1.序論
みなさま、おはようございます。今年初めの主日礼拝をこのように迎えられることに感謝します。アドベントの期間中はイザヤ書を取り上げていたので久しぶりになりますが、昨年から続けてきたサムエル記の講解説教を今年も継続して参ります。
さて、ではいつものように、今日の12章をサムエル記の大きな文脈の中で捉えていきましょう。現在、私たちはサウルが最初のイスラエルの王となっていく、その時代について学んでいます。9章から11章までは、名もない青年であるサウルが神に見いだされて王となり、また人々に認められていく、そのようなサクセスストーリーを描いていました。それに対し、今日の12章を挟んだ13章から15章までは、王となったサウルが神と預言者サムエルに対して十分に従順でないことが明らかになり、王位を追われてしまう、そのような没落物語となっています。つまりは、9章からの3章が成功物語、13章からの3章が没落物語という、対照的な内容になっています。その二つの大きなセクションに挟まれているのが今日の12章なのです。サウルのストーリーの中で、いわば蝶番のような役割を果たしているのが12章なのです。
では、今日読んでいる12章の持つ意義、あるいは目的はどんなものなのでしょうか。それは、サウルの登場によって確立されようとする王制という新しい現実について、イスラエルの人々に警告を与える内容になっています。この章におけるサムエルの演説は、王様という存在が決して万能ではない、王なら何をしても許されるというような特別な存在では決してない、むしろ王であるからこそ、なお一層謙虚になり、神の掟、神の御心に従わなければならない、ということを強調しています。もし王がそのような神への従順を示さないのなら、彼の王座は長くは続かないだろうという、まさに13章以降のサウル王の運命を暗示するような内容になっているのです。
サムエル記8章で学んだように、イスラエルの神も、また神の預言者サムエルも、イスラエルが王という強力な権力者を擁する王制へと移行することを本当は歓迎していませんでした。なぜならイスラエルにおいては神のみが王であり、すべての神の民は、神という唯一の王の下に平等であるはずだからです。しかし、ひとたび世襲によって代々受け継がれていく王という支配者が生まれると、その王を支える貴族階級も生まれます。貴族たちもまた、世襲によってその権力を子に受け継いでいきます。そうなると、イスラエルの中に代々人々を支配する支配者階級と、彼らに隷属する被支配者階級が生まれることになります。イスラエルが支配する側と支配される側とに二分されていくのです。それは、神の民であるイスラエルが目指す理念とは大きく隔たったものです。ですからイスラエルはそれまでの歴史の中で、世襲される支配者階級を持たないようにしてきました。それまでイスラエルを治めてきたのは「士師」と呼ばれる人々でした。ギデオンやサムソンがその代表的な人物です。彼らは世襲を認めませんでした。ギデオンは、イスラエルの民が「あなたの子孫も士師となって私たちを治めてほしい」と願った時に、それを拒否しました。彼らに対し、神のみがあなたがたを治めるのだ、と語ったのです。このように、士師というのはイスラエルの危機の時代に現れて、その危機が去ると未練なくその地位から降りるという、非常に潔いというか、特殊な立場の人たちだったのです。
しかしイスラエルの人々は、そのような士師という地位を不安定なものと見なしました。ピンチの時だけ現れるというのではなく、常に自分たちをリードし、外敵と戦ってくれる、そのような安定的な地位の人物を求めたのです。平時には農業をして、戦争になったときだけ武器を取る屯田兵のような人たちではなく、常に戦争に従事する常備軍を組織して率いる王を求めたのです。それはペリシテ人という強力な外敵の脅威に怯えたイスラエルの人たちの、偽らざる本音でした。しかし同時にそれは、不信仰の表れでもありました。強い軍隊という目に見える安全保障を持たなくても、危機の時にはイスラエルの神は私たちを助けてくれるという信仰があれば、王も常備軍もいらないはずです。けれどもイスラエルの人々はそのような信仰は現実的ではないと考えたのです。これはわたしたち日本人にもよく分かるのではないでしょうか。信仰とは少し違いますが、私たちは日本の平和憲法は良いものだと考え、誇りにすらしています。しかし、段々と日本の人々は、平和憲法は理想としては美しいが、この厳しい国際情勢の下ではこのような憲法では心もとない、だから憲法を変えて、実際には今でも強力な軍備を持っているのですが、さらに強力な軍隊を持とうと考えるようになってきました。それは、サムエルの時代の人々の気持ちに通じるものがあります。これまでのイスラエルの士師の時代は、理想的な国の形だったかもしれないが、今やそれは時代に合わなくなってしまった。強力な外敵に取り囲まれたイスラエルは、もはや理想だけでは生きていけない、現実を見なくてはいけない、ということで強い王を求めたのです。イスラエルの神もこの民の要請を聞き入れて、今やサウルという新しい王が立てられ、しかも彼は見事外敵を討ち果たしました。王制はやっぱり良いものではないか、そういう気分がイスラエルの民の間に広まっていきました。そこで、預言者サムエルはくぎを刺したのです。イスラエルが士師の時代から王制に変わろうとも、変わらないものがある、それはイスラエルがモーセを通じて神と結んだ契約の下にあるという事実です。この契約によれば、イスラエルは神に従えば祝福されるが、神から背を向ければ呪われます。この契約の構造は、絶対的な権力者である王すらも拘束するものなのです。この点に留意しながら、今日のテクストを詳しく見ていきましょう。
