1.導入
みなさま、おはようございます。アドベント第二週に入り、救い主がユダヤ人のみならず、世界のあらゆる民族の人々のために来られたことを覚える季節を歩んでいますが、今日の聖書箇所はそのような時期にふさわしいものです。私たちはマルコ福音書を読み進めて参りましたが、これまでのところ主イエスの伝道の対象はガリラヤに住むユダヤ人にほぼ限定されてきました。「ほぼ」と言いましたのは、一度だけ例外があり、それは「レギオン」と呼ばれる大量の悪霊を追い払ったゲラサの地での出来事のことです。悪霊に取りつかれていたゲラサ人は異邦人、ユダヤ人から見て外国人ですので、イエスは既にユダヤ人以外の人にも救いをもたらしていたことになります。
しかしこれは例外的な出来事であり、イエスのこれまでの活動は専らユダヤ人のためのものでした。イエスが天に帰られた後、使徒たちの時代に福音はユダヤ人を越えて異邦人へと広がっていきましたが、しかしイエスはパウロのように小アジアやヨーロッパにまで伝道旅行をすることはありませんでした。ガリラヤやユダヤに隣接した狭いエリアの異邦人とだけ接触を持つことはあったものの、積極的にユダヤ人以外に伝道をしようという姿勢はイエスの伝道活動からはうかがえません。イエスが宣教の対象をユダヤ人のみに絞っていたように見えるのはどういうわけでしょうか。それは、当時のユダヤ人の考えでは、救いはまずユダヤ人に提示され、ユダヤ人の回復・復興が実現した後にのみ、異邦人への救いが始まると信じられていたからでした。そのようなユダヤ人の信仰を言い表した言葉をイザヤ書の中に見出すことができます。イザヤ書49章6節をお読みします。
主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」
イザヤ書は、聖書の縮図と言われるように、神の救いの計画を描いている書です。そのイザヤ書は世界に救いをもたらす「神のしもべ」について預言しています。そして神のしもべの最初の働きは、ヤコブの諸部族、つまりイスラエル人を立ち上がらせることにあります。主イエスは、まさにこの神のしもべとしてイザヤ書で預言されていたのですが、イエスはその働きを通じて、十二使徒をはじめとするイスラエルの人々を奮起させ、イスラエルを霊的に復興しました。それから後、使徒たちにユダヤ人のみならず、異邦人にまでもイスラエルの神の救いをもたらすミッションを授けました。ですからイエスの昇天後、使徒たちはユダヤ人を越えて異邦人にまで救いを及ぼしたのです。イエス自身は、そのような異邦人伝道を可能にするために、まず何よりも神の民であるイスラエルに新たな力を与え、奮起させることが自らの使命であると理解していました。そのためにイエスの伝道活動は主にユダヤ人の間に限定されていたのです。しかし、それでもイエスもその活動の中で異邦人たちと接触するチャンスは少なからずありました。その時のイエスの取った行動は、イエスに従う使徒たちの異邦人伝道のための重要な道備えとなりました。今日の箇所はまさにそのような箇所です。そのことを念頭に置きながら、今日のみことばを読んで参りましょう。
2.本文
では24節から読んでいきましょう。イエスはツロの地方に向かわれました。ツロはガリラヤ湖からは50キロほど離れた、地中海沿岸にある完全に異邦人の地で、ツロはティルスとも呼ばれています。イエスがレギオンを追い払ったゲラサも異邦人の地ですが、ゲラサはガリラヤ湖の湖畔にありましたからガリラヤの人々とも日常的に交易をおこなっていた地ですが、ツロは地中海に面した地であり、ユダヤ文化の影響下にはない国際的な都市でした。ツロはイスラエルとは数百年に及ぶ長い間交流を持っていて、ダビデやソロモンの時代には高級なレバノン杉をイスラエルに提供したことでも有名です。一時期は大変栄えた都市でしたが、あのアレクサンドロス大王に反抗したため徹底的に破壊されました。イザヤもそのことを預言して、「ツロに対する宣告。タルシシュの船よ。泣きわめけ。ツロは荒らされて、家も港もなくなった、と」(イザヤ23:1)と記しています。その後はツロは復興されますが、イザヤはそのことも預言しています。
七十年がたつと、主はツロを顧みられるので、彼女は再び遊女の報酬を得、地のすべての王国と地上で淫行を行う。(イザヤ23:17)
ここでツロが海外の国々と貿易をして儲けることを「遊女の報酬」と呼んでいるように、イザヤはツロのことを好意的には見ていません。真の神を敬わない、偶像に仕える国として見ていたからです。ツロがユダヤ人からは好意的に見られていないのは、イエスの時代も同じでした。イエスはツロを、あの悪徳の都として神に滅ぼされたソドムと同列に論じているからです。その箇所、マタイ福音書の11章21節から23節までをお読みします。
