりも正しい方であることを認めつつも、今目の前で起きている現実は、あなたの正しさに疑問を投げかけるものだ、と論じようとしているのです。その目の前の現実とは、悪人が栄え、裏切り者が安らかであるという現実です。エレミヤにとっての裏切り者、悪人とは、同郷のアナトテの人たちです。自分は何も悪いことはしていない、神様の御心に従って正しいことをしただけだ、その自分を殺そうとするなんて、アナトテの人たちは許せない、神様、なぜ彼らを野放しにするのですか?とエレミヤは神に抗議しているのです。自分は彼らによって、屠り場に引いて行かれる子羊のように殺されそうになったけれど、彼らこそが屠られるべきだ、と神に訴えます。それが12章3節の後半です。

どうか彼らを、ほふられる羊のように
引きずり出して、
虐殺の日のために取り分けてください。

と神に願っています。私たち主イエスの教えを知る者は、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」というイエス様の教えを思う時、このエレミヤの言葉に強い違和感を覚えてしまうかもしれません。旧約聖書はこういう復讐の祈りが多くていやだ、という方もおられます。それでも、私たちも心から信頼していた親しい人に裏切られたと知った場合、なかなかその人のことを赦せないでしょう。クリスチャンも生身の人間です。頭ではわかっていても、なかなか心の底では許せないということもあるでしょう。エレミヤの場合も、自分の心を繕わずに、ありのままを神に訴えているのです。実に人間臭い預言者であり、だから私たちも彼にどことなく親しみを覚えるのかもしれません。

このエレミヤの捨て身の訴えについて、しかしこの度は、神は、「わかった、あなたのために私がすぐに復讐しよう」とはお答えにはなりませんでした。

神がなぜ彼らに速やかに罰を下さなかったのか、その理由は書かれてはいませんが、おそらく神の願いは、彼らを罰することよりも、彼らが悔い改めることにあったのでしょう。彼らもまたアブラハムの子であり、神の民なのです。彼らがエレミヤにしようとしたことは、もちろん悪いことです。しかし、彼らもまた追い詰められていたのです。彼らも生活の手段が奪われそうになっていた、社会的な弱者だったのです。彼らのエレミヤへの恨みは逆恨みだったかもしれませんが、しかし彼らもまたやり場のない憤りを抱えていたのです。神の御心は、彼らが悔い改めることでした。もし彼らが悔い改めれば、神は喜んで裁きの宣告を撤回し、彼らが正しい道を選ぶのを喜ばれたでしょう。神は後に預言者エゼキエルに対し、「しかし、悪人でも、自分がしている悪事をやめ、公義と正義とを行うなら、彼は自分のいのちを生かす。彼は反省して、自分のすべてのそむきの罪を悔い改めたのだから、彼は必ず生き、死ぬことはない」(エゼキエル18:27-8)と言われました。アナトテの人たちにも、神は悔い改めのチャンスを与えようとしておられたのです。しかし、今の思い詰めたエレミヤにはそこまでのことを考える余裕はなかったのかもしれません。

そのようなエレミヤに対し、神は「あなたも私のようにもっと憐れみ深くなりなさい」というような説教をしませんでした。エレミヤだって、それができれば最初からそうしているのです。そうできないのが人間なわけで、神もそのことは十分承知しておられるのです。むしろ神はエレミヤに、視野を広げなさい、視線を高く持ちなさい、と促します。神はエレミヤに、あなたはアナトテの人たちのことで頭が一杯かもしれないけれど、そんなことでどうする、あなたは彼らよりもずっと手ごわい人々に立ち向かわなければならないのだ、と注意を促します。もしあなたが人間と駆けっこの競争をして疲れ果ててしまうのなら、どうやって馬と競争するというのか?あなたはこれから馬に乗った人たちと競わなければならないのだ。あなたはこれからジャングルのような状況で働かなければならないのだ。アナトテの身内の者たちとのけんかで疲れ果ててしまってどうする、あなたにはもっと大きな仕事があるのだ!とエレミヤにはっぱをかけているのです。「騎馬の人たち」とは、アナトテの人たちよりもずっと手ごわい、中央の権力者たちです。これからエレミヤは地元の知人たちにだけでなく、エルサレムの神殿を管理する大祭司たちや群衆からも命を狙われることになるのです。それはエレミヤが神の裁きとしてエルサレムの神殿が破壊されると預言をしたからでした。エレミヤにはこれから更なる困難なミッションが待ち受けていたのです。その困難な仕事と比べれば、今の試練など「平穏な地」での出来事に過ぎない、と語り、神はエレミヤを奮い立たせようとしたのです。

3.結論

さて、今日のエレミヤの問題は、今日に生きる私たちにも他人ごとではない話です。私たちも、正しいとはわかっていても、それが自分の損になること、もっと言えば自分の生活の安定を壊してしまうことになることは、避けて通りたいと願うものです。

アナトテの人たちのような立場に自分が置かれたら、どうでしょうか。良い悪いの問題ではない、生活がかかっているのだ、という状況に自分が置かれて、果たしてどう行動するでしょうか。ここで覚えたいのは、神は、私たちのジレンマをご存知だということです。神は私たちよりも私たちのことをずっとご存じなのです。神はアナトテの人たちに復讐すると言われましたが、エレミヤが不満に思うくらいに、裁きを遅らせました。神は、私たちの弱さや事情をよく分かっておられます。どんな状況においても、常に正しいことができれば苦労はないですが、私たちはそのように理屈通りには動けない無力な存在でもあります。神はそんな私たちを理解し、辛抱強く待ってくださるのです。しかし、だからといって、いつまでもほおっておいてよいということではありません。福島原発についても、警告は何度もなされていたのです。私たちも原発の危険性についてどこかで聞きながら、自分には関係ないとスルーしていなかったか、と自らに問うてみるべきかもしれません。なぜ神は原発事故を許したのか、と神に問う前に、ではなぜ神からの警告を無視し続けたのか、と自らに問わなければなりません。私たちは弱いですが、しかし私たちは考えることも、判断することも、警告を聞くこともできます。警告を真剣に受けとらない、自らを省みる必要があるのではないでしょうか。

今日の温暖化問題や環境問題も、突き詰めれば経済の問題、生活の問題です。二酸化炭素の排出を削減するにはどうすればよいか?答えは簡単です。経済の動きを緩めればよいのです。今回のコロナ問題で、図らずもそのことが証明されました。都市封鎖をしている間、中国の大気汚染の問題はなくなったと言われています。しかし、そうすると経済は低迷し、失業者は増えて、皆の生活が破壊されるという反論が必ずなされます。確かにそうでしょう。しかし、だからと言ってこのまま突き進んでしまって良いはずもないのです。ですから、私たちは真剣にこうした問題に立ち向かわなければなりません。一朝一夕には解決できないでしょう。そして、皆が等しく、ある程度の不利益を共有する必要があるでしょう。特定の人たちだけに不利益を集中させてはならないからです。今回のコロナ問題のみならず、私たちはこれからいくつも困難な状況に直面し、難しい決断を迫られていくでしょう。そんな時に答えはすぐに見つからないかもしれません。しかし、大事なことは、他人任せにせずに、自分の問題として受け止め、主に祈りつつ正しい道を探し求めるという姿勢を持ち続けることです。主が私たちを導いてくださるように、祈りましょう。

歴史を導き、同時に私たち一人一人の心を探られる神よ。その御名を賛美いたします。今日は、預言者エレミヤが自分の親類縁者からの迫害に苦しむさまを見ながら、様々なことを思わされました。私たちの行動は、たとえそれが正しいものでも、他の人を傷つけてしまうことがあります。それは感情の問題だけでなく、生活の問題であることもあります。しかし、私たちは日々色々なことを決断して生きていかなければならない存在です。私たちは愚かで、知識も乏しいものですが、どうか主が私たちに知恵を与え、神の御心に沿うように生きることができるように、どうか力を与えてください。私たちの導き主、イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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