2.本論
前回の11章では、初代の王であるサウルの指導の下で、イスラエルが難敵であるアモン人を討ち果たしたことを学びました。意気上がるイスラエルの人々を預言者サムエルは招集します。最初にサムエルがしたことは、自らの身の潔白の証しを立てることでした。つまり、自分は主の預言者として、また士師としての召しに忠実であり、いかなる不正も行ってこなかったということを示そうとしたのです。人々から信頼を集め、いまや伝説の預言者のような立場にあるサムエルがこのような弁明をいまさらする必要があるのか、と思われるかもしれませんが、おそらく彼は自分の息子たちのことを気にしていたように思われます。主の前に完全に歩んできたように思えるサムエルにとっての玉に瑕は、彼の息子たちでした。先ほど「士師」という地位は世襲されないということを申し上げましたが、サムエルはその禁を破って自分の息子たちに士師の地位を譲ってしまいました。しかも、その士師たちがとんでもないならず者で、「利得を追い求め、わいろを取り、さばきを曲げていた」と聖書は記しています。イスラエルの人たちが王を求めたのは、サムエルの息子たちに不満を抱いたということがその原因の一つでもあったのです。サムエルもそのことが心に引っかかっていたのでしょう。たとえ自分の息子たちがろくでなしであっても、私はあなたがたから奪ったことも、わいろを取ったことも、苦しめたこともない、ということを今や王となったサウルを証人として立てて、イスラエルの人たちに訴えます。このように自らの身の潔白を示すことは、これから語る言葉が真実であるということを証しするために必要なことでした。
そしてサムエルは本題に入っていきます。サムエルは、これまでの歴史の中で、神は常にイスラエルの民に対して忠実であり、彼らが苦しんでいる時にはいつでも救いの手を差し伸べてきたことを切々と語りました。そして今回、アモン人の王ナハシュ、この王の名の意味は「蛇」ですが、彼が攻めて来た時にも神はサウル王を通じてイスラエルを救い出してくださいました。このようにイスラエルの神は常にイスラエルの人々に誠実でした。ですから民の側も、誠実さを持って神に応答しなければなりません。神の恵みは一方的に私たちに与えられますが、その恵みを受けた私たちもそれに誠実に応答する必要があるのは、旧約の時代も新約の時代も変わらない不変の真理です。もし神の民が神に対して忠実に応答しない場合には裁きが下されます。これがモーセを通じて結ばれた契約の本質であり、それは王制の時代になっても変わることがありません。そして絶対的な権力者である王ですら、この契約のタガから外れることはありません。神によって選ばれた王でさえも主に逆らえば、その地位を失うことがあり得るのです。
このようなモーセ契約の神髄を示した後、サムエルは改めてイスラエルの人たちが王を求めたことは主の御心を損なうものだったということを強調します。それが17節に書かれています。「あなたがたは王を求めて、主のみこころを大いにそこなったことを悟り、心に留めなさい」とサムエルは語りました。王制がうまくいきかけて、人々が楽観的になっているときにあえてこういうことを語ったのは、王制の危険な側面、つまり神の下の平等という大切な理念にとって王制は常に潜在的な脅威となるという事実を民に忘れさせないようにしたのでしょう。サムエルはこの自分の言葉が真実であることを示すために神に雷と雨を求めましたが、神はそれに応じて雷と雨とを下されました。人々はこのしるしを見て改めて、王を求めたことが神の御心でなかったことを知って恐怖し、サムエルに神への執り成しを求めました。それに対し、サムエルはこう答えました。
恐れてはならない。あなたがたは、このすべての悪を行った。しかし主に従い、わきにそれず、心を尽くして主に仕えなさい。
神はもう過去のことは振り返られない、だから王を求めるという過去の失敗の事を気にすることはない、むしろこれから先のことを心配しなさい、とサムエルは諭します。サムエル自身も、イスラエルの民のためにこれからも祈り続けることを約束しています。そしてサムエルは一番大切なことを語ります。サムエルはイスラエルの人々に、「正しい道を教えよう」と語ります。それが24節に書かれています。
ただ、主を恐れ、心を尽くし、誠意をもって主に仕えなさい。主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい。
これは主イエスが最も大切な戒めだと語られた内容とまったく同じです。すなわち、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」(マルコ12:30)ということです。そして主を愛するとは、主の戒めを守って歩むことです(第一ヨハネ5:3)。これが正しい道です。旧約時代は神の戒めを守ることが大切だったが、新約の時代は行いより信仰、信じることの方が大切なのだ、と考える方がいるとすれば、それは「信仰」の意味を大きく誤解しています。信仰とは単に信じることではなく、神への信頼、あるいは忠実さを言葉と行いによって示すことです。口先だけの信仰は信仰ではなく、行動を伴って初めて信仰なのです。そして、そのような本物の信仰は神が私たちのために多くの事をしてくださったという感謝の気持ちから生まれます。サムエルはここで「主がどれほど偉大なことをあなたがたになさったかを見分けなさい」という非常に大切なことを語ります。私たちは、自分たちの日常生活で起こる神の恵みを見逃しがちです。私たちは自分たちの人生に起こる不幸については神に不平を言ったりのろったりすることには早いのですが、私たちに起こった幸運について神に感謝することには鈍く、遅いものです。むしろ「自分が頑張ったから、こうなったのだ」などと考えがちです。しかし、行動を伴う本物の信仰を持つためには、まず神が私たちのために何をしてくださったのかを見分け、それに感謝することがとても大切です。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな」(詩篇103:2)というみことばは本当に大切です。そのような感謝があるからこそ、私たちは行動をもって主に応答できます。ですからヨハネも、
キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。[…] 子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実とをもって愛そうではありませんか。(第一ヨハネ3:16,18)
と語ったのです。まず主が私たちのために大きなことをして下さった、そのことを知り、感謝する、それが第一歩です。そのような感謝の気持ちが、「行いと真実」とを行う力を私たちに与えます。同時に口先だけの信仰、行動を伴わないリップサービスにような愛は悲惨な結果をもたらすと、サムエルは警告します。それが今日の最後の箇所、25節です。
あなたがたが悪を重ねるなら、あなたがたも、あなたがたの王も滅ぼし尽くされる。
なんとも厳しい言葉です。もし神の戒めを無視し続けるなら、神の御心に逆らい続けるなら、あなたがたは滅ぶだろうとサムエルは語ります。そしてその「あなたがた」には「王」も含まれます。王は「アバブ・ザ・ロー」、つまり法の支配の及ばない特権階級ではありません。むしろ大きな特権を持つからこそ、大きな責任が伴うのです。今の日本では、上に行けば行くほど責任を問われないという非常に歪んだ構造になっています。しかも、政治の世界では世襲化が進み、国会議員は昔の大名のように世襲を通じて権力を維持しています。彼らは段々と有権者から遊離して、特権階級のようになってしまいました。国民に対して責任を負っているという気持ちが弱くなっているような感すらあります。しかし、主の前ではそうではありません。日本を含めたすべての国の為政者たちは、主の前に厳しく責任を問われるでしょう。同時に、私たちは簡単に平和憲法を諦めないようにしたいと思います。イスラエルの人たちが士師の時代を捨てて、王制を支持したのは近隣諸国の脅威から守ってもらうためには「神のみが王」という信仰では頼りないと考えたからでした。私たちも、世界で最もイエスの教えに近い平和憲法を持ちながら、近隣諸国への恐怖からそれを捨てようとしています。しかし、イエスの教えが真実だと信じるなら、私たちクリスチャンは平和憲法を支持するべきなのではないでしょうか。サムエル記を読んでいると、そのように問われている気がいたします。
3.結論
まとめになります。今日はサウル王の栄光と挫折を語る箇所のちょうど真ん中に位置する箇所を学びました。イスラエルの王制は順調に歩み出したように思われましたが、そこでサムエルは改めて厳しい警告の言葉を王とその民に送りました。イスラエルが士師の時代から王たちの時代に移行しようとも、イスラエルは神との契約の中にいるのです。イスラエルは契約の中にいるので、神に守られます。神は常にイスラエルに忠実で、彼らの危機に際しては必ず助けを送ってくれます。それに対しイスラエルも感謝をもって、神に誠実に応答する必要があります。誠実な応答とは、神の御心に従って歩むこと、具体的には神の戒めを守ることです。そのような関係にある限り、イスラエルには祝福がありますが、そこから逸れて、むなしいものに心を向けるならば、彼らには滅びが待っています。しかも王のような特別な地位にある人には一層厳しい責任が問われます。
私たちも、このような契約的な関係を神と持っています。それはモーセを通じての古い契約ではなく、イエス・キリストを通じての新しい契約ですが、しかしその契約の基本的な構造は同じです。それは、まず神が私たちに大きな恵みを下さったのだから、私たちも誠意をもってそれに応答する必要があるということです。具体的には、「互いに愛し合いなさい」という神の戒めを実践することです。そうすれば私たちは神の愛に留まることができます。私たちの今年の年間主題聖句のテーマは「愛」ですが、この新しい一年も神への愛、隣人への愛を持って歩んで参りましょう。お祈りします。
私たちを導かれる主よ、そのお名前を讃美します。今日はこのように新年最初の聖餐主日礼拝を持つことができる幸いに感謝します。同時に新年早々大きな困難に直面しておられる方々がいることを覚えます。私たちも主の恵みに感謝しつつ、困った方々に手を差し伸べることができますように。日本では東北大地震、熊本地震、そして今回と大きな地震が続いています。これからもこうした困難は続くでしょうが、私たちが互いに支え合うことができますように。われらの平和の主、イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン