変貌山の出来事
マルコ福音書9章2~13節

1.序論

みなさま、おはようございます。ここ数週間、マルコ福音書の中でも非常に大切な箇所を読んで参りましたが、今日の箇所も大変有名な箇所です。ルネサンスの代表的な画家であるラファエロの代表作であり、白鳥の歌でもある「キリストの変容」という有名な絵が描いているのはこの場面です。この傑作はヴァチカン美術館にあり、私も実際に見たことがありますが、非常に強い印象を受ける作品でした。ただ、ラファエロの絵画を見て感動することと、マルコ福音書におけるこの出来事の意味を理解することとは別物です。今朝は、なぜこの出来事がこの場面で起こらなければならなかったのか、その文脈をよく考えてみたいと思います。

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おのおのの十字架
マルコ福音書8章34~9章1節

1.序論

みなさま、おはようございます。先週はマルコ福音書を三幕のドラマと考えるならば、ペテロの告白というターニング・ポイントによってドラマは本格的に第二幕に入ったというお話をしました。これまでイエスはガリラヤで大きな奇跡を行いながらも、ではイエスは究極的には何を目指しているのか、彼の人生の目的や使命が何であるのかを明確にはしてきませんでした。もちろんイエスは神の王国の到来が近いこと、神の支配の実現がもうすぐだということを人々にアナウンスしてきましたのですが、神の支配が地上世界で実現するためにイエス自らが果たす役割が何であるのかをはっきりと伝えてこなかったのです。それは詰まるところ「イエスとは誰なのか?」という問いです。イエスが神の支配の到来を人々に伝えるメッセンジャーに過ぎないのか、あるいは自らが人々を率いて神の支配を実現させていくリーダー、つまり王なのか、こういう疑問が弟子たちの間にもあったのです。

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ペテロの告白
マルコ福音書8章22~33節

1.序論

みなさま、おはようございます。早いもので、マルコ福音書からの説教も、今日で24回目になります。そして、今日の箇所からマルコ福音書は新しい展開に入ります。マルコ福音書を、イエスを主人公とするドラマと考えるならば、それは三幕から成るドラマだということができます。第一幕は、これまで読んできた箇所で、それはイエスの「ガリラヤ編」です。この第一幕では、主人公であるイエスの目的が示されました。イエスの目的、使命とは、「神の王国」の実現、神の平和な支配をこの地上世界に打ち立てるということでした。この目的を達成するために、イエスは人々を悪霊の支配から解放し、また病を癒して人々に生きていくための活力を与えました。そして今日の箇所から第二幕が始まります。第二幕の内容は、イエスと弟子たちのガリラヤからエルサレムへと向かう旅です。第二幕はエルサレム入城直前の10章の終わりまで続きます。そして第三幕は、イエスのエルサレムでの最後の一週間です。

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まことの休息
マタイ福音書11章25~30節

1.序論

みなさま、おはようございます。そして、新年おめでとうございます。1年の計は元日にあり、と言われますが、1年の初めの礼拝とそのメッセージは今年の方向性を決める大切なものです。そこで今日の説教は、今年1年間当教会を導いていく年間主題聖句について考えてみたいと思います。私たちは昨年の教会総会に年間主題聖句を選びましたが、それは大変有名なマタイ福音書11章28節です。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」この一節が含まれている11章25節から30節まで、今日はそこからメッセージを語らせていただきます。この28節はあまりにも有名なので、前後の文脈に関係なくこの一節だけが取り出されて語られることが多いのですが、英語でコンテクスト・イズ・キング、つまり聖書のみことばの意味を決定するのはその前後の文脈だという格言が示すように、この28節の真の意味は、イエスが語られた文脈全体から判断されるべきです。

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新しいモーセ
マタイ福音書1章18~2章21節

みなさま、クリスマスおめでとうございます。私たちはこれまでずっとマルコ福音書を読んで参りましたが、マルコには主イエスの誕生物語はありません。イエス誕生の次第を詳しく述べているのはマタイとルカの二つの福音書なのですが、昨年のクリスマス礼拝ではルカ福音書からメッセージをさせていただきました。そこで今年のクリスマス礼拝ではもう一つの誕生物語、マタイ福音書からメッセージをさせていただきたいと思います。

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エリヤ:神の人
第一列王記17:17-24
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

本日の聖書箇所は預言者エリヤが「よみがえりの奇跡」を行った箇所です。しかし、この聖書箇所にはこだわらず、エリヤという預言者は何をしたのか、またその後、エリヤはどのような人物として見られるようになったのか、もあわせ見ていきたい、と思います。

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まだ悟らないのですか
マルコ福音書8章1~21節

1.導入

みなさま、おはようございます。段々と寒くなり、アドベントの期間らしくなって参りました。さて、今日の聖書箇所についてはデジャブといいますか、あれ、ここは前に読んだことがある、とお感じになったかもしれません。それもそのはずで、6章でもイエスがたった五つのパンと二匹の魚から五千人分の食事を作り出したという奇跡の記事があったからです。ちなみに、マルコ6章に記されている五千人の給食の記事は四福音書すべてに記されている記事です。それがわざわざ指摘するようなことなのか、と思われるかもしれませんが、四福音書すべてに登場する奇跡というのは実は非常に稀なのです。共観福音書と呼ばれるマルコ・マタイ・ルカの三福音書は互いによく似ていますが、ヨハネ福音書はとてもユニークで、共観福音書とは多くの点で異なります。ヨハネ福音書にはイエスの奇跡は七つしか記されていませんが、その多くは共福音書には登場しません。例えばカナの婚礼で水をワインに変えた奇跡や、有名なラザロの復活はヨハネ福音書だけに記されている奇跡です。このように、共観福音書に記されている奇跡と、ヨハネ福音書に書かれている奇跡とは、重なり合わないのです。しかし、そのヨハネ福音書もこの五千人の給食の記事は記しています。それだけ重要な奇跡だったということです。

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異邦人への救い
マルコ福音書7章24~37節

1.導入

みなさま、おはようございます。アドベント第二週に入り、救い主がユダヤ人のみならず、世界のあらゆる民族の人々のために来られたことを覚える季節を歩んでいますが、今日の聖書箇所はそのような時期にふさわしいものです。私たちはマルコ福音書を読み進めて参りましたが、これまでのところ主イエスの伝道の対象はガリラヤに住むユダヤ人にほぼ限定されてきました。「ほぼ」と言いましたのは、一度だけ例外があり、それは「レギオン」と呼ばれる大量の悪霊を追い払ったゲラサの地での出来事のことです。悪霊に取りつかれていたゲラサ人は異邦人、ユダヤ人から見て外国人ですので、イエスは既にユダヤ人以外の人にも救いをもたらしていたことになります。

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律法は何を教えているか
マルコ福音書7章1~23節

1.導入

みなさま、おはようございます。いよいよアドベントに入りましたが、アドベント期間中もマルコ福音書を読み進めてまいります。これまで私たちはイエスが行った十の大きな奇跡について学んできましたが、今日の箇所はそこから少し離れて、もう一つの重要なテーマについて考えて参りましょう。それは神の教え、モーセの律法についてです。律法と訳される言葉のヘブライ語の原語はトーラーですが、これは「教え」あるいは「生き方の指針」とも訳すことができます。「律法」と「生き方の指針」とでは、全然響きが違ってきます。「律法」というと法律のようなものかと私たちは考えます。法律を守らないと罰を受けるので、律法という言葉は常に刑罰を連想させます。しかし、「生き方の指針」を守らないと刑罰を受けることはないかもしれませんが、人生が豊かなものとはならない、むしろ不幸な人生を歩むことになる、そういう含みがあります。ですから、神がイスラエルに与えたトーラーとは法律なのか、指針なのかということは、私たちの受け止め方にも大きな影響を与えます。刑罰が恐ろしいから律法を守るのか、あるいはより良い人生を送るために律法を守るのか、というのは全然違うことだからです。私は、少なくともイエス様がトーラーについて語っていた場合は「法律」ではなくて「教え」、「生き方の指針」として捉えた方が良いと考えています。ですから今日の説教でも、そのような観点からお話しさせていただきます。

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神の痛み
エレミヤ書31:15-22
森田俊隆

* 当日の説教ではこのうちの一部を省略して話しています。

今日の聖書箇所を含むエレミヤ書31章は「新しい契約」と称せられる個所であり、新約聖書に示された「新しい契約」を指し示す個所として有名です。従って、キリスト教の教会においてはしばしば説教個所として取り上げられています。昨年、9月27日の山口先生のエレミヤ書からの説教の時もこの「新しい契約」のことを話されていました。聖書箇所はエレミヤ書31:31「見よ。その日が来る。--主の御告げ--その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ」です。今日は、その章の少し前の15-22節です。特に中心的部分は20節「わたしのはらわたは 彼のためにわななき、 わたしは彼をあわれまずにはいられない」の個所です。

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