負債の免除
申命記15:1-11
森田俊隆

*当日の説教ではこの原稿の一部を省略して話しています

今日は申命記の中でモーセが述べた律法のなかから一つを採り上げます。申命記の12章から26章は十戒以外の各種律法が述べられているところです。カソリックのフランシス会訳によると51項目の律法が述べられている、ということになっています。ユダヤ教の中では律法は整備されて結局最後は613個の戒めということになりました。先ほどお読みいただいたのはそのうちの一つで、安息年における「負債の免除」の部分です。簡単に言えば、7年目になったらすべての借金はなかったことにしなさい、というものです。私は銀行に勤めていましたが、そんなことをしていたら銀行業は成り立ちません。いくら昔のこととはいえ、この律法は守られたのでしょうか。信じられませんね。

実はレビ記の25章に土地についてこの申命記の個所の前提になることが書かれています。要約しますと次のようなことです。7年目は主の安息の年であるから、土地を休ませて、農耕はやってはならない、というのです。7日目は神が創造の業を休まれたように土を耕すのもやめるべし、というのです。土地を休ませることもさることながら、この年には奴隷、雇人、在留異邦人ができたものをとるに任せなさい、という貧しい者への施しの意味もあります。さらに、7の7倍49年の翌年はヨベルの年と称し、すべてが解放される年だ、とされています。7年ごとの安息年と同様作物を作ってはいけないし、すべての買い取られた土地はもともとの土地の所有者に返却しなければならない、というのです。イスラエルの民がカナンの地に入る前に各部族に嗣業の地が与えられましたが、その時の状態に戻しなさい、というのです。従って、土地の売買の値段はヨベルの年までの年数が長いほど値段が高くなるべき、というのです。これらからわかるように、7年ごとの安息年、50年目のヨベルの年も根本の考え方は安息日の考え方から来ています。

安息日は言うまでもなく十戒の一つであり、厳格に守ることを命じられています。出エジプト記31:14では「この安息中に仕事をする者は、だれでも、その民から断ち切られる。」とありますから、この安息日に由来する、安息年、ヨベルの年についても、その戒めを破る「破戒」行為は死をもって贖われなければならない、ことになりそうな話です。本日の「負債の免除」もヨベルの年に土地を本来の人々に戻さなければならない、ということと似ていますから、やはり、絶対的順守が要求されそうなことがらです。ところが実際はあまり守られていなかった、というのですから、ユダヤ教の律法順守も眉唾です。いろいろ抜け穴があったのです。人間は、何かの命令があってもそれをかいくぐる道を見つけるには天才的知恵がはたらく動物です。主イエスはそれを根本の根本にまで遡って「恵みの手段」としての律法の精神をよみがえらせた方です。

このモーセの定めた「安息年における負債の免除」は現実的にはほとんどワークしなかった、と言って差し支えありません。いろいろ理屈をつけて逃げ道を作っていったのです。ユダヤ教も「安息日」についてはこまごましたところまで解釈して律法を精緻にしていきましたが、根本的なところで同一の意味をもつ安息年、ヨベルの年については、その趣旨にのっとったように解釈はされていかなかったのです。安息日については出エジプト記34:14でこれを破る者は死をもって贖うべし、とされているため厳守が強調されました。しかし、安息年やヨベルの年は本来、イスラエル共同体にとっては安息日以上の事であるにもかかわらず、「死による贖い」の規定がないことをいいことに、守られなかったのです。律法の解釈としてユダヤ人ラビが注釈した文書として「ミシュナー」という膨大な文書があります。そのゼライーム第5巻シェビイートの10:2には「法廷によって課されたすべての負債—これらは安息年によっても赦免されない。担保で借りる者これらは安息年によって赦免されない。」とあります。この記述を利用して「負債の免除」を逃れるのは簡単にできます。ここでいう「担保」とは土地による担保のことで「負債の免除」の代わりに担保を実行されては大変ですので、土地の権利を守るために「負債の免除」をしなくてよい、ということにしたのだと思われます。また10:3では「プロズボールによって保全された貸付は赦免されない。これは老ヒレルが定めたことの一つである。」とあります。プロズボールは債権者による法廷の前での宣誓文のことで、証人として署名するのは判事と言う官職を持たない人でも良く、二人の証人で良い。とされていました。ヒレルと言う人物はパリサイ派の二つの学派の一つの筆頭ラビです。2人の証人の署名のある正式な契約書があれば、「負債の免除」を逃れられる、というのです。

さらには、安息日に休むことと同様に安息年には借金の取り立てを休まなければならない、というのが「負債の免除」の律法の趣旨だという解釈をする律法学者も多くいたということです。単なる支払い猶予です。これはここで述べられているモーセの言葉と違うことは明らかです。本当に人間はいろいろ屁理屈を発明するものです。主イエスがパリサイ人を痛烈に批判しているのもむべなるかな、と思われます。安息日にはどれだけ以上は歩いてはならない、とか些末な規定が多数ありますが、そんなことよりイスラエル信仰共同体にとっては「負債の免除」「貧しい者への土地解放」「ヨベルの年における土地売買解消」の方が重要です。その重要な規定が実は守られていなかったのです。主イエスの時代には「恵みの手段」としての律法の根本精神は地に落ちていた、と言わねばなりません。根本的に人間の力で神の国をもたらすことはできないこと、また神の国の証人として歩むキリスト者は大きな困難に直面する宿命の下にある、ということです。銀行員の職業倫理との関係では重大なディレンマが与えられます。私には今は何の回答もありません。主イエスのおっしゃられたのは心の持ち方の問題で社会倫理・職業倫理とは関係ない、という欺瞞的なことも言えません。とにかく、「負債の免除」は重大な問題を我々キリスト者に突き付けていることは疑いありません。銀行による貸し付けは人による人の支配を意味してはいないか、ということです。

では今日の個所をもう一度見てみましょう。まず、15:1-2です。「七年の終わりごとに、負債の免除をしなければならない。/その免除のしかたは次のとおりである。貸し主はみな、その隣人に貸したものを免除する。その隣人やその兄弟から取り立ててはならない。主が免除を布告しておられる。」とあります。非常に明快です。借金のある関係は人による人の支配の出発点です。7年目にはその関係を清算し、本来の「主は神のみ」という関係に戻しなさい、と言っているのです。この負債という言葉はヘブル語では「shemitah」と言いますが、ギリシャ語訳では「afeh-sis」という言葉です。この動詞形は「afi-ehmi」とい言います。皆さん主の祈りで「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ」と祈りますが、ここでの「赦す」という言葉が同じ「afi-ehmi」です。新改訳聖書では「負い目を赦す」と訳されています。要するに、安息年に負債を免除しなさい、という精神は主イエスが私たちに教えられた他人の負い目を赦しなさい、という言葉に生きている、ということです。人による人の支配をやめます、というのが主の祈りの内容です。人間は本来、神による制約だけであり、他の人間によって制約を受ける、というのは神の国の原則に反していることだ、という訳です。主イエスのおっしゃられていることは実に根本的なことを指示していますが、それは律法の基本精神というものは人間社会の在り方を根本からひっくり返すようなものだ、ということを意味しています。

またローマ書13:8に「だれに対しても、何の借りもあってはいけません。ただし、互いに愛し合うことについては別です。他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。」とあります。教会内で貸し借りはやめなさい、とパウロが言っているのではありません。キリスト者の間での貸し借りは人と人の貸し借りではなく、貸す者は神に、教会に捧げるつもりで与えなさい、ということで、借りる方は神の恵みを受けるのと同様な気持ちでこれを借りなさい、というのです。もちろん、神の恵みに対する感謝の捧げものとして借り入れの返済をする、ということです。借主が貧困のなかで返済能力がなければ、この貸借関係は贈与と受贈の関係になります。それが主の恵みに答える答え方です。神に、教会にささげた物ですから、神の恵みの手段、として使われるのは当然のことという訳です。従って、このパウロの言葉も背後には、この安息年における「負債の免除」の律法の精神が厳然と存在しています。それが主イエスの「愛の律法」です。これを実践する人がパウロの言う「律法を完全に守っている」人ということになります。

もう一点重要な点があります。「主が免除を布告しておられる」と訳されている部分です。まず、「布告」というところは、「声」です。「kah-rah」という言葉ですが基本的に神の言葉が臨んだときに使われる言葉です。神がこの世に現れる現れ方は旧約では基本的に「神の声」によります。「神の言葉が我々に臨んだ」というのと同じ、神の顕現を示す言葉です。そしてこの「免除を」のところですが、「免除」は先ほどの「shemi-tah」ですが、問題はこれにつく前置詞です。「免除へ」となっているのです。英語でいう「to」です。「主への免除の声」となって何の意味か分かりません。この「shamih-tah」の原型である動詞は「shah-mat」ですが、これは負債を免除するという意味に加え、「放り投げる」という意味もあります。これは「自由にさせる」という意味に通じます。この部分の主イエスが日常語として使用したのではないかと言われているアラム語訳では「shebak」という言葉が使われこれには明確に「自由にさせる」という意味があります。奴隷解放の時の「解放」です。ギリシャ語ではさきほど申し上げた通り「afi-ehmi」ですが、これは聖書では「解放」の意味で通常使われる言葉です。「債務の免除」は単なる借金棒引きではなく、「主への解放の声」として理解されるべきことなのです。「主への解放」は「主なる神の支配下にゆだねる」ことを意味し、貸主が自分の支配を否定して神の主権のもとに戻す、ということです。「悔い改めの業」と言っても良いと思います。ここでの「悔い改め」は過去を悔いて改める、という意味ではなく、主なる神の下に立ち返ることです。神の義は貧しき者、弱き者にこそ現れる神の力ですから、その働きの助けとなる「債務の免除」は主なる神への解放にほかならない、のです。ここに律法の根本である「恵みの手段」の真価が示されます。申命記の注解書のなかに「その土地(嗣業地)は空間の中に自由を提供するものであり、安息日は時間の中に自由を提供するものであった」という表現がありましたが、安息日、安息年、ヨベルの年が「解放の時」と理解されることをよく示している、と思います。

しかし、15:3-4で制約条件が述べられています。「外国人からは取り立てることができるが、あなたの兄弟が、あなたに借りているものは免除しなければならない。/そうすれば、あなたのうちには貧しい者がなくなるであろう。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えて所有させようとしておられる地で、主は、必ずあなたを祝福される。」とあります。「外国人」と訳されている言葉は異邦人と訳す方が適当です。要するに、異なる神の下にある異民族です。逆に言えばこの「負債の免除」はイスラエルの共同体のみに適用されることであり、異邦人には免除する必要はない、ということになります。このことは十戒についても同様であり、イスラエル共同体にのみ適用される戒めなのです。「殺してはならない」も当初の律法はイスラエル共同体のなかだけの話です。イスラエルというのをモーセ、ヨシュアの時代の十二族全体というのを意味するならまだ良いのですが、イスラエルの歴史の中で、正当なヤハウェ信仰とそうではない者と、みなされるものが対立することとなり、律法の適用範囲が更に限定されるようになっていきました。新約の時代において一番の問題はユダヤ人とサマリヤ人の対立です。互いが安息年における負債の免除の関係にある、とはされていませんでした。即ち、隣人ではなかったのです。経済的にはサマリヤを含む旧北王国の方が豊かな人が多かったですから、旧ユダ王国の人々は周りの彼らが言う「異邦人」の経済的圧迫の下に置かれることになったのです。イスラエルの歴史の中で、異邦人の豊かな者が借金のかたに土地を取得し、かつての自営農民は小作人化していったのです。これが、主イエスの時代のイスラエルの民が置かれていた現実です。「負債の免除」のすばらしい律法は空文化していたのです。主イエスのみ言葉は、それを「愛の律法」という形で復権させようと図るものであり、革命的意味を持ちました。そのため、当時の支配層は許せなかったのです。

15:6-7には「ただ、あなたは、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じるこのすべての命令を守り行わなければならない。/あなたの神、主は、あなたに約束されたようにあなたを祝福されるから、あなたは多くの国々に貸すが、あなたが借りることはない。またあなたは多くの国々を支配するが、彼らがあなたを支配することはない。」とあります。先に述べた通り、イスラエルの信仰の正統的信仰者と自認していたユダヤ人たちはむしろ、他の諸民族より借りる結果となり、その経済的支配下に入る結果となりました。ここで述べられた戒めと逆の方向に向かうことになったのです。モーセの言葉として理解すれば、ヤハウェ信仰の民が先々に陥る状況に対する警告と受け止めることができます。貸す者であっても借りるものにはなるな、という戒めを守ることができなかったのです。異邦人は「安息年における負債の免除」の律法の下にはありませんから、借金は被支配に簡単になります。「隣人」「同胞」「共同体」の範囲を狭くすればするほど、この「負債の免除」の律法は意味をなくしていくのです。私たちも共同体の範囲を小さくして「愛の律法」の適用範囲を縮め、無意味なものとするようなことをしていないでしょうか。もちろん広げすぎるとこれまた、何もしないことを正当化する結果になります。個々人の置かれた状況のなかで自分のとっての「隣人」を、祈りをもって考えていく必要があります。個々人の主の下での決断です。国際世界での国民の決断ということになると更に難しい問題が絡みます。国家利益を第一に考えるなどというのはキリスト者の取るべき姿ではないことだけはあきらかです。

15:7-8には次のような言葉があります。「あなたの神、主があなたに与えようとしておられる地で、あなたのどの町囲みのうちででも、あなたの兄弟のひとりが、もし貧しかったなら、その貧しい兄弟に対して、あなたの心を閉じてはならない。また手を閉じてはならない。/進んであなたの手を彼に開き、その必要としているものを十分に貸し与えなければならない。」とあります。ここではこの「負債の免除」の目的がはっきり述べられています。これが共同体の共同体なる所以です。神の義が現実のものとなることがこの律法のもたらすことだ、と言っているのです。旧約の世界では貧しく困った状況の人間がいることは神の義が壊されていることを意味します。経済的に豊かであるのはその人物が偉いからとか頭が良いからとか力が強いからでなく、神の恵みがそのような形で示されている、ということで、それは神の計画の一部なのです。実際、お金持ちになったのはほとんどの場合、他律的要因であり、その個人の力に拠っている部分などほんの一部です。この世の言葉でいえば運が良かっただけです。なんらかの神の意志が示されているという意味では軽々に扱えないことですが、別にその個人がどうこう言うことではありません。したがって、同一共同体のなかで貧富の差があることは信仰共同体としては間違っているのです。その意味で「施し」は任意のことではなく明らかに「義務」なのです。ユダヤ人社会ではこの「施しが義務である」ということはすんなり受け入れられているようです。あのユダヤ人迫害のなかでの助け合いは信じられないくらいです。もちろん、これを守れなかった人も居ました。日本人であれば自発的な施しなど考えにくいです。施しを拒否する人は神の恵みから外されます。「負債の免除」をするのは神からの「負債の免除」をえるのとは裏腹なのです。施しをしなければ神よりの哀れみ、恵みが受けられないのは当然である、ということになります。イスラムの世界でも施しはザカートと言い、絶対的義務です。それがISに対する資金援助の理屈になっているのですから、話は単純ではありません。

15:9から最後までをお読みします。「あなたは心に邪念をいだき、『第七年、免除の年が近づいた』と言って、貧しい兄弟に物惜しみして、これに何も与えないことのないように気をつけなさい。その人があなたのことで主に訴えるなら、あなたは有罪となる。/必ず彼に与えなさい。また与えるとき、心に未練を持ってはならない。このことのために、あなたの神、主は、あなたのすべての働きと手のわざを祝福してくださる。/貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。『国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。』」とあります。「負債の免除」の年が近くなったからと言って貸し与えるのを渋ってはならない、と言われています。ここで問題になっているのは人と人の関係のことですから、「負債の免除」は貸し借りが発生した最初のところから起算されるべきものです。支配と被支配の関係になるきっかけになった最初の「借金」から起算すべきなのは当然です。途中で何度も貸した金も最初に貸した時から7年目ですべて「負債の免除」になる、ということです。貸し借りの関係から、主なる神の前に平等な人間関係に戻りなさい、ということです。

ここに注目すべき表現があります。「手を開く」という表現です。7節のところでは「手を閉じてはならない」という形で出てきていました。「目を閉じる」とか「目を開ける」という表現は旧約の他の個所にもあるのですが、「手を閉じる」とか「手を開く」という表現は申命記のこの個所だけです。この世に於いて救助の手を差し伸べることを意味しています。7節では同じ意味で「心を閉じる」という表現も出てきています。実は、翻訳ではわかりにくいのですが、この15:1-11までの間にヘブル語原典では「手」ということば「yahd」が5回も使われています。大変、視覚的な表現になっているということです。繰り返し「手」という表現が出てきて、韻を踏んでいるような響きもあります。

惜しんではならない、とここで言われている、ということは、古来から、惜しんでいた人がたくさんいた、ということです。お金のある人はお金のない人に施しをするのは義務だ、と繰り返し言ってもお金持ちはちょぼちょぼにちょっとプラスしか施しをしなかったのです。人間の利己心も神の創造物ですから、何らかの神の知恵が隠されているものと思いますが、施しの勧めはなかなか実効性があるところまではいかないのです。その結果、近代国家は税金という形で強制的に金持ちから国に納入させて、貧しい者には国家が最低保証をする、という方向に向かったのです。それが税金の所得再配分機能と言われているものです。くに、という共同体がここでいうイスラエル共同体と同じで、安息年ごとに「負債の免除」が実行されていれば、税金に再配分効果を期待する必要はなかったでしょう。昔は税金は主に軍隊を支える資金でしたから、国が所得再配分機能を果たすことはありませんでした。教会やお寺がある程度この機能を果たしていました。お金持ちしか国の政策決定に参画できなかったことは当然でした。これを代え、今の福祉政策を国が行うようになったのは実は戦争がこれを進める動因であったのです。フランス革命以降、国民軍が組織され、20世紀に入ってからは、戦争は国民全体を巻き込む所謂総力戦になってきました。国はすべての国民の力を必要になってきたのです。そのために、貧乏な国民も戦争に参加させなければならなくなったのです。

律法を自分たちの都合に合わせて解釈し、律法の本来の趣旨を台無しにしてしまう、ということは昔のイスラエル社会に限ったことではありません。現代の日本社会においても類似のことは、山ほど起こっています。憲法や法律を素直に読んだ時の理解と全く異なる方向に行ってしまって、挙句の果てはなぜこのような法ができたかを忘れてしまうのです。日本の場合、この最悪のケースは憲法九条です。戦争をなくすために一切の軍備を持たない、というのが憲法九条の趣旨であることは明らかです。外国軍なら良いだろう、とか、自衛に徹する軍隊なら良いだろう、とかいう解釈は詭弁です。果ては集団的自衛権という本来的には自衛権に含まれなかったことまで自衛権に入れてしまうとは、解釈の範囲を超え、この条項をなきものにしてしまっているのと同じことです。解釈には限界があります。本来の趣旨を全く意味ないものとする解釈は違法と言うべきです。

「ヨベルの年」という時の「ヨベル」は雄羊の角のことで50年目のヨベルの年の7月10日に角笛を鳴り響かせるということからこの名があります。この言葉は英語ではJubileeと言います。実は20世紀の終わりの頃ジュビリー2000という運動がおこりました。これは2000年をヨベルの年とし、貧困な国が先進国に対し債務取り消しを求めた運動です。アフリカのキリスト教協議会が呼び掛けた運動ということのようです。2000年以降もこの運動は続いています。イギリスがかなりこの債務帳消しに協力した、と言われています。そのもっと前ですが、東京銀行はメキシコ、ブラジル等からの借金棒引き要求に苦しめられました。借金の期限延長、金利の免除のみならず、借金棒引きにもかなり応じました。これは東京銀行の財務体力を大きく低下させました。イスラムのザカートは軍資金の提供という本来の貧しき者のために、という趣旨から外れた目的で行われたりもしています。日本がかつておこなった無償援助というのも本当のところは日本企業の対外進出を日本政府が応援する、というものでした。更に言えば、バブル崩壊の時、大銀行は大きな企業で破綻寸前の会社に「債権放棄」ということをやりました。破綻に直面した中小企業は「残念でした」で、破綻した中での大企業の救済でした。社会的混乱を抑える、という政府からの要請が背後にありました。銀行は、税金の支払いが長期間なくなるということから、ある意味で前向きにこれに対応しました。等々考えると、この申命記にある「負債の免除」もよくよくその効果を見なければ、偽善的なものになってしまいます。人間の罪はいかに立派な、義にかなったことも捻じ曲げてしまうだけの力を持っている、ということです。

