みことばを行いなさい
ヤコブの手紙1章18~27節

1.序論

みなさま、おはようございます。毎月の月末はサムエル記から離れて新約聖書からメッセージさせていただいております。今日もヤコブの手紙から主のみ教えを学んで参りましょう。ヤコブの手紙からの説教はこれで三回目になりますが、いよいよ本書簡の中心的なメッセージが示されています。

ヤコブ書というのは、新約聖書の中でも最も具体的で、分かりやすい書簡だと言われています。第二ペテロ書簡では、パウロの手紙は「理解しにくいところがある」(3:16)と言われています。それに比べてヤコブの手紙は単刀直入でややこしい議論はほとんどありません。にもかかわらず、特にプロテスタントの教師の間ではヤコブの手紙はしばしば難しいと言われています。しかも、難しいというのは語られている内容が難しいということではなく、語られている内容を受け入れるのが難しいという意味なのです。どういうことかといえば、ヤコブの手紙は「行い」の重要性を繰り返し説きます。その行いの強調が、プロテスタントの信仰者たちにとってつまずきとなってしまうのです。なぜなら、プロテスタントで最も重要だとされる教理は「信仰義認」で、信仰義認とは「行いなしで、信じるだけで救われる」ということだとしばしば理解されているからです。私たち人間は、生まれながらに原罪を抱えているので、善い行いをすることができない、罪深い存在なのだ。そんな私たちのためにイエス様が人類の罪を背負って死んでくださった。そのことを信じるだけで、行いがなくても救われるのだ、というようなことがしばしば語られます。ここまで露骨な言い方ではなくても、プロテスタントではしばしば「信仰」と「行い」が対立するものであるかにように、つまり信仰とはすべてを神様にお委ねして自分では頑張らないという受け身の姿勢のことで、行いとは自分の力で自分を救おうとする虚しい、あるいは傲慢な努力なのだというように、信仰と行いが相容れないもののように理解されることがあるのです。

しかし、そのように信仰を捉えるとするならば、それはペテロの手紙で言われているようにパウロの意図を曲解、あるいは誤解していることになります。確かにパウロの展開する「律法の行いと信仰」ついての議論は、ところどころ非常に難しいですが、パウロ自身は行いの伴わないような信仰を信仰とは認めていません。それどころか、「なぜなら、律法を聞く者が神の前に正しいのではなく、律法を行う者が義と認められるからです」(ローマ2:13)とはっきり語っています。そもそも、信じることと行うことは一致するべきものです。一つ例を語ってみましょう。みなさんが高校生で、部活に打ち込んでいるとします。運動部でも、あるいは音楽などの文化部でも構いません。自分たちには全国大会出場など縁がない、と思っているみなさんの部に素晴らしい指導者が赴任しました。彼はとても有名な指導者で、これまでも弱小高校の部活を鍛え上げて全国大会に何度も導いたという実績があります。みなさんも期待して、この新しいコーチを信じて、ついていこうという気持ちになります。しかし、コーチを信じるとは具体的にはどういうことなのでしょうか。そのコーチのことをどれほど熱烈に信じていても、彼の指導や指示に従わなければ、みなさんの実力は伸びずに、全国大会など夢また夢でしょう。新しいコーチを信じるということは、口先だけの問題ではなく、むしろ高校生活のすべてをかけてこのコーチに言われたことを実行していくことです。栄養や食べ物についての指導があればそれに従い、朝練が必要だと言われれば早起きをして、練習もきついメニューを文句を言わずにこなし、そして大会本番ではコーチの指導や作戦通りに行う、こういうことをすべて行って初めて「コーチを信じている」ということになるのです。「イエスを信じる」というのもそれと同じことです。口先だけでいくら「イエス様、信じてます!」と言っても意味がないことは、主イエスご自身がおっしゃっていることです。イエスは、

わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイ7:21)

と言われました。さらにはこうも言われました。

だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。(マタイ7:24-27)

と、このように言われました。確かにイエスの教えられたことを実行するのは簡単なことではありません。「敵を愛しなさい」とか、「何度でも赦してあげなさい」などの教えには「そんなの無理!」と思うかもしれません。しかし、イエスを信じてイエスの教えを実行していけば、私たちは必ずやクリスチャンとして成長することができます。けれども聞いただけで行わないならば、私たちはクリスチャンとして成長するどころか、クリスチャンでいることすらできなくなるかもしれません。もちろん主イエスは私たちにできもしない無理難題ばかり押し付ける方ではありません。弱い私たちがその教えを実行できるように、私たちに助け手を送ってくださいます。それが聖霊です。私たちは求めれば聖霊が与えられ、その聖霊の力でイエスのみことばを行うことができるのです。聖霊は弱い私たちと共に働いてくださって、私たちを少しずつ変えてくださるのです。そのような主イエスの教えを思い起こしながら、今日のヤコブの教えを読んで参りましょう。

2.本論

では、18節を見てみましょう。「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。」真理のことばの「ことば」はロゴスというギリシア語です。ヨハネ福音書で、「ことばは肉となった」という大変有名な一節で使われているのと同じロゴスです。ヨハネ福音書ではロゴスはイエスを指しますが、ヤコブがここでいう「真理のことば」も福音のことば、あるいはイエスの教えという意味であるとも考えられますが、ここではイエスご自身を指していると考えてもよいように思います。父なる神は主イエスによって私たちを生んだ、つまり新しい命、新生を与えてくださったということです。誰でもイエスにあるならば、新しい創造、新しい命なのです。そして新生したクリスチャンは全被造物の初穂です。これはどういうことかといえば、神はいずれ全被造物、人間だけでなく動物や植物も、滅びの縄目から救い出されます。そうした全被造物の救いの先駆けとして、クリスチャンが滅びから贖われたということです。

19節と20節では非常に具体的で大切なことが教えられています。まず「聞くには早く、語るにはおそく」というのはユダヤ教の知恵文学にしばしば登場する教えです。旧約聖書続編に『シラ書』という知恵文学がありますが、その5章11節には「人の言葉には、速やかに耳を傾け、答えるときは、ゆっくり時間をかけよ」という教えがあります。私たちは焦って何か言おうとすると、何かとんでもないことを言ってしまったり、あるいは人の言うことをよく聞かないと、それをひどく誤解してしまったりということがしばしばあります。そして、このように慌てて話したりしないために大切なことは感情をコントロールすることです。私たちの舌を制するには、まず感情を制する必要があります。そしてとりわけ怒りをコントロールする必要があります。「アンガーマネジメント」という言葉が心理学者によって語られますが、怒りとは二次感情だと言われます。つまり、不安とか不快感とか、そういう思いがあって、その思いを人に伝えるために怒りという表現方法を選ぶということです。怒りはコントロールできると言われます。例えば喫茶店で、コーヒーを店員にこぼされて、怒りが爆発してその店員をがみがみ起こっているときに、あなたが大好きな人がやってきてあなたに声をかけると、すぐ怒りを忘れてニコニコその人と話し始めるというようなことがあります。このように、怒りとは実はどうしても制御できないようなものではないのです。では、心が怒りで満たされた時にどうしたらよいか?心理学者はアドバイスとしてその場を立ち去ったほうがよいと言います。立ち去れない場合では、黙っているほうがよいでしょう。怒りを爆発させて何かしゃべってしまうととんでもないことを言いかねません。ですから怒りで一杯でも、ともかく話すのを我慢する、「語るにはおそく」する必要があります。そして、できればなぜ自分が怒っているのか、怒りの感情の根底にあるのは疲れなのか、不安なのか、ストレスなのか、自分の状態をなるべく客観的に見て、怒りの原因を突き止めることです。そのためには「祈り」が非常に効果的です。私たちは祈るときに、自分の本当の苦しみを神に訴えることができます。怒りの原因となる思いを神の前にさらけだすことで、私たちの不安は和らぎ、少し冷静になることができるでしょう。ですから怒る時には一歩下がって祈りましょう。

そして21節を見てみましょう。私たちの心の中にある悪い思いを捨てて、そこにみことばを植えるのです。悪い思いに囚われそうになった時には、みことばが私たちを救ってくれます。怒りそうになった時には、「聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい」というみことばを思い出しましょう。また、どうしようもない壁にぶつかったと思える時には、「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第一コリント10:13)。こうしたみことばは、わたしたちのたましいを救うことができます。ですから私たちはしっかりとみことばを聞き、心に刻み込む必要があります。

しかし、みことばは聞くだけでは十分ではありません。みことばはそれを実行しないと、自分のものとはならないのです。みなさんがスポーツや音楽を習っているとしましょう。上達のための、優れたトレーニング方法が書かれた本を読んだり、ゴルフの正しいスイングの仕方がきれいなイラストで説明されている本を見て、「なるほど」と納得すれば、それでそこに書かれていることが身に着くでしょうか?いいえ、それでは身に付きません。むしろ、書いてあることをすぐ忘れてしまい、自分の元のやり方に戻ってしまうでしょう。みことばも同じです。みことばを読んで、「ああ、素晴らしい。本当にその通りだ」というだけではだめなのです。「敵を愛する」というみことばは美しいし、私たちを感動させます。しかし、私たちは日々の生活でそんなことはすぐに忘れて、自分にとって嫌な人、不利益をもたらしそうな人のことを敵視したり無視したりします。しかしそれではみことばは私たちの身に付きません。それをやってみて、初めてその難しさが分かり、そしてどうすればそれを実行できるようになるのかを考えるようになります。そういう試行錯誤を重ねて行って、やっとそのみことばが自分のものになっていくのです。ヤコブはこう言います。

また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

この言葉は、聖書の中でも最も重要なみことばの一つでしょう。私たちはあまりにもしばしば、ただ聞くだけの者、ただ読むだけの者になってしまいます。しかし聞くだけ、またや読むだけではそのみことばは身に付かないし、むしろ日常生活の忙しさの中で私たちはそうしたみことばを簡単に忘れてしまうのです。そんな人のことをヤコブは、自分の顔を鏡で見ていて、鏡から離れるとどんな顔だったのか忘れてしまう人のようなものだと言っています。これは何が言いたいのかと言えば、入念にお化粧している最中の人ならいざ知らず、私たちは普通は自分の顔を注意して見続けることはありません。自分の顔なんて、見飽きているのでそんなに熱心に見ないわけです。しかし、みことばに向き合う姿勢はそうであってはいけないということです。聖書の言葉はよく知っている、何度も聞いたことがあるから、というような姿勢ではなく、いつも新鮮な気持ちで向き合い、さらには聞くだけではなくそれを実行しようとする人は、その行いによって祝福されるだろうとヤコブは語ります。

聖書の素晴らしい教えを聞くのは大好きで、聞くたびに心洗われるような気持ちになるけれど、それを実行しようとはしない人、イエス様の教えは本当に素晴らしい、アーメンというけれど、自分の生活の中でその教えを実行しない人、そんな人の宗教は空しいとヤコブは言います。そして残念ながら、プロテスタントの場合にはそうなってしまう危険性があります。たとえば、イエス様の教えの中でも最も有名なのは山上の説教ですが、プロテスタントのある宗派では、これを行うことは無理なのだ、不可能なのだというように教えていると、しばしば耳にします。でも、実行するのが不可能ならば、山上の説教が与えられた目的とは一体何かといえば、山上の説教を守ろうとすればするほど、それが実行できない弱く罪深い自分を見いだします。しかしそれは良いことなのだと。なぜならそのような経験を通じて、私たちは自分は行いでは救われないということを痛感させられるというのです。そうして行いではなく、信仰だけで救われるという信仰義認の教えにたどり着くというのです。しかし、そのような教えは、冒頭で引用した主イエスの教えとは全く相容れないものです。イエス様はそんなことは教えていません。むしろ、山上の説教で教えたことを実行しなさい、実行しない人は砂の上に家を建てるような人で、そんな人は神の裁きに耐えられないと警告しています。むろん、初めから山上の説教の教えを完璧にできる人なんていません。実行しようとすれば、いろいろな疑問や困難にぶつかるでしょう。しかし、そうした困難にぶつかりながらも実行し続けることで、私たちは初めて主イエスの教えられたことの本当の意味を理解し始めるのです。そうして私たちは段々変わっていくのです。変えられていくのです。これはスポーツでも音楽でも同じです。初めから完璧にできる人なんていません。しかしそれで諦めてしまえば、何の上達もないのです。私たちはクリスチャンとして成長していくために、ともかく一歩一歩、試行錯誤しながら主イエスの教えを行っていくべきなのです。

3.結論

まとめになります。ヤコブの手紙も、段々と中心的な内容に入って参りました。ヤコブのメッセージは単純明快です。いくら聖書を読むのが大好きで、聖書のメッセージを聞くのに熱心でも、それを私たちの実生活で実行しようとしなければ、私たちはそのメッセージをすぐに忘れてしまい、それが身に付かないということです。みことばを聞くことはとても大切です。それがすべてのスタートです。しかしそこで止まってはいけないのです。

このことは私たちの日常生活に当てはまることですが、もっと大きなスケールの話にも当てはまります。たとえば戦争の問題があります。いきなり話が飛躍しているように思われるかもしれませんが、今や私たち一人一人が戦争について真剣に考えなければならない時代に入っていると私は考えています。戦争をするかしないか、軍備を増強するかしないかを決めるのは国を動かす政治家の仕事で私たちには関係ない、と思う人もいるかもしれません。そして今の日本の失望させられる政治状況ではそんな風に諦めてしまうことも無理もないという気もします。しかし日本は主権在民の国、つまり私たち一人一人に主権があるのです。政治家を選ぶのも私たちなのです。そういう日本の国民として、戦争の問題、軍備の問題について、イエスはどう教えているのかを真剣に考える必要があります。私の理解では主イエスは無抵抗主義者ではありませんでしたが、たとえ相手が武力を用いる場合でも、目には目をということで武力で対抗する、暴力で問題を解決するということも、認めてはいませんでした。主イエスの指し示す道とは、非暴力的な抵抗、暴力や武力を用いないで正義を行おうとするという道です。20世紀にガンジーやマルティン・ルーサー・キングなどが実践した道です。私たちが主イエスを信じると言うならば、イエスが指し示した平和への道も信じるべきです。信じるならば、そのように行動し発言すべきです。今の日本の状況は、平和憲法に根差す平和主義がどんどん力を失っています。しかし、私たち一人一人が本当に祈って、そして行動するならば、この状況を変えることは可能なのだと私は信じています。このように、聞くだけでなく、みことばを行い人になりなさいという教えを、あらゆる場面で実践して参りたいと願うものです。お祈りします。

平和の主であるイエス・キリストの父なる神様。私たちはあまりにも、みことばを聞くだけで満足してしまい、それを実行に移すことにとてもおそい者であります。しかし、今日のヤコブの教えのように、みことばを行う者となることを願っています。どうかそのような力をお与えください。御霊をお与えください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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