ああコラジン。ああベツサイダ。おまえたちのうちで行われた力あるわざが、もしもシロとシドンで行われたのだったら、彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。しかし、そのツロとシドンのほうが、おまえたちに言うが、さばきの日には、まだおまえたちよりは罰が軽いのだ。カペナウム。どうしておまえが天に上げられることがありえよう。ハデスに落とされるのだ。おまえの中でなされた力あるわざが、もしもソドムでなされたのだったら、ソドムはきょうまで残っていたことだろう。
コラジン、ベツサイダ、カペナウムはみなガリラヤの町の名ですが、これらのユダヤ人の居住地は悪名高いソドムやツロ、シドンより悪いと言われています。これらの町で行われていたイエスの大いなる業が、ソドムやツロで行われていたら、罪深い彼らでさえ悔い改めただろうに、こうした町に住むユダヤ人たちはイエスを受け入れなかった、と非難されているのです。このような文脈でツロが言及されること自体、ツロの評判がユダヤ人の間では極めて悪かったのがわかります。そのような異教徒の地にイエスは行かれたのです。
ただ、イエスは都市であるツロそのものに行ったわけではありません。ツロは大きな都市でしたから、ツロが管轄するエリアが周辺一帯に広がっていて、そのエリアのどこかにイエスは行かれたのです。そこでのイエスの行動を、マルコは「家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった」と記しています。だれにも知られたくなかった、というのはこの異邦人の地へもイエスの評判が届いていたことを示しています。イエスが力ある癒し人だといううわさは、ユダヤ人以外の外国人にも広まっていたのです。同時にイエスは異邦人の地で癒しの業を行うことについて、この時点では慎重でした。それは、ユダヤ人は基本的には外国人、異邦人との接触を避けていたからです。イエスが天に戻られた後の時代を描いている「使徒の働き」の中で、使徒ペテロは次のように言っています。10章28節です。
ご承知のとおり、ユダヤ人が外国人の仲間に入ったり、訪問したりするのは、律法にかなわないことです。
ペテロはこのように、イエスの伝道活動の後でさえ、使徒たちは外国人とは付き合わなかったとはっきり語っていますが、それは事実でした。ではなぜユダヤ人が外国人、異邦人との交際を避けたのかといえば、それには先週お話しした「汚れ」の問題がありました。ユダヤ人が聖書的な概念として「清い」、あるいは「汚れている」という意識を強く持っていたことは先週お話しした通りです。ユダヤ人は自分の体を清い状態に保ち、汚れた人や物を避けていたのです。では、どういう人が汚れるのかといえば、基本的には体から何かの漏出がある場合、その人は汚れた状態になるとされます。体から出血があるとか、そういう場合に人は汚れてしまうのです。しかし、そういう汚れは一時的なもので、時間が経過したり、あるいは清めの儀式を行うことで取り除くことができます。また、そうした汚れは罪とは関係がない、ということはぜひとも強調しておかなければなりません。聖書によれば、子どもを産むと汚れるとされますが、子供を産むことが罪であるわけがないからです。このような、罪とは無関係な儀式的な汚れに対し、そういう一時的な汚れではない、持続的なというか、パーマネントな汚れという観念をユダヤ人は持っていました。それは不道徳な行動や行いをすることによって生じる道徳的な汚れであり、そうした汚れはいわばその人にこびりつき、儀式によって取り除くことはできません。ユダヤ人は同じユダヤ人同士であっても遊女や取税人との交際を避けましたが、それは彼らが罪のために汚れているとユダヤ人が信じていたからです。私たち現在人も、不倫をしている人のことを「不潔だ」とか「汚れた人」と形容することがありますが、そのような感覚をユダヤ人たちも強く持っていたのです。
そして、ユダヤ人から見ると外国人、異邦人はまるごと「汚れている」人々というカテゴリーに入ってしまうのです。なぜなら彼らは偶像を礼拝しているからです。もちろん、聖書の定めている食事の規定を異邦人が守っていないこともユダヤ人から見れば問題でしたが、聖書を知らない彼らがユダヤ的な食物に関するルールを知らなくても罪はないでしょう。しかし、真の神を礼拝せずに自分たちが作った偶像を拝むことはユダヤ人のみならず、あらゆる民族の人にとっての罪になります。ですから異邦人はそうした罪によって汚れている、とユダヤ人たちは信じていました。そのようなユダヤ人の異邦人に対する思いや感情を最も明白に表明しているのがレビ記18章24節と25節です。これはモーセに率いられた出エジプトを果たしたユダヤ人が約束の地を征服する時に、そこの先住民であるカナン人に対して語られた言葉です。そこをお読みします。
あなたがたは、これらのどれ[すなわち罪深い行い]によっても、身を汚してはならない。わたしがあなたがたの前から追い出そうとしている国々は、これらのすべてのことによって汚れており、このように、その地も汚れており、それゆえ、わたしはその地を罰するので、その地は、住民を吐き出すことになる。
ここでは、カナンの人々は偶像礼拝など様々な罪によって汚れているので、彼らだけでなく彼らの住んでいた土地すらも汚されてしまった、だから主は彼らを追い出すのだ、ということが語られています。イエスもユダヤ人ですから、外国人は汚れているというユダヤ人の感覚をよく知っていました。それゆえ外国のツロの地では彼らとの接触に慎重で、いわばお忍び的な目立たない行動を取っていたのです。
しかし、フェニキア出身のギリシア人の女性がイエスを捜し出して、やってきました。フェニキアとは今日でいうレバノンのあたりで、あの日産のカルロス・ゴーンが逃亡した先です。ですからこのフェニキアの女性はイエスや他のユダヤ人から見れば完全に外国人です。しかし、イエスの噂を聞きつけて、なんとしても汚れた霊につかれた自分の娘を助けてもらおうと、必死の思いでイエスのところにやって来たのでした。そして、どうか娘を助けてくださいと、イエスに懇願します。しかし、それに対するイエスの返事は驚くほど冷たいものでした。
まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。
ここでイエスが「子どもたち」と呼んでいるのはユダヤ人、あるいはユダヤ人の子どものことで、それに対して「小犬」と呼ばれているのは外国人、または外国人の子どものことです。当時のユダヤ人が外国人のことを軽蔑を込めて「犬」と呼んでいたということは事実であったとしても、イエス様までこうしたヘイト・スピーチのようなことを口にするのは衝撃的なことです。ここでイエスは、ユダヤ人を癒してあげる前に、異邦人を癒して救ってあげるのは良くないことだ、と言っています。しかしイエスがこんな外国人差別のようなことをおっしゃられるのはどういうわけなのでしょうか。主イエスは本気でこんなことを言ったのでしょうか?そうではないと思います。むしろイエスは当時のユダヤ人の抱いていた感情、つまり罪に汚れた外国人など神の救いを受けるのに値しないという排外主義的な感情に挑戦したのです。イエスはここでギリシア人の女の信仰に強い信仰があることを見抜き、弟子たちの前で彼女の信仰を試し、それを通じて彼女には救われるべき立派な信仰があることを示そうとしたのです。実際、この女性のイエスに対する信頼と敬意とは見上げたものでした。普通、自分の子どもを「犬」などと呼ばれれば、「馬鹿にするな!」と怒って帰ってしまうでしょう。実際、はるか昔の話になりますが、ナアマンという外国人の立派な将軍が病の癒しを求めてイスラエルの預言者エリシャのところを訪ねたとき、その対応がぞんざいだということで怒って帰りそうになり、彼の従者があわててなだめたという場面がありました。しかし、このギリシア人の女性は、怒るどころかイエスの言葉を正面から受け止めてこう返事をしました。
主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。
立派な、しかも機転の利いた素晴らしい答えです。その熱意と、そしてイエスへの揺るぎない信頼はたいしたものです。この女性のへりくだった姿勢と、しかも主の恵みに対する良い意味での貪欲さ、これはイエスに大いなる感銘を与えました。イエスは満足して、こう答えられました。
そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。
すると、彼女の娘はすっかり癒されました。イエスの言葉を借りれば、彼女の信仰が彼女の娘を癒したのです。この外国人の女性の態度と信仰は、実はイエスに一番近い人たちであるはずの、イエスの生まれ故郷のナザレの人々とは正反対のものでした。イエスの血縁や親せきがたくさんいたナザレでは、人々の側に信仰がなかったために、イエスは病の癒しを行うことが出来ませんでした。それに対し、イエスからは最も遠いはずの異邦人の女性、しかもイエスが冷たく「小犬」と突き放した女性が、ユダヤ人の面目をなくさせるほどの信仰を示し、その結果として完全な癒しを受けることが出来たのです。ここにイエス・キリストの神の王国とはどのようなものなのかが浮かび上がります。そこでは人種は何の意味も持ちません。また家系とか家柄も意味も持ちません。立派な信仰者の子どもだからとか、有名な牧師先生の息子だからとか、そういうことは主イエスの目には何の価値もないことなのです。その人自身の神への信頼がどれほど強いものなのか、それだけが問題なのです。
イエスはこれまでも人々の常識に挑戦してきました。ユダヤ人社会の中で汚れた者と見なされている人々、取税人や遊女たちと親しく付き合い、彼らの信仰を賞賛しました。そして彼らがその生き方を改めることを大いに喜ばれました。それに対して、ユダヤ社会の中で重んじられていた人々、パリサイ派や律法学者たちの偽善や不信仰を鋭く指摘しました。そしてついに、ユダヤ人から見れば最も救いから遠いと思われてきた人々、真の神を知らない外国人の女性の願いを受け入れ、彼女の信仰を賞賛しました。まさに主イエスにおいて、「あとの者は先になり、先の者があとになる」のです。
この出来事の後も、イエスの異邦人の地での活躍は続きます。ツロの北側にある同じく海岸沿いの異邦人都市ツドンを通って、デカポリス、すなわち十の都市という意味ですが、そのエリアに向かいました。デカポリスは人々がギリシア語を話すギリシア文化圏でしたから、ユダヤ人にとっては完全にアウェー、異邦人の地です。そこでもイエスは、耳も聞こえず、口もきけないヘレンケラーのような人を癒しています。イエスはこうした癒しの業を隠しておこうとされましたが、しかし人々は黙っていることができず、こうして異邦人の地でもイエスの評判はますます高まっていきました。イエスの伝道活動の中で、異邦人の中で活躍した期間が短かったのは確かですが、それでもイエスは大きな足跡を残し、その後の使徒たちの時代の道備えをなさったのです。
3.結論
まとめになります。今日はイエスがユダヤの文化圏を離れ、異邦人の領域に向かった場面を読んで参りました。当時のユダヤ人にとっての外国人は、汚れた存在として遠ざけられるべき人たちでした。また、そうした地域はユダヤ人を植民地化していたローマ帝国の勢力圏でしたから、ユダヤ人にとっては敵とも言えるような人たちだったとさえ言えます。しかし、イエスはそのような外国人に対する偏見を持たずに、むしろ彼らの本質に注目しました。つまり、真の神を知らない異邦人の間にも、ご自身に対する強い信頼があることを認め、それを賞賛し、喜んで彼らの願いに応えたのです。イエス自身は生粋のユダヤ人であり、彼の同族のユダヤ人が異邦人に対して持つ感情をよく理解していましたが、それらに左右されることなく、異邦人の中に強い信仰があるのを認め、そして受け入れました。このような外国人に対する姿勢は、私たちも大いに見習うべきものです。
私たちは今アドベントの期間を歩んでいます。神の救いのご計画の中で、この2千年前の主のご降誕が私たちにとってひときわ大きな意味を持つのは、主イエスの誕生とそのご生涯によって、旧約の神の民であるユダヤ人以外の外国人に救いの道が開かれたからです。イエスの伝道の本質の一つは、境界線を打ち破ることにあります。当時のユダヤ人たちは、同胞であるユダヤ人を二つのグループに分けていました。その二つのグループとは、神の教えである律法に従う「正しい人々」と、律法を守れない「罪人」でした。しかし、イエスはこのような垣根を壊して、罪人たちを神の救いへと招きました。さらにイエスは神の民である「ユダヤ人」と、真の神を知らない「異邦人」という垣根をも壊しました。もっともそのことが本格的に実現していくのは、イエスの弟子たちが伝道を担う時代ですが、しかし主イエスの活動の中にも、そのような異邦人の救いの時代の到来を予感させるものがありました。それがまさに今日見てきた出来事なのです。イエスが異邦人の救いのためにこの世に来られたことを感謝しつつ、アドベントの期間を過ごして参りましょう。お祈りします。
ユダヤ人だけでなく、異邦人のためにも救いの業を成し遂げられたイエス・キリストの父なる神様、そのお名前を賛美します。今日は主イエスが異邦人にも救いの手を伸べておられた場面を学びました。まさに今は救いの時、異邦人の救いの時代です。私たちの教会も、その神の目的のためにお用いください。われらの救い主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン