聖霊に従って歩むとは?
ガラテヤ書簡5章13-25節

1.導入

みなさま、おはようございます。そしてペンテコステおめでとうございます。今日は、ペンテコステ主日ということで、エレミヤの連続説教をお休みして、「聖霊」をメッセージの中心に据えてお話ししたいと思います。

ここで皆さんと少し考えてみたいのですが、私たちは祈りの生活のなかで、どれくらい「聖霊」を意識しているでしょうか。祈る時に私たちは「天におられる父よ」と呼びかけ、私たちのこころは父なる神に向けられています。また、「イエス様、助けてください」、「イエス様、お願いします」と、主イエスに直接呼びかけることも多いですし、また祈りの締めくくりでは「イエス・キリストの聖名によって祈ります」と、父なる神への祈りも、仲保者であるキリストを通して祈っています。しかし、「私たちのうちにおられる聖霊様」ですとか、「聖霊様を通じて祈ります」とはほとんど言わないのではないでしょうか。でも、実際には私たちの祈りにおいて、聖霊ほど大事な方はいないとすら言えます。例えば使徒パウロは次のように言っています。ローマ書8章26節をお読みします。

御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

このように、私たちがどう神に祈ってよいのか分からないとき、私たちの言葉にならない心の奥底の深い願いや恐れなどを、聖霊様は私たちのために神に伝えてくださっているのです。聖霊は私たちの日々の信仰生活にとって、一番身近で頼りになる存在です。主イエスも、最後の晩餐の席で、ご自分が天に戻られると聞いて不安になっている弟子たちに、心配ない、むしろ私が去ることで聖霊が来るのだから、そのほうがあなたがたにとって良いのだ、とまでおっしゃっています。ヨハネ福音書16章7節をお読みします。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。それは、もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします。

ですから、聖霊とはイエスが天に去られた後の私たちの人生の同伴者であり、私たちにとって最も身近な神様なのです。しかし、天地万物の創造者である父なる神や、歴史上の人物でもある子なるイエス様に比べて、聖霊というのはどこか捉えようのないお方である、というのが私たちの偽らざる思いかもしれません。生身の体を備え、触れることも出来たイエス様と比べて、なにしろ「霊」ですから見ることも触ることも出来ないからです。そこで、聖霊降臨を祝うこのペンテコステ主日に、使徒パウロを通じて、改めて聖霊について学んでまいりましょう。

2.本文

使徒パウロのガラテヤ人への手紙において、聖霊はイエス・キリストと共に主題ともいうべき重要な位置を占めています。特に、聖霊はモーセの律法との対比の中で取り上げられます。というのも、ガラテヤ書簡はモーセの律法の問題について論じた書簡だからです。このことに関して説明しましょう。パウロがこの手紙を書いたガラテヤの教会は小アジア、今日のトルコ共和国に位置していました。このような地理から明らかなように、ガラテヤの教会の構成員はユダヤ人ではなく異邦人、ユダヤ人から見れば外国人でした。彼らは使徒パウロが宣べ伝えるイエス・キリストを信じ、信仰生活に入ったわけですが、ペテロやパウロのようなユダヤ人とは違い、それまで旧約聖書を読んだことはありませんでしたし、当然モーセの律法と呼ばれる、ユダヤ人が守っている神の法や戒めについては何も知りませんでした。パウロはイエス様を信じる前から、旧約聖書をそらんじられるほどよく知っていましたが、それは彼がユダヤ人として教育を受けてきたからです。しかしパウロは、外国人であるガラテヤの人たちにモーセの律法を教え込むことはせずに、ただキリストを、しかも十字架に付けられたキリストのことを伝え、彼を信じて救われるようにと伝道したのです。ガラテヤの人たちは、パウロを通じて働かれる神の大いなる御業を目撃し、キリストを信じるようになりました。ですから彼らは救われるためには旧約聖書に書かれているモーセの掟を学んでそれを実行しなければならない、とは考えなかったのです。これは私たちも同じですよね。日本でキリスト教の洗礼を受けた方の多くは、旧約聖書をしっかり学ばなければ洗礼は受けられない、と言われたことはないと思います。キリストを信じ、その十字架の贖いを信じればそれで十分だ、と言われた方がほとんどだと思います。むしろ旧約聖書はむずかしいから、信仰生活を続ける中で段々と学んでいきましょう、というような説明を受けるのではないでしょうか。

