刎頸の友
第一サムエル20章1~42節

1.序論

みなさま、おはようございます。今朝もサムエル記を読んで参りましょう。今日の箇所はサムエル記の重要な分岐点になる箇所です。といいますのは、今日の箇所の後に、ダビデは旅に出ます。旅に出るといっても、ダビデが望んでそうしたわけではなく、サウル王に命を狙われて、いわば強いられて旅に出るのですが、しかし旅に出ることはダビデの成長のためにはぜひとも必要なものでした。

聖書に登場する人物には、旅の中で成長する人が少なくありません。彼らの中には、自分では望まずに旅に出る人たちがいました。たとえば族長ヤコブです。ヤコブは兄エサウに命を狙われて、逃げるようにして父祖の家を立ち去ります。それから長い旅の末に叔父のラバンの家に行き、そこで様々な苦難を経験しながらも人間的に成長し、大きな家族と財産を得て父祖の地に戻っていきます。モーセにも同じことが言えます。彼もエジプト王家の王子という恵まれた立場にいましたが、エジプト兵を殺したためにお尋ね者となり、逃げるようにしてエジプトから立ち去ります。しかし、その旅の中でモーセは神と出会い、大いなる使命を示されます。このように、聖書の有名な人物たちはみな、旅の中で成長するのです。そして、旅の中で成長するというのは聖書に限った話ではありません。古今東西の英雄物語では、英雄となるべき人物は必ず旅に出ます。旅の中で幾多の試練を乗り越え、仲間を得て、そして大きな勝利を収めて名実ともに英雄になっていきます。ヤコブやモーセの旅も、こうした英雄の旅、英雄になるための試練の旅だったといってもよいでしょう。

そして、ダビデもまた、彼自身では望まないことではありましたが、これから旅に出ます。その中でダビデは大きく成長していきます。ダビデもまた、真の英雄、真の王となるために、旅を必要としていたのです。しかし、人が安定した生活を捨てて未知の旅に出るというのは大変なことです。ダビデもすでにサウル王朝の中で高い地位に就いていました。若き将軍であり、王の婿です。そんな高い地位を捨てて旅に出ると言うのは勇気のいることですが、ダビデを旅に送り出したのが彼の友、ヨナタンでした。

今日の説教タイトルは『刎頚の友』ですが、この言葉は中国の古典『史記』から生まれたことわざで、お互いのためには首をはねられても後悔しないほどの友情を表すことばですが、今回の話での刎頸の友とはもちろんダビデとヨナタンのことです。ヨナタンは、友のために文字通り命がけで行動します。ヨナタンというのは、サムエル記の登場人物の中でもとりわけ人気のある人物です。勇敢で、誠実で、本当に理想的な人物です。しかし、そのヨナタンがこのサムエル記で主要な登場人物として現れるのは今回が最後です。もちろん、ここでヨナタンが死んでしまうわけではありませんが、この後のサムエル記の中ではヨナタンはたまにしか登場しません。つまり、今日のサムエル記20章は、ヨナタンが活躍する最後の場面なのです。ここでヨナタンは大変大きな活躍をしますが、大局的に見れば彼の役割とは英雄ダビデを旅に送り出すことでした。

先ほども申しましたように、古今東西の英雄物語では、主人公である英雄、ヒーローは必ず旅に出ます。英雄になるべき人物は、旅の中でいろいろな試練に出会い、そうした試練を乗り越えて行くなかで成長し、英雄にふさわしい資質を身に付けていくからです。旅をしない英雄というのは存在しないと言ってもよいほどです。ダビデも、これから出て行く旅の中で、王たるにふさわしい資質を身に付けていき、また大切な仲間たちを得てゆくことになります。しかし、人が住み慣れた環境を捨てて旅に出るためにはそれなりの強い動機が必要になります。そしてそのきっかけが、サウル王から命を狙われるという状況であり、またダビデを旅へと送り出す役割を担っているのがヨナタンだということです。通常、英雄物語において英雄を旅へといざなう役割をしているのは師匠、メンターと呼ばれる人物です。聖書にもそういうメンターは何人も登場しますが、主イエスの場合、メンターと言えるような役回りはバプテスマのヨハネで、彼はイエスを旅に送りだす役割を担っています。実際、ヨハネから洗礼を受けた後にイエスは公生涯の旅に出ます。そしてダビデの場合はこのヨナタンがメンター、あるいは導き手の役割を果たしているように思えます。ヨナタンは、理由もなくサウル王から命を狙われるという、人間不信に陥っても不思議ではないダビデに対し、真の友情、人は信頼できるのだという安心感を与えます。ヨナタンとの真の友情を経験したことは、今後のダビデにとってとても大きな財産になります。ヨナタンは、ダビデをサウル王から保護し、旅へと送り出しています。そういう意味で、ヨナタンは英雄ダビデにとっては友であるのみならず、彼をより高いステージへと導いていく導師、メンターという役割を帯びているといえるでしょう。そういう視点を持ちながら、今日の20章を読み進めて参りましょう。

2.本論

さて、では1節から読んでいきましょう。サウルから命を狙われたダビデは、預言者サムエルに守ってもらうためにラマのヨナテにいましたが、サウルのダビデ殺すという計画は神ご自身の介入もあり失敗します。サウルからの脅威がひとまず去ったということで、妻ミカルのいる王都に戻ってきました。サウルはごく一部の側近にしかダビデの命を狙っているということは明かしていないので、ダビデが王都に戻っても、誰も不思議がる人はいません。しかし、サウルが自分の命を狙っているという危険な状況が亡くなったわけではありません。ダビデも、今ではそのことをよく分かっています。サウルは、一旦は自分の命を狙うことを諦めたようだけれども、今後もそうだとは限らないのです。そこで、信頼できる友であり、年長者でもある王子ヨナタンの元を訪ねます。ダビデがまず知りたかったのは、なぜサウル王が自分の命を狙っているのか、ということでした。ダビデには本当に心当たりがなかったからです。他方で、ヨナタンの方はといえば、サウル王から一度はダビデの命を狙っていることを打ち明けられましたが、その時にはサウルはヨナタンの諫言を聞き入れ、今後はダビデの命を狙うことはしないとヨナタンに誓います。しかし実際にはサウルはミカルの家にいるダビデを襲って殺そうとしていたのですが、この計画はヨナタンには打ち明けなかったのでした。サウルもヨナタンにダビデを殺さないと誓った手前、さすがにこの暗殺計画は言えなかったのでしょう。ですから、ダビデからサウル王が自分の命を狙っていると相談された時には、ヨナタンもまさかという思いだったでしょう。もしそうだとするなら、ヨナタンは父サウルに裏切られたことになります。しかし、ダビデはサウルが自分の命を狙っているのは間違いない、となおもヨナタンに訴えます。おそらくサウル王は、ヨナタンがダビデを気に入っていることを知っているので、ヨナタンを悲しませないためにダビデ殺害のたくらみを明かさなかったのだろうと。

ここまでダビデに言われて、ヨナタンもダビデの言うことを信じ始めます。そして、この件についてはどのような形ででもダビデに協力すると申し出ます。ダビデは、サウル王が今でも自分を殺そうとしているのか、その真意を確かめることをヨナタンに依頼します。具体的には、王の主宰する食事の席に自分は欠席する予定だが、自分の不在についてサウルがどんな反応をするかを知らせてほしいと頼んだのです。サウルがヨナタンに、なぜダビデは欠席しているのかと尋ねたならば、ダビデはベツレヘムに行って家族全体のためのいけにえを献げる儀式に参加している、と答えてほしいと頼みます。サウルがそのことを気にしなければ、サウルは自分を殺す計画を断念したと判断できるけれど、ダビデの不在をサウル王が怒ったならば、彼はなおダビデの命を狙っているのだ、ということです。

このようにサウルの反応を自分に知らせてほしい、とダビデはヨナタンに頼みます。さらにダビデは、もし自分が知らないうちにサウル王に対して大きな罪を犯してしまっていたのなら、その時にはヨナタン自身が自分を殺してくれ、と頼みます。しかしヨナタンは、ダビデに罪はないし、またサウル王が本当にダビデを殺そうとしているのなら、その時には必ず知らせると約束します。そして具体的な段取りを決めるに際して、ヨナタンは周囲を警戒し、誰も隠れて盗み聞きができない野原へとダビデを連れて行きます。

人気のない野原に行ったヨナタンは、そこでダビデに驚くべきことを告げます。まずヨナタンは、サウルが本当にダビデを殺そうとしているのであれば、神に誓ってそのことをダビデに伝え、彼を安全な所にまで逃がすことを約束します。しかし、それはサウル王を裏切ることであり、その場合には自分は父の逆鱗に触れて命を落とすかもしれないと、そこまでの覚悟を口にします。友のために命さえ惜しまないのですから、まさしくヨナタンはダビデの刎頚の友です。けれども、驚くべきはその後のヨナタンの言葉です。ヨナタンは、自分が生き永らえることができたら、自分に神の恵みを施して欲しい、また自分が命を落とすようなことになったら、自分の子孫に神の恵みを施して欲しいとダビデに頼むのです。ダビデはこれから王に命を狙われるお尋ね者として放浪の旅に出る、明日をも知れない身の上の若者です。そんなダビデに、王族であるヨナタンが自分と自分の子孫の祝福を願うのです。ダビデの方こそ助命をヨナタンに願う立場であり、あべこべではないかと思えてきます。しかし、ヨナタンは考えなしにそのようなことを言ったのではありません。ヨナタンは、この二人の戦いではサウルが破れ、ダビデが最終的な勝者となることを見切っていたのです。それには二つの理由がありました。ヨナタンは、ダビデの異常ともいえる活躍の背後には神の守りがあることを見てとっていました。ダビデは神が王たる器として選んだ人物だと確信していたのです。同時に父サウルについては、ダビデを殺さないという神への誓いを破り、無実の人の命を狙うという大罪を犯していることから、神の裁きは避けられないだろうということも確信していました。ここまでの深い洞察を持つヨナタンは、信仰者としても政治家としても一流の人物だったことが分かります。

それからヨナタンは、どうやってサウル王の殺意の有無を知らせるか、その具体的な方策をダビデに伝えます。ヨナタンは矢を放ち、矢がこちら側にあると言った場合にはサウルに殺意はないが、矢が向こう側にあると言った場合にはサウルに殺意がある、というメッセージだと理解してくれと説明します。ダビデは了解して、ヨナタンからの合図を待つために野原に隠れることにしました。こうしてダビデの運命を決める二日間が始まります。

さて、サウル王は新月祭を開催しました。当時のイスラエルは太陰暦で、月の満ち欠けでカレンダーを作っていました。一か月は新月の日から始まるので、その月の始まりを祝うのが新月祭です。サウル王は主だった重臣や側近たちを集めて晩餐を催しました。若き将軍であるダビデもその一人として食事に招かれていたのですが、最初の日にダビデはヨナタンとの約束通り欠席しました。しかし、初日に関してはサウル王もダビデの欠席を咎めませんでした。ダビデは何かのアクシデントで儀式的汚れを帯びてしまったと考えたのでした。儀式的汚れは人に伝染すると信じられていたので、そうした汚れを帯びてしまった人は公の場には出なかったのです。今日でいえば、軽い風邪をひいた人が他の人に風邪をうつさないようにと公の場に出ない、という行動と似ています。しかし、二日目の食事の席にもダビデは現れませんでした。サウルもさすがにこれを問題視して、ヨナタンに理由を尋ねます。そこでヨナタンは、ダビデに言われたとおりの言い訳をサウルに伝えます。しかし、サウルはそれが嘘だと即座に喝破し、ヨナタンを口汚くののしります。ここでは「ばいたの息子め」となっていますが、ここまで侮辱的な言葉ではなく、「裏切り者め」というのが適切な訳であろうと思います。ただ、激高したサウルの言葉は王というよりやくざのような言葉で、王の晩餐というTPOにはまったくふさわしくない言葉でした。それだけサウルは我を忘れて怒り狂ったのでした。サウルからすれば、自分の子どもであるヨナタンやミカルが一度ならず二度までも自分を裏切ったことに我慢がならなかったのでしょう。そしてここでサウルも本音を口にします。俺が何のためにダビデを殺そうとしているのかわかっているのか、俺はお前を王様にしてやるために、お前の危険な競争相手を排除しようというのだ、その親心が分からんのか、とヨナタンを叱りつけます。しかし、そんなことはヨナタンにとっては有難迷惑でしかありません。ダビデを連れて来いと怒鳴り散らすサウルに対し、ここでもヨナタンは堂々と正論を展開します。ダビデを殺すとおっしゃいますが、彼がどんな罪を犯したというのですか、その根拠を示してくださいと再びサウルに迫ります。この正論はサウルをさらに逆上させ、サウルは怒りに我を忘れてなんとヨナタンに対して槍を投げつけて殺そうとします。もちろんそんなことはサウルの本意ではないのですが、怒りで自制心を失ってしまったのです。このサウルの常軌を逸した行動を見て、ヨナタンもサウルが何としてもダビデを亡き者にしようとしているということを確信します。ヨナタンはサウルの槍を避けると、憤然として食事の席を後にします。周りの来会者たちはあっけにとられたことでしょう。ヨナタンはダビデのために嘆き悲しみますが、それ以上に自分の父親のことが情けなかったことでしょう。もはやサウル王の世の長くはない、ということまで悟ったのかもしれません。

それから翌朝になって、ヨナタンは手筈通りにサウルの真意をダビデに伝えるために野原に出かけます。そこで合図の矢を放ち、ダビデへの殺意を伝えるために子どもに「向こうに行け」と命じます。これは、サウルがダビデを殺そうとしていることを伝える合図でした。その後、子どもが立ち去ったあと、ダビデとヨナタンは最後の別れをします。これはこの二人の友の今生の分かれのなるものでした。ヨナタンは泣きながらダビデに「安心して行きなさい」と語って、彼を放浪の旅へと送り出したのでした。

3.結論

まとめになります。今日はダビデの人生において、大きな転機となる出来事を学びました。これまでとんとん拍子で成功の階段を駆け上ってきたダビデは、一転して王から命を狙われるお尋ね者として各地を放浪することになります。ダビデはこれから旅をしていくことになるのです。常識的に見れば、今回の件はダビデの人生における初めての大きな挫折ともいえる出来事でした。しかし、ダビデをこの苦難の旅に送り出すことは主の御心だったのです。ダビデは恐れを知らぬ勇敢な若者でしたが、イスラエルの王という重責を果たすためには、まだまだ彼には足りない部分や未熟な要素がありました。「可愛い子には旅をさせよ」と言いますが、神はダビデを本当の王たる器に育て上げるために、あえて苦難の道を歩ませようとしておられるのです。ダビデが本物の王、そして英雄となるために、これから出かけて行く放浪の旅はぜひとも必要なものだったのです。

とはいえ、ダビデは既に大きな成功を収めていました。若くして王の晩餐に招かれるほどの有力な将軍となり、サウル王の娘を貰って王家の一員にすらなっていたのです。その立場を捨てて、あてのない旅に出るというのはなかなかできることではありません。そんなことになるくらいなら、いっそのこと潔く王に殺された方が良い、と考える人もいるでしょう。そのダビデを苦難に満ちた旅へと送り出した人物こそ、ヨナタンでした。どんな人にとっても、未知の世界に旅立つためには、それを後押ししてくれる人、導き手となる人が必要です。ヨナタンは、ダビデが王となる器であることを確信し、彼を慰め励まし、身の危険を顧みずに彼を安全に旅へと送り出してくれました。このヨナタンとの出会いと友情がなければ、ダビデといえども、どうなったかは分かりません。まさにヨナタンは神が遣わしたダビデにとってのメンター、導き手だったのです。

私たちの人生においても、新しい道に踏み出そうとするときには様々な迷いや葛藤が生じます。慣れ親しんだ日常を捨てて、何が起こるか分からないような旅に出るのは誰にとっても大変なことです。しかし、聖書に登場する神の人は、みな旅を経験しています。アブラハムは後期高齢者のような年齢になりながら、未知の旅に出ました。父さえ騙す、詐欺師のような人物だったヤコブも、旅に出て人間的に大きく成長しました。ヤコブの息子ヨセフも、兄たちに売られるという最悪の状況ではありましたが、親元を離れて異国のエジプトの地に行き、そこで大出世をします。モーセも、自分の意志に反する形ではありましたが、旅に出ました。そこでモーセは自分の天命を知ります。そして今回のダビデも、本当の王たる器となるために試練の旅に出るのです。そのダビデが旅立つお膳立てをしたのがヨナタンなのです。

私たちの人生においても、故郷を離れて旅立つという経験は一度ならずあると思います。振り返ってみれば、私にとっての人生の旅とは七年間のイギリス留学でした。それまでは、ほとんどを東京で過ごしてきた私にとっては大変大きな転機でしたが、今振り返ると自分の成長のためには絶対に必要な旅だったと思います。そのような大きな転機を迎える時、それを後押ししてくれる人に出会うものです。私にとってはそれこそ清水の舞台から飛び降りるほど勇気のいることでしたが、そのような私を後押しして人がいたのです。

また、何も遠くの知らない土地に旅立たなくても、同じところに住み続けながらも人生の大きな方向転換をすることもあります。それも旅に出るのと同じくらい勇気のいることで、そういう場合にも私たちには後押ししてくれる人が現れるものです。神は私たちの人生の節目・節目に、そのような誰かを送ってくれるのです。

しかし、だれでも旅に出ることが出来るわけではありません。私たちは旅に出たいと願っても、状況がそれを許さないということがあります。しかし、実際に旅に出なくても、旅に出たような体験をすることができます。英雄の旅の物語を読むことを通じて、私たちは自分が旅に出たような気持ちになるのです。古今東西、そして現代においてもヒーローが旅に出るという物語や映画の人気が一向に衰えないのも、私たちがそうした物語世界の主人公に自分を重ね合わせることで、自分自身が大きく影響を受け、変わっていくことができるからでしょう。私たちが今読み進めているサムエル記がまさにそのような物語であり、私たちはこれから旅に出るダビデに自分自身を重ねながら、ダビデと一緒に成長していきたいと願っています。これからも深くサムエル記を味わうことができるように、祈りましょう。

ダビデにヨナタンを遣わして、ダビデを未知の旅へと導かれた神様、そのお名前を讃美します。私たちもこれからダビデと共に旅をする中で、主の御心を探ることができるように私たちを導いてください。われらの救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

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