1.序論
みなさま、おはようございます。先週はマルコ福音書を三幕のドラマと考えるならば、ペテロの告白というターニング・ポイントによってドラマは本格的に第二幕に入ったというお話をしました。これまでイエスはガリラヤで大きな奇跡を行いながらも、ではイエスは究極的には何を目指しているのか、彼の人生の目的や使命が何であるのかを明確にはしてきませんでした。もちろんイエスは神の王国の到来が近いこと、神の支配の実現がもうすぐだということを人々にアナウンスしてきましたのですが、神の支配が地上世界で実現するためにイエス自らが果たす役割が何であるのかをはっきりと伝えてこなかったのです。それは詰まるところ「イエスとは誰なのか?」という問いです。イエスが神の支配の到来を人々に伝えるメッセンジャーに過ぎないのか、あるいは自らが人々を率いて神の支配を実現させていくリーダー、つまり王なのか、こういう疑問が弟子たちの間にもあったのです。
そしてついにこの疑問が解消される瞬間が来ました。それが「ペテロの告白」で、ペテロはイエスこそイスラエルの王だと告白したのです。これは信仰上の告白というより、政治的な告白だということはぜひとも覚えていただきたいと思います。今日の例でいえば、ある政治家のグループが現在の内閣総理大臣に不満を持っていて、新しいリーダーが必要だと考えているときに、新進気鋭の政治家に向かって「あなたこそ次の総理です」と言うようなものです。現職の総理がそのことを知ったら、そんなことを告白した政治家を間違いなく目の敵にするでしょう。ペテロの告白も、そういう危険を伴ったものだということを忘れないようにしてください。イエスはこのペテロの告白を受け入れ、自分がイスラエルの王であることを認めます。が、その次にとんでもない爆弾発言をします。自分は王だが、これから敵対する勢力に迫害され、死ぬのだと言ったのです。これを聞いた弟子たちはびっくりしたというか、訳が分かりませんでした。イエスがイスラエルの王ならば、かつてのダビデが政敵をすべて倒したように、自分に逆らう人々を平定して王権を確立するはずではないか、それなのに志半ばで死ぬはずがないではないか、とペテロは怒ったようにイエスを叱りつけました。しかしイエスもペテロに、それは悪魔の考えだという最大限の厳しい言葉を投げ返しました。今日の箇所はそれに続くイエスの教えなのです。
さて、マルコ福音書をマタイやルカと比較すると、イエスの教えが少ないということを、これまで何度か申し上げたと思いますが、マルコ福音書の大きな特徴は「山上の垂訓」に相当するようなイエスのまとまった教えがないということです。4章で神の国のたとえがありますが、それは教えというより謎であり、それを聞いて直ちに意味が分かるというような教えではありません。マタイ福音書の山上の垂訓にある「右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」ですとか、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」という教えは聞いた瞬間にはっとする、これまでの自分の生き方や人生観に変革を迫るような衝撃を伴うものであるわけですが、マルコ福音書にはそのような教えがあまりないのです。しかし、今日の聖書箇所のイエスの教えは、強烈なインパクトを持つ、一度聞いたら忘れられない教えです。聞きようによっては、私たちには受け止めきれないような厳しさを持つ教えです。このイエスの教えの真意は何であるのか、またそのことが私たちにとって持つ意味、そういうことを考えながら今日のみことばを見て参りましょう。
2.本論
では、34節から見て参りましょう。ここで注目して頂きたいのはイエスが「群衆」を呼び寄せたということです。というのも、イエスはこれまで弟子たちと群衆とを区別して、特に大事な教えは群衆ではなく、弟子たちだけに教えてきたからです。例えばマルコ4章10節と11節ではこんな会話がありました。
さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。」
たとえで言われるということは、つまり教えの意味が隠されているということです。イエスは群衆にはたとえの意味、教えの真の意味を明かさなかったということは、7章17節からも分かります。こうあります、「イエスは群衆を離れて、家に入られると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。」ここでもイエスは、群衆にではなく弟子たちにだけ、たとえの本当の意味を教えられました。
それに対し、今日の場面ではイエスは「群衆」を弟子たちといっしょに呼び寄せた、と書かれています。ですから、これからイエスが語られる教えは一部の弟子たちだけに当てはまるものではなく、イエスを信じ、イエスについていこうとするすべての人々に語られた教えだということがわかります。そして、そこでイエスが語られた教えはまさにショッキングなものでした。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
この言葉を深く考えれば考えるほど、疑問が生まれるのではないでしょうか。自分の話になりますが、私はサラリーマンを15年ほどした後に、聖書を学ぶためにイギリスの国立大学に学部生として入り直しました。日本でも大学を卒業していましたが、そのころは20歳前後で、今度は30代の半ばを過ぎた年齢で、イギリスの20歳前後の若者たちと一緒に学んだわけです。イギリスの学生は日本の学生よりもずっと積極的で、講師の先生が話している時でも疑問があれば、バンバン質問していました。そして、「自分の十字架を背負いなさい」というようなイエスの言葉はクリスチャンの若者に疑問を生じさせました。それは、「イエス様は私の身代わりに十字架を背負ってくださったのに、なぜ私が十字架を負わなければならないのですか?」というものでした。日本の学生だと、こう疑問に思っても周りに遠慮して質問しないということがよくありますが、イギリス人学生はその点非常に率直だな、と感じました。しかし、これはよくよく考えると私たち皆が思い浮かべる疑問かもしれません。私たちはしばしば、自分は本当なら十字架にかかって死ななければならない罪人なのに、イエス様が身代わりとなって十字架刑にかかってくださったので、死罪から救われた、というように教えられてきました。十字架での死刑から救われたはずなのに、自分の十字架を背負いなさいとはいったいどうしたものか、と疑問に思うのはむしろ自然なことです。しかもイエスは、十二弟子という特別の地位にある弟子だけにではなく、自分を信じるすべての人に十字架を負ってついて来なさいと教えられました。そのことの意味を、改めて深く考えたいのです。率直な人ならば、「ただ信じるだけで救われると言われたからついてきたのに、そんなに大きな犠牲を払わなければならないのなら、信じるのをやめます」と言うかもしれません。それくらい、このイエスの言葉は重たいのです。
まずここで注意していただきたいのは、マルコ福音書で「十字架」という言葉はここで初めて登場したということです。私たち21世紀のクリスチャンは、イエスが十字架にかかって死なれたことを知っていますから、ここで「十字架」という言葉を聞いてもそんなに驚くことはないでしょう。けれども、イエスについてきた弟子たちからすれば、いきなり「十字架を背負え、さもなければ私と一緒に行くことはできない」などと言われれば、驚きのあまり固まってしまったのではないでしょうか。キリスト教が広まった今日の世界では、「十字架を背負う」という言葉は比喩的な意味で、つまり人生の苦労や重荷一般を背負うということをかっこよく言い換えるという感じで使われますが、イエスの時代の人々にとって十字架はそんな生易しいものではなく、むしろ口にするのもはばかられるような恐怖の対象でした。私たちも、電気椅子に座らされて処刑される、などと言われればたとえ冗談でも身震いするでしょうが、イエスの時代の人々にとっての十字架も同じようなものでした。そんな不気味なものを背負えと言われれば、まともな人ならば「冗談ではない、もう結構です」と言いたくなるようなことなのです。
とはいえ、当然ながらイエスは、自分を信じる者は皆、十字架刑で死ななければならない、と教えたわけではありません。そんな無茶な話であれば、キリスト教は20億人を超える人々を惹きつける大宗教になることはなかったでしょう。クリスチャンはすべからく苦しんで死ななければならない、などということでは決してないのです。むしろ、当然ながらキリスト教信仰は私たちを幸せにしてくれるものなのです。しかし事実として、イエスはこのように教えられました。なぜイエスはこのような厳しいことを、特別な弟子たちだけにではなく、すべての人に言われたのでしょうか。
それは、人々の意識の転換を図るためでした。イエスについてきた人々は、イエスがすぐにも神の王国、神の支配を実現してくれるものと期待していました。そして、そうすることは不可能なことではありませんでした。神の支配に反対するこの世の王たちを排除して、神の支配を打ち立てるために必要なものは圧倒的な軍事力でした。戦力が拮抗してしまうと、戦争は長引きます。それをすぐに終わらせるには、圧倒的な力が必要です。ですから、イエスがすぐさま神の支配を実現しようとするならば、ヘロデやその背後にいるローマ帝国という敵対勢力をたちどころに滅ぼすような圧倒的な軍事力を行使すればよかったのです。実際、イエスは望むならば、神に願ってそうすることもできたでしょう。イエスは後にエルサレムで逮捕される時、「わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか」と語りました。しかし、そのような力による征服、武力による支配はイエスの目指す神の支配とは正反対のものでした。神は何でもできますから、反対者をたちどころに殲滅することもわけのないことですが、しかし神は力によって人を従わせようとは決してなさらないのです。「お前たち、私に逆らうならば滅ぼすぞ」と脅しつけて人々を従わせたり、信じさせたとしても、それは暴力が怖いから信じただけで、本当に相手を信頼しているわけではないからです。イエスはそのような暴力的手段に一切訴えずに、神の支配を地上に実現するという決意を固めていました。それに対し、イエスに反対する人たちはあらゆる暴力的手段を用いる人たちです。そんな人たちと相対すれば、どうなるかは火を見るよりも明らかです。すなわち敗北です。十字架はそのような敗北、恥辱のシンボルなのです。それでも、逆説的ながら、そのような敗北を通して、そのような敗北を通してのみ、神の支配は実現していくのです。宗教改革者カルヴァンはこのことを次のように述べています。引用をお読みします。
だが、キリストにとって特に必要だったのは、ご自身の国が華麗で恵みにあふれる世界から拍手喝采を浴びながらやって来るのではなく、不面目な死と共に訪れることを弟子たちに示すことだった。彼らにとってそのようなつまずきに打ち勝つことは何にもまして難しかったということが、師について彼らの精神に深く刻まれていたことを考察しても見て取ることができる。彼らはキリストが地上的な幸福をもたらす方だと思い込んでいたのであり、そのために空しい希望にしがみつき、キリストが突然御国の栄光を現わす瞬間を貪欲に待ち望んでいた。(『共観福音書 下』森川甫・吉田隆訳)
引用を終わります。神の王国は、キリストの不面目な死を通じて、それだけではなくイエスに従う者たちの不面目な死を通じてのみ、実現するものなのです。それは力の行使、暴力的な手段を放棄したことの代償とも言えるかもしれません。
しかも、そのような十字架の道、非暴力の道は、単なる一つの選択肢ではなく、キリストに従う者すべてが従うべき道あることをイエスは強調されました。「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失う」とは、自分の身を守るためだといって剣を取る者は、結局剣で滅びてしまうということです。今日の戦争は、いつも自衛のためだと言って始められますが、しかし圧倒的な殺傷力を持つ武器は自衛どころではない被害を相手にもたらし、相手も当然全力で反撃しますから、結局は自らの身にも甚大な被害が跳ね返ってきてしまいます。ですから、武器を取らないという選択肢は何も無謀なことではなく、暴力の連鎖を止めることでむしろ自分の身を守ることにつながるといえます。とはいえ、念のために申しますが、これはなにも、護身術としての武道や、あるいは純粋に防御のためだけの器具の使用を禁止するものではありません。主イエスも最後の晩餐の後で弟子たちが二振りの剣を持つことを認めました。十二人を守るためには二振りの剣ではいかにも心もとないですが、最低限の護身用ぐらいには使うことができたでしょうから。
しかし、そのような非暴力の道は険しいものでもあります。ですから主イエスは「自分を捨てなさい」とも教えられました。何かを捨てる覚悟がないと、結局はすべてを失ってしまうことになるからです。自分の持ち物をすべて守ろうとすれば、私たちに必要とされる防御の手段には限りがなくなります。いま日本は防衛費増強を叫んでいますが、日本に飛んでくるかもしれない何万発のミサイルをすべて迎撃するにはこの程度の増強では全然足りないでしょう。というより、不可能でしょう。むしろ日本がどんどん軍備を拡張すれば相手も負けじと同じことをするわけで、危険は逆に高まってしまいます。そして、非暴力を貫くためには、時には何かを捨てる覚悟が必要です。相手が先に手を出してきても、反撃しないということは、少なくともその時点では自分が損害を被るからです。しかし、そのような覚悟や譲歩をすることで、私たちは最も大切なものを守ることができる、それがイエスの教えなのです。
そして、私たちにそのような覚悟をする、そのような行動をする力を与えるのがイエスへの信仰なのです。私たちだけの力では、到底そんな勇気は出てきません。ですからイエスとその教えに対する揺るぎない信頼を持つ必要があります。実際にそのように生き抜いた人がいたのだ、という事実、そしてその方の生きざまを神はお認めになり、その人を死からよみがえらせたという信仰、これが私たちの力となるのです。その励ましのために、イエスは次の強い言葉を残されました。
このような姦淫と罪の時代にあって、わたしとわたしのことばを恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちとともに来るときには、そのような人のことを恥じます。
ここで大切なことは、イエスを恥じるだけなく、「イエスのことばを恥じる者」と言われていることです。それはつまり、「敵を愛するなんて甘いことを言っていたら、こんな残酷な世界で生きていけるわけがないだろう」というような人たち、イエスのことばを単なる理想論、非現実的な夢物語だと斥けるような人たちです。案外このように考える人はクリスチャンにも少なくないのかもしれません。反対に、ガンジーのようにクリスチャンではなくても、イエスの教えを信じて実践した人たちも、またいるのです。私たちの信仰は口先だけの信仰ではあってはならないということを、ここでも教えられます。もちろん、イエスの教えをすべて実行しなければ救われない、ということではありません。しかし、人は本当に信じていることは強制されなくても実行するものです。そのような信仰を私たちは求められているということです。
それからイエスは、非常に大切なことを告げられました。
まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来するのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。
このイエスの言葉は神学生にとっても難しいようです。これは実際に私自身が体験したことで、日本の神学校での体験なのですが、説教演習の授業の時に、この箇所が説教テキストとして指定されていました。しかし、いざ説教という時に、担当になっていたすべての神学生がこの一節に関しては「説教できません」といって、説教範囲から外したのです。これには大変驚かされました。学生たちは、この一節の意味を掴みあぐねていました。特に並行箇所であるマタイ福音書の16章28節を併せて考えると、その難しさは非常に大きくなるようです。マタイでは、
まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。
となっています。イエスの言葉の明らかな意味とは、イエスの弟子たちの少なくとも何人かが存命している間に、神の国が来る、また「人の子が来る」ということです。「人の子が来る」という言い回しが再臨を表す言葉だとするなら、イエスの弟子たちが生きている間にキリストが再臨するということになります。しかし、歴史が示すとおりに、イエスの弟子たちが生きていた紀元1世紀にはキリストの再臨はありませんでした。ということは、イエスは間違えてしまったのか、というような大変悩ましいことになってしまい、そういうジレンマに直面したために神学生たちは「この一節については説教できません」と語ったのでしょう。しかし、「人の子が来る」、あるいは「神の国が来る」という言葉は必ずしもキリストの再臨を指す言葉ではないのです。神の国が来る、というのは神の支配が地上で実現するということです。また、「人の子が来る」という言葉の聖書的なルーツはダニエル書7章にあるのですが、ダニエル書を読むと「人の子」は天に向かいます。つまり人の子と呼ばれる方が向かう先、来る先は地上ではなく天なのです。人の子が天において栄光を受けることで、地上において神の支配が実現するということがダニエル書では語られています。ですから「神の国」あるいは「人の子」が来るのをイエスの弟子たちが見るということの意味は、イエスが天上で栄光を受けることで、この地上世界で確かに神の支配が確実に実現していく、前進していくのを弟子たちは見るだろう、ということなのです。イエスはここで、自分自身の受難、そして弟子たちの受難に係わらず、いやむしろそうした受難を通じて、神の平和な支配は確実にこの世界で前進していく、そのことを確約したのです。
3.結論
まとめになります。今日はイエスが自分自身の受難に続いて、自分を信じ従う人々にも受難が待ち受けていることを予告した箇所を学びました。暴力的な手段を用いずに、平和的な手段でのみ実現する神の支配、そのような平和的な支配の担い手たちを待ち受けるのは苦難です。しかし、その苦難は失望や絶望に終わることがないことは、イエスの復活が証明しています。ですから私たちはイエスを信じ、そしてイエスの教えを信じ、イエスが歩まれたように歩んでいくのです。そのように生きることは勇気のいることですが、そのような勇気をも神は私たちに与えてくださるでしょう。このことは、特に世界中の国々が軍備増強に突き進もうとしている今日の情勢においてとりわけ必要なものです。そのような勇気と力をいただけるように、祈りましょう。
平和の主であるイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を讃美します。主イエスに従う道は決して平たんな道ではありませんが、それは命に至る道でもあります。どうかその道を勇気と確信をもって歩み続けることができるように、私たち小さきものを力づけてください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン