ダビデの逃避行
第一サムエル21章1~15節

*本日の説教には録音がありません。

1.序論

みなさま、おはようございます。ゴールデンウィークが明けて、慌ただしい日常が戻ってきますが、そのようなときにこそ主のみことばにゆっくり耳を傾けて参りたいと思います。前回の説教で、これからダビデは旅に出るという話をしました。もちろん、ダビデは望んで旅に出るわけでなく、サウル王から命を狙われて、いわば強いられてあてどのない旅に出るわけです。

しかし、自ら望まないものとはいえ、旅に出ることはダビデには必要なことでした。ダビデに限らず、英雄と呼ばれるような立派な人物へと成長していく人には、旅は成長のために必ず通らなければならない神が与えた試練だと言えます。人は旅の中で大きく成長し、英雄としての資質を開花させるからです。まさに「可愛い子には旅をさせよ」なのです。旧約聖書の中でも、イスラエル民族の礎を築いた族長ヤコブや、出エジプトを成功させたモーセは、望まぬ旅へと向かいました。しかし、自ら望まない旅という意味では、ヤコブの子であるヨセフほど、不本意な旅立ちをした人物はいないでしょう。ヨセフは、父親からえこひいきと言ってよいほどかわいがられていることを兄たちに嫉妬され、その兄たちに半殺しにされた上にエジプトに売り飛ばされてしまったのです。ですから旅立ちとは程遠い、悲惨な状態でエジプトに行かされ、見知らぬ地で奴隷としての生活をスタートさせます。ゼロからのスタートどころか、マイナスからのスタートです。

しかし、このように奈落の底に一度突き落とされるというのはヒーロー物語の鉄板パターンとも言えるものです。ダビデも、旅の初めにどん底を経験します。これからダビデは長い旅の中で多くの仲間を得て、様々な経験を経て人間的にも大きく成長し、旅の報酬ともいえるような果実や成果を得ていくわけですが、最初からそのような希望の持てる旅であったわけではなく、それどころか失意のどん底のような旅の始まりだったのです。今日の聖書箇所には二つのエピソードが収録されています。まったく性質の異なる二つのエピソードですが、ダビデが如何に死に物狂いの逃避行をしていたのかをうかがわせる話になっています。では、今日のテクストを詳しく見て参りましょう。

2.本論

さて、ヨナタンの手引きでサウルの元から逃げたダビデは、たった一人で逃亡の旅を始めることになりました。サウルはこれまでは、密かにダビデを殺そうとしていたので、イスラエル全土にダビデを指名手配はしていなかったのですが、事態がここに至ればそうなるのも時間の問題です。ダビデはなるべく早く、サウルの手の届かない所に逃げ延びなければなりません。ただし、着の身着のままで大急ぎで逃げ延びてきたので、逃亡中の食事の準備もなにもしていませんでした。必死で逃げて来たものの、気が付けば腹ペコです。何か食べるものを確保しなければ、ということが真っ先に頭に浮かびました。そこで、王都ギブアからあまり遠くないところで、食事にありつけそうなところを考えて、祭司の町ノブに行くことに決めました。祭司の町といえば、私たちは神殿のあるエルサレムをまず思い浮かべるかもしれませんが、エルサレムはダビデが王になった後に王都に定められた場所であり、まだそのころはイスラエルの首都ではありませんでした。エルサレムが首都として定められる前は、祭司がイスラエルの宗教行事を司っていたのはシロという町でした。サムエル記の最初の方に登場した祭司エリがいたところで、契約の箱はそこに安置されていて、預言者サムエルも少年時代をそこで過ごしました。しかし、祭司エリの一族が神の前に甚だしい罪を犯してしまったために、神の裁きを受けて、聖地だったシロは廃墟となり、祭司エリの一族もその多くがペリシテ人によって殺されてしまいました。契約の箱は変転の末にキルヤテ・エリアムという小さな村に置かれることになりましたが、祭司制度そのものはエリの一族の生き残りが細々と支えていました。エリのひ孫にあたるアヒヤという祭司がサウル王に仕える祭司として働いていましたが、その兄弟のアヒメレクは廃墟となったシロに代わって祭司の町となったノブというところで祭司制度を守っていました。そのノブにダビデは行くことにしました。

さて、先ほども言いましたように、まだイスラエル全体にダビデを捕らえよという命令は出されていませんでした。しかし、王の晩餐でサウル王と王子のヨナタンがダビデの処遇を巡って口論になっていたことは噂になって流れていたのかもしれません。どうやらダビデとサウルの間はただならぬものになっているという憶測がアヒメレクのところにも伝わっていたのかもしれません。そのためか、ダビデが供の兵士も連れずに、たった一人で現れたことを不審に思いました。もしダビデがサウル王と険悪な仲になっていたとすれば、そのダビデをもてなしてしまうと後でサウル王に何を言われるかわからないと思ったのです。とはいえ、ダビデは日の出の勢いのイスラエルの若き将軍です。このダビデに失礼なことを言って怒らせてしまうのも具合が良くないとも考えました。そこで恐る恐る、ダビデが一人でやって来た理由を尋ねました。ダビデもそのような質問を受けることを予想していたのでしょう。あらかじめ、どのように返事をするのかを考えていたものと思われます。ダビデはアヒメレクに、自分はサウル王から密命を帯びてやってきたのだと説明します。この任務は誰にも知られてはいけないものであるため、今は誰も連れていないが、然るべき場所で若い兵士たちと落ち合うことになっている、と説明したのです。だから自分と供の兵士たちのための食糧を提供してほしいと願い出たのです。ダビデは数日分の食糧を必要としていたので、自分だけではなく他の若い者の分まで欲しいと、多めの食料提供を求めました。アヒメレクはこの説明に納得し、ダビデに食糧を提供することに合意しました。アヒメレクがダビデの嘘に気が付いていたのかどうかは分かりません。もしかすると、勧進帳の話のように、つまり兄頼朝から命を狙われて落ち延びていた源義経を助けようとして、供の弁慶の嘘を嘘と知りながらも信じたふりをして彼らを通してあげた関所の役人のように、アヒメレクもダビデを助けてあげたという可能性もあります。しかし、後の話を読む限りでは、アヒメレクは本気でダビデの話を信じていたようです。とはいえアヒメレクは本当に手持ちの余分な食糧の持ち合わせがなく、ダビデに与えられるものは聖別したパンだけでした。聖別したパンとは、神の祭壇の前にお供え用に置いておいたパンの事ですが、それを新しいパンに取り替える時には古いパンはおさがりとして祭司たちに与えられることになっていました。日本でも神棚に備えたお菓子や果物をおさがりとして食べる習慣がありますが、それと似たような習慣です。しかし、そのパンを食べでいいのは祭司だけであり、しかも儀式的に汚れた状態にある祭司はそのパンを食べることは許されませんでした。そういう、ただのパンではないお供え用のパンでしたので、むやみに一般の人に与えるわけにはいかないものでした。アヒメレクとしては、兵士たちが祭司ではないのには目をつぶるとしても、儀式的に汚れていないかどうかは確かめる必要がありました。イスラエルの宗教では、性交渉をすると儀式的に汚れるとされていたので、アヒメレクはダビデの供だとされる若者たちが女性を遠ざけているのかどうかを尋ねました。ダビデは、作り話ではありますが、自分たちは特別な任務を帯びているので、もちろん女性たちとは遠ざかっている、心配ないと請け負います。

その話を信じたアヒメレクは、ダビデに聖別のパンを与えることにしました。しかし気になることが一つありました。アヒメレクの傍らに、サウルのしもべがいたことです。彼はエドム人でドエグというつわものでした。ダビデは彼を見たときに嫌な予感がしましたが、後になってその予感は的中することになります。

さて、こうして首尾よく食糧をゲットしたダビデは気を良くしてさらに大胆な申し出をアヒメレクにします。ダビデにとって何よりも必要なものは食糧でしたが、彼は自分の身を守るための武器も必要としていました。そこで、祭司であるアヒメレクに武器の提供も求めたのです。サウルからの命令が急すぎたので、武器を取って来る暇もなかったのだと説明しました。これはいかにも見え透いた嘘のような気がしますが、アヒメレクはこのころにはダビデの事をすっかり信じてしまったようで、その依頼についても応諾しました。祭司の宮に武器などなさそうなものですが、先にゴリヤテとの戦いでダビデが勝利した時に、その勝利への感謝のしるしとして、戦利品であるゴリヤテの剣を神の宮に奉納していたのでした。その剣ならあります、そもそもその剣はあなたが勝ち取ったものですよと、アヒメレクはダビデに告げます。ゴリヤテと戦った頃、ダビデはまだ年端もゆかない少年でしたから、巨人ゴリヤテの扱う剣は扱いかねて、かえってダビデの方が剣に振り回されてしまう有様でしたが、成長して体も大きく強くなった今のダビデには、ゴリヤテの剣は手ごろに思えるものでした。まさかここでこれほどの逸品を手にすることができるとはダビデも思っていなかったので、ダビデにとってはうれしい誤算でした。

このように、首尾よく食糧と武器を手に入れたダビデが次に求めたのはサウルの手の届かない安全な隠れ家でした。そこでダビデは非常に大胆なことを思いつきます。サウルが最も手を出しにくい相手とは、つまりはイスラエルの宿敵で強大な軍事力を持つペリシテ人です。そのペリシテ人のところに逃げ込めば、サウルもうかつに手を出すことはできないだろう、とそのように考えたのです。そこでペリシテ人の五つの主要都市の一つ、ガテに向かうことにしました。彼は約50キロ、マラソンほどの距離のあるガテまでの旅を一人でこなしていきました。しかし、ダビデ自身もイスラエルの有名な将軍であり、これまで何度もペリシテ軍を痛い目に遭わせてきました。さらには、ガテとはあのゴリヤテの出身地なのです。ゴリヤテは地元の人々にとってはヒーローであり、ダビデはそのヒーローを殺した憎むべき敵なのです。そのような思いっきりアウェーな状況の都市に、ゴリヤテから戦利品として奪った剣を引っ提げて、そこで自分を匿ってもらおうとしているのです。このダビデのたくらみは、大胆不敵というよりも無謀なものとしか思えません。ダビデはガテの人々が自分の顔を知らないので、きっと傭兵として雇ってくれるだろうと、そんな気軽な気持ちでいたようです。しばらくそこで時間を稼いで、その間に他の安全な逃げ場を探そうと思ったのでしょう。しかし、それはあまりにも安易な考えでした。こんな判断をするところから考えても、ダビデにはまだいろんな意味で経験や知恵が足りていませんでした。若さに任せてこれまでは戦場では大活躍してきたダビデでしたが、まだ人の心の機微や駆け引きなどは十分に学んでいなかったのです。だからこそダビデは旅をして成長していく必要があったのですが、ここではその安易な行動のせいでいきなりピンチを招いてしまいます。

というのは、ガテの町にやってきたダビデをすぐに見つけて、彼の事をガテの王アキシュに通報する人がいたのです。アキシュの家来たちは、ダビデのことをイスラエルの王だと勘違いしていました。それほど戦場でのダビデの武勇の評判はペリシテ人の間で高かったのでしょう。また、『サウルは千を打ち、ダビデは万を打った』などというはやり歌がイスラエル人の間で流行しているといううわさを聞いて、今やダビデがサウルに代わって王になったのだとペリシテ人たちが勘違いしたのかもしれません。サウル王はイスラエルの人々が自分ではなくダビデを王だと思うようになるのを恐れていたのですが、なんとその不安は敵であるペリシテ人の間で的中していたのです。アキシュの部下たちは、口々にこのダビデは危険な男だと声高に叫びます。それを聞いてダビデはびっくりしました。うまくペリシテ軍の中に紛れ込んで当座をしのごうとしていたダビデですが、それどころか命が危うくなってしまいました。ダビデは人々の話を聞いて「非常に恐れた」とあります。こういう展開になることは当然予想できそうなものですが、ダビデはまだ世間知らずというか、物事を安易に考えてしまうところがありました。このままでは命が危ないと思ったダビデは、追い込まれてとんでもない行動に出ます。アキシュの部下たちに捕らえられたダビデは、気が違った人物のふりをしたのです。暴れて周囲の物を傷つけたり、大声で意味の分からないことを言って騒いだり、そうかと思えばよだれを垂らしてにやにや笑ったりと、普通の人なら気持ちが悪くて近づこうとはしないような人物を装ったのです。敵とはいえ、戦場で勇名をはせて来たダビデとはどんな男かと興味津々だったアキシュ王も、この見るも無残な哀れな男がダビデとはとても信じられず、すっかり興ざめしてしまいました。気の触れた男など、ガテにはいくらでもいるではないか、と狂人を演じるダビデへの興味を失い、ダビデを立ち去らせるように命じました。こうしてダビデは難を逃れたのでした。

3.結論

まとめになります。今回はたった一人で放浪の旅へと旅立ったダビデの旅路の最初の出来事を読んで参りました。ダビデはこの旅を通じて大きく成長していくのですが、その出だしは順調というわけにはいかず、むしろ将来に悲観的にならざるを得ないような有様でした。ダビデは旅の最初に二つの場所を選びました。最初は祭司の町であるノブ、次いで敵地とも言えるペリシテ人の都市ガテでした。ノブ訪問ではダビデはぜひとも必要としていた二つの物、食糧と武器を首尾よく手に入れることができました。その意味でこの訪問は大成功と言えますが、しかし後に大きな禍根を残すことになりました。この件については次週に見て行くことになります。そしてもう一つの訪問地、ペリシテ人の都市ガテについては、これはいくらなんでも無謀な訪問でした。ダビデはペリシテ人から正体を見破られそうになると、狂人に扮して危うく危機を脱します。このことから見ても、ダビデの行動はかなり行き当たりばったりの、考えなしの行動だとさえ言えます。ダビデはこの時点では、まだまだ様々な面で未熟だったのです。

しかしそれは、逆に言えばダビデには大きな伸びしろがあったということです。成長する余地があったのです。だからこそ神はダビデを旅へと押し出したのです。ダビデはぎりぎりの局面で、どんな状況にも諦めない粘り強さを身に着けていきます。しかし、ダビデが身に付けていく様々な資質の中でも、一番大切なことは「神への信頼を学ぶ」ことでした。というのも、今のダビデには身を守ってくれるものは何もないのです。仲間もいない、お金もない、そして旅をサバイブしていくための経験や知恵さえ圧倒的に不足しています。これまでとんとん拍子で出世して、自分の実力や運に自信を持っていたダビデでしたが、そうした自信も木っ端みじんに打ち砕かれました。なにしろ敵の手から逃れるために狂人のふりさえしたのですから、恥や外聞でさえかなぐり捨てたわけです。ダビデはこの旅の初めで、自分には何もないということをいやというほど思い知らされたことでしょう。これまでの成功から得た自信は皆吹き飛ばされてしまったのです。こういう時に人は何に頼れるのか。もう神しかいないのです。「困った時の神頼み」というのは不信心な人だけではなく、敬虔な人物だと思われている人にさえ当てはまります。神を敬う敬虔な人物でさえも、普通の局面では自分の力だったり人脈だったりを当てにするものであり、神様だけに頼る、神様しか頼るものがない、というような気持ちにはならないものです。人は追い込まれないと、自分の無力さを痛感し、謙虚に神の前に助けを求めようという気持ちにはなれないのです。

ダビデについてもこのことは言えるのではないでしょうか。もちろん、ダビデはこれまでも神への真っすぐな信仰を持った素晴らしい青年でした。しかし、この旅を通じてダビデは一段高い、あるいはさらに深い信仰の境地に至っていきます。それは、絶望的な状況になり、自分のことはもう信じられないという深刻な経験をした人のみが到達できる境地なのです。新約聖書の時代では、使徒パウロがまさにそういう経験をしました。第二コリント書簡1章の8-9節をお読みします。

兄弟たちよ。私たちがアジアで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえ危うくなり、ほんとうに自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。

ダビデも、本当に死を覚悟するようなギリギリの場面、死の谷を歩む中で、究極的に神により頼むことを学んでいきます。王となっていくダビデは、サウロよりも神への全き信頼、全き服従という意味では優れた王となっていきます。ではサウロとダビデの何が違ったのか?それは、ダビデが苦難の旅を通じて、神にのみ信頼することを学んでいったからでした。このような経験がサウロには決定的に欠けていたのです。

このように考えると、人生で苦難に遭うこと、ぎりぎりまで追い込まれることは悪いことだとは単純には言えなくなります。そのような苦難に遭うことで人は成長し、特にクリスチャンはそういう経験を通じて謙虚さと、神への信頼を学ぶからです。ダビデもそうした経験を通じて本物の神の人へと変えられていきます。私たちも、もちろん苦難はないに越したことはありませんが、もし苦しみに会うことがあっても、それを前向きに捉えたい、それを信仰の糧としたい、そう願うものです。お祈りします。

ダビデを苦難の旅へと導き、その中でもダビデを守ってくださった神様、そのお名前を讃美します。そうした経験を通じてダビデが本物の信仰を獲得していったように、私たちをも成長させてください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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