日本人にとって「負債の免除」というと、鎌倉・室町時代の「徳政令」を思い出します。また江戸時代に入ってからの「棄損令」も同様の趣旨のものです。要するに幕府の命令により借金をなしにしてしまう、というものです。これもモーセ律法の「安息年における負債の免除」と似たものだったのでしょうか。モーセ律法の方は神の定めた秩序を回復する、という考え方を背後に置くものですが、徳政令や棄損令はそのようなものではなく、武家の借金を棒引きにして彼らを救済する、というところに主眼がありました。徳政令の方は武家の嗣業である土地を取り戻させるのが主目的であり、棄損令は武家が商家よりの借金で首が回らなくなっているのを解放しなければならない、ということが主たる理由でした。もちろん、幕府や藩の借金の清算の意味もあります。この徳政令や棄損令は実行段階で重大な障害に直面し、本来の目的は貫徹できなかったようです。当たり前です。棄損令の場合はその後、武家は借金ができなくなり、以前以上に困窮した、という話があります。しかし、一般民衆の参加した「徳政一揆」というのもあります。これは、借金の帳消しを幕府や守護・藩主に迫るものですが、成功したのは極めてまれ、と言われています。それでも、キリスト教流に言えば「神の国」運動のスローガンのようなもので、理念としてはモーセ律法の「負債の免除」に通じる、ように思います。

実質的に「安息年における、嗣業地返還」の効果をもったものと考えられるものとして、戦争直後の「農地改革」があります。これは不在地主に国債を渡し、観念上国有にし、それを小作人らに無償で提供する、というものです。国債はインフレで価値はほとんどなくなってしまいましたから、実質、不在地主からの土地採り上げでした。この改革は小作人たちが共産党に流れ、日本における社会主義革命を防止する目的であった、といわれていますが、農村は自民党の政権基盤になったという意味で効果はありました。徳政令、棄損令の歴史の中では一番実効性があり、社会に大きな影響を与えた出来事でした。

中には、安息年に本来の関係に戻す、という「負債の免除」の思想に真っ向から反するようなことも現在の日本で、公然と行われています。非正規雇用の問題です。本来非正規雇用は臨時的・例外的に行われるものなので一定期間継続して業務に従事してきた非正規雇用者には正式雇用のオッファーをすることが義務付けられていました。大量の非正規雇用者がこの期限に近づくと、法律を変えて、別の非正規雇用者を雇い入れることを可能にしてしまったのです。非正規雇用者の配転をすればこのように非正規雇用を半永久的に続けていける方法を企業に与えてしまったのです。本来どうあるべきか、ということが将来も実現しないことになってしまって、就職氷河期世代の雇用問題が重大問題になったのです。これはあきらかに背信的なやりかたです。これには派遣業者のマージンの問題も絡んでいます。正式雇用に切り替えるとこの業者のマージンがなくなり派遣業が成り立たなくなるという問題です。以前私が銀行に居る時、派遣されて業務に従事している人の中に正式社員顔負けの人間がいました。正式雇用に切り替えようかと思いましたが、派遣業者が「この子は我々の稼ぎ頭であるから社員にするのはやめてほしい」との話でお流れになったケースがありました。今から考えると押し切るべきであったのかもしれません。

しかし、クリスチャンは神の国をこの世に示していく責任を持っています。貧しき者、弱き者こそが神の国で主が嘉(よみ)したもう人たちです。我々は、このことを証する使命を主イエスより託されています。この世は罪の支配が張り巡らされた世界ですから、我々も妥協しつつ相対的正義でとどまらざるを得ない場合がほとんどです。しかし、その中でも神の国を求めるぎりぎりのところでの妥協であるべきです。祈りにより、主の導きを信じて歩むのみです。祈ります。

ご在天の父なる神様、今日の礼拝の時を感謝いたします。今日は「負債の免除」の律法個所を見ました。人間は都合の良いように律法を解釈し、恵みの手段としての律法をないがしろにしてきました。主イエスはその偽善を明確に指摘しております。私たちが神の国の国籍を持つものとして、主イエスを証しするものとして歩まさしめてください。イエス・キリストの御名により祈ります。アーメン

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