もともとユダヤ人であった人、つまりパウロのような人がイエスを信じる場合は、子どもの時からモーセの律法を学び、実践してきたわけですから、イエスを信じた後も当然モーセの掟を守り続けているわけですが、ガラテヤ人のような異邦人の場合には、そのようなことをする必要はない、イエスを信じるだけで十分だ、というのがパウロの教えだったのです。

しかし、ガラテヤに他の宣教師たちが来て、パウロとは違うことをガラテヤの人たちに教え始めました。彼らは、神の祝福を受けるためには族長アブラハムの子どもにならなければならない、と教えました。それ自体は正しいのです。問題は、では誰がアブラハムの子孫なのか、ということなのです。つまりこういうことです。神はアブラハムとその子孫に、世界を相続させることを約束されたので、その大いなる遺産を受ける、相続人となるためにはアブラハムの子孫である必要があります。しかし、ユダヤ人はアブラハムの子孫ですが、異邦人はアブラハムの子孫ではありません。ガラテヤ人たちも、イエスを信じるまではアブラハムなんて人は名前も聞いたことがありませんでした。けれども、彼らが初めて読んだ旧約聖書には、確かに最初にアブラハムが登場し、神が彼にたくさんの素晴らしいことを約束しているのです。パウロの後から来た宣教師たちは、「あなたがたもこのアブラハムの祝福に与りたいでしょう。そのためにはあなたがたもアブラハムの子孫にならなくてはいけません。そのためには、男性は割礼を受けなくてはなりません」と教えたのです。彼らは創世記を開き、次のみことばを彼らに示します。創世記17章9-10節をお読みします。大事なところなので、皆さんも一緒に聖書を開きましょう。

ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のわたしの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなた方の中のすべての男子は割礼を受けなさい。」

このように、神はアブラハムの子孫に対し、割礼を受けるようにと教えています。ですからパウロの後に来た宣教師たちも、アブラハムの子孫となるためにガラテヤの人たちに割礼を受けるようにと促します。彼らはさらに進んで、創世記の次に出エジプト記をガラテヤの人たちに教えました。そこにはモーセという人が登場し、神はモーセを通じてアブラハムの子孫に律法と呼ばれる神の戒めを与えました。宣教師たちは、「あなたがたはアブラハムの子孫なのだから、神がモーセを通じて与えられた十戒などの神の掟を守らなければならない」と教えました。ガラテヤの人たちは、パウロからは律法について教えられていませんでしたが、確かにこれは聖書の教えなので、私たちも守るべきではないか、と考えるようになったのです。

そのことを伝え聞いたパウロは、大変動揺しました。パウロはパウロなりの深い考えがあって、ガラテヤの人たちにモーセの律法は教えなかったのですが、今やガラテヤの人たちは自分の手を離れて、後から来た宣教師たちの言うとおりに、割礼を受けてユダヤ人のように律法を守ろうとし始めたからです。しかし、パウロはこのことが大変危険なことであるのに気が付いていました。そもそも、子どもの時からユダヤ人として徹底的に律法を教え込まれたパウロとは違い、もう大人になっているガラテヤの人たちが613もの律法を覚えるのだけでも大変です。これらを覚えて、なおかつ実践しなければならないとなると、その重荷に耐えかねて、誰もクリスチャンになろうとはしないかもしれません。さらに、よしんばガラテヤの信徒の何人かがモーセの律法をマスターしたとすると、それはそれで別の問題を生じます。モーセの律法では、たとえば何を食べてよいのか、何を食べてはいけないのかが細かく規定されています。豚肉を食べてはいけないとか、甲殻類は駄目だとか、いろいろとタブーがあるのです。ガラテヤの異邦人クリスチャンはそんなことは気にしていませんでしたが、彼らの内の何名かがそういうことを非常に気にするようになり、しまいにはモーセの律法を知らない兄弟姉妹とは一緒に食事はできない、彼らは禁じられた食べ物を平気で食べているからだ、と言い始めるようになります。そうすると、教会には分裂が生じます。モーセの律法を守る兄弟姉妹と、守らない兄弟姉妹とでは、食事を一緒にすることも出来なくなるからです。パウロはこれまでの経験から、モーセの律法を持ち込むことでこのような問題が教会に生じることを知っていました。だから彼はガラテヤの人たちに、モーセの律法を教えなかったのです。

しかし今や、ガラテヤの教会ではモーセの律法を守るかどうかということが大問題になっていました。そこでパウロは、この問題を解決するためにこのガラテヤ書簡をしたためたのです。パウロが掲げたのは「モーセの律法からの自由」でした。ガラテヤの人たちに、あなたがたは律法の下にはいない、キリストがあなたを律法から自由にしたのだ、と教えました。誤解を恐れずにいえば、この「モーセの律法からの自由」というテーゼにはどこか無理があるというか、言葉足らずな気がします。なぜなら、主イエスの教えは十戒などモーセの律法を土台としており、モーセの律法を深く学ばないと主イエスの教えをよく理解できないからです。キリスト者は、豚を食べてはいけないなどの食事規定からは自由であっても、十戒のようなモーセの律法からは自由だとは言えないでしょう。しかし、パウロはいわば緊急事態に直面していました。モーセの律法について細かく説明している余裕はありませんでした。むしろ、割礼を受けようとする一部の人たちを何とか思いとどまらせようとして、いくらか強引ではあっても、あなたがたはモーセの律法から自由なのだ、と宣言しているのです。

しかし、この「自由」というのが曲者なのです。自由というのは正しく用いないと、とんでもないことになる、ということは私たちもよく知っていることではないでしょうか。学校でも、学生の自由を標榜する学校がありますが、その自由には責任ある行動が伴わない限り、学生の振る舞いは乱れ、学校は無秩序になっていくでしょう。制服をなくして明日から何でも自由な服を着てよいといわれても、どんな服でもよいというわけではないのと同じです。パウロから「あなたがたは自由だ」と言われたガラテヤの人たちも、では好き勝手に生きればよいのかといえば、そうではないのです。そのことパウロが語っているのが13節です。

兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。

ここで、「互いに仕えなさい」と言われている言葉を直訳すれば、「互いに奴隷として仕えなさい」ということになります。自由ということの意味を、自分が好きなことは何でもしてよいことだ、と理解している人にはショッキングな言い方だろうと思います。しかし、パウロの語る自由の意味を考えると納得できるでしょう。パウロが語る自由とは、罪からの自由、罪の奴隷状態からの自由なのです。私たち人類は、罪の力に囚われてしまっている、その状態からキリストはあなたがたを解放したのだ、というのがパウロの言わんとするところなのです。律法は、人に何が正しく、何が間違っているのかを教えることができますが、律法そのものには人を罪の奴隷から解放する力がないのだ、というのがパウロの主張です。たしかに、罪のとりこになっている人間は、「あれをするな」と言われると、かえって禁じられたことをしたくなってしまうのです。私たちに必要なのは、「あれをするな」という命令に従う力を与えてくれる存在です。それが「聖霊」なのです。聖霊は私たちに、何をすべきか、何をすべきではないかを教えるだけではなく、私たちを内側から変えて、そのことをする力を与えてくれるのです。ですからパウロはガラテヤの人たちに、「あなたがたにはもはや律法は不要なのだ。なぜならあなたがたには聖霊が与えられているからだ」と言いたいのです。

パウロはガラテヤの人たちに、あなたがたには律法がなくても、律法の命じることを行うことができるのだ、と語ります。モーセの律法を一言で要約するならば、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」ということになります。自分のためだけでなく、自分にとって大切な隣人のために生きること、これこそがモーセの律法の目指すところなのですが、もしあなたがたが聖霊に導かれて互いに仕えあうなら、それで律法はまっとうされる、とパウロは語っています。しかし、互いに仕えあうことをせず、いがみ合うならば、あなたがたは滅ぼされてしまう、ともパウロは警告しています。そうならないために、御霊によって歩むべきなのです。でも、御霊によって歩むというのは具体的にはどういうことなのでしょうか?御霊、聖霊とはどのような方なのでしょうか?

ここでしっかりと覚えたいのは、聖霊とは「イエス・キリストの霊」だということです。そのことを確認するために、4章6節をお読みしましょう。

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

ここでパウロは聖霊のことを「御子の霊」、つまり「イエス・キリストの霊」と呼んでいます。聖霊とはイエス・キリストの霊に他ならないのです。私たちが「聖霊様」と呼びかける時、私たちはイエス・キリストに呼びかけているのです。主イエスは天に戻られるとき、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる」と約束されましたが、確かに復活の体を持つイエス様は天におられますが、その霊は私たちと共にいるのです。聖霊とイエス・キリストが完全に同じだとまでは言えませんが、しかし二人の別々の神様がいるのでもないのです。私たちが信じるのは三人の神ではなく、唯一の神なのですから。ここがいわゆる「三位一体」の教理の難しさですが、思いきって言えば、聖霊様がどうもよく分からないという方は、見えないイエス様の霊に自分は呼びかけているのだ、と考えればよいのです。そして事実そうなのです。聖霊とはイエス・キリストの霊なので、私たちにイエス様のことを思い起こさせてくれるのです。そのことをヨハネ福音書から確認しましょう。14章26節をお読みします。ここもご一緒に読んでみましょう。

しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

このように、聖霊はイエスの霊なので、私たちにイエスのことを思い起こさせるのです。そしてそのイエス様が私たちに力を与えるのです。イエスの霊に導かれることで、私たちは肉の欲望に打ち勝つことが出来るのです。ここで肉の欲望について少し触れます。私たち人間には、食欲や性欲などの生理的な欲求があります。こうしたものは、もちろん悪いものではなく、神が私たちに与えたものです。こうした欲求なしには、私たちは自分自身を維持できませんし、人間という種を維持することもできません。ですから、なにか修行僧のように人間のすべての欲求を断つ必要はないし、そうすべきでもないのです。しかし、他人を押しのけてでも、あるいは他人の意に反してこれらの欲求を自己中心的に追い求めるなら、それは大きな罪になります。私たちに食事が必要なように、他の人にも食事が必要だからです。他人の必要を覚えずに、自分だけの欲求を追求すること、これが聖書のいう「肉の欲」です。肉の欲に打ち勝つにはどうすればよいのか。それはただ我慢し、自分の欲望を殺すことではありません。むしろ他人の必要を覚え、それを自分の必要と同じように考えるのです。それが人のために生きた方、他人を自分のように愛されたイエス・キリストの霊に導かれるということなのです。17節には、こうあります。

なぜなら肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。

この訳を読むと、最後の「自分のしたいと思うこと」というのは正しいことをしたいという思いのことで、自分は正しいことをしたいけれど、肉の欲望に圧倒されてしまってそれができない、という風に読んでしまうかもしれません。しかし、ここでの意味はそうではありません。御霊の力と肉の力は五分五分ではありません。御霊とは神ですから、神よりも強いものはないからです。ですからここでの「自分のしたいこと」とは肉の欲のことです。イエス・キリストの霊は肉の欲を押さえる力がある、ということをここでは言っているのです。

そしてイエス・キリストの霊があれば、もはやモーセの律法は必要ではなくなります。なぜならイエスご自身がモーセの律法を体現した方だからです。イエスに倣う、従うことでおのずとモーセの律法の精神を守ることになるのです。

パウロは19節以降で、「肉の行い」をする者は神の国を相続できないと警告しています。なぜなら、肉の行いとは、他人を顧みずに自分の肉体的欲求だけを満たすことを追求することだからです。繰り返し言いますが、人間が自分の生理的欲求を満たそうとすること自体に何の罪もありません。しかし、他の人のことを考えずに、自己中心的に自らの欲求だけを追い求めること、それを「肉の行い」と呼ぶのです。そのような人は神の国に入れません、なぜなら神の国とは、隣人を自分自身のように愛する人たちで構成される国だからです。イエス・キリストは人に仕え、自分の命ですら十字架上で人々のために与えました。そのイエスの御霊に導かれる私たちもまた、奴隷として喜びをもって隣人に仕えあうのです。こうして私たちは律法の真の精神を成就するのです。それは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。これらこそ、イエス・キリストの霊によって私たちの中に生み出されるキリストの香りなのです。このイエス・キリストの霊が豊かに注がれたペンテコステの日を覚えながら、私たちの日々の歩みのために、聖霊を豊かに注いでくださるように、神に祈りましょう。

聖霊なる神、イエス・キリストの霊であられる神よ。その御名を賛美いたします。今日は愛する兄弟姉妹と共に、この幸いなるペンテコステ主日を祝うことができたことを心から感謝いたします。「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」この使徒パウロのおすすめのように、私たちも御霊に導かれて歩むことを願うものです。どうか御霊を豊かにお注ぎください。そして、あなたが願っておられることを、私たちの中で実現してください。聖霊の送り主にして聖霊そのものであられるイエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン

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