1.導入
みなさま、おはようございます。実は私は先週体調を崩しまして、微熱と強い腹痛に悩まされ、食事が喉を通らなくなりました。コロナの方は病院で2度検査して陰性でしたので、コロナの心配はなかったのですが、胃腸が強い炎症を起こしているとのことでした。その後は回復して、今日無事に講壇に立つことができたことを主に感謝していますが、そのような事情で先週は説教準備のための十分な時間が取れませんでした。そこで、今回は急遽予定を変更しまして、かなり前にお話ししたメッセージに手を入れて、お話しさせていただくことにしました。来週からは再びマルコ福音書の講解説教に戻ります。
さて、これまで数カ月間マルコ福音書を学んできましたが、この福音書の著者は十二使徒のリーダーであるシモン・ペテロの通訳をしていたマルコでした。マルコはペテロからイエスの生涯について教わり、ペテロの目撃証言に基づいて福音書を書きました。ですから、マルコ福音書ではイエスと同時にペテロもこの福音書の主役とも呼べるような存在感を示しています。マルコ福音書は一番古い福音書で、マタイ・ルカの両福音書はマルコをベースにして拡充された福音書なので、基本的な内容はマルコ福音書と同じです。ですから、マルコ・マタイ・ルカの三福音書、これらは総称して共観福音書と呼ばれますが、これらは、基本的には使徒シモン・ペテロの証言に基づくイエス伝だと言えます。
それに対し、ヨハネ福音書はこれら三福音書とは内容が大きく異なっています。なぜそんなに違うのか?その答えは簡単です。それはヨハネ福音書がペテロの証言に基づく福音書ではないからです。ヨハネ福音書は、ペテロではない、他の証言者の証言に基づく福音書なのです。ではそれは誰の証言なのか?伝統的には、ペテロと同じく十二使徒の一人、ゼベダイの子ヨハネだとされてきました。しかし、今日の研究者の間では、そうではないと考える人の方が増えています。ゼベダイの子ヨハネはペテロと同じくカペナウムの漁師であり、ペテロと同じ時期にイエスの弟子となり、その後も常にペテロと行動を共にしています。ですから、彼のイエスについての証言もペテロと非常に似ているはずなのです。しかし、実際にはペテロの証言に基づくマルコ福音書と、ヨハネ福音書ではその内容が大きく異なります。マルコ福音書ではイエスのエルサレム訪問は一度きりで、それもわずか1週間ですが、ヨハネ福音書ではイエスは何度もエルサレムに行っていて、福音書記者はそのことを詳しく書き記しています。また、ヨハネ福音書には「主が愛された弟子」と呼ばれる謎めいた弟子が登場し、この福音書はその弟子の証言に基づいている、と福音書そのものが語っているのですが、この「主が愛された弟子」はなんとエルサレムの大祭司の親類にあたる人物だということが仄めかされています。ユダヤ大祭司は国家元首にあたる人物ですから、この主が愛された弟子という人物は、非常に高貴な生まれだったということになります。イエスの弟子にはこのような人物も含まれていたのか、と驚かされるような高い身分の人だったのです。
さて、これまでシモン・ペテロと「主が愛された弟子」についてお話ししましたが、それは彼ら二人が今日の聖書箇所の主要な登場人物だからです。本福音書に目撃証言を提供した「主が愛された弟子」と呼ばれる人物は、ヨハネ福音書には6回登場しますが、そのうち5回はペテロと比較される形で登場します。しかも、ペテロよりも、ある意味で信仰的には勝った人物として描かれているのです。たとえば、イエス様が逮捕されて皆逃げてしまった後、特にペテロは三度も主を否んでしまった後も、この主に愛された弟子は主の十字架まで付き従い、十字架の上にいるイエス様から母マリアの世話を頼まれています。
また、イエス様の墓が空になっていると聞いたときにペテロと二人で墓まで走っていきましたが、ペテロが何が起きたかわからずに戸惑っているときに、彼は「見て、信じた」と書かれています。このように、主が愛された弟子は、ペテロとの比較で言えば、より主に忠実な人物、信仰の洞察においては優れた人物として描かれていると言えるでしょう。この「主が愛された弟子」とペテロとの対比は、今日の聖書箇所でも重要です。このことを念頭に置きながら、今日の箇所を読んでまいりましょう。
2.本文
今日お読みいただいた21章は、ヨハネ福音書において独特な箇所です。ヨハネ福音書は、ある意味で20章で終わっていると言えます。20章の終わりには、この福音書が書かれた目的がはっきりと示されています。
これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。
と書かれています。では、一度結びの言葉が書かれた後に、なぜ21章が加えられているのかといえば、それは一種のエピローグのような役目を担っているのです。一般的に、エピローグというのは、物語がいったん完結した後に、それらの登場人物がその後どうなったかについて物語るケースが多いです。皆さんも、シャーロック・ホームズ・シリーズやアガサ・クリスティーの推理小説を読まれたことがあると思いますが、それらの小説では事件が解決した後、事件にかかわった人たちがその後どういう人生を送ったのかという後日譚が書かれることがあります。ヨハネ21章も、一種の後日譚と言えます。福音書の主人公であるイエスが十字架とその後の復活という、地上におけるミッションを成し遂げるところまでが20章までに描かれています。では、その後にイエスの弟子たちがどうなったのか、その運命を記すために21章が書かれたということです。
このエピローグの主役の一人がペテロです。ペテロは十二使徒のリーダーでしたが、彼は深い挫折を経験した使徒でもありました。その彼が、主の復活後に立ち直り、本来の召命を確かなものとされる、というのがここでの重要なテーマです。ペテロはかつて、主イエスと最後の晩餐を食していた時に、イエスにこう言いました。
すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者つまずいても、私はつまずきません。」(マルコ14:29)
しかしその僅か数時間後、いざイエスが捕まって、自分の身に危険が及ぶと、イエスのことなど知らないと三度も否みました。マルコ福音書14章70節にはこう書いてあります。
「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません」と言った。
と、呪いの言葉と共に、誓ってイエスを知らない、とまで言い張ったのです。このようなペテロですから、主イエスが復活したことにはもちろん喜びましたが、しかし自分がもう一度主の弟子として世界に福音を伝えるという任務にはしり込みしてしまいました。自分の恥ずかしい行動を思い出して、すっかり自信を失ってしまったのです。
イエスが復活した後に、弟子たちがどこへ行ったのかについては、福音書の中でも二つの見方があります。マルコ・マタイでは、弟子たちがガリラヤに行くように命じられ、マタイ福音書によれば弟子たちはガリラヤの山の上でイエスから大宣教命令を授けられています。それに対し、ルカ福音書では弟子たちはエルサレムに残るようにとイエスに命じられ、ペンテコステの日までエルサレムに残っています。このように、イエス復活後の弟子たちの足取りについてはよく分からない面がありますが、ともかくも弟子たちは復活したイエスの命令に従って、ガリラヤに行くか、あるいはエルサレムに留まるかを決めていました。しかし、ヨハネ福音書を読むと、弟子たちはイエスの命令というよりも、自分の判断で勝手に行動しているという印象を受けます。なぜなら彼らがガリラヤに帰ったのは、イエスに会うためだとか、あるいは福音を伝えるためということではなく、昔の職業に戻るためだったからです。シモン・ペテロは「私は漁に行く」と他の弟子たちに語りましたが、それは福音宣教をするための軍資金を稼いで、さあこれから復活の主を宣べ伝えよう、というのではなく、むしろ「自分の天職、召命は人間を取る漁師ではなく、魚を取る漁師だったのだ」というあきらめのような思いから、以前の生業である漁師の仕事に戻ってしまったようなのです。主イエスが復活されて、その主にお会いして大喜びしたはずの弟子たちも、まだこれからの人生をどうしてよいのか、どう生きるべきなのか、その決断が十分できていませんでした。ペンテコステの経験をする前の弟子たちは、いわば宙ぶらりんの状態でした。イエスは復活された!素晴らしい。では、自分はどうすればよいのか、それが判らなかったのです。イエス様なしに、自分たちだけでいったい何ができるというのか。そのイエス様も、突然現れると、ふっといなくなってしまい、いろいろ聞きたくても質問すらできない。手取り足取りの十分な指導が受けられない。こんな中途半端な状態なら、いっそガリラヤでの慣れた仕事に戻ろうか、という話になったのではないかと思われます。
しかし、昔の仕事には戻ったものの、どうにもさっぱりダメでした。夜通し漁をしたのに、魚一匹釣ることが出来なかったのです。こういうことは私たちの人生にもあるかもしれません。いわゆる献身、つまり教会の牧者や宣教師になる決断をするとはいかなくても、私たちクリスチャンは皆、神様のために生きたい、この人生を用いてもらいたいという希望を抱きます。信仰を持った時は、主のためにこの人生をささげたいと一度は思うことでしょう。しかし、では具体的に何をすればいいのかよく分からない。福音を伝えても、人々は耳を傾けてはくれない。また、信仰を持った時の感動も段々と薄れていく。そうこうしているうち、人に福音を伝えるどころか、自分自身のためにも聖書を読んだり、祈る時間もなくなってく、というような。また、いわゆる献身をして、牧師や神父になった人でもそういう経験をする人は少なくありません。今の時代、宗教というだけで敬遠されてしまう場合もあります。キリスト教会の中にもいろいろ問題があり、伝統ある宗教だからと言って、世間の目は決して甘くはありません。伝道に行き詰まり、初めの情熱を失う教職者も多いでしょう。
そして、まさに行くべき方向を見失っていたペテロのところに復活の主が現れました。それはかつてガリラヤで漁師だったペトロを召し出した時とまったく同じ状況の再現でした。あの時も、夜通し漁をしても魚一匹釣れなかったペテロたちの前に現れたイエスの言葉に従うと、おびただしい魚が釣れました。それはルカ福音書5章5節以降に書かれていますので、読んでみましょう。
話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンは答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。
この驚くべき体験を通じ、ペテロはイエスが聖なる方だと認識しました。その時主イエスはペテロに「あなたは人間をとる漁師になる」と言われたのでした。そのペテロが、挫折の後に人間ではなく魚をとる漁師に戻ってしまいそうになった時に、彼の前に主が現れたのです。今回も、ペテロは夜通し漁をしても魚一匹取れませんでした。しかし、主の指示に従って網を右側に下ろすと、153匹もの魚を取ることが出来たのです。最初ペテロはこの人物が主だとは気が付きませんでしたが、この驚くべき出来事を通じ、かつて自分が主から召し出された時のことを思い出し、この不思議な人物こそ復活の主であると気が付いたのでした。この場面に続いてなされたイエスとペテロの間の会話が、今日の聖句のハイライトです。イエスはまずペテロにこう問います。
「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
「この人たち」とはその場に居合わせた他の弟子たちのことです。すなわち、十二弟子のゼベダイの子、雷の子と呼ばれたヤコブとヨハネ、主の復活を疑ったのちに信じたあのトマス、ナタナエル、そして「主が愛された弟子」ともう一人の名前の分からない弟子の6名です。イエスはペテロに、「ここにいるこれらの弟子たちが私を愛する以上に私を愛するか」と聞いたことになります。しかし「この人たちが愛する以上に」と訳されている部分の原文では、たった一言トウトーンとなっています。この言葉は英語のtheseに当たる代名詞なのですが、それは「これらの男たち」と訳すことも出来ますが、「これらの事柄」と訳すことも出来ます。私は「これらの事柄」と訳した方がよいのではないかと思います。つまりイエスはペテロに、「ペテロよ。お前は他の使徒たち、ヨハネやヤコブが私を愛するよりも強く私を愛しているのか?」と聞いたのではなく、「ペテロよ。お前はこれらの事柄、つまり漁の仕事やガリラヤでのかつての生活よりも、私と私の与える召命を愛するか」と聞いている、ということです。実際、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えたペテロに対し、主イエスは「私の小羊を飼いなさい。」と言われました。主は、私を愛しているなら、私があなたに与えた召命、任務を忠実に果たしなさい、と語られたのです。そして、イエスがペテロに与えた召命とは、主の群れを養うことでした。主は重ねてペテロに問います。
ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しますか。
私があなたを愛していることは、あなたがご存知です、と答えるペテロに対し、主イエスは再び彼の使命について語ります。「わたしの羊を牧しなさい。」と言われました。細かい話になりますが、初めの言葉「飼いなさい」はボスコーというギリシャ語の動詞で、「食物を与える、食べさせる」という意味ですが、次の「牧しなさい」はポイマイノーで、「世話をする、導く、監督する」という意味です。牧会者としてペテロは、イエスを信じる群れに霊的な食物を与え、世話をし、そして導くという役割が与えられています。それが彼の召命なのです。
それから主イエスは同じ質問を三度もシモン・ペテロにしました。それはかつて三度も「イエスを知らない」とご自身を否んだ彼から、三度「あなたを愛します」と肯定的な言葉を語らせ、彼を再び使徒として立てようというイエスの深い愛と配慮から出た言葉でした。しかし、ペテロのほうは三度も同じことを聞かれ、むしろ悲しくなってしまいました。かつて自分が主を三度否んだことを思い出したのでしょう。そしてこう言いました。
主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります。
このペテロの言葉に対するイエスの言葉に注目しましょう。かつて、最後の晩餐の後に、命を捨てることになってもあなたについていきます、と語ったペテロに対し、イエスはこう言われました。
まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。
ペテロはつまずく、とはっきり予告したのです。しかし今や主は、ペテロは最後まで自らの召命に従いぬき、殉教することを告げたのでした。
まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたが行きたくない所に連れて行きます。
ペテロは後にローマで、暴君ネロによるキリスト教大迫害の最中に、主イエスと同じように十字架刑によって処刑されたと言われています。イエスはペテロに、彼が召命を果たし終え、どのように死ぬことになるのかを告げたのでした。イエスを三度否んだペテロは、イエスによって立ち直ることができ、ついに神の栄光を現すような死に方をすることになるのです。
さて、ここで話題はもう一人の人物に移ります。このヨハネ福音書に目撃証言を提供した人物、「主が愛された弟子」と呼ばれる人物です。自分の運命を聞かされたペテロは、いつも主のそばにいて、主から特別に目をかけられ、愛されているように思えるこの人物が一体どうなるのかを知りたくなり、こう尋ねました。「主よ、この人はどうですか。」しかし、主はその問いに対してはお答えになりませんでした。
それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。
ついイエスにこう尋ねたくなるペテロの気持ちは分かりますが、これは無用な問いでした。人にはそれぞれ神から与えられた召命があり、私たちは自らに与えられた使命に忠実に生きればよいのです。他の人がどうとか、そういうことは詮索すべきことではないのです。この「主が愛された弟子」にはペテロとは異なる召命が与えられていました。ペテロは大牧者となり、ついにはその死によってイエスを証ししますが、この主に愛された弟子は、「ヨハネ福音書」を完成させるという重要な使命を果たし、殉教せずに小アジアのエペソで死んだと言われています。イエスの母マリアも同じくエペソで亡くなったと言われています。ヨハネはマリアの世話をイエスから託されていたからです。しかし、ではペテロとこの弟子と、どちらがより大きなことを成し遂げたのかとか、そのようなことは全く問題になりません。肝心なことは、各人が自分に与えられた使命を忠実に果たすことなのです。
私たちは、いつも自分のことを他人との比較で考えてしまいがちです。私はイエス様にどれだけ愛されているだろうか。あの人よりも私はイエス様に愛されているだろうか。また私は誰よりもイエス様を愛しているのだろうか、と。自分とイエス様との関係を他の人との比較ではかろうとするのです。しかし、イエスはそんなことは余計なことだとおっしゃいます。主イエスはそれぞれの人に、それぞれの使命、召命を与えておられます。私たちが自分に与えられたそれぞれの任務を精一杯果たすことで、神の御国は力強く前進していくのです。
3.結論
まとめになります。今日はペテロが再び主から召命を再確認され、使徒として立ち直るために励ましを与えられる場面を読んで参りました。この出来事の後、ペンテコステの日に、イエスはペテロに聖霊のバプテスマを授け、召命に相応しく生きる力をお与えになりました。三度も主を否み、自信を喪失して自分を見失っていたペテロに主は優しく、そして力強く、彼がなすべきことが何であるのかを告げられました。しかし、他の弟子にはどんな召命が与えられているのかについてはお答えになりませんでした。私たちにもそれぞれ召命が与えられています。しかし、自らの召命を他の人の召命と比較するのは意味のないことです。誰が誰より信仰や行いや知識において優れているとか、劣っているとか、そういう風には主イエスは私たちをご覧になることはありません。私たちの働きを量るものがあるとすれば、それはただひたすら、私たちが主から頂いた各々の役割にどれだけ忠実であるのか、その一点のみなのです。問題は、聖霊によって強められ、それぞれの召命を忠実に果たし、主に従っていくことなのです。お祈りします。
イエス・キリストの父なる神様。御名を賛美いたします。今日は自信を失っていたペテロを主イエスが再び召し、彼に力強く生きていく力を与えられる場面を学びました。私たちも時として主からの召命を見失い、迷いの中を生きることが多いものですが、そのようなときは、ペテロにしてくださったように、私たちを強め、励ましてください。この週も、それぞれの持ち場で主を証ししていくことができますように。主イエス・キリストの聖名によって祈ります。アーメン。